2015.07.10

なぜ私たちは安保法制に反対なのか

憲法学者16人によるリレートーク

政治 #憲法9条#憲法学者リレートーク

2015年7月4日、「安保法制に反対する憲法学者リレートーク」が行われ、憲法学者16人が雨の国会前に集まった。呼びかけ人の石埼学・龍谷大教授、永山茂樹・東海大教授、西原博史・早稲田大教授を中心に、安保保障関連法案の廃案を訴えた。リレートークの模様と、寄せられた声明文を抄録する。(構成/住本麻子・山本菜々子)

西原博史(早稲田大学)

憲法研究者として、私たちは各人が、それぞれの憲法解釈体系を持って、憲法前文の「平和的生存権」や憲法9条にいう「戦争放棄」、「戦力不保持」につき、いろいろな学説を持っています。自衛隊違憲、自衛隊は合憲だけどイラク派兵等は違憲、過去においては自衛隊の活動と存在はすべて合憲、などと立場は分かれるかもしれません。

しかし、それでも今回国会に提案されています「安全保障」関連法案は、明らかに憲法違反であり、存在することの許されないものである! という点について、強い確信を抱いています。

これは、私たちの憲法研究者としての研究を踏まえてつかみ出された学問的な認識であります。根拠のあいまいな結論だけではない、私たち一人ひとりの論理と言葉でこの認識をお伝えする場として、このようなリレートークを設定しました。

実際、集団的自衛権の部分的行使を含む今回の「安全保障」法案は、明白に憲法に反しています。集団的自衛権の行使は、他国への武力攻撃を言い訳にして、別の国に先制攻撃を行うことを意味します。

「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」だと日本が思おうとなんだろうと、日本から攻撃を受ける国にとっては、日本の一方的な武力行使。これは、日本の領土・領空・領海内において、不正の侵略を行う他国に対する防御、すなわち個別的自衛権の行使とは、全く何の縁もゆかりもないものです。

仮に国民の生命と安全を守るために、最低限の武器をもって外敵の急迫不正の侵入をふせぐことが憲法上も認められ、そのために最低限の実力保持が憲法9条にいう戦力不保持に含まれないとしても、これは、どう考えたって、他国に向けて始まった戦争を日本の側が一方的に買って出て、他国に攻撃を加えることを正当化するはずがありません。

それに対して安倍政権、そこに属する自民党と公明党は、昨年7月1日の閣議決定以来、「新三要件」などを言い募り、これは個別的自衛の延長線上のものとして許される、などと唱えています。

しかし、もしそれを認めるならば、日本は、国連憲章51条で定められた「個別的自衛権」の範囲を勝手に塗り替えて、国際法的にはデタラメなことを、日本の憲法論としては主張するという愚を犯すことになります。

もともと、集団的自衛権の行使を限定する要件は、内容が全くあいまいで、歯止めとしては全く機能しません。それが何より証拠には、安部政権は、国会審議の中でも、「ここから先には進まない」という具体的な境界線を示すことは全くできていません。

アメリカに「手伝え!」と言われたら、どんな状況であっても自衛官を犠牲にして、少しでも貸しを作る。そんな目論見が透けてみえます。自衛官の命を何だと思っているのか、権力を持つ者の、あまりに無責任な態度に、強い憤りを禁じ得ません。

ここで問われているのは、政権を担う者が、個人的な欲望やワガママのために権力を振り回すことが許されるか、それとも、国民一人ひとりの生命と安全に責任を負って、定められたルールに則り合理的な決定を重ねていくか、というポイントです。

憲法、そして自衛隊法のルールは、「愚かな首相が権力を握っても、国民の生命をオモチャにしたりできないように、首相が自衛官を危険にさらしてよい場面を限定しておく」ものです。そのことに対する自覚を欠いた政権には、安全保障法制を提案する資格がありません。

本当に国民の犠牲を求めるならば、まず憲法の改正を国民に問い、その上で、できることとできないことの見極めがついた法律を提案すべきです。

憲法も、法律も、その時々で内閣が勝手に「解釈」して、好きなこと、たまたま個人的に必要だと判断したことを何でもできる、という体制を作るならば、それは独裁制であり、民主主義や立憲主義や法治主義とは縁もゆかりもない世界を作り上げていくことを意味します。

今、権力の暴走を止めなければ、日本人民は、民主主義と立憲主義を失っていくのです。この「安全保障」法案は、廃案に追い込まなければなりません。平和と自由と民主主義を愛する者たちが手を取り合い、権力の暴走を止めなければなりません。

稲正樹(国際基督教大学)

まず、実態は戦争法制そのものであるにも関わらず、「平和安全法制」と呼んでいること自体を問題にしたいと思います。

これはかのジョージ・オーウェルの1984年のいう「戦争は平和である」というニュースピークスが、2015年の日本における出現したことに他なりません。

憲法の規範性を極限にまで切り詰め、自衛隊を世界大に展開させて、日本を戦争する国家に変貌させる今回の諸法案を「平和安全法制」と呼ぶことは、真実を虚偽の言葉で隠蔽し、主権者である国民を愚弄する行為です。

「戦争法」と呼ぶべきだという福島瑞穂議員の発言を議事録から削除しようとした試みがありました。この試みは、かの斉藤隆夫の反軍演説の故事を思い出させます。国会答弁においてレッテル貼りを止めるべきだという安倍発言は、事態の真実をついた「戦争法案」を撤回・廃案にせよという国民世論に動揺しているあらわれです。

第二に、10本の軍事法を一括して改正する法案を「平和安全整備法案」と名付け、海外派兵恒久法である「国際平和支援法案」と合わせて計11の法案を、内閣官房、外務省、防衛省の一部の官僚と自民・公明の一部の議員たちのみで立案・決定し、5月14日の閣議決定、国会上程後、国民の反対世論の昂揚を見るや、6月24日までの会期を何と9月27日まで95日間延長したことです。

ここには、政府法案の内容を決定前にできる限り広く公開して国民的世論を喚起し、多くの専門家や国民から憲法違反の疑いがかけられている戦争法制を徹底的に国会で議論し、国民に理解を求め、必要があれば修正をするという姿勢の片りんも見られません。

憲法59条4項と2項

「参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取った後、国会休会中の期間を除いて60日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる」

「衆議院で可決し、参議院でこれと異なった議決をした法律案は、衆議院で出席議員の3分の2以上の多数で再び可決したときは、法律となる」

という、60日ルールを念頭に置いた戦後最長の会期延長です。

「(過去)最大の延長幅をとって、徹底的に議論し、最終的に決めるときには決める議会制民主主義の王道を進んでいく」という首相発言にもかかわらず、7月15日を軸に衆議院特別委員会で採決の方針を自公で確認したという7月1日の報道に接して、唖然としています。

国会の会期を自由自在に延長し、議会での真摯な議論を軽視して、とにかく採決、可決へと一直線に狙いを定めているだけです。衆議院の特別委員会において議論の深まりはまったく見られません。

さらに、4月27日に改定された日米新ガイドラインを実行するための根拠法となるのが11法案であり、ガイドラインは「戦争マニュアル」そのものです。4月29日のアメリカ上院下院議員の前での首相演説によって「この夏までの成立を約束」したのは、国民よりも対米公約を大切にして、国民代表機関をないがしろにしたものです。

第三に、今回の戦争法制は、これまでの政府解釈で認められないとしてきた集団的自衛権の行使を安保情勢の変化等を理由にして行うことができるとした昨年7月1日の閣議決定を根拠にしています。

しかしながら、立憲主義とは権力担当者が憲法の拘束の範囲内でしか行動できないという意味をもっており、内閣に課せられた拘束を自ら解き放った昨年7月1日の閣議決定は立憲主義に反する暴挙です。

憲法9条の規範内容を根本的に変更させた内閣による憲法解釈の変更は、憲法96条に基づく国民の憲法改正権の発動なしに、国民の憲法改正権を簒奪する違憲の行為です。

具体的事件の解決に必要な限りでしか憲法判断を行わないという違憲審査制を前提にした日本の国制構造をもとにして考えてみると、昨年の閣議決定は、戦争法制の国会審議という現在の国会のブラックホール化を生み出した元凶にほかなりません。具体的な法案審議に入る前に、国会はまずこの論点を徹底的に論議すべきです。

第四に、戦争法制の問題点を若干述べて終わりにします。事態対処法の改正は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」を「存立危機事態」と称し、「武力攻撃事態等」と並んで自衛隊の防衛出動を可能にしています。

「存立危機事態」認定判断の客観性・合理性の欠如のなかで、ホルムズ海峡における機雷敷設が発動例として挙げられているのは、「経済利権のための戦争」を彷彿とさせます。歯止めのない集団的自衛権の行使を規定しているのは違憲の法案です。

また、周辺事態法の抜本改正の重要影響事態法、海外派兵恒久法の一般法である国際平和支援法、PKO法の抜本改正の国際平和協力法という名称の3つの法案は、いずれも自衛隊の海外派兵の拡大を狙っているものです。

重要影響事態法、国際平和支援法は、「後方地域」の制限を撤廃し、「現に戦闘が行われている現場」(戦闘現場)以外の場所であれば自衛隊の米軍等に対する兵站活動を規定し、さらに国際平和協力法では「国際連携平和安全活動」の追加によって、国連が統括しない多国籍軍での活動を規定しています。

地球的規模で行われる米軍等に対する戦争協力を行い、新たなPKO法によって安全確保活動や駆けつけ警護を行い、米軍部隊等の防護のための武器の使用や在外邦人の奪還等を行う自衛隊を実現させようという戦争法制は、戦争に次ぐ戦争の歴史から憲法9条と平和的生存権のもとにある日本という国の形へと発展しつつあった70年の歴史を再び転換し、グローバル軍事大国への道をたどる亡国の道です。

さる1月に急逝した9条の会の呼びかけ人であった憲法研究者の奥平康弘先生は、「平和主義を勝ち抜こう」という言葉を遺されました。最後に奥平先生の言葉をぜひ紹介させてください。

戦後日本ではこれまで、平和主義は、自由人権主義および民主主義とともに、憲法における3本の柱のひとつにおかれてきた。非武装で、海外に派兵せず、武器は使用させないといった建前のゆえに、日本では平和憲法あるいは平和主義憲法という呼び名が自然にそして広く行き渡っている。

かかるものとしての平和主義は人々の間に通用して人気があるから、社会支配層はなんとか人気を保持しようと意図して「積極的」という人をまどわす形容詞をつけているのである。我々はこの程度の仕業で騙されはしない、ということを世界の人々に行動をもって示そうではないか。そうすることによって日本国憲法が、現代の混迷に満ちたアジア・世界のありようにある種独特な役割を果たしうることを検証しようではないか。

以上が奥平先生の遺された言葉です。

戦後70年の節目を迎えた今日、戦争法案を廃案にする戦いは、平和主義のプロジェクトを世代から世代へと未来に繋いでいく戦いでもあります。戦争法案を廃案にする戦いを全力で戦い抜きましょう。

中川律(埼玉大学)

私が安保法制について、特に考えたいと思っているのは2点です。

第一に、立憲主義をどう見るのか。私は安保法制に立憲主義の立場から反対です。立憲主義を一言で説明するならば、政治は憲法の枠内で行わなければいけない、いわば、政治を法によってコントロールしようとする思想です。これが無いならば、国家権力は暴走し、恣意的な権力のもとに我々の自由や権利は蔑ろにされてしまうでしょう。

つまり、政治を担っている政党が、私たちにとって信用できるのか。政治を任せていいのか。当該政党は憲法に従って政治を行っているのかどうかは、それを測るための重要な尺度です。市民や政党や政治家もそのような考え方に従っているとするならば、政治家は憲法に基づいて政治を行っていることを我々に示さなければいけません。

しかし、どうでしょうか。今回の閣議決定に至ったプロセスを見れば一目瞭然です。9条に関する政府解釈を変更する前に何があったか。憲法96条の改正手続きを定めた規定を、変えようとしていました。これはなぜか。9条を改正するにはハードルが高すぎると考えたからだと私は思いました。ですが、96条の改正はできませんでした。憲法を簡単に変えられるようにすべきではない、という考え方の方が多かったからだと思います。

安倍政権はその次に、憲法ではなく、解釈を変えてしまおうと、昨年7月1日の閣議決定に至ったのではと思います。そこでは、政府の憲法解釈を変更することの大きなハードルになっていた内閣法制局長官を自らと考え方の近い人物に挿げ替えることも行われました。

現政権は立憲主義を守ろうとする態度さえ示しません。言い訳さえしようとしていない政党や政治家に政治を任せている。それをどう考えるのかが問われています。

第二に、戦後日本で9条が果たしてきた役割についてです。先ほどのお話にも出て来た奥平康弘先生は『いかそう日本国憲法―第九条を中心に』 (岩波ジュニア新書)という本で、子どもたちにもよくわかる形で9条について書いています。

憲法9条には物語があります。従来の政府見解では、自衛隊の存在を正当化し、他方で自衛隊の活動を拘束する形で、非常にギリギリの方法をたどってきました。それは、アメリカによって、またはアメリカと一体の行動を取ろうとする日本政府によって、9条が歪められてきたからだけではありません。それを押しとどめようとする日本市民の考え、平和運動の力が通奏低音のように響いていたから、現在の閣議決定以前の政府見解が生まれていたのです。

名古屋大学の愛敬浩二先生は、これはいわば、政府が取りたくて取ってきたラインではない。平和運動と軍備拡張との板挟みの中で、取らされてきた解釈であると、表現をされていました。

このように日本の平和憲法にも日本の物語があるのです。その物語をこれからどう我々がつくっていくのか、問われていると思っています。

三輪隆(埼玉大学)

まず、立憲主義ということについて。平たく言うとこれは、憲法に基づいて、政治をやれということだと思います。

むかし、宮澤喜一がこんなことを言っていました。日本人は自分で背広を選ぶのは上手くないけれど、買ってもらった背広に身体を合わせるのはけっこううまい。そして、親の選んだ配偶者でも、長いこと連れ添っていると親しみもわいてくる。これは、二つとも憲法のことを言っています。

自民党の一貫した目標は「自主憲法制定」です。要は、今の憲法が気に入らない。この政党が70年もの間、一番長くこの国の政権を担ってきました。憲法を変えようと主張している政党が政権をになってきたわけです。

 

でも、それにしては9条は頑張ってきた。それは、自民党が9条を守ろうとしないからではありません。嫌々ながら押し付けられたけど、9条に反対すると落選しちゃうからと、そうさせたのは私達民衆の運動や意見です。これが無かったら、立憲主義はこの国でなりたてません。

ルソーは「イギリス人民は、自分たちは自由だと思っているが、それは大間違いである。彼らが自由なのは、議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれてしまうと、彼らは奴隷となり、何ものでもなくなる。」と言いました。

イギリスが自由なのは選挙の時だけだ、と皮肉を言ったわけです。ところが現在の日本はどうか。小選挙区制のために過半数の投票は死票になります。それだけではありません。選挙の時ですら自由にビラも配れないではありませんか。

さらに、「ワークライフバランス」と言っているけれども、男性で家事をやっている憲法学者はどれくらいいるんでしょうか。でも講義の中では「男女平等」と言っている。

つまり、立憲主義とは言いますが、日本の中ではまだまだだ、非常識だということです。ところで、9条が定めているのは、国家は軍事力をもたないということです。こんなおっかない話についてかなりの歯止めをかけられてきた。運動がなかったら、こういうことはなかったと思っています。

安倍首相は丁寧に説明するといって集団的自衛権行使についてあれこれ答弁します。その内容は空虚です。内容がゼロのものは、何時間かけてもゼロです。それどころか現在ではゼロどころか、彼の答弁はマイナスになっています。集団的自衛権行使についての賛否は、時間が経つにつれて、反対が増えています。説明をすれば反対が増えているのです。

今回の法案は、はっきり言えば、「戦争法案」というよりも「人殺し法案」です。直接武力行使しなくても、いわゆる国際平和協力についても、これまであった歯止めがなくなっています。そもそも武力行使と一体化しなければ構わない、こんな議論は日本国内向けのものであって、国際的には軍事作戦の一環である「兵站」(logistics)でしかありません。こんな危険なことはありません。

今日のPKOはもう武力行使を伴わない平和維持の活動ではもう無くなっています。イギリスの『パトロール』という映画があります。アフガンを舞台に、アメリカの戦争に付き合わざるをえなくなったイギリス軍の姿を描いています。彼らは、「これは俺たちの戦争じゃない」と叫びます。

アフガン戦争に関わった多国籍軍は3000人以上の死者を出しました。アフガンの犠牲者は1万人以上亡くなっています。それをさらにアフリカなどに広げようとしている。自衛隊の隊員に人を殺させていいのか。隊員が殺されていいのか。一度参加して、すぐやめることなんてできません。

チャンスの女神は前髪しかない、と欧米ではよく言われます。今止めるしかない。憲法研究者も頑張っていきたいと思います。(憲法研究者・共同ブログ:STOP! 違憲の「安保法制」https://antianpo.wordpress.com )

志田陽子(武蔵野美術大学)

私は従来の個別的自衛の枠内であっても、「集団的自衛」であっても、その活動内容と装備が実質的に「軍事力」である部分については、常に最高度の「違憲の疑い」のもとにあると考えています。

日本国憲法は、武力の行使および威嚇の禁止によって、「軍事による国際問題の解決を行わない」とのルールを日本国に課しています。仮に急迫不正の武力攻撃を受けたさいの正当防衛としての「自衛」であるとしても、武力の行使を禁じた日本国憲法のもとで「武力行使」(軍事)による解決行動をとることは、本来は違憲なのです。

しかし、ある特殊な例外状況のもとで、法を破らなければどうしようもなかった、という事態があるかもしれない、そういう配慮を今のところ黙認するということで、事実上その存在が認められてきた、というのが現状です。

本来の意味の「専守防衛」とは、受けた攻撃を「無害化」すること、国民の生命を守るために避難・救助のルールやそのさいのインフラの確保などに限定されるもので、攻撃型・戦闘型の装備によって「戦闘できるように備える」ことは、その限界を超えています。

今はまだ、世界と日本の技術力と知力が、そういう本当の意味の専守防衛に徹するところまで届いていないために、旧来の「戦闘によって反撃する」という発想で「自衛」が考えられている、その段階で止まってしまっています。

日本の技術力は、本当ならば、本来の専守防衛を実現可能とするために、力を結集するべきでしょう。この方向に向かってくれる技術開発者や政治指導者が現れてくれることを、日本国憲法は、待ち続けていると言えます。そのとき、その足場となりうるように、日本国憲法は改正せずに今の形を保ってほしいと、私は願っています。

こういうことを言うのは自衛隊員に失礼ではないか。という問題については、こう考えます。

災害出動については、文字通り「国民の生命」の緊急の問題なので、この違憲の疑いをクリアするだけの必要性・正当性があるでしょう。ただし私は、災害救助と応急の復興作業のための専門部隊は、軍事と切り離して、しかるべき省庁に設置すべきと考えています。自衛隊に志願する人々の中には、災害救助など、人々の役に立ちたいという純粋な動機を持っている人々が大勢います。

その人々のまっすぐな意欲と、幸福追求権、職業選択の自由、良心の自由のためにも、高度災害救助に関する装備と組織と予算は、軍事とは切り離して、しかるべき省庁に置くべきであると思います。現状のままでは、それこそ自衛隊員に失礼でしょう。

さて、そういう考えを前提として、現在提案されている安全保障法制案は、上に述べた「違憲の疑い」をクリアできる内容とは到底思われないため、憲法違反である、と考えています。

今回の各種法案に盛り込まれた武力行使の新要件は、国民にとって有効な限定とはいえません。武力行使を可能とする「存立危機事態」を認定する要件の中に「幸福追求権」が含まれ、その実質的内容の説明の中に経済的利益が含まれているからです。

これは国民に「今の比較的平和で裕福な生活を守りたければこの法案セットに賛成しなさい」というメッセージのように見えます。しかしこれは、国民の側で真剣に考えなければならない、「おためごかし」と言うべきものです。国民の「生命」の問題よりも広い意味での経済的利害が「幸福追求権」と結び合わさったとき、安楽な生活が脅かされるという薄い理由を名目にして、自衛隊員や基地周辺住民の生命を危機にさらし他国の民間人に死傷者を出す、さらに私たち国民にも報復テロなどの危険を招く、深刻な武力行使や後方支援が正当化される可能性があります。それを是としない国民、それをわが身の「幸福」とは考えない国民もいるでしょう。

「幸福追求権」は、本来は、「幸福」の内容は各自さまざまであって、国家によって統制されない、ということを本質とする《個人の権利》です。国家が国民全体の「幸福」を一方的に想定して、これを武力行使や軍事支援の理由とすることは、論理として容認されません。

さらに「幸福追求権」というものは、憲法上、解釈によって新たな権利を生み出す基盤とされている権利なので、これを根拠にするということは、政府が解釈によっていろいろな名目を作り出してしまうことができる、ということにつながります。これでは限定の要をなしません。このような点からも、今回の法案は、憲法上容認されうる限定をおこなっていないと考えます。

国際紛争というものは、それが行われているリアルタイムの場面では、ある国家の軍事行動が真剣に自衛のため、または人道的介入として、致し方ない手段であったのか、それとも覇権維持を動機とした制圧行動であったのかが判然とせず、ある程度時間がたたないとわからないものです。ベトナム戦争、イラク戦争などの歴史を考えればこの危険は明らかであると思います。

そうであれば、他国の軍事行動に協力することについては、いくら慎重であってもありすぎることはありません。日本国憲法は、そのような場合に日本国は国家としては軍事行動および軍事行動への加担をしないことを、最重要の規範としています。

現在提案されている安全保障関連法案をそのまま成立させるならば、その内容はいわゆる覇権追求型の軍事行動に加担してしまう可能性に歯止めをかけられない。覇権の維持ないし追求というものは、自衛の論理では正当化できないもので、自衛のための防御行動をどう考えるかはさまざまな議論がありうるとしても、覇権追求のために軍事力を行使することは、日本国憲法は絶対的に禁じていると考えます。

国際平和のための貢献にはさまざまなチャネルがあります。「それでは国際社会に対して説明がつかない」、という発想ではなく、そこを国際社会に対して十分に説明し、軍事以外での貢献の道を模索することが、政治指導者たちに信託された仕事だと思います。

最後に、ご紹介したい歌があります。Amazing Graceという歌です。 これは、18世紀末のイギリスで、奴隷貿易の悲惨さを知った少数派の議員たちが、奴隷貿易の禁止を訴えるシンボルとして歌いました。

当時は、奴隷貿易で利益を上げていた財界と、大多数の議員が、奴隷貿易を廃止することは国益を損なう、と論じて、廃止論に耳を傾けなかった。その中で、この歌が媒介になって、ある流れが醸成されていきました。当時の奴隷貿易と現在の戦争の産業化、違う話のようで、構造は類似しています。

当時起きた大きな転換、つまり、人々が「法の支配」と「人道」というものを国家の基本原理に組み込むことを始めた《原点》を思い起こそうではないか、という願いを込めて、歌わせていただければと思います。

(Amazing Grace 歌唱)

大津浩(成城大学)

今回、潮目が変わったのは、3人の憲法学者の「違憲」発言からでした。これに対し、安倍内閣は憲法の最終解釈権は憲法学者には無い、裁判所にあるんだと述べました。しかも、砂川事件の最高裁判決を出しています。

私は、この主張は間違っていると思います。ご存じのように砂川事件は、第一審の東京地裁判決では、日米安保条約は憲法違反だ。武力による自衛権の行使はすべて憲法違反であるという判決を出しています。そこで、政府は高等裁判所をすっ飛ばして、政府の期待を裏切らないであろうと信じる最高裁に直接上告したわけです。

その結果、確かに最高裁判所は、政府が希望する最低限の線、つまり第1審の判決を破棄して、司法は原則として日米安保条約や自衛権の存在が違憲かどうかは明言すべきではないことを述べた。これだけです。

(「砂川判決」全文はこちら→http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/816/055816_hanrei.pdf

ご存知のように最高裁は、砂川事件判決の中で、統治行為論、つまり自衛隊や日米安保条約に関しては高度に政治的な問題であるから、裁判所としても一見明白に憲法違反である場合以外は、違憲か合憲かは言わないとしています。

そのうえで、日米安保条約や自衛隊が必ずしも違憲であることが一見明白ではないことを自衛権の存在を用いて説明しようとしたのです。つまり、日米安保条約や自衛隊自体が合憲であるなどということは、正面からは一度も述べていないのです。

その程度の自衛権論の理屈から、自国が攻撃されてもいないのに同盟国を守るという名目で自衛隊に武力行使させることを認める集団的自衛権を日本国憲法が認めるなどという理屈が出てくるはずはありません。

加えて、砂川事件では最高裁が判決を下す前に、当時の田中耕太郎最高裁長官がアメリカ大使館と事前に協議をしていたのです。最近公になったアメリカの公文書館の資料からは、大統領に「憲法違反と言いません」と言っていることが分かっています。

こんな公平さのかけらもない政治的に偏った裁判を日本国憲法が許すはずはありません。だからこそ、砂川事件の元被告人たちは現在再審請求をしているのです。そういった疑惑の残る判決を根拠にしているのも全くおかしい。

このように不変不当性が疑われる最高裁であっても、なお日米安保条約や自衛隊を明確に合憲と言うことはできないわけです。

結局、最高裁の判決では、これらの高度に政治的な問題については政治機関が、そして最終的には私達主権者国民がこれを判断するしかないと述べています。そうである以上、政府は私たちに分かりやすく説明をした上で、私たち国民に判断を委ねるべきなのです。

しかし実際には、集団的自衛権を容認する今回の安保法制法案を強行採決に持っていくために、政府は「存立危機事態」や「重要影響事態」など極めて分かりにくい概念を多用しており、これが国民の理解を妨げています。

繰り返しますが、統治行為論に逃げ込む最高裁判所は、将来集団的自衛権や安保法制の違憲性が問題となる事件が自らの所に持ち込まれてきたとしても、おそらくは判断を避けるでしょう。安倍首相はそのことを分かっていながら、最終的な憲法判断の権限は最高裁にあるなどとうそぶいているのですから、全く卑怯な人です。

最高裁が判断しない以上、国民が判断することになりますが、その際、私たち憲法学者は、「筋が通っているのか」を説明することで、国民の皆さんの判断を仰ぐことが必要です。何が正しいかは、それぞれの価値観によって異なるにせよ、法律論として筋が通っているかどうか、そして過去に説明した理屈との関係で矛盾していないかどうかは、立場の違いを超えて、まともな憲法研究者であればちゃんと説明できるのです。

今回、長谷部教授が、集団的自衛権が違憲だと言いました。「間違って呼んでしまった」と自民党は言っていますが、実は間違って呼んだわけではないと思います。

長谷部さんは、特定秘密保護法案では、賛成の立場で弁をはっているわけですから、自民党は「この人は味方だ」と思ってもおかしくなかったわけです。でも、長谷部教授は、自民党の代弁者ではありません。筋が通っているものは正しい、通っていないものは間違っていると言っているだけです。

日米安保条約や自衛隊を合憲とする政府見解では、憲法9条の下でそれらが許されるのはあくまでも集団的自衛権とは関わらない範囲の個別的自衛権の行使の問題だからと説明してきたはずです。国際環境の変化で集団的自衛権も認められるようになるかもしれないなどとは一度も言ってこなかったはずです。

それは、憲法9条を明文改憲できなかった政府として、それでも個別的自衛権の行使だけは合憲と述べるための唯一のよりどころだったからです。

もし国際環境の変化によって集団的自衛権の行使まで必要になったというのなら、そのことを国民に訴えて憲法改正の是非を問い、国民自身に判断してもらうほかない、という理屈が、こうした個別的自衛権だけは合憲という説明の中に含まれていたはずです。

そのような従来の政府見解が持っていた最低限の理屈すら放棄して、政府や政治的多数派が必要だと考えたらなんでも許されるとでもいうような現在の安保法制法案の議論の仕方は、全く筋が通っていないと言わざるを得ません。

だからこそ、政治的な立場は右から左まで様々であっても、憲法学者の圧倒的多数は、政府の説明には筋が通っていない、ごまかして無理やり法案を通そうとしている、結局は国民自身に判断させないようにしていることが見え見えなので、このように怒って発言しているのです。

渡邊弘(活水女子大学)

長崎から来ました。渡邊です。今日は、安保法制と長崎に関わる三つのことをおはなしさせていただきたいと思います。

第一に、与党は今国会の会期について、長期にわたる延長を行いました。この延長された期間に、8月6日、8月9日、8月15日がやってきます。ちょうど、法案の審議が佳境に入っているときではないかと思います。

毎年、8月9日に行われる長崎平和祈念式典において、長崎市長は平和宣言を読み上げます。長崎の平和宣言は、市長が選定する20名以内の起草委員会が起草し、最終的に市長が決定して読み上げることになります。

昨年の起草委員会では、平和宣言の中で、集団的自衛権の行使容認に反対する言葉を入れるかどうかで大変大きな議論がおこりました。最終的に長崎市長は、集団的自衛権に触れる形で平和宣言を取りまとめ、それを読み上げました。

ところが、長崎市長は、昨年の起草委員会で集団的自衛権の行使容認に反対する言葉を盛り込むことを強く主張した2名の委員を、今年の起草委員会委員に任命しませんでした。

先ほど申し上げたように、起草委員会は20名以下の委員を持って構成されます。今年の委員は15名しか任命されていません。人数の点からいえば、先に述べた2名の委員を外す必要はないではありませんか。にもかかわらず、長崎市長は、集団的自衛権の行使容認に反対する言葉を入れるよう主張した委員を、今年の起草委員会には入れなかったのです。

この問題は、一部の新聞・テレビが報道していますが、私の知るところ、その多くは、例えばテレビでは長崎のローカルニュース、新聞では長崎県版、よくても九州版の範囲でしか報道されていません。全国の皆さんには、この事態がほとんど伝わっていないのです。

最初に申し上げたように、安保法制の審議が佳境に入っているまさにその時に、今年の8月9日はやってくることが予想されます。その8月9日の長崎平和宣言で、安保法制について触れないということになれば、長崎市は世界に対して大変恥ずかしい行動をとったことになります。

なんとしても、長崎市民の力で、そして、今日、ここにお集まりの皆さんの力で、世界に対して恥ずかしくない長崎平和宣言を作らせたいと考えます。どうか皆さんのお力添えをいただきたいと思います。

第二に、長崎県議会の動きについておはなしさせていただきたいと思います。

長崎県議会の自民党会派は、来週7月7日に行われる議会運営委員会で「平和法制の今国会での可決を求める意見書」を提案しようとしています。県議会の勢力分布から見れば、このままでは、7月9日にも、この意見書は長崎県議会本会議で可決されてしまいます。

万一、これが可決されるようなことになれば、おそらく、都道府県議会レベルでは、長崎県議会が最も早く、この安保法制に対して賛成する議会ということになってしまいます。

これが被爆地長崎の県議会のすることでしょうか。本来、長崎県議会がやるべき事は、47都道府県議会の先頭に立って、平和を求める被爆地として、安保法制の廃案を求める意見書をこそ可決するということではないでしょうか。

8月9日は突然やってきたのではありません。治安維持法や国民総動員法など、戦争をするために必要となる様々な法律や制度を作り上げたその先に、1945年8月9日11時2分はやってきたのです。

既に、国民保護法という名の国民動員法がつくられ、特定秘密保護法という表現の自由も知る権利も踏みにじる法律が作られ、そしてさらに、安保法制が作られようとしています。私たち長崎に暮らす者は、この先に、1945年8月9日をも越える悲惨な事態が起こるのではないかと危惧しています。是非その様なことだけは避けなくてはなりません。

第三に、いま、申し上げた国民保護法と長崎との関係についても述べたいと思います。

先ほど申し上げたように、国民保護法という法律は「保護」とは名ばかりの国民動員法です。国民保護法の下に位置する国民保護法施行規則では、戦争になった場合に、自衛隊員だけではなく、様々な種類の民間人に戦争参加を要請することが明記されています。とりわけ、医療関係者については具体的に職種を挙げて定められています。

この、国民保護法に基づく国主催の最初の実動訓練は、長崎空港で行われました。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、長崎空港は海上空港です。対岸の陸地とは、橋一本でつながっているだけです。橋を押さえられれば長崎空港は孤立します。実動訓練は、この橋が、外国のテロ勢力に爆破された、という想定の下で行われました。

この実動訓練には、私の勤務する活水女子大学の看護学科と管理栄養士養成課程で学んでいる学生が、授業の一環ということで動員されました。授業の一環ですから、参加しないと成績に影響します。場合によっては単位が出なくて、看護師や管理栄養士になることをあきらめなければなりません。

活水女子大学はプロテスタント主義のキリスト教学校です。キリスト者の皆さんに問いたい。このような学校のあり方は、神の教えに反しないのでしょうか。

この間、日本の大学は、自衛隊や米軍などの共同軍事研究を求められるようになってきつつあります。もちろん、研究面での軍学共同に対しても、私たちは反対です。それと同時に、教育面での軍学一体も、私たちは断じて許すことはできません。

第二次世界大戦が終わったのち、多くの教育者が、その信条の違いを超えて共に誓ったのは、「教え子を戦場に送るな」ということではなかったでしょうか。授業の成績や単位をエサに自衛隊との共同訓練へ学生を動員する活水女子大学は、この誓いを忘れたのでしょうか。

このときの訓練に参加した学生は、すでに、この3月に卒業して、看護師や管理栄養士として活躍しています。いま審議されている安保法制が万一可決されるようなことがあれば、訓練に参加した経験のある私の教え子は、真っ先に、戦争参加を求められることは目に見えているではありませんか。

みなさん、今日は国会前でアピールさせていただいていますが、安保法制は、国会前だけに関係する事柄ではありません。いまもうしあげたように、私たちのすぐそばに、私たちの住んでいる地域に深く関係する問題です。

どうかこの点をよくご理解いただき、国会前から、そして日本全国それぞれの地域から、安保法制に反対の声を上げていこうではありませんか。

清水雅彦(日本体育大学)

なぜ、憲法研究者が今回の法案に反対をするのか。やはり、憲法9条をどう解釈しても集団的自衛権行使は認められません。憲法を改正しないで、集団的自衛権行使をするやり方も問題なので、多くの憲法研究者は声を上げているわけです。

私自身は、素直に憲法を解釈すれば、自衛隊は憲法違反と考えています。たしかに、東日本大震災の後など、自衛隊の隊員の方々は一生懸命仕事をしました。しかし、自衛隊の存在をきちんと認めるのであれば、憲法改正をしないといけないという立場に私は立っております。

今回、多くの憲法学者が声を上げました。それに対し、政府関係者がもともと憲法学者は「自衛隊を違憲とみんな考えている」という言い方をしました。確かに昔はそうだったかもしれませんが、今は学界の中でも自衛隊合憲論の方は増えているでしょう。

6月4日の衆議院憲法審査会で、安保法案は違憲と発言した長谷部教授も、小林教授も自衛隊合憲論の立場です。それでも、今回の法案は許されないと言っているわけです。

私も「安保関連法案に反対し、そのすみやかな廃案を求める憲法研究者の声明」の事務局をしましたが、現在230人余りの方が賛同してくださいました。これだけの多くの憲法研究者が意見を述べることはあまりありませんでした。それだけ、安倍政権が無理なことをしているとも言えます。

今回、北海道の平和運動フォーラムの人たちが、大勢国会前で座り込み、衆議院の特別委員会の傍聴活動をしていました。北海道の人たちは、危機感として自衛隊が海外に出ていくときに、まずは旭川の部隊が出ていく。そして、北海道には大変多くの自衛隊関係者や家族がいる。自分たちの周りにもそういう関係者がいる。

これまで、自衛隊員は他国の人々を殺さなかった。そして、自衛隊員も殺されなかったわけですが、そこで海外に出されれば、人を殺し、殺される関係になる。そういう危機感から、北海道の人たちが声を上げているんだと思います。

それは、北海道だけの問題ではありません。全国各地に自衛隊員がいる。関係者がいる。今回の法案は、自衛隊員や自衛隊の関係者だけではなく、国内でテロが起きる可能性も出てくる。場合によっては国民保護法が連動し、指定公共機関になっている民間の従業員や、地方公務員も動員される可能性がある。自衛隊だけの問題ではない、多くの人々に関係してくる問題だと思います。

私は憲法研究者ですから、この法案について研究者の立場で声をあげていきたいと思います。

藤野美都子(福島県立医科大学教授)

私は、日本国憲法の前文に書かれている平和的生存権を、本当に日本にとって誇らしい文言だと思って研究してまいりました。

私たちが平和の内に生きることができるように、国に対して「戦力の放棄」「戦争の放棄」を謳っているわけです。わたくし自身は先ほどの清水先生と同じように、一切の武力行使は認めない、という立場におります。

個別的であれ自衛権の行使は認めない、という立場ではありますが、それを脇に置きましても、これまでの政府の見解からあまりにもかけ離れたことを、憲法を改正もせず行おうとしていることに、怒りを覚えます。

せっかく福島から参りましたので、もうひとつ申し上げたいことがあります。安倍首相は「私たち政治家は、国民の生命と幸せな生活を守る責任をもっている」とおっしゃいました。「憲法学者とはちがう」と。その言葉にわたくし自身は腹立たしい思いを抱いております。

原発に関して、本当に国民の生命と幸せな生活を守る責任があるならば、やるべきことはたくさんある、(原発の)再稼働などすべきではないと思っております。国民ひとりひとりの生命、生活に責任を取らないような政治家に、私たちはだまされてはいけない、国民が犠牲になるようなことを黙って見過ごすわけには行かないと思っています。

9条に話を戻しますと、武力による自衛権の行使というのは、必ず犠牲者が出ます。憲法はそういった武力を認めない、と規定しているのだと信じて、ここまで憲法を研究してまいりました。

憲法の理念をどう実現していくかということに、私たちは力を尽くすべきであって、いま国会でくり広げられている論戦は、本当に不毛だと思います。私たちが平和に生きていくためにどうすべきか、というところに知恵を、力を、使うべきだと思っております。

石川裕一郎(聖学院大学教授)

今国会では安保法案以外にも重要法案がいくつか通っていますが、そのうちの一つ、選挙権年齢が18歳に引下げられたことは、みなさんご存知だと思います。私自身、これには大賛成、むしろ日本は遅すぎたと思うぐらいです。

今日19:30から、この同じ場所で、SEALDsという若者たちのグループが安保法案反対の抗議行動を行います。人数も数千人という単位だろうと思います。こういう若者たちを見ていると、日本の将来は安心だなと感じます。

そして、こういう若者を育てた戦後日本の教育に、私たちは誇りを持ってよいと思います。自分の頭でものを考え、自分の良心に照らして判断し、行動する。こういうきちんとした国民=市民を育てること、これこそ国家にとって真の安全保障ではないでしょうか。

その一方で、安保法案を通そうと躍起になっている与党の政治家たちは、あまりにも不誠実です。不勉強であるばかりか、そのことへの恥じらいさえない。

そのくせ、自分たちへの批判に正面から向き合うだけの度胸も覚悟もない。そんな政治家たちの多くは戦後生まれです。そう考えると、戦後日本の教育はどこか失敗したのかもしれない(笑)。この国の将来を真剣に考えている若者たちに対し、同じ大人として恥ずかしい限りです。

もちろん、政権与党の中には法曹資格を持っている方もいますし、「なんで俺たちはこんなアホらしい法案を通さなきゃいけないのか」と、内心思っている方もいると思います。

さて、「法案を通すのであれば憲法を改正するのが先」という批判に対する反論として、政府は「本来であれば憲法改正が先だが、日本を取り巻く国際環境は切迫しており、その時間的余裕がない」というんですね。

そんなに急いで法案を通さなければいけないほど、今の日本は危機に瀕しているのでしょうか。本当に外国が攻めてくるような危機が迫っているならば、5年後にオリンピックなんてやっている場合ではありません。明日にもミサイルが飛んでくるような国で、オリンピックをやってはいけないでしょう(笑)。平和ボケもいい加減にしてほしいですね。

ところで、今の日本の報道の自由度は、「マスコミを懲らしめる」までもなく、世界第61位。これは、つい20年ほど前まで独裁政権下にあった台湾や韓国より下です。

このことに関連して、一つ興味深い指摘があります。現行憲法に規定されている国民の義務は3つしかありませんが、3年前に自民党が発表した改憲案では、数え方にもよりますが、なんと12もあります。これは中華人民共和国憲法の11、朝鮮民主主義人民共和国憲法の8に匹敵します(2015年6月30日毎日新聞より)。

どうやら自民党は、日本を、中国や北朝鮮のように憲法が国家権力ではなく国民を縛る国にしたいようです。報道の自由に対するこの党の鈍感さも、中国や北朝鮮の当局と通ずるものがあると考えれば合点がいきます。

こうしてみると、世論を無視し憲法を愚弄する現政権の姿勢自体が、「民主主義」や「法の支配」といった価値を共有する自由主義諸国家の間での日本の評価を落とし、国益を損ない、やがてこの国を危機に陥れるのではないでしょうか。

斎藤小百合(さいとうさゆり・恵泉女学園大学教授)

この法案の審議がどんな国会で行われているのか、という観点からお話ししたいと思います。

先日の自民党若手議員の勉強会、文化芸術懇話会で「沖縄2誌は潰さないといけない」「経団連に働きかけ、マスコミ懲らしめを」という発言が出たという件に関して、今日(7月4日)の夕刊を見ると、安倍首相が謝罪をしたそうです。

しかし安倍首相が謝罪をしたり、自民党本部も若手議員の処分を行ったりすることには、違和感があります。だってそのような発言は、自民党がやりたいことそのものではないですか。自分たちの主張を、党所属の議員が言ってるというだけなので、これらの対応は一貫性がないんじゃないかなと思います。

というのは、自民党が2012年に公表した憲法改正案では、21条(表現の自由「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は保証する」)に「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」という文言を盛り込むと主張しています。

つまり先日の騒動は、自民党の憲法改正案を先取りしているのです。マスメディアに対する一連の圧力もそうです。鬼木誠議員は3月24日の総務委員会でNHKに対して「国益を害する発言をしていいはずがない」と発言なさったそうですね。

当の安倍首相も、「番組改編問題」でNHK教育テレビにおいて戦時性暴力、女性戦犯法廷のテーマを扱った番組を、先鋒に立って押し込めた人物です。つまり今回の若手議員の処分や謝罪は、ただご都合主義でとにかく安保法案を通そうとしているだけです。国会の審議を通りやすくするためにやっているわけです。

表現の自由に対する敬意をまったく欠いているということは、言葉の使い方にこそ表れていると思います。嘘も言い続ければ本当になる、という言い方がありますが、そんなことになっては困ります。あまりにも、言葉のまやかしが多いと思います。

国会前のアピール活動や、辺野古での座り込みに学生たちが活躍しているのは、頼もしいですね。その辺野古では、海上保安庁が、「海上保安庁法2条」に基づいて「安全指導」という名の下、基地移設反対派の船舶やカヌーに対して大変危険な暴力をはたらいているのです。

暴力なんですけど、「安全指導」と称してやっているんです。「積極的平和主義」の下、武力行使という暴力を正当化する、そうした「言葉遣い」が海上保安官にまで浸透してしまっているように見えます。

こういうことを見ていると、現政権は民主制における表現の自由の位置づけを、ほぼ理解していないのではないかと思います。ニュースメディアが政府を批判することが、民主主義国家にとって不適切であったり、あたかも異常なことだと思いこまされてしまうのではないか、と懸念が募ります。

その根底にあるのは、立憲主義の崩壊ではないかと危機感をもって、われわれはここに来ています。憲法を壊すことは、国を壊すことです。足尾鉱毒事件において田中正造は、「民を殺すは、国家を殺すなり」と言いました。今起こっているのは、そういうことではないでしょうか。

永山茂樹(東海大学)

発起人ではありますが、わたくしはここで都合により退出しなければなりません、しかしまだ続くんですよ。この法案がある限り、私たちはこの活動が続くと思っています。メディアもこのような憲法学者のメッセージを伝えてほしいと思います。そしてそれを通じて私は、全国の方々と連帯したいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

渡辺洋(神戸学院大学教授)

憲法研究者はすべてみんな、憲法9条に詳しいと思っていらっしゃいませんか。たとえば(国会で答弁した)長谷部先生は憲法9条に関して非常に重要な著作を書いていらっしゃいますが、憲法9条を専門にやってらっしゃるわけではありません。小林先生は学会では有名な改憲論者でありますし、笹田先生は、憲法9条に関して非常に重要な発言をなさってきた、という方ではなかっただろうと思います。

彼は違憲審査制の専門家であって、これは国会での発言のときにおっしゃっていただろうと思います。象徴的なのは笹田先生の発言です。これは実際耳にしたわけではなく新聞報道で知ったものですが、“内閣法制局が自民党政権とつくってきた憲法解釈はガラス細工のようなもの”、つまり綱渡りのようなものだったという発言をしてらっしゃいました。

非常に正直な表現だと思います。笹田先生の正直なお気持ちとしては、今回の法案、難しくてよくわからないのではないかと思います。私も憲法を専門にして憲法9条の話も授業でしますが、今回の法案は難しくてよくわかりません。それを一般の人がわかるわけないじゃないですか。

しかし重要なことは、必ずしも憲法9条を専門にしてきたわけではない人々ですら、(それぞれの学識から)「これは憲法違反だ」と、どうしても言わざるをえない、という点です。

新聞報道やメディアで各種アンケートが取られ、多くの人がはっきり違憲だと発言しています。私たち憲法学者はどこかの政党と違い、統率をとったり発言を制限されるものではありません。自由に発言し、自由に研究する人々の集まりです。

活水女子大の渡邊弘先生のように、プラカードを掲げてご発言する方もいれば、私のような市民運動メタボ、市民運動不足の人もいるわけです。憲法学者は今回集まった人々だけではありません。

いまの政権、安倍首相は憲法96条を改正して、憲法改正のハードルを下げてから9条を改正しようとして失敗しています。安倍首相は正直な方なんだろうと思います。はっきり言って安倍首相は、こんなルール(憲法)は守りたくないわけですよ。なのになぜ、安倍首相は「(安保法案は)憲法の枠内にある」と言いつづけるのでしょうか?

これは逆に言えば、本当はルールを守りたくない(そんな言い方をしたくない)人々に対して守らせる(そんな言い方をせざるをえなくする)力が、9条にあったからだと思っています。いまこの国は、まともに政治のルールが守られ、権力が濫用されないような社会でありつづけられるかどうかの、瀬戸際なんだと思います。戦後の憲法史、政治史のなかで、一大転換点のなかに私たちは当事者として居合わせています。

裁判所は一定の条件が満たされなければ、動けない組織です。憲法の上に、もはや番人はいません。安倍首相の尊敬する祖父である岸信介のときのように、憲法を憲法として守らせる力を発揮できるかどうかの瀬戸際である、そのことを私は自覚したいと思いますし、みなさんにも自覚していただければと思います。

長峯信彦(愛知大学教授)

【1】今回の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」、実は全然別物なんです。両者の違いはこんな譬え話で説明してみたいと思います。

あるところにアベさんというオジサンが「コベ」ちゃんという犬を一匹飼っていました。

そこへ、リカさんという大好きな女性から甘い声で、「ねぇアベさん、うちのライオンの赤ちゃん、ぜひ飼って(買って)くれない?」と優しく頼まれ、アベさんは「おぉ可愛いねぇ」と喜んで飼うことに決めました。

ちなみにリカさんの名字は「天」(あめ)です(笑)。アベさんにとってリカさんの言葉は、文字通り「天の声」でした。

でも、近所のヤトウさんは家族総出で警告に来ました。「アベさん! このライオンの赤ちゃん、今は犬みたいで可愛いかもしれないけど、いずれアンタの手に負えなくなっちゃうよ!」

でもアベさんは自信たっぷりに反論します。「大丈夫! ライオンの赤ちゃんって、犬とほとんど同じだよ! ちゃんと限定的かつ安全に飼うから大丈夫!ヤトウの皆さんはホント心配症だよなぁ」。

アベさんは赤ちゃんライオンに「シンゾー」と名付け、アベ・コベとアベ・シンゾーは一緒の檻で飼われることになりました。さて、数年後、アベさんが帰宅すると、なんとコベはシンゾーに噛み殺されているではありませんか!

アベさんが青ざめていると、いつのまにか檻をぶち破っていたシンゾーが、以前の可愛さとは似ても似つかぬ横暴な態度で現れました。

「アベさん、今日からオレに従ってもらうよ! 人間がこの檻に入って、オレ様が檻の外に出るからね!」それを物陰から見ていた天(あめ)リカさん、こっそりシンゾーにウィンク。檻の中に閉じ込められてしまったアベさんは、

「これじゃあ本当にあべこべだぁ・・」と、檻の中で悲しく嘆き続けました--とさ。おしまい(笑)。

譬え話に出てくるコベは「個別的自衛権」のことですが、「文民統制の効いた自衛力」のことも象徴しています。

ライオンは「集団的自衛権」だが、集団的自衛権に踏み出した結果「コントロール不能となって暴走する軍事力」も含意しています。

犬と赤ちゃんライオンは似ているが、実はイヌ科とネコ科で異種の間柄。個別的自衛権も集団的自衛権も言葉は似ているが、実は全く異質な概念なのです。なのに、同じものであるかのように国民に勘違い・錯覚をさせて、法案をゴリ押ししようとしているんです。

「檻」とは、「国家権力(公権力者)と軍事力をきちんと拘束する憲法」のことです。「アベさん」とは、「愚かな政治指導者」を象徴していますが、「本来は軍事力を統制しなければならない文民」のことでもあります(文民統制)。

一部の「ヤトウさん」(野党)は国会で頑張ってますが、全体としてはまだ力不足でしょう。

(もっとも、日本国憲法が「実力行使を伴う個別的自衛権」を認容しているかどうかには議論も疑問もあるが、今はその点は措いておく。)

【2】今回の戦争法案には、米軍への支援という点でも、重大な問題があります。今回新たに、「これからまさに出撃する米軍戦闘機への(自衛隊による)給油もOK」とされているのです。

また、「戦闘している米軍に対し≪少し離れた場所でなら≫弾薬提供もOK」とされました。これから人を殺しに行く米軍戦闘機に、自衛隊が日本の税金で給油してあげても合憲だというのです。

その理由を安倍首相や防衛大臣はこう説明しています。「出撃準備中の米軍戦闘機がいる場所と、実際に攻撃・殺傷する場所は離れている。それに、燃料補給それ自体は戦闘行為ではないから、≪ 武力行使とは一体化していない ≫のだ」と。

こんな滅茶苦茶な話がありますか! もしこんな滅茶苦茶がまかり通るなら、「これから人を殺しに行く」と明言している殺人鬼に対し、仮に私が名古屋駅で刃物や新幹線代(交通費)や食料を渡して、「これで人を殺してきてはどうか?」と言って、その人が東京に着いてから本当に人を殺しても、私は≪ 殺人行為とは一体化していない ≫のだ、と言い訳ができてしまうことになります。

こんなアホな話はありません。日本の刑法なら、殺人共犯か、殺人幇助・殺人教唆などの何らかの罪に問われることは間違いありません。

それを安倍首相は、≪ 離れている場所での武力行使(殺人)とは一体化していない ≫から関係ない、と言っているんですよ。

平和憲法を持つ日本が、これから人を殺しに行く米軍戦闘機に日本の税金で給油してもOKなどというのは、絶対にあり得ないことです!まして、弾薬提供なんて言語道断です。

人に拳銃の弾を渡して、「これで人を撃って殺してきてね」と言っているようなものではありませんか!

こんな滅茶苦茶なことを、安倍首相は国会でヌケヌケと言っているんです。こんなことをヌケヌケと言われて、私たちは国民はバカにされています!私たち主権者は完全に侮辱されているではないでしょうか!

【3】さて、最後に、私たちの日本国憲法の三大原理は、「人権」「国民主権(民主主義)」「9条の徹底平和主義&平和的生存権」です。

そのうちの二つ、「人権」と「国民主権(民主主義)」は、意外にも、つい 200年以上前の西欧世界では、王政を否定する反体制の危険思想でした。

戦前の日本でも、天皇を絶対的主権者とする「国体」に抵触する 許されざる危険思想でした。

今、どうか?「人権」も「民主主義(国民主権)」も世界共通の価値理念にまでステップアップしているではありませんか。

このように、かつては反体制の危険思想とされたような価値観が、人類数万年の歴史の中のたった 200数十年で、全世界共通の価値理念にまでステップアップした事実を決して忘れてはなりません。

そう考えると、近い将来、日本国憲法の三大原理のもう一つ「9条の徹底平和主義&平和的生存権」も、全世界共通の価値理念にまでステップアップする日が必ず来るのではないか。

いや、私たち自身の手で、全世界の人々と共に、まさにそう実現しなければならないのではないでしょうか。

石埼学(龍谷大学教授)

私たち憲法学者は、この安保関連法案には反対だ、という一点で集まっています。自衛隊の合憲性に関しては、考えが違うかもしれません。法案に反対する理由付けも、それぞれかもしれません。

実は私は、本当に自衛だけのための実力組織が存在するならば、日本国憲法下でそのような組織を政府は持ちうる、と考えます。ところが、今の自衛隊は武力行使をする軍隊です。だからやはり憲法違反と判断しています。

「ニカラグア事件判決」という国際司法裁判所の司法裁判では、外国の武力攻撃に対しては武力行