2015.03.10

「空襲は怖くない。逃げずに火を消せ」――戦時中の「防空法」と情報統制

大前治 弁護士(大阪弁護士会)

政治 #防空法#空襲

検証 防空法 空襲下で禁じられた避難

水島朝穂・ 大前治

空襲の安全神話

1枚の写真をご覧いただきたい。

畳の上に炎があり、男女3人が水をまいている。昭和13年に東部軍司令部の監修で作られた12枚組ポスターの一つで、今でいう政府広報である。表題には「落下した焼夷弾の処理」とある。

それにしても不思議な光景である。屋根を突き破って落ちてきた割には弱々しい炎。天井や畳は燃えていない。焼夷弾の間近に迫って怖くないのか。アメリカ軍の焼夷弾はその程度のものなのか。一杯目のバケツで水をかけた後は、一体どうするのか。この一つの炎のために次々とバケツリレーをするのか。謎が深まる。

「防空図解」昭和13年・赤十字博物館

もう1枚。同じ12枚組の1つである。

ショベルの先に小さな「焼夷弾」らしき物体があり、「折よくば戸外に投出せ」と書かれている。こちらも、畳や障子はまったく無傷である。

こんな対処法が可能とは思えない。実戦で使用された焼夷弾は、発火装置と燃焼剤が一体となっており、投下されると数十メートル四方へ火焔を噴出し、家屋を猛烈な炎に包む。その破壊力ゆえ、昭和20年3月10日の東京大空襲では一晩で10万人が死亡し、8月の終戦までに全国で50万人が犠牲になった。その厳然たる事実を思えば、このポスターは犯罪的なまでに牧歌的である。

すでに日本政府は、中国の錦州や重慶への空襲を開始していた。したがって空襲や焼夷弾の威力を熟知していたが、国民にはそれを隠し、「空襲は怖くない」と宣伝した。

「防空図解」昭和13年・赤十字博物館

「空襲から逃げるな」の政府方針

このポスターが作られる前年、昭和12年12月に内務省が発した「防空指導一般要領」は、「防空は国民全般の国家に対する義務」であると定め、「自衛防空の精神により、建物ごとに防護する」ことを基本として、老幼病者以外の者は避難させない方針を示した。

昭和13年3月には、内務省警保局が通達「空襲の際における警備に関する件」を発し、「原則として避難させないよう指導」する方針を明記。同様の方針は、昭和15年12月に内務省計画局が発した通達「退去、避難及び待避指導要領」にも明記された。

軍人に対して「生きて虜囚の辱めを受けず」と説き、潔く命を捨てろという「戦陣訓」が発せられたのは昭和16年1月。それより前に、一般市民は「空襲から逃げるな」と命じられたのである。

朝日新聞昭和16年11月18日付

これを指導方針から法的義務へと高めたのが、昭和16年11月に改正された「防空法」である。第8条ノ3で退去禁止、第8条ノ5で消火義務を定め、懲役や罰金刑も規定された。法律の条文は「大臣は退去を禁止できる」という抽象的な定めだったが、この法律に基づいて昭和16年12月7日に内務大臣が発した通牒は、退去を全面的に禁止すると明言した。真珠湾攻撃の前日である。

昭和16年12月7日の内務大臣通牒

こうして、国民が「空襲は怖い」と気付く前に、「空襲から逃げずに、焼夷弾へ突撃することが国民の義務」とする防空法制が確立された。

なお、安全なはずの地下鉄駅への避難も禁止された。これについては、こちらのサイトをご覧いただきたい。

なぜ逃げてはいけないのか

避難の禁止。なぜ、このような方針がとられたのだろうか。逆に「空襲のときは逃げなさい、自分の命を守りなさい」と指導して、労働力や兵力を保全する方が合理的ではないか。

この謎を解くカギが、帝国議会での防空法改正審議にあった。陸軍省の佐藤賢了軍務課長(のちの陸軍中将)は、衆議院で次のように演説している。

朝日新聞 昭和16年11月21日付

「空襲の実害は大したものではない。それよりも、狼狽混乱、さらに戦争継続意志の破綻となるのが最も恐ろしい。」(昭和16年11月20日 衆議院 防空法改正委員会)

日清・日露戦争以来、戦争に負けたことも空襲を経験したこともない国民は、空襲被害が「大したものではない」という虚偽を見破ることはできなかった。

他方、戦争継続意志の破綻が「最も恐ろしい」というのは、戦争遂行者として正直な告白であろう。退去を認めると、都市部で軍需生産にあたる労働人口が流出する。逃避的・敗北的観念や反戦感情も醸成されかねない。それを怖れた政府は、「空襲は怖くないから逃げる必要はない」と宣伝した。

「消火できない」から「簡単に消せる」への変化

昭和15年に政府が発行した冊子「防空の手引き」には、「焼夷弾は消火できない。落下と同時に発火爆発する」と書かれていた。

ところが、昭和16年発行の冊子「時局防空必携」は一転して「焼夷弾は簡単に消せる」と書き、身近な道具で消火する方法を紹介。「砂袋」や手製の「火叩き」で焼夷弾へ立ち向かえと指示している。恐るべき「安全神話」が流布されるようになったのである。

昭和16年 政府発行冊子『時局防空必携』

この変化は、昭和16年の防空法改正で「逃げるな、火を消せ」が法的義務になった時期に符合する。これ以後、昭和20年3月の東京大空襲を経験した後も、終戦まで政府方針は変更されなかった。東京が「焼け野原」になった後も、新聞紙上には「逃げるな、守れ」、「疎開は抑制」、「国土を守れ」などの見出しが躍った。

昭和18年5月、大阪帝国大学の淺田常三郎教授は、中国で押収した米軍製の焼夷弾の燃焼実験を行い、「アメリカ製の焼夷弾を消すことは不可能」という結論を得た。しかし政府は科学者の警告を無視して、「空襲から逃げるな、逃げる必要はない」と宣伝する。同じようなことが今も起きていないだろうか。

徹底した情報統制――予測も被害も隠す

政府による情報統制は、「将来的な空襲予測を隠す」と「実際に起きた空襲被害を隠す」という二重の隠蔽からなる。

前者は、陸海軍の「昭和十八年度 防空計画設定上ノ基準」に明記された。今後の戦況として、大量かつ反復の空襲を予測しながら、そのことは「作戦上に及ぼす影響をも考慮し、一般に対し伝達を行わざるものとする」として、国民には隠したのである。

後者は、昭和18年4月に内務省が「敵襲時 地方庁に於ける報道措置要領」により定めた。空襲時の報道事務は「特高課」が担当し、すべての空襲報道は事前検閲を受けることになった。空襲についての独自取材記事は掲載できなくなった。

朝日新聞 昭和17年4月19日付 空襲の威力を隠し、「軍を信頼せよ」と説く

こうして国民は、空襲の予測も、空襲被害の恐ろしさも、知ることが不可能になった。

防空壕も政策転換 ――「床下を掘れ」

さらに政府は、「防空壕」についても非道な政策をとる。

かつて防空壕は、原則として「敷地内の空き地に設ける」、「家屋の崩壊、火災等の場合、速やかに安全地帯に脱出し得る位置に設けること」とされていた(昭和15年12月・内務省「防空壕構築指導要領」)。

ところが防空法の改正後、この方針は大転換された。防空壕は床下を掘って設置することが原則とされた。爆弾が投下されたら「そこから迅速に飛び出して防空活動に従事し得ること」が設置目的となり、名称も「待避所」に改められた。退避所ではなく待避所、つまり逃げ場所ではなく消火出動拠点なのである(昭和17年7月・内務省「防空待避施設指導要領」)。

昭和18年8月政府発行「写真週報」
床下の待避所の設置方法を解説

この方針について、内務省発行の冊子『防空待避所の作り方』(昭和17年8月)には、防空壕の設置場所について次のような記載がある。

「家の外に作るか、家の中に作るか、二つの場合が考えられますが、一般には家の中に作った方が・・・一層便利であると思います。また、外にいるよりも家の中にいる方が、自家に落下する焼夷弾がよく分かり、応急防火のための出勤も容易であると考えます。」

しかし、床下で焼夷弾の落下を察知したときには、すでに猛火に包まれて脱出不能である。こんな「安全神話」を疑うことは許されなかった。空襲時には、崩壊した建物の床下で圧死・窒息死・生き埋めとなる被害が続出した。

東京大空襲の後も不変―― 「疎開は認めない」

昭和20年3月10日の東京大空襲。一晩で10万人が死亡する惨状を目にしても、政府は方針を変更しなかった。翌月には次の方針が閣議決定されている。

疎開の中止を呼びかける新聞記事。
毎日新聞戦時版・昭和19年12月13日付(左)、朝日新聞・昭和20年5月5日付(右)

閣議決定「現情勢下ニ於ケル疎開応急措置要綱」(昭和20年4月20日)

人員疎開に付いては、(一)老幼妊産婦・病弱者、(二)疎開施設随伴者、(三)集団疎開者、(四)前各号以外の罹災者及び強制疎開立退者をまず優先的に疎開させるものとし、右以外の者の疎開は当分の間、これを認めざるものとする。

要するに、老幼病者・罹災者・建物疎開による立退者以外の疎開は、「当分の間、認めない」というのである。学童疎開は広く実施されたが、それ以外の者は簡単には疎開できなかった。地方で就労先や食糧を確保するのは至難の業であった。

退去禁止と疎開抑制の方針は、終戦まで変更されなかった。こうして市民は、襲いかかる焼夷弾と爆弾の下に縛り付けられた。

裁判所も認定 ―― 戦時中の国策の問題性

こうした防空法制と情報統制の問題点が明確に認定された裁判がある。2008年12月に空襲被害者が国に謝罪と補償を求めて提訴した「大阪空襲訴訟」である。 2011年12月の一審判決、2013年1月の控訴審判決は原告敗訴だったが、その内容は特筆に値する。情報統制により国民が空襲への対処法を知ることができず、都市からの退去ができず危険な状況に置かれたことなどが判決文で認定されたのである(詳しくは、こちらのサイトへ)。

残念ながら、空襲被害者に対する補償の不存在・不平等は一見して明白かつ重大であるとまでは言えない、という理由で敗訴となった。しかし、戦時中の国策を批判する判決が出されたことは、空襲被害者への補償を求める大きな足掛かりとなる。

現代に生きる私たちへの問い

情報統制と一体となった防空法制は、いったい何を守ろうとしたのか。その問いは、現代を生きる私たちにも突きつけられている。同じ過ちを繰り返してはならない。

防空法制について先駆的な研究を重ねてきた第一人者である水島朝穂教授(早稲田大学)と私との共著『検証 防空法 ―― 空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)を、昨年出版した。数多くの史料やエピソードを紹介し、戦時中の市民がおかれた状況をリアルに伝えている。これまで知られなかった事実に光をあてるものとして、多くの方にお読みいただきたい。

解説サイトはこちら

(文中の旧法令や新聞記事の旧仮名遣いの一部を、現代仮名遣いに変えました。)

プロフィール

大前治弁護士(大阪弁護士会)

1970年生まれ。大阪大学法学部卒業。

大阪空襲訴訟弁護団、大阪市思想調査アンケート事件弁護団、自衛隊イラク派兵違憲訴訟関西弁護団などに参加。著作に「特捜検事をなめるなよと恫喝した“エリート検事”の敗北」(法と民主主義2010年12月号)、「被害申告の経緯を明らかにして勝ち取った無罪判決」(季刊刑事弁護2013年冬号)、「続・痴漢冤罪の弁護」(現代人文社2009年/共著)、「『アンケート』という名のおそるべき『思想調査』」(週刊金曜日2012年2月24日号)、「大阪府教育基本条例(案)に反対する意見書」など。

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