「差別してしまう側の人」を踏みとどまらせるために――いつから同性愛は異常視されるようになったのか?

「男らしくあるべき」「女らしくあるべき」……このような考えは、いつの時代も私たちの周囲に潜んでいます。しかしその「らしさ」は時代によりけりで、実は長い歴史のあるものだとは限らないのだそうです。

 

明治大学4年生の私、白石が今までずっと気になっていた先生方にお話を聞きに行く、短期集中連載「高校生のための教養入門」特別編の第4弾。ジェンダー論が専門の兼子歩先生に、私たちが誰かを差別してしまわないためにどうすればいいのかをお聞きしました。

 

 

いつの間にか差別されるようになった同性愛

 

――まず、先生のご専門であるジェンダー論について教えてください。

 

ジェンダーという言葉は、もともとドイツ語やフランス語における文法上の性別のことを指していました。ドイツ語やフランス語には、男性名詞や女性名詞、中性名詞というものが存在しています。それに対し、生物学的な意味でのオスとメスの区別のことは「セックス」といいます。ですが、1960年代以降、いわゆるフェミニズムの思想と運動が社会のなかで力を持ってくると、性別に関して新しい考え方が現れてきたんです。

 

我々は男女に分かれています。男女に分かれているから特質に違いがある。男性は男らしくなり、女性は女らしくなる。それぞれの特性に応じて、社会のなかでも役割を分担するようになる。そのように我々は考えがちですよね。ところがジェンダー論においては、男らしさや女らしさは、生物学的な違いからは導き出されないという考え方をします。

 

男女の身体的・知的・感情的な違いが、染色体などによってどのくらい生まれつき決定されているかということは、社会の影響を排除して比較してみないと分からないことです。しかし人間は生まれた時から人間がつくった社会のなかで生き、成長します。現実には社会の影響力を一切排除した男女の比較なんてできません。私たちが自然に存在していると思い込んでいる男女の違いは、相当程度、社会のなかで「つくられた」と考えるべきではないでしょうか。

 

 

――女性はそういった社会のなかの固定観念によって、相当苦労している部分がありますよね。

 

はい。たとえば数学は男性の方が得意で、女性は向いていないという考えがありますよね。そのため理系の大学には学生も教員も、女性が少ない。ではこれは、女性が本質的に数学などの理系学問に向かない存在だからなのでしょうか。実際には、理系学問への向き不向きは、男女差というよりも個人差です。

 

「女性は理系に向かない」「理系学問を熱心に学ぶ女性は女らしくない」といった社会の見方が、男性による女性の理系学問の能力への過小評価を生み出したり、女性たち自身でも「女らしくない」という評価を避けるために理系学問を避けるようになったりした、そうしたことの積み重ねの結果といえるでしょう。でもその結果から、「女性は理系に少ない、やはり向いていないからではないか」という結論を多くの人が導き出せば、女性を理系から遠ざける構造がまた繰り返されるのです。

 

 

――先に「女性は理系に向かない」という考え方があったせいで、女性は本来あったはずの能力を発揮できていないということですね。

 

こうした女性観が問題なのは、理系は特に経済にとって重要なハイテク産業をはじめとする企業とも関係しているからです。企業は大学の優秀な理系学生を求めている。しかし理系の大学・学部には、先ほど述べたような社会的な理由によって、女性が少なくなる構造があります。そうなると、これは女性にとって職業選択の自由が実質的に制限されているということにもなります。

 

そこで、「男は○○であるべき」「女は○○してはならない」という考え方には本当に正当性があるのか、そうした考えはどのようにしてつくられてきたのか、また時代によってどのように変化してきたのかといったことを研究することが重要になってくるわけです。

 

またその一方で、ある特定の社会や時代、集団や組織のなかの「男らしさ・女らしさ」に対して、私たちはどのように順応していくのか、あるいはそれから矛盾を感じたり矛盾を抑え込んだり逸脱したり抵抗したりするのか、そしてどのような行動によって既存の「男らしさ・女らしさ」を変容させていくのかということも重要になってきます。ジェンダー研究とは、こうした問題に対して、社会学や歴史学や文学、人類学や心理学などさまざまな人文社会科学の手法を用いてアプローチしていく学問のことです。

 

 

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――先生はジェンダーを文化史の観点から研究されているということですが、その二つはどのように関わっているのでしょうか?

 

まず最近では、歴史における「文化」というものを広く捉えるようになっています。つまり、我々がもっている価値観や認識、見て意味をすぐに理解できるシンボル、共有され好まれる物語なども文化であるという捉え方ですね。そして我々はちょうど眼鏡のように、そうしたある時代や社会や集団に特有の価値観や認識の枠組みを通じて、自分の社会やほかの社会を見て理解している。だから文化が変わると社会も変わるし、その逆もしかりということなんですね。

 

一つ例を挙げます。19世紀のアメリカの、特に中流層の男性のあいだでは、「セルフ・メイド・マン」という価値観が支配的でした。つまり、男性は自分の努力や才覚で身を立てて独立し、商売を始めたりするのがすばらしいという意味です。今でいうところの起業ですね。この価値観は当時の子供向けの本にも反映されていて、それを読んだ子供たちは独立して商売を始め成功するイメージをもって成長するわけです。ところがこの価値観がのちに、アメリカ経済の変化と齟齬を起こすことになります。

 

19世紀末になると、アメリカは個人経営のような経済から、法人格を持った企業が中心になる経済に移行します。従業員1万人規模の大企業もたくさん現れました。そうした会社に就職した人々は、つねに組織の歯車として、ボスの指示に従って働かなければなりませんよね。それは、自分の努力とアイデアで独立し、商売をしたり自分の事務所を開いたりするという価値観と対立するわけです。

 

そこで20世紀のはじめには、大企業に就職した男性の多くが5年以内に会社を辞めてしまうという現象が起こり始めました。企業側はこれに対して、福利厚生を整えると同時に、「会社の中で出世をめざして努力するのが男らしい生き方」という価値観を従業員に広めようとしました。新しい企業組織が定着するかどうかということと、「男らしさ」の理想像という文化的な価値が、じつは深くかかわっていたんです。

 

 

――なるほど。歴史の研究というのは、どのように行うものなのでしょうか?

 

基本的に昔のことを調べるのですが、残念ながらまだタイムマシンが発明されていないので、おもに昔の人が書き残したもの(これを史料と呼びます)を調べることになります。たとえば、19世紀のアメリカについて調べるときは、19世紀のアメリカ人が書き残した日記や手紙、新聞、雑誌を読み、当時は何が起こっていたのか、そうした出来事を当時の人はどうとらえていたのか、そこにはどのような価値観があったのか、ということなどを読み取ります。

 

ところがそれは逆に言えば、我々は書き残されたものからしか歴史を知ることができないという限界も意味するわけです。たとえば歴史的には、昔になればなるほど、文字を読み書きできる人は少なかった。なので、本当は貧しい庶民がどのような生活を送っているのかを知りたいのに、日記や手紙を書いていることはほとんどないんですね。そうなると残念ながら、誰かが貧しい人について書き残したものを見て判断するしかないんです。

 

しかし人間は、必ず自分の物の見方を通して他人を書きますよね。だからそこには先入観や偏見が入っている。だから、書かれていたことを文字通り受け取るわけにはいかないことが多いんですね。そこで、書いた人の先入観を割り出しながら、実際はどうだったのかを解読していく作業も必要になってきます。

 

 

――ジェンダー論と似ている学問のセクシュアリティ論についてもお聞きしたいのですが。こちらはどのような学問なのでしょうか?

 

セクシュアリティは一般的には性的な欲望のあり方についての概念ですね。我々は性的な欲望を人類普遍の一般法則だと思っています。しかしこれも歴史的にはかなり大きく変化してきました。最近では、この性的な欲望のあり方が時代や社会の違いによってどのように違ってきたのか、どのように欲望の在り方や特定の欲望へのタブー視などが変化していったのかという問いが、盛んに研究されています。

 

たとえば古代ギリシャや江戸時代までの日本では、じつは男性が男性に欲望を覚えることそれ自体は、異常なことであるとは思われていなかったんですね。実際に古代ギリシャの人々や名前の知られている哲学者たちも、美しい少年への欲望について肯定的に語っているという史料がたくさん存在しています。少なくとも近代以降の欧米では、西洋文明の源として古代ギリシャを称えるとき、そういった史料は見て見ぬふりをされていたわけですが。

 

日本では明治維新以降、西洋文化の影響で同性愛を異常視する考え方が徐々に広がっていったといわれますが、実際には男性の同性愛文化はあちこちに見られており、同性愛の異常視が日本で支配的価値観になったのは、じつは戦後ではないかとも指摘されています。

 

 

――昔は同性愛は普通のことだった、ということですか。

 

はい。しかし19世紀になると、アメリカの中流階級の人にとって、性的な欲望というのはあくまでも子供をつくるために発揮されるものであるという考えがつくられました。つまり、それ以外の目的で女性と性交渉を行うことは男らしくないと考えられていたんですね。そしてこの時代、同性間でセックスを行うことは刑罰の対象でした。

 

20世紀になると、セックスは妊娠・出産を目的としていなくても、夫婦間の愛の確認や、性的にお互いに充足することで関係を円満に維持するためのものとしても認識され、肯定的にみられるようになりました。しかしそれと軌を一にして、同性に対して性的な感情や欲望を抱くこと自体が異常であり、そういう人間は存在として異常であるという見方も強まっていきました。

 

そう考えると、同性愛嫌悪は人類普遍の法則というわけではないということになります。人間社会はある時点において同性愛を非常に異常なものとして見るようになり、そうした欲望をもつ人々を「ふつうの」人々とは違う存在とみなし、差別するようになっていったということですよね。【次ページにつづく】

 

 

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