2016.10.31

イタリアはいかにして社会を精神病院から解放したのか

『精神病院はいらない!――イタリア・バザーリア改革を達成させた愛弟子3人の証言』編著者、大熊一夫氏インタビュー

国際 #バザーリア#精神病院

精神病院について何も知らない日本の市民は、精神疾患を治して社会に戻してくれるところだと単純に思っているふしがあります。しかし、病棟を観察すれば、治療失敗例・没治療例・救済放棄例のルツボ。精神科のベッド数はなんと30万床以上で、単位人口当たり世界ダントツです。入院期間も世界に例を見ない長期収容です(世界の平均在院日数は20日程度日本は、1年以上の長期入院を続けている人が、20万人以上)。それは、医療の問題ではなく、入院の必要がないのに病院に留め置かれている「社会的入院」と言われる人が、厚生労働省が認めるだけで18万人(2011年度)もいるという日本社会特有の問題でもあります。

ところが、もう35年以上も前に精神病院を綺麗さっぱりやめて、精神病の人々を重い軽いに関係なく地域で支えてきた町が、イタリアにあります。それがトリエステです。「精神病院はいらない!」と題した本書は、そのトリエステ精神保健革命の先頭に立った3人の精神科医が語る精神病院廃絶物語です。本書の編著者で、30年以上もトリエステを取材してきたジャーナリストの大熊一夫さんに、解説していただきます。(聞き手・編集 / 現代書館編集部・小林律子)

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――本書の「まえがき」にもありますが、当時朝日新聞の記者だった大熊さんは、1970年にアルコール依存症を装って都内の精神病院に入院され、「ルポ・精神病院」を新聞連載され、大反響を呼び起こしています。そもそも大熊さんが精神医療/精神病院に関心をもたれたきっかけはなんだったのでしょう?

大熊 多くの方が、初めに問題意識があって潜入取材した、と想像してくださるのですが、実は逆でした。「精神病院の中ってタイヘンな密室ですよ」と精神病院で働く若者から教えられて、好奇心を大いに刺激されて、ではどうやって潜入しようかと思案したのがきっかけでした。

しかし精神病を演じるのはむつかしい、とわかって入院計画が頓挫しかけた。するとある著名な精神科医が「ヘベレケに酔っぱらって家族に連れてってもらえば入れてくれるよ」と言ったので、アドバイス通りにやったら、閉鎖病棟の汚い独房に入れられてしまった。その入院前後にいろいろ勉強してみると、日本の精神病院の中は暴力に満ちた無法地帯だとわかってきて、これは大変な社会問題なのだ、と気づいた。それが朝日新聞の「ルポ・精神病棟」という連載となったのです。

しかし恥ずかしいことに、その後の15年間は、精神病院をなくせるなんて夢にも考えなかった。1985年になって初めて、イタリアのトリエステが精神病院を廃絶したらしいと知ったのです。

――それで、トリエステの精神医療改革に出会ったわけですね。そのリーダー的存在であったフランコ・バザーリアは1980年に56歳の若さで亡くなってしまいました。イタリア全土の精神病院を解体し、地域の精神保健センターへ全面転換を図ることを決めた精神保健法(180号法、別名バザーリア法)が1978年に成立して間もなくでした。この法律に至るまでの、60・70年代に行われた精神医療改革とは、どの様なことだったのでしょうか?

大熊 精神病院という牢屋型治療装置の治療効果をゼロと言うつもりはありませんが、患者に「精神病」のレッテルを貼っては、彼らの市民権を取り上げてしまう行為が、過去何百年にも渡って続いてきたのは間違いありません。心ある人なら「これはまずい。なんとかしよう」と思うはずです。

実は地球規模で言うと、精神医学の専門家が「なんとかしよう」と行動を起こし始めたのは、1960年前後のことでした。その世界的潮流の一つが、イタリアのフランコ・バザーリアという伝説の精神科医が先頭に立った改革です。

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フランコ・バザーリア

彼は「物体」扱いされていた人々を「人間」として復権させることに心を砕きました。医師と患者が「ご主人様と召使」の関係だったのを、対等な関係に変えました。自由意思、自己決定、自由な発言、自由な行動……とにかく患者の「自由」を大切にしました。病気そのものを放っとくわけではありませんが、とりあえずは病気を脇に置いて、本人の苦悩や生活の困難さの解消に力点を置く支援手法を採りました。本人の人生にダメージになることを徹底して回避したというのが、一番のポイントです。

彼は説得の達人で、同志や賛同者を増やすことに長けていましたが、挫折もありました。1961年に37歳でゴリツィア県立病院の院長になった彼ですが、県当局は、患者が表で暮らすのも、職員を増やすのも、賛成しません。そこへ外泊した患者が妻を殺める事件が勃発し、「バザーリアの思想が事件を誘発した」と言われて刑事被告席に立たされます。無罪になったものの病院長を辞職。1969年のことです。

ところが1971年、そんなバザーリアがトリエステ県立病院の院長に登用されます。当時、社会改革を求める若者たちが世界を席巻していました。日本でも東大の安田講堂占拠などがありましたよね。知恵者でカリスマのバザーリアは、この若者たちのエネルギーを活用して、「自由こそ治療だ!」を合言葉に精神病院の大改革に乗り出した。それまで精神病院中心だった医療組織を、「精神病院を当てにしない組織」に変えてゆきます。ここで、精神病院の色に染まっていない12人の研修医が、獅子奮迅の活躍をします。実にドラマチックです。

1975年ころになると、精神病院を全廃できる見通しが立つほどにまで改革は進みました。刮目するべきは、重い精神疾患の人々をも在宅で支えられることを実証したことです。これが政治を動かしました。1978年、イタリアの国会は、精神病院をなくす法律180号法を制定しました。自由剥奪が当たり前とされてきたあの“怖い治療法”と決別する革命的な新精神保健法でした。

――本書は、バザーリアの業績集ともいえますが、彼の死後、トリエステの精神保健局長を務め、改革を推進した3人のバザーリアの愛弟子、フランコ・ロテッリ、ペッペ・デッラックア、ロベルト・メッツィーナ、それにバザーリアを病院長に登用して政治的・財政的に支えたトリエステ県代表ミケーレ・ザネッティの証言からなっています。その内容に関しては本書をお読みいただくとして、バザーリアと共に闘い、そして彼の哲学を引き継いで、トリエステの革命精神をイタリア全土に広めた立役者であるこの方たちと大熊さんは直に出会い、日本に招聘して講演会を開いておいでです。大熊さんをそこまで惹きつけるイタリア・トリエステの精神医療改革の醍醐味と言いますか、神髄とは何だとお考えですか?

大熊 精神病院を完璧にやめたこと。代わりに、精神病院に全く頼らない地域精神保健サービス網を、世界に先駆けて構築したこと。これに尽きます。重い精神疾患の人々を精神病棟に隔離する道を、完全に断ったのです。WHO(世界保健機構)も、トリエステの精神保健システムを「持続可能な推奨モデル」に認定しました。

これは「精神保健の革命」です。世界の誰もがなくせるとは夢にも思っていなかった精神病院を、世界に先立って完璧に廃止したのですから。世界中の人々が必要悪と考えていた、あの鬱陶しい治療装置を、社会から放逐したのです。ベルリンの壁の崩壊みたいなことが、精神保健の世界で起きたのです。

――本書には、イタリア国営テレビが制作した3時間の名画『むかしMattoの町があった』のDVD2枚が付いています。大熊さんたちの「180人のMattoの会」は、日本でこの映画の自主上映会を4年間行い、1万7千名もの方が観ているということですが、この映画の魅力と、本書の付録にした意図をお聞かせください。

大熊 「Mattoの町」とはトリエステ県立精神病院のことです。映画はバザーリアが1961年に改革を始めてから1980年に他界するまでの19年間をドラマ化したものです。1980年にトリエステ県立精神病院、つまりMattoの町は完全に機能停止し、それから30年がたったのを記念して2010年に映画が作られました。

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物語は、精神病院の入院者の苦悩と人間として復権していく姿がリアルに描かれています。役者も名演です。監督も俳優たちも精神病院や精神病について何も知らなかったのに、本や精神保健センターの資料、映像資料などから猛勉強しました。しかし一番の教師は、エキストラとして参加していた実際の患者、元患者さんだったと語っていました。

イタリアの改革は始まってからざっと半世紀たちましたが、その前半が映画で描かれ、後半が本で語られています。本と映画のDVDは、あの牢屋型治療装置に疑問符をつける人々のバイブルになること、請け合いです。

プロフィール

大熊一夫ジャーナリスト

元朝日新聞記者。1970年に都内の私立精神病院にアルコール依存症を装って入院、『ルポ・精神病棟』を朝日新聞に連載。鉄格子の内側の虐待を白日のもとに。2008年、フランカ&フランコ・バザーリア財団からバザーリア賞を受賞。

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