治らない病気を診ることが医学の神髄だ――人はナラティブによって生きている

大人気コーナー「高校生のための教養入門」。今回は国立病院機構新潟病院の副院長で、脳神経内科医の中島孝先生にお話を伺いました。人はいつか治らない病気にかかって死んでしまうのだから、治らない病気こそ診たいと語る中島先生。臨床現場で数多くの治らない病気をもつ患者さんと接するうちにたどり着いたのは、「完全に良い状態」を「健康」とするWHOの健康概念は間違っているという発見と、ナラティブに基づいた医療こそ必要だということでした。なぜWHOの健康概念は間違っているのか、そしてナラティブとは? 驚きに満ちあふれたインタビューをお読みください。(聞き手・構成/金子昂)

 

 

人間のことを知りたかった

 

―― 最初に自己紹介もかねて、先生のご専門についてお話いただけますか?

 

私は脳神経内科の医師として臨床をしながら、ニューロサイエンスという脳・神経・筋についての研究をしています。脳神経内科は、脳こうそくや脳出血、頭痛、脊髄や末梢神経の病気はもちろん診ますが、体の臓器は神経系が支配しているので、すべての病気を診るわけです。さらに脳は人間の機能に関係していて、例えば失語症とか認知症とか、とにかくあらゆる問題に関わりますね。だから社会との接点も多いです。

 

大学卒業後医師になり、研究のために大学院に入学しましたが、その間に、アメリカ国立保健衛生研究所(National Institutes of Health)に留学しました。いま日本でも、厚生労働省が日本版NIHを作ろうとしていますが、これは巨大な臨床と基礎医学の研究機関で、その中心にあるクリニカルセンターは公的な臨床試験(治験)センターです。大学院生でもあったにもかかわらず、アメリカから生活費と研究費をもらって2年半勤務しました。アメリカも度量がありますよね。いろんなことを勉強しました。

 

その後、日本に帰ってきて、新潟大学脳研究所で研究したものの、いま振り返って思うと、大学院卒業をきっかけに、直接的な問題点から研究をしてみたかったので、早めに大学から、十分な研究インフラと研究テーマのある国立病院機構に移ることになり、結局、大学へは戻らず、そこで患者さんを診ながらずっと研究をしています。

 

 

―― どうして医者になりたいと思ったのでしょうか?

 

多くの人は、親戚や家族の病といった問題から医者になりますけど、私はそういう動機はあるにしても少ない。むしろ人間に対する興味が強かったんですね。

 

私が高校生のときは、文化人類学や哲学が風靡していました。浅田彰さんとか、梅棹忠夫さんとか。いまの高校生は知らないかもしれませんね。そしてもうひとつ、分子遺伝学が勃興しつつあるところだったんです。当時は、文化から人間を知るか、生物体として人間を研究するか悩んでいまして。ただ、いずれにせよ人間を研究したい、というよりも、人間が知りたかったんです。客体ではなく、自分のことを含めた主体として。

 

結果的に、ご覧の通り医学を選んだわけですが、医学を通せばいろいろなところにいけるんですよね。厚生労働省の役人にも大学の教官にも、保健所の職員にも、海外の駐在医にも、普通の医師にも、外務省の医務官、防衛医務官にもなれます。向井千秋さんのように宇宙にだって行けますよね。

 

 

認識は存在を超えるという発見に希望を感じた

 

―― 実際に専門的に研究を始められてどんなことを思いましたか?

 

研究には基本的にふたつのテーマがあると思っています。ひとつは学会の中で醸し出されている、歴史的な流れの中にある研究。そしてもうひとつは、現実に社会の中から起きてくる問題についての研究です。

 

私は大学院で、アカデミックな体系における研究のトレーニングも積んできましたが、やはり現場にいることで突きつけられる問いを研究するほうが楽しかったんですよね。現場で新たなことを発見するたびにドキドキします。大学にいても発見はあるのだけれど、そこでの研究成果とは自分をプロモーションするステップなんですよ。業績として評価されるための。でも臨床医にとって発見は純粋に喜びなんです。

 

しかも喜びにも、ふたつの感じ方があるんですよ。ひとつは、まるで神のように絶対者となって、客体としての世界のメカニズムを解明したかのような喜び。そしてもうひとつは、自分もまた世界の参加者として存在し、自らを深めたときの喜び。若いときは、前者のほうが強かったのですが、次第に後者の方の喜びが強くなっていきました。すると不思議なことに息切れしなくなりました。

 

 

―― 息切れ、ですか?

 

そう。客体として世界を考えるということは、神が作った、作り物の世界なわけですから、いつか研究し尽くすことができるかもしれない。いつかスーパーコンピューターの性能が高くなれば、世界を解明して、さらには将来をシミュレーションできるようになるかもしれない……と思っちゃう。でも、そう思ったらなんだかがっかりしませんか?

 

私はあるときに気が付いたんです。人間は認識によって世界を知る。例えば、可視光から赤外線領域をカバーする大型天体望遠鏡のすばる望遠鏡ができたり、しんかい6500という深海探査艇のための潜水艦ができる。それによっていままでは認識できなかった遠くの宇宙や深海を観測、計測できるようになる。するとこれまでの生物現象、物理現象の理論では処理できない事象が出てきちゃう。つまり認識は存在より上なのね。われわれは存在を前提として考えるわけだけど、存在自体は究極的には知ることができない。認識する力を深めていくと、違う存在が出てきてしまうわけですからね。むしろそこに希望を感じたんですね。

 

 

―― どんな希望でしょうか?

 

まず、私の認識があり、その延長上に測定器を使った計測があり、それは私の認識でもある。他の人がその測定器を使えば、私と違う認識が生まれる場合もあれば、あるいは同じ認識となることもある。または、同じ事象を違う分析装置でみると、違った認識が出てくるかもしれない。私の認識があって、あなたの認識がある。私からみたあなたの認識も、あなたからみた私の認識もある。同じように認識していることもあれば違うこともある。こう考えると「存在の次に認識がある」という世界から逃れられるんです。

 

このことは、人は、それ以前に知り得た以上の豊かな存在を認識したり、あるいは作り上げることが、永遠に可能かもしれないという可能性をしめしています。つまり人間が人間の救いになるということなんですね。世界が絶対者によって以前作られたものによりシミュレーションのように動いていると考えて、こつこつと地道に研究をする以上に、希望のある世界を生み出すことができるかもしれない。そんな喜びを感じながら研究に勤しむと息切れしないし、希望に溢れるんですね。

 

 

 

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