2016.06.23
スペインにおけるカタルーニャ問題――なぜ今独立を求めるのか
スペイン・サッカーのファンならば、一度はFCバルサの試合を見たことがあるだろう。バルセローナにあるカンプノウ・スタジアムでは、試合前半の17分14秒になると観客の中から「独立コール」が沸きあがる。
この17と14という数字は18世紀初頭に勃発したスペイン継承戦争で、カタルーニャが敗北したことにちなんでいる。1714年9月11日、スペイン国王フェリーペ5世の軍(カスティーリャとフランスの合同軍)は、ブルボン統治に反旗を翻したカタルーニャの都バルセローナを陥落させた。それと共に中世以来享受してきたカタルーニャ独自の法や政治制度は失われた(注1)。この日は「屈辱的な敗北の日」として人々の記憶に刻まれている。
(注1)中世、カタルーニャは固有の領域を持ち、独自の政治権力と法制度を備えた公国であった。その後、隣のアラゴン王国と同君連合を形成し、13世紀から14世紀初頭にかけて、その経済的中心地として栄えた。しかし1410年、マルティン1世が後継者なく死去すると、新たにトラスタマラ家からファランが国王として入ってくる。その息子フェルナンドは、同じくトラスタマラ家出身の隣国カスティーリャの王女イサベルと結婚し、ここにスペインという一つの同君連合が成立することになる。
そして今、このカタルーニャでスペインからの独立運動がかつてない盛り上がりを見せている。スペイン継承戦争敗北からちょうど300年目にあたる2014年11月、まるでスコットランドの後を追うかのように、カタルーニャでも独立の是非を問う住民投票が非公式の形で行われた。カタルーニャの有権者数の3分の1に当たるおよそ230万人が参加し、投票総数の8割(約186万人)がスペインからの独立を支持したのである。
さらに、2015年9月の州議会選挙では、独立派がぎりぎりではあったが議会の過半数を制した。独立派はこれにより州民の信認を得たとし、独立のための手続きを進めるとしている。こうした動きに対して、中央政府のラホイ首相は住民投票の実施は憲法違反であり、カタルーニャの分離主義者に対する妥協や譲歩は一切行わないとして、州政府との対話も拒否し続けている。
スペインにおけるカタルーニャ問題は、そもそもスペインという国家はどのような形であるべきかという問いかけと深く結びついている。より統一的なスペインなのか、あるいは多元的で分権的なスペインを求めていくのかという、解決が非常に難しい問題である。それゆえ19世紀以降、つねにスペインの政治を不安定化させる要因となってきた。
現在スペインでは政治の空白が続いている。昨年12月の総選挙後、どの政党も組閣することができず、結局6月に再選挙という前代未聞の事態になった。そして、カタルーニャの独立問題がこの協議がまとまらなかった理由の一つにあげられている。今後もスペインの政治動向を揺さぶりかねない問題であるだけに、まずはカタルーニャの独立問題の歴史的背景とその経緯をきちんと押さえ、その上でなぜ今独立の気運が高まっているのか、そしてこの問題が今後のスペイン政治にどのような影響を及ぼすのか考えてみたい。
カタルーニャにおけるナショナリズムの形成
カタルーニャを一つのネーション(スペイン語でナシオン)とみなす考え方は、19世紀以降、スペイン近代化の過程で徐々にカタルーニャ人の意識に浸透していった。それは、スペイン国家(中心は首都マドリード)が法や政治制度を全国で一律化し、全ての国民に対して等しく忠誠心や帰属意識を要求しはじめてからである。
スペインこそ唯一のネーションであるという「一国家一民族・国民」の前提に立ち、国民としての一体性を強調するスペイン・ナショナリズムが出版などを通して流布されていった。このような国家の中央集権化政策に敏感に反応したのがカタルーニャである。カスティーリャ(中心はマドリード)とは異なる独自の言語や歴史、文化を保持してきたカタルーニャで、それまで漠然と感じられてきた民族的・地域的独自性の意識や集団的帰属意識がナショナリズムとして覚醒していった。カタルーニャ主義 (カタラニスモ)の誕生である。
過去の歴史的事件がナショナリズムの視点から再解釈され、人々のナショナルな感情を高揚させるシンボルとして活用されるようになった。例えば、カタルーニャの「国歌」である「刈り取り人」は1640年に勃発したハプスブルク家統治に対する「カタルーニャ人の反乱」を題材にしている。また、国の祭日(ナショナル・デー)は、先に述べたスペイン継承戦争で敗北した9月11日に設定され、現在のカタルーニャ州旗「サニェラ」の起源は、9世紀末ヒスパニア辺境伯の一つだったバルセローナ伯領を支配したギフレーにあるとされる。
マドリードからの半ば一方的な国民統合の動きは、カタルーニャだけでなくバスクなど他の地域でも反発をまねいた。地形的な理由から地域間の交通が困難であったスペインでは、各地域の伝統的な文化や慣習が強く残り、それゆえスペインの国民統合はフランスなどに比べて遅く脆弱でもあった。この点は多くの研究者が指摘するところである。
当初、固有の言語や法をまもるという文化的性格が強かったカタルーニャ主義の運動は(注2)、20世紀に入ると「失われた自治(autogobierno)の回復」を求める政治的なものへと発展し、第二共和政(1931~36年)において「自治憲章」と自治政府の誕生という形で結実する。
(注2)カタルーニャ語の復権や独自の法を擁護する運動は「ラナシェンサ」(カタルーニャ・ルネッサンス)と呼ばれ、スペイン内で産業革命をいち早く経験し、工業化、近代化を押し進めてきたカタルーニャ人の経済力や自信に裏打ちされていた。
極めて不安定な政情の中で自治が開始されたが、それも軍のクーデターが引き金となったスペイン内戦(1936~39年)の中でついえ、内戦後に成立したフランコ独裁体制は、民族主義的な政治・文化活動はもちろんのこと、カタルーニャ語についても公的な場での使用を禁止した。それだけに、フランコが亡くなった後に進められた民主化は、カタルーニャの人々にとって長年待ち望んだものであった。彼らにとって「民主化」や「政治的自由」とは、とりもなおさず「非中央集権化」「分権化」を意味するものであった。そして1978年のスペイン憲法およびその翌年の自治憲章制定によって、カタルーニャは自治州として教育、警察、税、司法などの幅広い分野で高度な自治権を認められた。
なぜ今独立をめざすのか?
(1)政治的側面
フランコ後のスペインで高度な自治を享受してきたカタルーニャであるが、なぜ今独立へ向けて舵を切ろうとしているのだろうか。「独立問題」を先鋭化させている最大の政治的要因は、現国民党政権の中央集権的政策である(注3)。国民党の前身である国民連合(AP)は、憲法制定時、多元的スペインを認めた第2条(後述)の採決に態度を留保した唯一の政治勢力であった。
2011年に政権復帰を果たした国民党であるが、党首のラホイ首相は「自治州はネーションあるいは国家となったこともないし、なることもできない(注4)」と述べ、スペインが政治的、文化的にみて唯一のネーションであるとする立場を堅持している。これがカタルーニャなど周辺地域のナショナリストをいらだたせているのだ。
(注3)2015年12月20日の総選挙後は暫定的な政府として今に至っている。
(注4)Javier Fernández Sebastián, Juan Francisco Fuentes(dirs.) Diccionario político y social del siglo XX español, p.853.
国民党政権下において、中央とカタルーニャの政治的緊張を高めた例を二つあげよう。まず、自治憲章改正問題である。2005年、州議会で採択された新憲章案はカタルーニャを「ネーション(カタルーニャ語でナシオー)」と定義し、行政面でカタルーニャ語の使用を(カスティーリャ語よりも)「優先的」とし、州政府が排他的な権限をもつ分野では、国の各行政機関に直接参加する権利などを要求した。これらは「多元的スペイン」をさらに一歩前進させるものであった。しかし、その文言は国会審議を経てほぼ全面的に削除され、「ネーション」という言葉は法的拘束力のない前文にまわされた。
2006年、新しい自治憲章案は大幅な内容の修正をへてようやく国会で可決され、カタルーニャの住民投票で承認された。しかし、一連の審議に不満を抱いていた国民党は、自治憲章をマドリードの憲法裁判所に提訴し、裁判所も2010年6月その一部に違憲判決を出した。譲歩に譲歩を重ねた自治憲章が違憲とされたことはカタルーニャに衝撃を与え、ここに現行憲法の枠組みの限界を感じた人々は、「自治」を断念し「独立」へ向かうことになった(注5)。
(注5)カタルーニャ州政府及び州議会は、憲法裁判所裁判長のペレス・デ・ロス・コボスを国民党への偏向があるとして非難している。
二つ目の例は言語教育についてである。1983年に制定された「言語正常化法」、さらに1998年の「言語政策法」により、初等・中等教育ではカタルーニャ語が使用言語として根づいている。しかし、2013年中央政府は教育の質改善のためとして、通称「ヴェルツ法」と呼ばれる法律を制定した。この中で、従来「基礎教育科目」であったカタルーニャ語は「特殊選択科目」と位置づけられた。これに対してカタルーニャでは激しい抗議が沸き起こる。
EUの掲げる多言語主義(plurilingüismo)に反するとの批判も高まっている。言語政策をめぐるカタルーニャの危機感の背景には、スペイン語が世界言語として存在感を増す一方、カタルーニャでは多数の外国人労働者の流入もあって、非カタルーニャ語話者が増大しているというグローバルな社会変化があることを指摘しておこう。
(2)経済的側面
確かに国民党政権の非寛容な姿勢はカタルーニャの州政府及び独立派を刺激しているが、双方の政治的緊張関係をさらに悪化させている背景には、やはり未曽有の経済危機があると思われる。2008年のリーマンショックは、ヨーロッパの中でも特にギリシャ、イタリアそしてスペインに大きな打撃を与えた。カタルーニャも企業の倒産や失業者が増大し、危機の開始から2013年までに民間で567,000人分の雇用が失われた(注6)。ローン返済ができずに自宅を失う人も出てきた。
(注6)A.D. Guzmán Ramírez, M.L. Quiroga Riviere, “La crisis económica y el movimiento independentista catalán”, Oasis, No.18, p.61.
2014年第Ⅱ四半期のスペイン銀行によるデータでは、17自治州が抱える赤字総額はスペインGDPのおよそ22.3%に相当する2,282億3,400万ユーロにのぼっている(注7)。このうち、カタルーニャ(約618億ユーロ)が全体の27%を占め、この地域一人あたりの借金は8,186ユーロ(約106万円)と全国平均の倍近くに達している。
(注7)Pablo Molina, “La deuda autonómica alcanza los 4.860 euros por habitante” (http://www.libremercado.com/2014-09-16/la-deuda-autonomica-alcanza-los-4860-euros-por-habitante-1276528272/)(2016年6月4日閲覧)
長年にわたって州政治を支配してきた集中と統一(CiU)の資金不正疑惑も発覚し、既成政党に対する市民の失望と不信感は高まっている。反資本主義を標ぼうする人民連合党(CUP)や、政治腐敗を糾弾する市民党などの新政党が支持を伸ばしているのはその表れであろう。独立すれば経済的苦境が少しは改善されるのではないかと市民が期待を寄せたとしてもおかしくはないし、また州政府の側もそう受け取られるキャンペーンを展開してきた。
一方、市民の怒りは債務削減のために緊縮政策を推進するスペイン政府にも向けられる。EUから押し付けられた財政赤字削減という目標達成のために、中央政府は公共事業費のみならず、医療や教育など市民生活と直結した分野での経費カットを州政府に要求している。これが州・中央の関係をさらに悪化させているのだが、政府が国民党政権であるだけに、カタルーニャ州政府の不信感はさらに強くなる。
「財政自主権soberanía fiscal」をめぐる問題もカタルーニャを独立へと駆り立てる要因の一つである。スペインではバスクとナバーラだけは中央政府との特別な取決めによって、地域管轄内の税金は各州(あるいは県)が徴収し、その一部を中央政府に納めている(注8)。一方、カタルーニャを含む他の15州は共通の税制度に組み込まれており、国税は国が徴収し、交付金という形でそれを各自治州に分配している。この分配方法が不公平だとカタルーニャの人々は考えている。
(注8)憲法はバスクとナバーラに対し「歴史的諸法derechos históricos」を認め、それによって徴税権のような他の州には認められていない高度な自治を享受している。バスクとナバーラの自治に関する歴史については、萩尾生、吉田浩美(編著)『現代バスクを知るための50章』(明石書店、2012年)を参照。
財務省のデータによれば、2012年に17自治州の中で国税負担額が国からの交付金額よりも多かった州は、カタルーニャ、マドリード、バレンシア、バレアレス諸島の4州で、いずれもスペインの中では豊かな州である。
カタルーニャは州内GDPの3.75%分、金額にするとおよそ74億3,900万ユーロの持ち出し状態になっているが(注9)、一方、税負担に対する見返りが少ないため、鉄道や高速道路などのインフラ整備が他の自治州に比べて遅れているとされる。新自治憲章では、カタルーニャにおける国の公共投資(インフラ整備)がGDPに占めるカタルーニャの比率と同じ水準になることが求められているのに(注10)、である。経済危機の影響が深刻なだけに、より強い財政自治権を求める気持ちは強くなる。州政府はバスクやナバーラと並ぶ完全な徴税権を求めているが、中央政府はその要求をはねつけている。
(注9)Ministerio de Hacienda y Administraciones Públicas, “Informe sobre la dimensión territorial de la actuación de las Administraciones Públicas, Ejercicio 2012 ”, P.15
(注10)Pere Ysás, “Cataluña 30 años de Autonomía”,Historia de España, Espasa Calpe, vol.43, p.520.
「合意の精神」の希薄化
統一的なスペインを志向する国民党政権とそれに反発し、自治から独立に向けて舵を切ろうとするカタルーニャ独立派。こうした政治的対立の激化の背景には何があるのだろう。一つ考えられるのが、フランコ後の民主化を支えてきた「合意(コンセンソ)の精神」の希薄化である。
スペイン人のナショナルな意識調査を行った社会学調査センター(CIS)のデータによると、2006年から2014年までの8年間で、「自治権のないより統一的な国家」を望む割合は11.2%から20.7%へ増加している(注11)。おそらく、国民党政権の強気の姿勢は、自治に対するこのような意識変化に裏付けられているのかもしれない。
(注11)Centro de Investigaciones Sociológicas, Barómetro de Julio 2014,Estudio no.3033, Pregunta 21. Estudios 2667, La identidad nacional en España, 18 de diciembre de 2006, Pregunta 8.
一方、現行の自治制度への支持は54.1%から34.5%へと減少している。自治制度に対する不満の一部は、「スペインからの分離・独立を認めるべき」という方向にも流れているので、自治をめぐる国民の意識が二極分解していると言える。より統一的なスペインを求める立場と、各地域の自主性を尊重する多元的な国家をめざす立場の間で溝が広がっているのだ。スペインの歴史でつねに対立の火種となり、時には武力衝突にまでエスカレートした、国家観をめぐる危険な対立が今再び浮上しつつある。
フランコ後の民主化過程において、スペイン人の中には再び内戦を繰り返してはならないという強い思いがあった。また、フランコ独裁への逆行をおそれる気持ちもあった。こうした集団的心理は、皆が受け入れ可能な共存のための枠組みづくりをめざす「合意の精神」を生み出した(注12)。流血をみることなく平和裏に民主主義を達成したスペインの民主化は、軍事独裁に苦しむ中南米などにも「成功モデル」として提示された。
(注12)民主化で「合意の精神」に関する言説がどのように生まれ、政治プロセスにどのように作用したかについては、以下の論文を参照されたい。加藤伸吾「モンクロア協定と「合意」の言説の生成(1977年6月~10月)‐世論、知識人、日刊紙『エル・パイース』-」、『スペイン史研究』第27号(2013年12月)。
「合意の精神」を象徴するものが憲法第2条である。ここには「全スペイン人の共通で不可分の祖国たるスペイン国家が、固く結ばれ一体である」と定義する統一的な国家観と「諸ナシオナリダー(民族体)および諸レヒオン(地方)の自治権を承認し保証する(注13)」という多元的な国家観とが併記されている。
(注13)憲法には「ナシオナリダーnacionalidad」に関する具体的な記述はないが、カタルーニャやバスク、ガリシアなど固有の言語や文化、歴史をもち、他地域とは異なる民族的な実態を備えている地域を指すと一般に理解されている。これによって、スペイン国内に単なる「レヒオン」と「ナシオナリダー」という質の異なる二つの地域共同体が生まれることになった。カタルーニャ主義者は「ナシオナリダー」をネーションと同義に捉えている。
この第2条は起草されたときに、ナシオナリダーがいったい何を指すのかなど最も議論を呼んだ。しかし、当時は民主化成功のために「スペイン人の共存の枠組みづくり」が最優先された。憲法起草委員会に参加した一人、カタルーニャ出身の政治家ミケル・ロカも「誰をも完全に満足させないが、全員の最低限の満足を与える(注14)」憲法が目指されたと述べている。第2条は相対立する国家観の政治的妥協の産物といえる。
(注14)「エル・パイース」(電子版)2013年12月2日。
しかし、全員が受け入れ可能なものは、逆に言えば誰も完全に満足させられないということでもある。憲法制定からすでに40年近くが経過し、内戦を知らない若い世代が国民の約9割を占めるようになった。世代交代が進むにつれて、国民の間から聞こえてくるのは「成功モデル」への疑問や不満で、民主主義の一層の深化を求める声が高まっている。これまでかろうじて抑えられてきた異なる国家観の対立が、「合意の精神」の希薄化と共に顕在化し、「白か黒か」の自己主張を始めたようである。
こうした対立の激化は、カタルーニャ社会の内部でも亀裂を生み出している。長年穏健なカタルーニャ主義を標ぼうし、中道右派の政党として州政府を掌握してきた集中と統一(CiU)の分裂は、まさにそれを象徴している。独立に反対する穏健なキリスト教民主主義のUDCが、独立へと傾斜するCDCと袂を別ち、その結果36年間続いた二党連合のCiUは消滅した。
二大政党制の行き詰まり
「合意の精神」の希薄化は、かつて民主化をリードしてきた中道左派(社会労働党)の衰退という形でも現れている。社会労働党は伝統的にスペイン南部の農民と労組などに組織された労働者階級に支えられてきた。さらに、フランコ体制末期にマルクス主義政党から中道左派の大衆政党へ変容することで社会の中間層を巧みに取り込み、民主化の主導権を握ることに成功した。
だが、スペインは高度経済成長をへて農業国から工業国になり、さらに国民の7割以上がサービス産業に従事する先進国の産業構造に変化してきた。農民と組織労働者という社会労働党の伝統的な存立基盤は揺らいでいる。1981年に発生した軍・警察の一部による国会占拠事件直後の総選挙で、一千万票以上(投票総数の48%、350議席のうち202議席)という圧倒的な支持で勝利し、民主化を決定づけたあの勢いはどこにもない。
国家モデルとして連邦制を掲げ、党の機構も一応連邦主義の構成をとる社会労働党は、カタルーニャの自治拡大に一定の理解を示してきた。21世紀に入って、カタルーニャの分離独立をめぐって対立する勢力の間に立ち、社会労働党は「第三の道tercera vía」を模索してきたが、2015年12月20日の国政選挙では、350議席のうちわずか90議席という最低を記録した。
一方、中道右派の与党国民党も昨年末の選挙では大きく議席数を減らし、社会労働党と共にスペインの政権を担ってきた二大政党がどちらも低迷するという状況が生まれている。代わって登場したのがポデモスと市民党という新しい政党である。どの政党も過半数に達しないので、組閣は諸政党間の交渉に委ねられたが、結局折り合いがつかず、6月に再選挙の実施が決まった。前代未聞の出来事であるが、民主化後機能してきた二大政党制が行き詰まりを見せていることは確かである。
さて、政党間での合意形成ができずに再選挙となるわけであるが、この合意形成に失敗した理由の一つがカタルーニャ問題をめぐる意見の対立である。昨年12月の選挙結果を受けて、社会労働党を中心とした政権づくりが進んだが、そこで2つの可能性が検討された。「ルート199」と「ルート161」と呼ばれるもので、「ルート199」とは社会労働党、市民党、ポデモスの3党が合意することで、議会で199議席(過半数176)を獲得し首班指名を得ることをめざしている。一方、「ルート161」とは、市民党を除外した社会労働党とポデモスのみの合意形成である。
「ルート199」を追求しようと社会労働党は、まず市民党との間で合意に達する。しかし、その中に「スペインのいかなる領域内においても、「(民族)自決権 autodeterminación」を推進するために住民投票を実施しようとするあらゆる意図に反対する」という文言が含まれた(注15)。これは明らかにカタルーニャの住民投票を念頭に置いたものである。カタルーニャの住民投票実施に理解を示すポデモスはこれに強く反発し、結局3党合意は実現しなかった。
(注15)PSOE, Ciudadanos, Acuerdos para un gobierno reformista y de progreso,p.66.
もちろん、労働法改正や税制改革といった他の問題でも見解の不一致はあるが、カタルーニャをめぐる問題が、合意形成の過程でネックになったことは確かである。6月に再選挙が行われたとしても、果たして選挙結果がどれだけ変化するかは不透明で、また政党間の立場の違いはそう簡単に埋まりそうもなく、今後もスペインの政局は流動的であり続けるだろう。
一方、新たにカタルーニャ州首相に就任したカルラス・プッチダモンは、マドリードにおける初の記者会見で、カタルーニャ独立へ向けての手続きを予定通り着々と進めるとしながらも、6月選挙後に成立する新政権との対話再開への期待を表明している。新しい中央政府がより柔軟な態度を示し、カタルーニャ州政府との対話の糸口を探れるかどうか、それが今後の鍵となるだろう。
プロフィール
八嶋由香利
東京大学総合文化研究科博士課程修了。学術博士。
専攻:スペイン近現代史。特にカタルーニャとキューバの関係史。
現在、慶応大学経済学部教授
主要業績:『近代都市バルセロナの形成 都市空間・芸術家・パトロン』(共著、山道佳子、鳥居徳敏、木下亮、慶応大学出版会、2009年)、「19世紀スペインの植民地支配と商業移住者のネットワーク―カタルーニャの「インディアーノ」ミゲル・ビアダを通して―」(『史学』第81巻第4号、2013年)