在日朝鮮人の「民族解放論」はアジアに平和をもたらすのか?

在日朝鮮人の「抵抗の歴史」は炭坑のカナリア?

 

1951年生まれの在日朝鮮人作家、徐京植は20歳の頃から、韓国でスパイ罪および国家保安法違反容疑で逮捕され、いわゆる非転向長期囚であった二人の兄(徐勝、徐俊植)の救援活動を展開してきた。およそ20年近くにわたったこの救援活動の後、徐は著述をとおして、近現代における暴力と抵抗という世界史的問題を掘り下げてきた。

 

2006年に翻訳された『難民と国民の間』において、徐京植は自らを「日本の歴史」そして「資本主義近代という勝者の歴史」と闘う語り部だと紹介している。自らの叙述については、炭坑崩壊の危機を知らせて死んでいく「カナリアの悲鳴」だとし、在日朝鮮人を代表する前衛的な位置に自身を位置づけた。だがそこには、「日本の暴力」に抵抗する革命的預言者、「歴史の廃墟」を予見するメシア思想の選民意識がかいま見える。

 

日本において2002年から始まった「北朝鮮バッシング」は、2005年の「嫌韓流」の登場、2007年の「在特会」活動へと続いた。こうした雰囲気の中、徐京植は日本の保守や右翼よりもリベラル勢力を問題視した。そうした徐の問題提起を受ける形で、「日本の『リベラル』にだまされるな、もっと危険だ」(韓承東記者、『ハンギョレ新聞』2011年4月1日)という記事が書かれたりもした。

 

そうして徐は、日本と韓国社会でよく知られている知識人たちを果敢に批判してきた。「女性のためのアジア平和国民基金」を主導した和田春樹は、天皇制国家主義と妥協した国民主義者だとされる。「国家=男性」権力を批判し「個人と国家の同一化」を拒否した上野千鶴子、西川長夫のような反国民国家論者たちは、「日本人の国民的特権」を忘却し「日本人の戦争責任」を回避した者として扱われる。

 

そうした徐京植に、歴史の最終審級者としての役割を果たさんとする態度を読み取り、対話不可能性の問題を提起した花崎皋平については、他者を自分の懐に閉じ込めようとする温情主義的保護者として告発する。「あるがままの富士山」をながめるようになったが夭折した作家・李良枝には、「日本の国家主義の象徴」である「富士山をあるがままに見られないということこそ、在日朝鮮人の『あるがまま』だ」と訓戒する。日本国家の道義的責任を受け入れ和解の道を開こうという朴裕河には、植民地主義の歴史的被害者から顔をそむけ、和解という名の普遍主義の暴力を強要していると批判する。

 

 

「私の文章を読んだ人たちから時々『厳しすぎる』という評を聞いたりする。確かに私は、上野千鶴子、花崎皋平、李良枝、朴裕河、和田春樹、その他の人々に対して、生意気にも『過酷に』書いたかもしれない。しかしこれは、私という人間が他人を非難し糾弾することが好きだからではない。私はむしろ小心な平和主義者だ。私が『過酷』なのではなく、在日朝鮮人が-すべての朝鮮民族が-直面している状況が『過酷』なのである」(徐京植『言語の監獄で』トルペゲ、2011年)

 

 

徐京植と批判的・批評的な対話を試みた日本の知識人の多くが口を閉ざした。自分に対する批判を「侮辱」とみなして背をむけ、植民地主義の暴力という原罪・原理主義のレッテルを相手に貼り付ける彼の前では、誰も対話することを願わないようだ。

 

ところで、彼の態度を断固かつ切迫したものにさせた「すべての朝鮮民族が直面している過酷な状況」とは何か? 日本との関連では、日本国家の法的責任から顔をそむけられた慰安婦ハルモニや徴用労働者、北朝鮮の日本人拉致問題による朝鮮籍離脱者の急増、2006年の北朝鮮の核実験で租税の特恵を喪失し税務調査まで受けた朝鮮総連、地方自治体の交付金支給と中央政府の高校無償化政策から除外された朝鮮学校等々が思い浮かぶ。

 

だが、それらの難関から顔をそむけてはならないという理由から、徐京植が「過酷な状況」として代弁した「すべての朝鮮民族」の範疇に、筆者はみずからを帰属させることはできない。何に対する「反動」であり、なぜ「歴史的必然」ではなく「反動の時代」なのかを明らかにしない歴史観にも納得できない。

 

 

パレスチナ民族評議会と「全体民族のネーション」

 

徐京植は1992年に『私の西洋美術巡礼』を初刊行した後、1996年から『創作と批評』『ハンギョレ新聞』などに美術評論や民族言説を倦むことなく発表した。その文章には、専門家的な洞察よりも、在日朝鮮人の運動論を主導する実践家の面貌が強く現れている。初めて発表した論文は1996年、『歴史批評』に載った「『在日朝鮮人』の危機と岐路に立つ民族観」(日本語版は「新しい民族観を求めて」)である。

 

当時の「在日朝鮮人の危機」とは何だったのか? どのような岐路に立っていて、どこに進もうとしていたのか? 彼が導き出した解答は、1998年に『創作と批評』に掲載された「在日朝鮮人の進む道:『エスニック・マイノリティ』か『ネーション』か」(日本語版は「『エスニック・マイノリティ』か『ネーション』か:在日朝鮮人の進む道」)において、もう少し完結したかたちで示される。それは冷戦後の日本社会における、在日朝鮮人民族運動の指標と実践方針を知らしめる文章だ。

 

徐によれば、在日同胞は国籍と関係なく「在日朝鮮人」と総称しなければならず、国籍を超えてすべての海外同胞まで含む新しい「ネーション」を構成しなければならない。「祖国における民主化の推進と民族統一の実現、ひいては在外同胞をも対等な構成員とみなす全民族的な『ネーション』の形成という政治的課題が、在日朝鮮人にあっても自己解放のための不可欠な前提条件」である。

 

彼の「全体民族=朝鮮人」論は植民地経験をその歴史的な基点とみなしている。すべての海外移住民は日本の植民地支配によって祖国から追放されたために、すべての民族(=朝鮮人)の統一国家こそ民族解放=自己解放の到達点であるというものだ。「植民地である祖国からの追放」という起源神話を鋳造し、「継続する植民地主義」に対する批判の原理を掲げることで、分断克服と脱植民地志向を、「全体民族」をつなぐ「新たなネーション」の形成として提案したものだ。

 

脱冷戦によって旧共産圏の同胞が韓国を訪問するようになり、政府や市民運動のあらゆるレベルで韓民族ネットワークを形成しようという動きが現れたのは、時代の自然な趨勢だ。しかし、すべての移住民の歴史を植民地という起源に束ね、「全体民族国家」の建設がコリアン・ディアスポラの政治的主権を回復する道であるという主張は、在日朝鮮人運動の論理から由来する。それは在日朝鮮人の祖国志向的な当為論を、全民族の政治的課題として一般化しようとする意図を持っているのである。

 

さらに徐は、「現在の国民国家システムにおいて、主権からたえず排除されてきた旧植民地人が自らを『主権者』として形成しようとするのは当然かつ正当な要求」だと語る。こうした主張は正しい。ただし、他の自由主義および社会主義国家に移住した旧植民地人は、居住国で国籍(市民権)を獲得し「主権者」として生きているケースが多い。差別と疎外によって剥奪された権利を、居住国の社会問題として提起し、主権を行使することは自然な解法だ。

 

1990年代の日本でも、「多文化共生」を追及する在日コリアンが増えた。しかし徐は、日本における多文化共生の可能性を基本的に否定する。パレスチナの最高議決機関である「パレスチナ民族評議会」のようなものが、世界に散らばった「朝鮮人」の主権機構として生まれるとき、初めて真の「多文化」共同体が実現すると主張するのである。「全体朝鮮人のネーション」という構想は、戦後の日本と朝鮮半島の政治的構図を、米国と日本の「継続する植民地主義」体制と見なす民族解放論に基づきながらも、パレスチナの民族運動を参照しているのである。

 

しかし疑わしい。日本における「多文化、多民族、政治共同体」を否定し、コリアン・ディアスポラの政治的結集と「多文化民族共同体」を展望する態度は、ナショナリズムを克服した新しい政治運動たりうるのか? 全世界に散らばった民族の新しい政治共同体を追求する論理は、ユダヤ人ディアスポラのシオニズムとも相通ずるのではないか。

 

1990年代中盤、「パレスチナ民族評議会」のような「全体民族」の「主権機構」を創出しようと主張した徐京植は、2002年頃から難民とディアスポラ論に移った。いわば在日朝鮮人を「民族解放・主権国家回復の主体」から「難民・半難民」に再規定したのである。だが、その難民論においては、同時代の脱北難民というアクチュアルな問題は提起されたことがない。

 

朝鮮半島の統一は依然としてすべてのコリアンの願いであるだろう。しかし、統一が現在の生を否定したり救ったりできる最高の政治的可能性であると信じることは、政治的イデオロギーとして作動する。特に、統一の可能性は「反米」にあるという主張に賛成したり、「統一のその日」のために北朝鮮住民が世襲体制下で飢餓に耐えて国家動員にさいなまれる状況が持続されたりすべき理由はない。

 

徐京植の「全体としての民族」が構成する「ネーション」論において、北朝鮮に対する具体的な要求事項がないという事実も理解しがたい。「北朝鮮」を見えないようにして「全体民族」に引き入れ、北朝鮮問題に対して言及しない態度は、韓国の民主化および統一運動に関与した在日朝鮮人に一貫して現れている。

 

こうした態度は、在日朝鮮人が南北朝鮮の国家権力との衝突を回避しつつ、韓国の民主化および統一運動に関与するための現実的選択である可能性が高い。しかし、北朝鮮に対して批判的に距離をおくのではなく、北朝鮮問題を「封印」する態度で一貫し、全体としての民族と統一の課題を論じること自体が、在日朝鮮人による民族言説の理念的・政治的偏向性を露呈させている。では、「全体民族のネーション」論が提起された当代の日本と在日コリアン社会の姿はどのようであったか?

 

 

共生の不可能性、「同化対異化」の危機意識

 

戦後日本の外国人統計において「在日韓国・朝鮮人」の総数は、1991年の69万余名でピークをかたちづくった後、減少傾向にむかった。帰化者数は毎年5千余名であったものが、1992年から2009年まで7千余名から1万余名に増加した。1991年に日本が「過去に日本の植民地支配により日本国籍を所有した外国人に特別永住権」を付与し、帰化条件を緩和したことが転換点となった。外国人労働者が増えるグローバル化に対応して、日本は「多文化共生」政策をとり、同時に、日本との混種性や日本への帰化を肯定すべく誘導した。

 

外国人政策の開放的な変化は1980年代にすでに始まっていた。1979年に「国際人権規約」に批准した日本は、1981年、「難民の地位に関する条約」に加入することで、国民年金法、児童手当法などを外国人にも平等に適用すべく法改正を実施した。また、「祖国と朝鮮語」を知らない在日三世たちも、1980年代頃から生活の中で共感と共生を追求しはじめた。同化を批判して独自の権利と領域を確保しようとした多くの一世や二世の民族意識から抜けだし、日本人との社会的関係を新たに形成しようとする彼らの言論はただちに日本社会の支持を得た。

 

1980年代には、「在日の内面」の外側で「在日の歴史」を分析しようとする試みが現れた。太宰治が好きなことから竹田青嗣という日本式のペンネームを使う姜修次は1983年、評論集『「在日」という根拠』で、在日の民族意識と「不遇意識」を植民地支配および社会主義や民族主義という時代理念と関連させて分析した。

 

姜修次によると、少なからぬ一世と二世は、植民地期の天皇制日本を否定するために、「民族=国家」あるいは「社会主義祖国」という原理を絶対的な審判者として受け入れた。その結果、二世たちは、他者との社会的な関係意識を形成するうえでふさわしい論理を喪失したまま、「在日」という特有な関係意識の中に閉じ込められた。

 

「在日」の内面の空間では、「なぜ私は日本人ではなく朝鮮人なのか? なぜ私の家は不幸なのか?」というような幼少時の物悲しい問いが、「日常的な感情の起伏としてはすべて溶解されえない不遇性の塊」として大きくなってしまう。不遇であった記憶や欠乏に対する問いかけは、当代の言説の場で「在日」の固有性に執着する「内面」や「歴史」を作りもする。在日朝鮮人の言説の場では、「民族」と「祖国統一」の神話が絶対的原理として内面化されたというのである。

 

在日韓国人三世である姜信子は、自分の名前を日本語読みで「きょう・のぶこ」と呼ぶ。「いくら意味から抜け出そうとしても、やはり意味に捉えられてしまう『在日韓国人』よりも『日本語人』と呼ぶほうが身も心も軽くなる気分」だという当事者の率直な告白である。彼らは海外旅行中に韓国の旅券を失くしてしまったとしても、日本大使館に行って日本語で問題を解決する。

 

日本語社会の一員であるという自覚の中で「きょう・のぶこ」は、日本との民族的な対立や政治的闘争よりも「対話と共感」を追及するという内容のエッセイ『ごく普通の在日韓国人』(1987年)を発表した。これは第二回ノンフィクション朝日ジャーナル賞を受賞した。

 

帰化者である父母のもとで「日本人」として成長した小説家・李良枝も、1970年代に「私の中の日本」を全身で拒否し「朝鮮人」アイデンティティーを追及したが、小説『由熙』で「あるがままの日本」を受け入れる。姜尚中教授の東京大学赴任(1998年)も、日本の知識社会の主流に「在日」を迎え入れた象徴的事件として注目された。世紀転換期のグローバリズムと多文化共生志向の中で、「在日」が日本社会の普遍性を拡張させる指標として歓迎されるようになったのである。

 

そして、ノンフィクション作家・金賛汀は、ロシアや中国、米国など他の海外地域に定着している同胞を訪問した後、1994年に刊行した『在日という感動』において、「観念的な祖国志向」を超えて「進むべき道は共生」だと宣言した。

 

こうした「在日」の浮上と日本社会への受け入れは同化政策の一環だとする批判は、在日朝鮮人の民族言説において引き続き提起された。在日文化を消費する日本社会は結局、「朝鮮人」の民族的抵抗意識を喪失させ日本の支配構造に包摂しようとしている、というものだ。こうした批判は、共生の現実的な可能性を追求するというよりも、民族的あるいは党派的な抵抗が後退するようになった時代の変化に対する違和感を表したものと言える。

 

 

「多国籍・多民族市民社会」論と徐京植の批判論再考

 

日本社会との関係における「共生」の課題は1995年、「市民社会論的在日論」の形で本格的に提起された。韓国経済研究者・鄭章淵と韓国現代史研究者・文京洙は、「韓国人または朝鮮人」というエスニック・アイデンティティーを重視し、帰化には慎重だが祖国志向性は抱いていない。「『民族』に代わる在日社会の新しい統合理念として『市民』に着目し、市民社会の一員という共通の立場から日本人との『共生』を模索する。共生関係を構築する拠点を『地域社会』において模索したのが『市民社会論的在日論』」である(鄭章淵「『パックス・エコノミカ』時代の到来と在日社会」『季刊青丘』第24号)。

 

徐京植は、金賛汀の共生論や「市民社会論的在日論」のすべてに批判的だった。徐によれば、共生論は外国人労働者との文化的摩擦に対処しようとする日本資本主義の要請から生まれたものだが、多文化社会は差別されてきた在日朝鮮人にとっても望むところである。しかし金賛汀の考えは間違っているという。

 

すなわち、「現実を無視し生活感覚からかけ離れた『観念的な祖国志向』」が日本社会との共生を妨害し、在日朝鮮人社会の未来像を不透明にさせたという金の見解は、現実を歪曲していると主張する。徐は、いうならば、多くの朝鮮人は強制連行されたまま旧宗主国に居住しているため、在日朝鮮人の解放の問題は他の異文化集団との「共生」の問題である前に、何よりもまず帝国主義、植民地主義の克服という問題だというのである。

 

日本は、「過去を克服することはおろか、きちんと認めようともせず」、「甘い共生論」で現実の矛盾を覆い隠そうとしている(徐「在日朝鮮人の進む道」)。「共生」を妨げてきた日本社会における「共生」は、むしろ「多民族帝国日本」の転生を意味することから、共生の模索よりも「民族解放」運動が優先されるというものだ。

 

共生論者たちが民族問題を看過しているとは思えない。ただ、金賛汀は、民族問題の性格をこれ以上、日本帝国主義の問題とは見ていないというだけだ。金はむしろ、日本帝国主義との闘争神話によって、在日や北朝鮮同胞の生の全体を「民族運動」に従属させようとする「抵抗民族主義」の政治的意図からの解放を追及していると思われる。

 

筆者の寡聞のせいか、徐京植の多くの民族言説には、金賛汀のような問題意識やそうした問題への理解はいまだ発見できない。日本を植民地主義国家として批判する徐の立論は、日本の多様な政治勢力の問題を「日本国家と国民全体」の問題に拡大し、日本国民の「歴史的原罪」を追及する閉じられた論理の性格をおびている。

 

『歴史の証人 在日朝鮮人』(日本語版は『在日朝鮮人ってどんなひと?』平凡社)で徐京植は、日本の棄民政策について触れている。敗戦後、日本国家は「朝鮮人の意思を確認もしないまま『日本国籍』を否定」し、「生活のための最小限の保障措置すらなかった」と告発した。冷戦時代、在日朝鮮人の言説において何度も反復されたこうした証言は、「在日同胞の受難史」に対する韓国人の認識とも一致する。しかしこの証言は必ずしも歴史的事実と一致しているわけではない。

 

徐京植の棄民や難民についての言説では、在日朝鮮人みずからが政治的・経済的権益を追求した事実にはまったく言及されない。しかし、『在日朝鮮人 歴史と現在』(水野直樹・文京洙、岩波書店、2005年)は、在日朝鮮人の有力な政治団体が、占領当局による税金の賦課を回避するために「日本国民」から解除するように要請した事実や、困窮する在日朝鮮人のための生活保護政策が実施された事実を書きとめている。

 

「共生論」に続いて、徐は文京洙の「市民社会論的在日論」を批判し、その失敗を断定的に予見する。文の論文「在日朝鮮人における『国民国家』」(1994年)は、日本の高度成長にともなう在日朝鮮人社会の変化による「朝鮮人部落」の解体、在日朝鮮人の新中産層意識や私生活重視、祖国と民族という「抽象的大義」の解体を指摘する。よって、新しい時代の主体意識と歴史感覚にあった市民(住民)的共生を追及することで、国民国家の枠を克服しようという論旨である。

 

文京洙に対する徐の批判は三つ提示される。第一の論点は、既成世代の硬直した民族観を克服するよりも、「在日朝鮮人と『民族』との連結一般を否定する結果」がかいま見えるというものである。これは、「共生論」や「市民社会論的在日論」が「在日朝鮮人の生を規定する社会的矛盾関係を日本国内の少数民族集団としてのそれに限定している」という第三の論点に連結される。すなわち、「韓日協定体制」下で「軍事政権によって迫害され、人権と財産権を脅かされ」た在日朝鮮人が、重要な自己解放の召命から顔をそむけているというのである。

 

文京洙をはじめ「市民社会論的在日論者」たちは、韓国の民主化と祖国統一に関与することを自分たちの召命だとは考えていない。日本社会の「市民」として「在日朝鮮人」のアイデンティティーと歴史を重視しているだけである。それに対して徐京植は、韓日協定体制に対して彼らが「無批判であること」、「距離を置いていること」を批判しているのである。徐の語法は「民族解放論者」に典型的な社会体制認識論と主体の実践論を反復している。

 

第二の論点は、高度成長は政治の右傾化、環境破壊、家族と教育の荒廃、「安楽への全体主義」(藤田省三)に進んだと指摘される日本の現実のなかで、逆に「市民の自立性は着実に崩壊してきた」のではないかという反論である。日本人が市民革命を追求するなら、「現行憲法の象徴天皇制の廃止、基本的人権保障における国籍条項(第11条)の破棄」のために闘って当然なのに、そうした自立的市民が日本に存在しないというものだ。

 

こうした市民運動論批判は、「女性のためのアジア平和国民基金」問題で対立するようになった状況下で、和田春樹を天皇制の戦争責任をおろそかにする「国民主義」だと設定し批判する態度につながっている。

 

徐京植は、「日本の中の少数者」にとどまらず「ネーション」を志向する時、在日朝鮮人の帰属対象は「全体としての『民族』」であり「いまだ実現されない自己解放の課題としての『統一された朝鮮』」なのだという。しかし、すべての民族の自覚による「ネーション」の構成が漠然たるものであることは徐自身も認めている。この後、「ネーション」論にそれ以上の進展はないようだ。

 

「ネーション」論の実質的な後退と同時に、在日朝鮮人を日本のマイノリティとして認めなかった態度が変化する。1990年代の著作で徐は、在日朝鮮人は「日本の中の少数民族=エスニック・マイノリティ」ではないと強調した。しかし、日本の青少年を対象にした2012年の著作『在日朝鮮人ってどんなひと?』では変化している。「在日朝鮮人とは誰かを定義しようとすれば真っ先に、それは『日本社会のマイノリティである』ということができます」と書いているのである。こうした論旨の変化は、世界的な難民論を吸収し、かつ「在特会」の活  動に対応した現象のように思われる。問題は、自分自身や現実の変化を認めず、原理主義的な態度をとるところにあるのではないだろうか。

 

在日朝鮮人の「民族解放論」が韓国に流入して、いったいどのような役割をはたしたのか? その非妥協的な民族言説は日本と朝鮮半島の脱植民地化、アジアの脱冷戦的な平和を実現するうえで実質的に寄与しているのか、振り返ってみるべき時だ。歴史的な不幸を反復しないようにという植民地主義批判の言説が、逆説的に若い日本人の無理解や反感を呼び起こし、韓日間の敵対性を高潮させてはいないか。時代状況の変化の中で現実認識を新たにし、複雑な関係性を多角度から把握することが、知識人のあるべき態度であるだろう。

 

※本記事は、ソウル大学日本研究所『日本批評』14号(2016年2月)所載の「1990年代以後、韓国に紹介された在日朝鮮知識人の民族言説」を、半分に縮約し翻訳したものである。オリジナル論文にあった、日韓の排他的なナショナリズムが背中合わせで補完しあう問題については省略されている。

 

サムネイル https://commons.wikimedia.org/wiki/File%3ASymbiosis_07.jpg

 

知のネットワーク – S Y N O D O S –

 

 

アマゾンのサーバでエラーが起こっているかもしれません。一度ページを再読み込みしてみてください。

 

 

シノドスの楽しみ方、あるいはご活用法のご案内

 

lounge

 

α-synodos03-2

1
 
 

vol.212 特集:生命

・『生殖医療の衝撃』著者、石原理氏インタビュー「時間と空間を超える生殖が日常となる現代――日本で求められる法整備」

・粥川準二「『新しい優生思想』とは――相模原事件、出生前診断、受精卵ゲノム編集」

・打越綾子「生命の観点から人と動物の関係を考える」

・杉田俊介「優生と男性のはざまでとり乱す――優生思想についてのメモ」

・岩崎秀雄「生命美学とバイオ(メディア)アート――芸術と科学の界面から考える生命」

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文)「Yeah! めっちゃ平日」第1回:加齢と向き合う