2015.11.17

「同じ」と「違う」のあいだになにがある?

『盗作の言語学』著者、今野真二氏インタービュー

情報 #新刊インタビュー#盗作の言語学#言語学

人はなにを「同じ」と思って「違う」と思うのか――「盗作」を問うことは、言語学の根本問題!? そして、盗作にも上手い、下手がある!? 話題の『盗作の言語学』著者、今野真二氏にお話を伺った。(聞き手・構成/山本菜々子)

なぜ「盗作」と感じるのか

――今回は、『盗作の言語学』著者の今野先生にお話を伺いたいと思います。本を読んでいると、「盗作かどうか」自体の判断をすることに禁欲的な印象を受けました。

そうですね。タイトルだけみると、「盗作かどうかを言語学で判断する」という本だと思われる方がいるかもしれません。ですが、これは盗作だ!間違いない!とか、けしからん!と言うところに焦点はありません。

文芸作品には盗作騒動がよく起こります。なぜ私達読み手はそれを「似ている」と感じるのでしょうか。それを言語学的に読み解いてみようとしたのが本作です。

ですから、すでに出来上がっている短歌や俳句を改変もせずそのまま自分の名前で出す「盗作」は分析の対象としていません。

それよりも、ある作家が非常に好きで、よく読んでメモを取っていた。自分で書いたつもりになって、発表したら「パクリ」だと言われてしまったというケースが気になります。

100パーセント一緒じゃないのに、私たちはなぜそれを「盗作」と感じてしまうのか、それが私の関心です。

――先生は本の中で、どのように「類似」を判断しているのでしょうか。

『盗作の言語学』では、「盗作」として話題になり、類似が指摘された二つのテキストを3つのプロセスから分析してみました。

1.まったく同じ表現をマークする

2.まったく同じ表現の出現順に注目する

3.特徴のある表現に注目する

ここで、実際にみてみましょう。フォークナー「サンクチュアリ」の翻訳(西川正身、龍口直太朗共訳)の盗作疑惑がでた西村みゆきの「針の無い時計」という作品があります。両者の一部を並べてみましょう。

(新潮文庫「サンクチュアリー」95ページ)

テンプルははつと立ちあがつた。彼女はドレスのボタンをはずし、両腕を細く高く半円形にあげた。その恰好はおどけた影法師になつて壁に映つた。ひよいと身動きして脱ぐと、下着だけになつてマッチ棒のように細くみえる体を、ちよつとかがめた。

(「針のない時計」12~13ページ)

頼子は立ちあがると、洋服の胸のボタンをはずし、両腕を細く高く半円形にあげた。その恰好はおどけた影法師になって壁にうつった。身動きをして服を脱ぐと、下着だけになって、細い体をちょっとかがめた。

たとえば、「ボタン」という言葉が両方の作品に使われたからといって、「盗作」と思う人は少ないでしょう。単語を単位として独創性を問題とすることには積極的な意義がみとめにくいんですね。「卵」の複数形として「てめげ」という言葉を私がつくったとしても、説明しないと読み手は分かりません。ですから、新しさというのは、単語そのものではなく、単語の並び順にあるんです。

テキストをみると、「ボタン」「はずし」「両腕を」「細く」「高く」「半円形に」「あげた」などと、「まったく同じ表現」が「まったく同じ順」に、しかもいくつも出現している。この点が「類似」と感じられます。

そして、特徴のある表現にも注目します。この場合は「おどけた影法師」という表現が特徴的ですから、「似ている」と私たちは感じるのです。

鳥貴族!?鳥二郎!?

――「新しさは並び順」ってすごく面白いですね。

ちょっと脱線しますが、これが騒ぎになったの知ってますか。

――「鳥貴族」ですね。

そう、焼き鳥屋さんのチェーン店で、「鳥貴族」と「鳥二郎」っていうのがあって。この看板が似ていると「鳥貴族」が「鳥二郎」を訴えました。

――うーん、確かに似ている感じがします。

テレビなどでは、「鳥貴族に行く予定の人が、鳥二郎に行ってしまう。間違えやすい」と報道されていました。

でも、看板だけみると、言語学的観点からは全然違います。まず、特徴的な表現をあげようとしても、「鳥」しか共通点はありません。焼鳥屋で「鳥○○」なんてところは沢山あるでしょう。

もし「鳥男爵」や「鳥伯爵」「鳥一郎」「鳥三郎」という名前ならまだ分かりますが、「貴族」と「二郎」では全然印象が違う。「きぞく」と「じろう」という発音にも共通点がありません。

そして、看板を言語で説明しようとしてみてください。良く見ると字体が違いますし、色も違います。鳥貴族を言語的に説明するのであれば「黄色い背景に、甲骨文字のようなフォントで『鳥貴族』と赤色文字で書いている」となり、鳥二郎の場合は「赤い背景に、鳥の字にはくちばしと目が書いてあって『鳥二郎』と黄色い文字で書いている」となります。まったく別物です。

今回、五輪のエンブレムも騒動になりましたが、言葉で説明しようとしたら、類似しているロゴとまったく別物になるでしょう。

言語学的には要素が共通しても、並び順が違っていたら、それは新しさです。素材を組み合わせて自分のオリジナリティを発揮していれば、それは立派な作品でしょう。でも、人は「盗作だ」と判断する。すごく興味深いですよね。

盗作にも上手い下手がある?

――すごく面白いなって思ったところが、(実際に盗作しているかどうかは置いておいて、)盗作していると思われる人が「ゆらゆら」を「ゆっくり」に置き換えたたりしているじゃないですか。

そうなんです。仮に盗作しようと思ったとして、やっぱり完全に同じじゃダメなので、一部を変えようと考えます。そこで「ゆらゆら」を「ゆっくり」に変えてみたり「肌」を「膚」に変えてみたりする。そういう風に元の作品から距離を取ろうとする。

盗作ではなくても、大人向けの作品を子供向けに同じ作家が書き直すとき、「この単語難しいからこの単語に書き換えよう」と、作家の頭の中では「これは大人向け、これは子供向け」みたいな紐付けがされている。

――盗作の中でも、その頭のアーカイブがさらけ出されるし、オリジナリティとは無縁ではいられないんだなと、すごく感慨深かったです。

そうそう。「心的辞書」みたいなのが個々人にあると思ったら面白いですよね。あと、当然ですが、盗作にも上手い・下手はあり得ると思います。

たとえば、小幡亮介「永遠に一日」と開高健『夏の闇』の一部をみてみましょう。新人賞を取った小幡氏が開高氏の作品を盗作したと話題になりました。

(小幡亮介「永遠に一日」群像1978年6月号)

「シーツの皺はすっぽりと僕の躰を包み、湿り気のある息を吐きながら寄り添ってくる」

よくよく読んでみると、疑問が湧いてきませんか。なぜ、シーツの皺のような小さな皺が、すっぽりと躰をつつむのか。皺が湿り気のある息を吐くってどういうことなんだろうと。では、この表現と類似していると指摘されている『夏の闇』をみてみましょう。

(開高健『夏の闇』新潮社)

「寝姿の皺を見るとひとたまりもなく体を倒し、ゆっくりと眼を閉じる。皺は音もなく私を吸いこみ、しっとりとよりそってくる」

ここでの「皺」はソファーに出来ている皺なんです。ずっと寝ているソファに寝姿の皺が出来ている。だから、「音もなく私を吸い込み、しっとりよりそってくる」んです。

ある作品の表現から、新しい作品を生み出そうとする場合、綻びが生じてきて、ひっかかりが出てしまうことがある。学生のレポートを読んでいても、コピペしたものって、フォントが違ったりするんですよね。急にゴシックになってたりとか(笑)。それは、どこかからもってきたことがわかりやすいですが、盗作が発覚するときは、たぶん「なんかギクシャクしているな」というひっかかりからなのかもしれません。

ひょっとしたら、稚拙でなければ、誰も気が付かない可能性があります。一行ずつ自分の表現ですごく綺麗に直したら、できたものは全然違うものに見えてしまうんでしょうね。

誰も気づかないけど、本当は下敷きがあったなんて話は沢山あるでしょう。本来ならば、盗作ってバレていないものと、バレたものを比較して扱いたいんです。誰か「本当は盗作していました」と名乗り出てくれないかなと思っています(笑)。

imano

「盗作」は言語学へつながる

今回は、1.まったく同じ表現をマークする 2.まったく同じ表現の出現順に注目する 3.特徴のある表現に注目する の3つを基本にしましたが、「似ている」はこれだけに収まりきらないものだと考えています。

たとえば、同じ言葉や、特徴的な表現が一緒ではないのに、「この作家の書きぶりを真似している」と私たちは判断することがありますよね。パロディや文体模倣といった手法もあります。

夏目漱石の「明暗」を、水村美苗さんが「続 明暗」として、漱石が書きそうなストーリーと文体で25年前に書きました。現在でしたら、漱石の作品を単語ごとに区切り、データベース化し、「こういうことを言おう」と思ったときに検索をかけてみて、漱石だったらどういう単語を使うにか調べていけば、完璧にそういうものができるかもしれません。

ですが、単語を漱石のものと同じにすれば、漱石らしさがかならずしも出るものではなく、単語と単語をどのようにつなぎ、展開していくかという「運び」のようなものがあって、それをわかる能力が人間にはあるのかなと思うんです。

言語学も科学ですから、科学的な分析方法をとるんですが。それでも、人間の「似ている」を見分ける能力はもっと高いところにあるんじゃないかとふと思います。「人間ってすごいね」って話になると大雑把すぎちゃうけども(笑)。

でも、「似ているのか」というのは、言語学の根幹の部分だと思っています。言語学は完全な同義語はないという立場をとっています。同じような意味の単語が二つあったら、それは無くなっていくはずなので、二つあるということは、どこか違う部分があるということなんです。同義語は存在しなくて、類義語はあると。

つまり、単語が単語としていられるのは、他の単語と違いを持っているからです。で、その違いによって自分も生きるし、相手も生きてると。同じか/違うかを考えることは、言語学においては非常に根本的な問題なんですよ。

――最後に、読者のみなさんにメッセージをお願いします。

もともと、この本を書こうとしたきっかけはツイッターの「パクツイ」でした。人気のありそうな投稿をパクって、自分の投稿のようにツイートする。インターネットは表面的に匿名の人が発信している情報ですから、「盗作している」と意識することなくやっているのかもしれません。

盗作しやすいように、インターネットで沢山の情報が共有されているにも関わらず、私たちはオリジナリティや個性がないとダメと言われる時代に生きています。

本書は「盗作」を切り口にオリジナリティを考えてみました。小説だけでなく、オマージュやパロディ、俳句や短歌・詩、辞書の語釈についても扱っています。ぜひ、手に取っていただければと思います。

プロフィール

今野真二言語学

1958年鎌倉市に生まれる。早稲田大学大学院博士課程後期退学、高知大学助教授を経て、現在清泉女子大学教授。専攻は日本語学。

 

 

この執筆者の記事