2015.08.28
「平和」は「戦争」に負けています
もしも、目の前に「戦争」と「平和」と書かれた2つのカードが並べられたとして多くの人は「平和」を選ぶはずなのに、なぜ、戦争はなくならないのか……。この疑問にコミュニケーションという切り口からアプローチした『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』が上梓された。今回は著書の伊藤剛氏に、なぜ平和にコミュニケーションが必要なのかお話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)
平和は惨敗しています
――伊藤さんはデザイン・コンサルティング会社「asobot」を設立したり、「シブヤ大学」を設立したりと、コミュニケーション分野の企画をしている、なんだかオシャレな人というイメージなのですが……。
オシャレな人……(笑)。
――東京外国語大学大学院「平和構築・紛争予防専修コース」で「平和」を「コミュニケーション」から見直すことをしていますよね。なんでまた、「平和」をテーマにしたのでしょうか。
学問の世界において「戦争」や「平和」というテーマは、基本的に国際政治や、安全保障の専門家たちによって今まで語られてきたと思います。ですが、「戦争」に関して言えば、広告・PR業界の「伝える技術」が頻繁に活用されてきた歴史があります。いわゆる「プロパガンダ」と呼ばれるものです。だからこそ、「戦争」と同様に「平和」を考える際にも、広告・PR等の「コミュニケーション戦略」の観点から捉え直す必要があると思っていて、8年ほど前からその講座を担当しています。
もしも、目の前に「戦争」と「平和」と書かれた2つのカードが並べられたとして、「どちらを選びますか?」と聞かれたら、きっとほとんどの人が「平和」のカードを選びますよね。でも、世の中から戦争がなくなったことは一度もありません。「戦争」と「平和」の言葉を、つい対義語として並べてしまいますが、コミュニケーションの観点から見れば、本来は並列ではないと思っています。
たとえば、試しに「戦争(war)」という言葉をGoogleで画像検索してみてください。銃や戦車、兵士や血を流している人など、いわゆるみなさんが頭の中で描いている「具体的な戦争のイメージ」が出てきます。一方、「平和(peace/peaceful)」のキーワードで検索してみると、出てくるのはピースマークやピースサイン、鳩や握手、青い空など抽象的なものばかりです。
つまり、戦争とは「目に見える具体的なもの」ですが、平和というのはいたって「抽象的な概念」だということです。それが一体何を意味するのかと言えば、どちらの方がコミュニケーションとして伝わりやすいかという問題と関係してきます。当然、抽象的なことよりも具体的な「戦争」の方が伝わりやすい。なぜなら、可視化しやすい戦争は「恐怖のイメージ」を一瞬にして多くの人と共有することができ、歴史を振り返れば、まさにその長所を時の権力者は利用してきました。
一方で、「平和」をプロパガンダすることはとても難しいです。平和は、目に見えない抽象的な概念なので、人によって頭の中に思い描く「平和とは何かのイメージ」が大きく異なります。だからそれを伝えようとすると、お互いのイメージをまず摺り合わせることから始めないといけないので、「ひと手間」かかってしまいます。残念ながら、「コミュニケーション」という観点においては「戦争」の方が圧勝しているんです。
――戦争が起きるのは、平和を求める心が足りないからではなく、コミュニケーションのし易さの点でまずは負けている可能性があると。
そうです。しかも、戦争プロパガンダは巧妙です。アメリカの湾岸戦争開始の大きなきっかけとなった「ナイラの証言」が実はPR会社が作成したシナリオで、全て捏造だったという事実はとても有名になった話ですが、このようなことは湾岸戦争だけではなく、さまざまな戦争の中で手をかえ品をかえ行われてきています。
『ドキュメント 戦争広告代理店』(高木徹著/講談社文庫)の書籍で詳しく取り上げられていますが、歴史の教科書にも掲載されているボスニア戦争時の「民族浄化」というフレーズも、実はPR会社によって広められた言葉です。セルビア人がいかに残虐な行為をしているのかを表現するために、ボスニア政府から依頼されたPR会社がマーケティング戦略の視点から開発しました。
一般的に、戦争における「虐殺」と聞くとパっと思い浮かぶのは「ホロコースト」という言葉だと思いますが、このフレーズは欧米社会の人々にとってはとても重要な意味を持っています。だからこそ、PR会社はボスニア戦争を安易に「第二のホロコースト」と表現することを広報戦略の観点から避けたと言われています。
また、「民族浄化」は英語では「エスニック・クレンジング」と言いますが、「浄化」の言葉にはもう一つ単語があり、「エスニック・ピュリファイリング」というフレーズも検討されました。しかし、「クレンジング」が持っている言葉のニュアンスの方が、英語圏の人たちにはよりゾッとする響きを与えるとの判断から、最終的にそちらが選ばれたようです。
――プロの仕事ですね。
そうです。そして、この「民族浄化」の言葉がニューヨーク・タイムズやCNNなどの国際メディアで使われ始めると、急速に国際世論はボスニア側に傾いて行きました……。この事例を考える上で重要なことは、湾岸戦争時の「ナイラの証言」のような分かりやすい「やらせ」や「捏造」ではないということです。
事実をもとに、国際メディアや国際世論が関心を持ちやすいようなメッセージを作り出し、一方でそのような簡潔にまとめられた言葉を必要とするメディアが「表現の自由」のもとに報道をし続けた結果なのです。戦争に関するコミュニケーションというのは、非常に進化していると思います。
戦争プロパガンダの法則
――戦争の方がコミュニケーションができていて、しかも高度なプロパガンダが行われていることが分かりました。最近、安保法制が話題になりました。伊藤さんはコミュニケーションの観点からどのように感じられましたか。
はじめにお断りしておくと、今回の法案の「内容」の是非については、ぼく自身は安全保障や軍事の専門家ではないので、読者のみなさんと同じ程度の知識しか持ち合わせていません。内容をひとつひとつ理解するのは本当に難しい。けれど、現政権の法案の「進め方」には関心を持って見ていました。
執筆した本の中では『戦争プロパガンダ10の法則』(草思社)と呼ばれる戦争プロパガンダの作られ方について紹介しています。これは、アーサー・ポンソンビーの著書『戦時の嘘』にまとめられたもので、第一次世界大戦中にイギリス政府が国民に恐怖や憎悪を吹き込み、愛国心を煽り、多くの志願兵を集めるためにつくりあげた「嘘」を暴こうとしたものです。
その後、それをフランスの歴史学者アンヌ・モレリが、第一次世界大戦以降の戦争にも適用されてきた歴史をまとめました。現在の日本は戦時中ではないですが、権力者がどのように物事を進めていくのかを見極めるためにも、非常に示唆に富んだ法則だと思います。
ただ、これらは「法則」というよりも、国家が戦争を遂行するための「主張」と言い換えた方が分かりやすいのではないかとぼく自身は思っています。そして重要なポイントは、その「順番」にも意味があるということです。つまり、それらは戦争を作り出すための「シナリオ」であるという捉え方で、大きくは4つのストーリーで構成されていると考えています。
『戦争プロパガンダ10の法則』
<シナリオ1:平時における「国家の前提」>
1 われわれは戦争をしたくはない
<シナリオ2:新しい前提のための「大義の創出」>
2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4 われわれは領土や覇権のためではなく、偉大な使命のために戦う
<シナリオ3:好ましい「戦況の演出」>
5 われわれも誤って犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為におよんでいる
6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
<シナリオ4:圧倒的な「世論の形成」>
8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9 われわれの大義は神聖なものである
10 この正義に疑問を投げかけるものは裏切り者である
多くの戦争では、権力者はだいたいこの順番で戦争シナリオを作成していきます。あたり前ですが、「戦争をしたい」と言って戦争を始める権力者はいませんし、民主主義国家においてそれを国民が許すこともないでしょう。だから、敵国が望んだから、敵が悪いから、使命があるからと、国民が納得するように「仕方なく戦争をするんだという理由」を作る必要があります。
加えて、誰も自国の兵士が残虐なことをしているとは思いたくないですから、敵の卑怯さも強調していきます。そして、著名人も支持しているかのような状況を作り出すことで国民の心を動かしていくのです。
最後の仕上げとして、「この正義に疑問を投げかけるものは裏切り者である」と、戦争を疑問視する人を「敵側の人間だ」と決めつけます。ここまでいくと、もう殆どの国民が反対の声を上げることが難しくなってしまうでしょう。
このように、巧みに少しずつシナリオを進行させていくのが常ですが、今回の政府の主張は、このシナリオよりももっと単純にやっているように感じていました。安保法制を進めていく過程を見ながら「はたして、この本を出す必要があるかな?」と思うくらい、コミュニケーションとしてはかなり雑だったと思います。
政府の主張していることは殆んど同じはずなのに、イスラム国による日本人人質事件の時には支持率が上がり、今回の安保法制では支持率が下がってしまったわけですから。
――今回の安保法制はコミュニケーション不足であったと。
もちろん、セオリーに乗っかっている部分はありました。まず、1の「われわれは戦争をしたくはない」ということは前提として言っていましたよね。「戦争法案はレッテル貼りだ」とも言っていました。
シナリオ2で重要な「仮想敵」も、審議中に具体的には言いませんでしたが、中国ということは随所に匂わせています。そして、(一緒に仕事をしている伊勢崎賢治氏は現実に即してないと厳しく批判していましたが)母子の乗った船が攻撃されようとしているパネルなどを使って、国民に共感できそうな説明を試みていました。
しかし、今回の安保法制はあくまで「積極的平和」のためであるという主張を続けるために、シナリオ2や3のような「戦争を想起させるようなこと」はなるべく言わないように濁そうとしてきたために、発言も途中で変わったりするなど、ぼくら国民によく分からない説明が続いていると思います。
さらに今回の安保法制では、シナリオ4で出てくる8の「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」という点がまったく上手くいきませんでした。たとえば、宮崎駿さんのような国民に圧倒的な支持を集めているような多くの文化人も反対を表明しています。
さらに、今回一番インパクトが強かったのは、3人の憲法学者が3人とも「違憲」と判断したことでしょう。しかも、自民党の用意した参考人だったということも大きかったですよね。憲法学者3人が3人同じ意見であれば、みんなが「違憲なんだ」と思っても当然です。
――こういっちゃなんですが、コントみたいな展開でしたね。
はい(笑)。しかも、このような憲法学者の反対に対して、与党は「人選ミスだった」「安全保障の問題について専門知識を有していない」などと言って、客観的に議論する気がないことをあからさまに表明してしまいました。
そのような流れの中で、つまり8の「芸術家や知識人も正義の戦いを支持している」という土壌を作り上げる前に10の「この正義に疑問を投げかけるものは裏切り者である」を言ったら、どう考えても「独裁者」のようにしか聞こえません。コミュニケーションの観点から見れば、あまり戦略的ではなかったと思います。
しかし、もし仮に人気のあるアイドルやタレント、学者までもが口をそろえて体制側に支持をし始めたら、政権の決定に歯止めはきかないでしょうね。今は、その代表格が作家の百田尚樹氏ですが、それでは多くの人のアイコンにはなり得ないのではないかと思います。
――今回は安保法案反対のデモも盛り上がりましたね。
デモに関して言えば、「安保法案」を「戦争法案」という言葉に置き換えて使うことで、多くの人の感情を掴んだと思います。そして、「戦争に行くのは私たち若者だ」と若い世代が声を上げたり、子どもを守る若いママたちも立ち上がったのは、社会的にインパクトがあったと思います。
ただ、個人的には「戦争法案」と言ってしまうことで、分かりやすいメリットがある反面、現政権のコミュニケーションのフィールドから出ていないとも感じています。つまり、「平和=反戦」という今まで通りのアプローチということです。
もし、もっと説得力のある人たちによって「これは平和のための法案ですよ」「日本だけの平和でいいのですか?」と一国平和主義を上手に批判されたら、なかなか反論することが難しくなってしまうと思います。平和のための「正しい戦争」という主張が国際社会の中にあるのも事実ですから。
いずれにしても、今のところ「平和」は曖昧だからこそ、コミュニケーションする際には「反戦」と言い換えて、「戦争」の対義語として使うしかないというのが現状なのだと思います。
なぜ「コミュニケーション」なのか
――ずっと気になっていたのですが、なぜピース「コミュニケーション」なんでしょうか。いま流行りの「プレゼンテーション」ではなく。
大学時代の専攻は法学部でした。法学部ではよく「この被告は有罪かどうか」「死刑制度には反対か」などの様々な立場について、賛成か反対かの議論をします。そのとき「自分の方が正しい」と思ってもちろん意見を言うわけですが、正直に言えば「相手の言っていることにも一理あるな」と思うことが多々ありました。
おそらく意見が対立している多くのことは、「相手の言い分」の中にも正しいと感じるような箇所があるのだと思います。「そう言われたらそうなのかも」というような。だからこそ、被害者の弁護だけでなく、加害者側を弁護することもできるのが法律の世界です。
「憲法」や「立憲主義」の問題を脇に置いておくとすると、安全保障の議論は、「国家間の戦争」を想定した場合にはアメリカの軍事力とも手を組んで「抑止力が必要だ」という論旨になりますが、「テロリストとの戦い」を想定すれば「アメリカと一緒だと危ないんじゃないか」「軍事力の強化では対抗できない」という主張になる。これは、どちらも論旨としては正しい。ただ、そもそもの主張の「出発点」が違っています。そこが大きなポイントなんです。
たとえば、簡略化した例でより詳しく説明すると、図のような「赤い丸」と似ていると思うものを、次の2つの図A・Bから選ぶというシンプルな問題があったとします。
もちろん、2つの内どちらを選んでも「間違いではない」ということは簡単に分かりますよね。Aを選んだ人は「形(=丸)」を前提に選んだ人で、Bを選んだ人は「色(=赤)」を重視して選んだ人です。つまり、お互いに基準にした「前提」が異なるわけです。これを、「自分の方が正しい」と主張し合ってみても、決して相手が納得することはありません。なぜなら、どちらも正しいからです。
ただ、この事例の場合にはおそらく多くの人が「なぜ相手がそちらを選んだのか」の理由も容易に想像つくと思います。「あなたは色を優先したのですね」「あなたは形だったんですね」と。このように、まずは相手の前提を読み解くことが重要です。
なぜなら、実社会には「正しい論理」というのがたくさんあります。数学や物理の世界のように、正解はひとつではない。だからこそ、論理性の正しさを競い合う「プレゼンテーション」では、むしろ「争い」を助長することになってしまう。大事なことは、結論を摺り合わせるのではなく、お互いの前提を摺り合わせることが必要で、それが「コミュニケーション」ということなのです。
――安保の話にしても、考えれば考えるほどどんどんよく分からなくなってきて、「徴兵制だ!」みたいな話や首相個人を激しく攻撃するものにも乗れないし、一方で反対する人を「現実をみていない」とバカにするような言論にも乗れない。ひたすらモヤモヤだけが募った人はけっこう多いんじゃないかと思うんです。今のお話を聞いて、少し自分の中で腑に落ちました。
よかったです。どちらとも判断がつかないということの方が正常ですし、ぼくらは専門家でもないので、自分自身の知識不足で判断がつかないとモヤモヤするのが普通の感覚なのだと思います。
戦後70年の節目に
普段は、自分のやった仕事を友人に宣伝することはあまりしないのですが、今回は近況報告も兼ねて、友人たちにも本のお知らせをしました。この本に関しては、手にとって一人ひとりに考えてみて欲しいと思ったからです。そうしたら、主婦や子育てをしている女友達から「ありがとう」という反応が返ってきました。なぜ、そんなリアクションが返ってきたのか。
というのも、安保法案のニュースを日々見ていて、肌感として「これは何かヤバいんじゃないか」と思っていたと。ところが、デモに行く時間はないし、勇気もない。関連した本を読もうにも何の本を読めばいいのかも分からない。でも、「何かしなきゃ」という気持ちはあった。
そのタイミングで、友人関係というきっかけからぼくの本を買うことや、それをFacebookでシェアすることで、自分なりにこの問題に対して「何かしらのアクション」をすることができた。それに対して「ありがとう」と言っていたんです。
今までぼく自身は、どうやって戦争や平和のような遠い問題について少しでも身近に感じてもらえるのか、興味を持ってもらえるのかをいろいろと考えてきました。ところが、今は普通に暮らしている多くの人たちにとって身近に感じざるを得ないトピックになっているということです。このテーマが時代の「ど真ん中」に来てしまった。
おそらく特定秘密保護法の時は、そういう危機感の持ち方はしていなかったのではないでしょうか。なんとなく、ニュースで「どうせ決まっちゃうんでしょ」と多くの人が思っていた。でも、今回ばかりは……という感覚がある。この変化の原因が、政府のコミュニケーションの失敗にあるのか、何に起因しているのかはまだ分からないですが、かなり大きな転換点になるのかもしれませんね。
本書では、ぼくの専門分野から戦争や平和のテーマを読み解く「ピース・コミュニケーション」について書きました。戦後70年という節目に、ぜひ手に取ってもらえれば嬉しいです。
プロフィール
伊藤剛
1975年生まれ。明治大学法学部を卒業後、外資系広告代理店を経て、2001年にデザイン・コンサルティング会社「asobot(アソボット)」を設立。主な仕事として、2004年にジャーナル・タブロイド誌「GENERATION TIMES」を創刊。2006年にはNPO法人「シブヤ大学」を設立し、グッドデザイン賞2007(新領域デザイン部門)を受賞する。また、東京外国語大学・大学院総合国際学研究科の「平和構築・紛争予防専修コース」では講師を務め、広報・PR等のコミュニケーション戦略の視点から平和構築を考えるカリキュラム「ピース・コミュニケーション」を提唱している。
主な著書に『なぜ戦争は伝わりやすく 平和は伝わりにくいのか』(光文社)、これまで企画、編集した書籍に『earth code ー46億年のプロローグ』『survival ism ー70億人の生存意志』(いずれもダイヤモンド社)、『被災地デイズ』(弘文堂)がある。