ドイツの「強いマイノリティ」――戦後ユダヤ人社会の形成

なぜ「ヒトラーの国」を選んだのか

 

現在、ドイツには約12万人のユダヤ人が100を超えるコミュニティに暮らしており、これはヨーロッパではフランス、イギリス、ロシアに次ぐ規模である。ベルリンやミュンヘンといった大都市だけでなく、地方都市にさえ、実に立派なシナゴーグ(会堂)やコミュニティセンターが居を構え、近年では戦後はほとんど目にすることのなかった、黒ずくめの服にひげを生やした超正統派ユダヤ人の姿さえ町で見かけるようになった。かつて「呪われた土地」として忌避されたドイツに、いまや活発なユダヤ人社会が存在するのである。

 

しかし、ドイツにおけるユダヤ人の「可視性」は、どこか象徴的でもある。全国各地にユダヤ人迫害を記憶する記念碑が散在し、観光の目玉になっている。毎年開かれる「ユダヤ文化週間」の催しには多くの市民が集い、多文化的価値が謳われる。他者への寛容が語られるときには必ずユダヤ人団体の代表が登場し、そのコメントには道徳的権威の雰囲気さえ漂う。ユダヤ人人口がドイツ国民8千万人のなかの12万人に過ぎないことを思うと、彼らの可視性はどこか均衡を欠いている。ドイツの他のマイノリティ集団と比して、公的空間におけるユダヤ人の時には過剰ともいえるプレゼンスは、彼らが政治的資源を持つ「強いマイノリティ」であるような印象を与えている。

 

「強いマイノリティ」とは、形容矛盾のようにも聞こえる。通常、マイノリティは社会的弱者であることが多い。しかし、マイノリティの間でも格差が存在し、社会的資源にアクセスが容易な集団と、そうでない集団があり、一種の序列化が生まれているのが現状だ。マイノリティ間の格差を生む要素とは、集団の教育水準や、それと関連する職業分布と収入、さらにそのマイノリティの権利保護に強く関心を持つ同族国家(kin state)が存在するかどうかといった点にも影響される。しかしドイツのユダヤ人の場合、こういった条件はほとんど満たしていなかった。ではなぜホロコーストにより壊滅的打撃を受けたユダヤ人社会が、「強いマイノリティ」と見なされるようになったのか。

 

それは、「殺人者の国」に再建された共同体がたどった歴史と、それを取り巻くドイツ社会との関係のなかから生まれてきた。まず、戦後ドイツ・ユダヤ人社会の形成を振り返り、ホロコースト後のドイツに暮らすユダヤ人とはいったい誰なのか、なぜ彼らは「ヒトラーの国」を選んだのか見てみよう(本稿ではユダヤ教の信徒共同体の参加者を「ユダヤ人」とする)。

 

 

実は弱い「強いマイノリティ」

 

ナチ政権が成立した1933年の国勢調査で約50万人を数えたドイツ・ユダヤ人のうち、終戦時にヨーロッパで解放された者の数は2万人前後であった。14万人から16万人が殺害され、残りの30万人以上は、国外脱出が不可能になる前に移住しており助かった。

 

ホロコーストをヨーロッパで生き延びた約2万人のなかには、強制収容所から生還した者、地下に隠れて終戦を迎えた者もいたが、実はその大半がドイツ人の配偶者を持ち、いわばドイツ人社会とのつながりゆえに強制収容所への移送を免れた、中高齢の同化ユダヤ人たちであった。彼らが共同体を再建する主体となってゆくのだが、年齢的に彼らはすでに子供を産み育てる年になく、したがって共同体も遅かれ早かれ自然消滅するものと思われた。彼らがドイツに残ったのは、年齢ゆえに移住する気力も体力もなかったのに加え、命の恩人である夫や妻、子供たちを置いて国を去ることができなかったためである。

 

この年老いた共同体が消滅を免れたのは、戦後になってドイツにやって来た東欧出身のホロコースト生存者が加わったためであった。彼らは若さと体力ゆえに迫害を生き残った者たちで、ヨーロッパから移住する目的で故郷を離れ、難民化し(DP=Displaced Personと呼ばれた)、国連機関が運営する難民キャンプに流れ着いたのである。一時期、ドイツには16万人ほどのユダヤ人DPが逗留していた。

 

ユダヤ人DPにとってドイツはまさに「殺人者の国」に違いなく、ドイツに腰を落ち着けようと考えた者はおおよそ皆無であっただろう。ところが迫害による健康問題で移住先が見つからなかったり、ドイツで始めた商売が軌道に乗ったり(多くは闇市を出発点とし、米軍の物資の横流しや、米兵相手のバー経営などであった)、ドイツ人と結婚して子供が生まれたり、そうこうするうちに居座ってしまった。イスラエルが建国されると、大半のユダヤ人DPは出国したが、1万2千から1万5千人のDPが国内に残留した。

 

こうして文化的背景も、年齢構成も異なる二集団からなる戦後ユダヤ人社会の原型が誕生した。

 

このハイブリッドな共同体は、その後も理由があって「ヒトラーの国」に流れ着いてくるユダヤ人を受け入れてきた。まず、亡命先・移住先から帰国するドイツ系ユダヤ人の流れが常にあった。例えば、ドイツ語以外の国では仕事ができなかった弁護士たち。1950年代に個人補償が始まると、弁護士の需要が高まり、帰国した。イスラエルに移住したものの、現地の厳しい生活を嫌って戻ってきた「出戻りDP」。国交もなかったドイツに、夜逃げ同然で戻ってきた。

 

また1956年よりドイツへ帰国する者には6000マルクの支援金が出るようになり、南米など経済的に立ち遅れた地域へ移住した者の帰国が増加した。その後も1960年代末にはポーランドやチェコ、1970年代末にはイランなど、政治的理由で小規模な集団が逃げてきた。またドイツからイスラエルへの移住がある一方で、イスラエルからドイツへの移住は、前者より数が多かったのも事実である。ユダヤ人国家を棄てて他国へ移る者が民族の「裏切り者」とされた時代に、あえてドイツを選ぶとは言語道断であったが、ベルリンにはイスラエル国籍者の集団が半ば公然の秘密として暮らしていた。

 

こうして見ると、西ドイツのユダヤ人共同体は、重層的な移住により形成された移民社会であったことがわかる。端的にこれは、主に経済的理由からドイツを選択した、むしろ社会的基盤が弱い人びとの集合であった。第一、共同体の基礎を築いたドイツ系ユダヤ人の多くが年金や補償に依存していた。元DPは身一つでドイツに流れ着いたうえに、迫害によりまともな教育を受けていなかったから、職業的な意味での有資格者ではなかった。元DPは衣類の小売・卸売や、クリーニング屋、小規模なホテル経営など、伝統的に東欧ユダヤ人が従事してきた業種に集中した。

 

ドイツのユダヤ人は社会経済的にはむしろ「弱い」集団で、富裕層が比較的大きく、したがって政治的発言力もある他国のユダヤ人社会の構造と比べても、その「弱さ」は明らかであった。また多くのユダヤ人が、移民として文化的・言語的ハンディを抱えていた。戦前のドイツ・ユダヤ人社会の名を世界に知らしめていた知識人が、戦後の共同体には不在であったのも特徴的であった。

 

 

 

◆◆「αシノドス」購読でシノドスを応援!◆◆

1 2 3
シノドス国際社会動向研究所

vol.226+227 特集:自立的思考のために

・飯田泰之氏インタビュー「経済学の基礎で社会を読み解け!――マクロ経済の思考法」

・角間淳一郎氏インタビュー「『風俗嬢かわいそう』で終わらせない――“孤立”に歯止めをかけるセカンドキャリア支援」

・【今月のポジ出し!】吉田徹「形骸化する地方自治――『くじ引き民主主義』を導入せよ!」

・藤代裕之氏インタビュー「フェイクニュースが蔓延するメディア構造はいかにして生まれたのか」

・塚越健司 学びなおしの5冊 <統治>

・齋藤直子(絵)×岸政彦(文) 「Yeah! めっちゃ平日」第八回