第6回アフリカ開発会議(TICAD VI)から読み解く日本と世界の未来――1993年に日本で始まった3つの試みからカイゼンまで

シリーズ「等身大のアフリカ/最前線のアフリカ」では、マスメディアが伝えてこなかったアフリカ、とくに等身大の日常生活や最前線の現地情報を気鋭の研究者、 熟練のフィールドワーカーがお伝えします。今月は「最前線のアフリカ」です。

 

 

この8月、蒸し暑い日本を離れ、ケニアのナイロビを訪れた。空港に到着すると空気がひんやりと涼しい。ナイロビは高地に位置するからだ。訪問したのは、この冷涼なナイロビで開催された第6回のアフリカ開発会議(TICAD VI: Tokyo International Conference on African Development)に参加するため。TICADは1993年に日本のイニシアティブにより東京で開始された。今回は、日本を離れ、初めてのアフリカにおける開催だ。

 

これまでナイロビ行きの飛行機には何度乗ったか分からないが、今回ほど多くの日本人が搭乗しているのを見たことはない。外務省やJICA(国際協力機構)の職員はもちろんだが、民間企業、NGO関係者、さらに若い学生達の姿も多く見え、これから始まる会議への期待や熱気を感じる。

 

 

TICADの開催されたナイロビのケニヤッタ国立コンベンションセンター

TICADの開催されたナイロビのケニヤッタ国立コンベンションセンター

ナイロビ市内に掲げられたTICADの看板

ナイロビ市内に掲げられたTICADの看板

 

 

空港からバスで市内に向かう途中、若い人たちと話しながら、ふと大学を卒業してJICAに就職した頃のことを思い出した。TICADが始まったのは1993年、社会人2年目の年だった。当時のTICADは今とは随分違う雰囲気だったように記憶している・・・。

 

本稿では、TICAD VIだけではなく、特に1993年という援助の歴史にとって特別であった年から、この20年強、我々はアフリカ開発、特に民間セクター開発で何を議論してきたのかを振り返りつつ、未来を展望してみたい。そのためにまず、TICADが生んだ大きな成果と言えるカイゼンから話を始めたい。

 

 

TICADが生んだカイゼンの協力――2008年の第4回TICADが転機に

 

日本人なら誰しも「カイゼン(改善)」という言葉を聞いたことがあると思う。戦後から日本企業が行ってきたカイゼン、つまり品質・生産性の向上が、今回のTICADでも大きな注目を集めた。その理由の一つは、カイゼンが日本製品の品質を高めたことがよく知られているからだ。また、大規模な投資が必要でない、つまり資金がなくても始められるということも大きい。

 

さらに言えば、日本の経済成長の経験も理由の一つだと思われる。日本は高い経済成長率と格差の是正を同時に成し遂げたが、カイゼンもこの包摂的な成長(Inclusive growth)に大きく寄与した(これについて詳しくは、最後に述べる本に詳しく書いたので興味のある方は参照していただきたい)。

 

特に、1955年に日本がカイゼンを導入する際に、労働組合との長い交渉の末に出された「生産性運動の3原則」(雇用の維持拡大、労使の協力、協議成果の公正な分配)に見られるような、企業の業績が上がるとそれが賃金に反映されるような労使間の交渉など、単に生産性を上げることにとどまらない様々な工夫が戦後の日本の経済成長には見られたのだ。

 

カイゼンはJICAの協力によりすでにエチオピアなどで導入されている。下の写真にあるように、散らかっていた工場の倉庫が綺麗に整理されるようになるなど、実際に企業の生産性の向上に効果もあげてきている。

 

日本語である「KAIZEN(カイゼン)」という言葉はアフリカでも通じるようになり、エチオピアには「カイゼン・インスティチュート」という政府の機関まで設立された。現在はエチオピアのみならず、タンザニア、ザンビア、ケニア、カメルーンを始め、多くのアフリカの国々に拡大している。このカイゼンのプロジェクトがアフリカで始まるきっかけになったのが、2008年の第4回のTICADで、その後、アフリカ全体に拡大しているのである。

 

 

カイゼン導入前の企業:資材が散らかっている

カイゼン導入前の企業:資材が散らかっている

カイゼン導入後の企業:整理され在庫管理ができるように

カイゼン導入後の企業:整理され在庫管理ができるように

 

 

ではなぜ2008年だったのか? アフリカに対する日本企業の関心が高まっていたからだろうか? 冒頭に書いた通り、今年(第6回)のTICADでは多くの日本企業がアフリカに訪問した。しかし、このようにアフリカに関心を持つ日本企業は、資源関係の企業は別として2008年時点ではまだ極めて少なかった。

 

そもそも、他国の援助機関でも、そしてJICAでもアフリカ援助の中心は農業、教育、保健の3分野で、民間セクター開発は時期尚早という見方が強かった。そうした状態からJICAがエチオピアでカイゼンのプロジェクトを開始し、アフリカで広く知られ、さらにアフリカ全体に広がりつつあるというのが、2008年から2016年までの大きな変化であり、TICADの成果であると言って良いと思われる。

 

では、なぜ2008年の第4回のTICADからカイゼンの協力が始まってきたのか? それを探るには、第1回のTICADが開催された23年前の1993年までさらに歴史を遡る必要がある。

 

 

1993年――日本が仕掛けた産業政策・論争

 

1993年に日本は援助政策について重要な国際的な動きをいくつもおこなった。TICADだけではなかったのである。それはどのようなもので、なぜそうした政策が打ち出されたのかを考えるために、当時がどんな時代であったか振り返ってみたい。

 

TICADの始まった1990年代の前半は途上国援助にとってどんな時代であったか。よく言われるのは、冷戦終結後でアフリカへの開発支援が減少傾向であったこと、その中で日本がアフリカ支援にイニシアティブを取ったということである。当時、日本が援助供与額で世界1位であったから、その意味は大きかった。実際、アフリカの中でもその頃のことを覚えている人は多く、国際会議でよく感謝の声を耳にする(例えば、AUC(アフリカ連合委員会)のムウェンチャ副委員長)。

 

当時、援助の主流は世界銀行・IMFを中心として「構造調整政策」と呼ばれる小さな政府を標榜する路線であった(“新古典派”と呼ばれる)。自由化、民営化、そして価格の安定化が重視され、政府が市場に介入する産業政策については市場を歪め、非効率に陥らせるものとして否定的に議論されていた。

 

こうした中、TICAD第1回目の1993年にこれに反旗を翻したのが日本であった。日本のODAの実施機関であった海外経済協力基金(OECF, 現在はJICA)が「世界銀行の構造調整に対するアプローチの課題」と題するペーパーを発表したのである。産業政策の重要性を強調して反論を行なったのだ(このペーパーを中心となって取り纏めたのは当時、OECFに在籍していた下村恭民・法政大学名誉教授だった)。

 

この日本・世銀論争は、当時の世界の開発関係者の間に大きな反響を及ぼした。スーザン・ジョージらが「『世界銀行は世界を救えるか』(1996年、朝日選書)で日本の主張を強く支持し、さらに、当時の英国の開発学会の重鎮らによる本でも巻頭で大きく取り上げられるなど事例に事欠かないほどだ(例えば、Mosley, Paul, Jane Harrigan and John Toye. 1995. Aid and Power –Vol. 1: The World Bank and Policy Based Lending 2nd Edition. London: Rutledge)。

 

しかし、論争はここで終わらなかった。同じ1993年に世銀が『東アジア成長の奇跡』という報告書を発表したのである。この報告書の出版のための資金助成をおこなったのは、日本の財務省(当時は大蔵省)であった(日本側からは元日本銀行・理事の緒方四十郎氏なども原稿にコメントするなど参加。緒方貞子・元JICA理事長の夫である)。そして執筆陣にはジョゼフ・E・スティグリッツ教授(コロンビア大学)、ジョン・ページ氏(ブルッキングス研究所)を始めとして日本に近い立場の執筆陣も多く配置されていた。

 

しかし、世銀内の特に主流派からの様々な介入もあり(スティグリッツ教授にインタビューした際の述懐による)、報告書全体としては産業政策に対して保守的な立場になり、同時に章によって微妙に立場が違うものとなった。

 

 

世界銀行の発表した「東アジアの奇跡」レポート

世界銀行の発表した「東アジアの軌跡」レポート

 

 

第一回のTICADは、この議論の最中、同じ年に開催されたのである。日本としてはTICADを国際会議とするために、世銀を巻き込んでおきたかったのだろう。そんな中、「アジアの経験をアフリカに」という通底するテーマのもとでは、世銀、日本ともに構造調整政策についての評価を気にせざるを得ない状況だったと思われる。「アジアの経験」にはそのアンチテーゼとなる産業政策の歴史をも含むからである。

 

こんな中、第1回のTICADで挨拶に立った当時の羽田外務大臣は、次のとおり世銀の政策を肯定的に評価した。「アフリカ諸国が推進している経済構造調整は、短期的には国民に大きな負担をかけることになりますが、経済発展のための基盤強化に必要な試練であります。(下線は筆者)」。一方、会議の結果出された宣言は、以下のように、逆に構造調整の問題点を指摘するものとなった。

 

 

我々、TICADの参加者は、構造調整計画は、それぞれの国の個別の条件と必要をより積極的に考慮に入れるべきであることを再確認する。我々は、政治・経済改革は最終的には貧困の軽減及び全国民の福祉の向上をもたらすべきであることを改めて強調する。そのような効果を得るために、構造調整計画は、これまで以上に、所得を得る機会及び効果的な社会サービスへの特に貧困者のアクセスを改善する方策を含むと同時に、彼らを出来る限り社会的な悪影響から守るための努力が払われるべきである。(TICAD I(第1回アフリカ開発会議)「アフリカ開発に関する東京宣言」より(下線は筆者))

 

 

これは、日本単独ではなく世銀なども巻き込んだ国際会議にするために、ホストである日本が世界銀行の政策にもアフリカ側からの視点にも配慮したまとめを戦略的に行った結果と言えるだろう。

 

1993 年の1年間でここまで述べた(1)日本−世界銀行論争、(2)東アジア経済成長の奇跡、(3)TICADという援助の歴史上でも重要な3つの出来事が起きた。しかし、特に世界銀行内の主流派の巻き返しが強まったため、この後、世界銀行は産業政策からさらに距離を取るようになってしまう。そして、その流れはその後、ごく最近まで長く続いた。TICADは続いたが、日本が仕掛けた産業政策の議論は一旦、忘れ去られたのである。

 

産業政策研究の第一人者の一人であるサンターナ大学院大学のジョバンニ・ドシ教授などに言わせれば、「『産業政策』という言葉は子供の前で言ってはならないタブーな言葉となった」というほどで、援助の世界では産業政策に対して厳しい論調が続いたのである。この傾向が変わるには、15年後の2008年、カイゼンの協力が始まるきっかけになった第4回TICADまで時を待つ必要があった。【次ページにつづく】

 

 

シノドスのサポーターになっていただけませんか?

98_main_pc (1)

 

 セミナー参加者募集中!「スノーデンと監視社会の現在」塚越健司

 

 

無題

 

vol.231 ひとりひとりが生きやすい社会へ 

・森山至貴氏インタビュー「セクシュアルマイノリティの多様性を理解するために」

・【障害児教育 Q&A】畠山勝太(解説)「途上国における障害児教育とインクルーシブ教育」

・【あの事件・あの出来事を振り返る】矢嶋桃子 「草の根の市民活動「タイガーマスク運動」は社会に何をもたらしたのか」

・成原慧「学び直しの5冊 <プライバシー>」

 

vol.230 日常の語りに耳を澄ます 

・荒井浩道氏インタビュー「隠された物語を紡ぎだす――『支援しない支援』としてのナラティヴ・アプローチ」

・【アメリカ白人至上主義 Q&A】浜本隆三(解説)「白人至上主義と秘密結社――K.K.K.の盛衰にみるトランプ現象」

・【今月のポジ出し!】吉川浩満「フィルターバブルを破る一番簡単な方法」

 

1 2
シノドス国際社会動向研究所

vol.232 特集:芸術へいざなう

・吉澤弥生氏インタビュー「人をつなぐ芸術――その社会的評価を再考する」

・【現代演劇 Q&A】長瀬千雅(解説)「時代を捕まえるダイナミクス――現代演劇事始め」

・【今月のポジ出し!】橋本努「タックス・ヘイブン改革 香港やシンガポールにも圧力を」

・増田穂「『知見』が有効活用されるために」