生命美学とバイオ(メディア)アート——芸術と科学の界面から考える生命

生命とは何だろうか? 「生命」は、洋の東西を問わず、ひとびとが古来歴史的・思想的・文化的に育んできた複合概念の総称だ。考えてみると生命は、何かとの対比において語られることが多い。たとえば、生命と死、生命と物質、生命と人間、生命と神、生命と機械、生命と知能、生命と情報、生命と宇宙などなど。

 

その語りのそれぞれにおいて、生命のどの側面が問題になっているのか、文脈依存的に変わる。そして、芸術はそれらの文脈を巡るおよそすべての表現に関わってきたと言ってよい。その意味で、芸術においてどのように生命が表現されてきたのかを知ることは、多様な生命観に触れることでもある。

 

最近では、バイオアートあるいはバイオメディア・アート(注1)と呼ばれる、生命科学やバイオテクノロジーと関連する表現分野が台頭してきた(注2)。たとえば培養細胞工学、遺伝子工学の手法を取り入れた作品たち。バイオテクノロジーの進展が投げかけるさまざまな問いを巡るクリティカルな作品たちや、SF的な近未来像をシミュレーションする作品たち。生物や細胞に制作プロセスを委ねる作品もあるし、生物と鑑賞者の間で何らかのフィードバックをデザインする作品もある。

 

(注1)「バイオメディア・アート」という言葉は、狭義には生物・細胞・生体高分子などをメディア(素材・媒体)としてつくられる表現を指す。いま挙げた作品たちも、近代科学以降の生物学・医療技術の進展を受けた素材や題材を巡っていた。アートの歴史の文脈から言えば、メディアアートとして定着した電子的あるいはデジタルな表現分野を受けて、その延長線上(ポストメディアアート)としてバイオメディア・アートを位置づける見方もある。と同時に、古典的なバイオメディア表現としての造園、観葉植物、生け花、盆栽、観賞魚、愛玩動物との連続性や変遷を意識させる呼称でもある。

 

(注2)岩崎秀雄『<生命>とは何だろうか:表現する生物学、思考する芸術』講談社、2012Williams Myers Bio Art: Altered Realities Thames & Hudson2015(久保田晃弘監訳『バイオアート―バイオテクノロジーは未来を救うのか』ビー・エヌ・エヌ新社,2016年)など参照

 

手法的にも方向性的にも多岐にわたっているが、まず最近の作品からいくつか具体例を紹介する。その際、話題になることの多い「社会とテクノロジーの関係性を問い直すタイプの作品」を紹介し、そのスタイルと背景、そして若干の注意事項をまとめておく。そしてそのあとで「生命とは何か」という本題に繋げるために重要な、より思想的・人文的含意を孕む作品たちを紹介したい。そして最後に、芸術・表現を通じて生命を探究する位相と意義について、生命科学におけるそれと比較参照しながら論じていきたい。

 

 

バイオテクノロジーと社会に関するバイオメディア・アート

 

まずは、テクノロジーと社会の関係を問い直したり、SF的に未来を描いて見せたりする作品群をいくつか見ていこう。一時期バイオアートのアイコンともなった作品に、ブラジル出身のアーティストEduardo Kacが手掛けたプロジェクトがある。遺伝子工学的に蛍光タンパク質を発現させることで全身蛍光緑に発色したウサギを、そのまま発表した「アルバ」だ(注3)。これは色々な意味で興味深いパフォーマンスで、まずこのウサギ自身はKacではなくフランスの研究機関が別の目的で作ったものをアートの文脈で展示したレディメイド・アートであった。

 

(注3Eduardo Kac GFP Bunny in Peter T. Dobrila and Aleksandra Kostic (eds.) Eduardo Kac: Telepresence, Biotelematics, and Transgenic Art (Maribor, Slovenia: Kibla, 2000), pp. 101-131. http://www.ekac.org/gfpbunny.html にも転載(201767日閲覧)

 

この技術自体、発表当時既に生物学的には新規性のないものだったのだが、ヴィジュアルのインパクトとともに「緑に光る遺伝子組換えウサギを、従来の品種改良に基づく愛玩動物たちと同様に受け入れられるのか」という問題を提起した。遺伝子組換え動物と人との関わりについての議論は、僕自身にはそれほど新しいものとは思えなかったが、通常の討論会とは違った場所や観客を得て議論の場や幅が広がったのは確かだろう。

 

Georg Tremmelと福原志保(BCL)は、墓地が不足する50年後の都市での墓標を考えるというところから、死者のDNAの塩基配列の情報を圧縮し、樹木に遺伝子移入させるプロジェクトを提案している(”Biopresence”,2005)。これは、実際には遺伝子組換え規制の観点から実現に至っていないが、この企画の賛否を巡って(当時彼らが活動していた)イギリスで大きな議論を巻き起こしている。

 

アメリカのHeather Dewey-Hagborgは、その辺に落ちている煙草の吸殻などを集めてDNAを抽出し、塩基配列の一部を解読することでその持ち主の顔を(相当な想像を含めて)3Dプリンターで再現するプロジェクト( “Stranger Visions” 2012)を発表し、ある面では究極の個人情報とも言える個人のDNAが無防備に日常に晒されており、DNA関連のテクノロジーを使えばそれをデコードできることを直観的に表現して見せた。彼女はさらに、こうした不特定の他者によるDNA情報の利用を防ぐために自分の遺したDNAを分解したり、ジャンクDNAを吹き付けることで情報を消したり攪乱するためのキットをデザインしている(”Invisible” 2014)。

 

培養工学やその展開としての生殖医療に関わる技術についての作品にも話題作がいくつかある。たとえば、iPS細胞からの生殖細胞の分化が現実的になってきたことを受けて、同性愛カップルからも子供をつくることができる可能性とその未来を描いたプロジェクト(長谷川愛、”(Im) possible Baby”,2015)もLGBTや生殖医療の未来像を巡って反響を呼んだ。

 

BCLの”Common Flowers/Flower Commons”は、切り花として売られている青いバラ(青い花を咲かせるペチュニアの色素合成遺伝子を組み込むことで実現した遺伝子組換え植物)の茎の一部を切りだし、家庭でも取り揃えられる器具や薬品を使って培養することで、自分たちでも青いバラを自前で増やせることを実際に示した。

 

 

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“Common Flowers/Flower Commons”(2009)

 

 

日本では一般的に遺伝子組換え食品や農作物には厳しい視線があるのに、花卉ではなぜそうした論争が起こっていないのか、そもそも遺伝子組換え植物の所有権とはなにか、市民はどのようにそうした産物に関与しうるのか、といったことを問うプロジェクトになっている。

 

こうした問題提起型のバイオアートを担う作家たちは、しばしば「バイオテクノロジーが私たちの未来をどう変えるのか、流れに任せるのではなく、自分なりに未来予想図を描き、科学者・技術者・為政者たちの描くものとは異なる観方で新たな視点や論点を提起する」ことをアーティストやデザイナーの今日的意義として言及することがある。これは、スペキュラティブ・デザインと呼ばれる、問題提起型のアート・デザインと共振する姿勢である(注4)。

 

(注4Anthony Dunne and Fiona Raby Speculative Everything: Design, Fiction, and Social Dreaming (MIT Press, 2013)(久保田晃弘監訳『スペキュラティヴ・デザイン:問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』ビー・エヌ・エヌ新社,2015

 

ただし、スペキュラティブ(予想的)な未来をキャッチーに見せる作品については、場合によっては留意していただきたいこともある。こうしたタイプの作品では、作家たちも情報の開示やオープンソースに共鳴したり、データを利用している場合が多い。

 

だが、作品として発表される際に、現実の技術と未来予想の間の大きなギャップ(生物学的にはほとんど捏造に近いレベルのギャップ)を、それと知らせずに提示している場合が結構多いのだ。すると、せっかく新たな視点を出されているように見えて、そもそもそうした視点(未来像)は実際には成り立たない、ということが起こりうる。

 

もし本当に「問題提起」を最重視するのであれば、どこまでが現実でどこまでがフィクションなのか(あるいはどこがフェイクなのか)をどこかで提示することが結局は実践的だと思うのだが、「芸術的効果(あるいは慣習)」のために情報が省かれることがしばしばある。また、それなりに既に(地味ではあるかもしれないが)議論されていることを、あたかも独自の視点で表現したように紹介されていないか、についても少し気を付けたいところだ。

 

これほど生命科学やバイオテクノロジーの現代社会における期待や進展が大きいことからして、スペキュラティブな作品が影響力を持ってくるのは当然だ。だからこそ、テクノロジーに関する社会的問題提起型の作品については、その問題が本当に新しいのか、その発表スタイルは問題を議論するために誠実なものとなっているのか、よくよく吟味しながら制作したり鑑賞することが肝要だ。その強度に耐える意欲作がもっと増えることを大いに期待したいし、応援していきたいと思う。

 

 

バイオの民主化とバイオアート

 

さて、上に紹介した作品たちは、作家たちが独自の回路で(既存の研究機関の慣行とは異なり)科学技術の情報や技術を咀嚼し、社会に向けて個々人の立場から表現を投じているものだ。それは、一面では「バイオテクノロジー・生物学の民主化」としてとらえられよう。

 

それに呼応するように、欧米で、また昨年からは日本でも一般の市民がアクセスできる場所にバイオラボを設置し、大学や企業の中でなくても比較的自由にアクセスできる場がオープンしている。これらはいわゆるオープンソースの精神と共鳴していることが多く、2006年以降、DIY-BIO、ガレージバイオテク、キッチンバイオ、バイオパンク、バイオハッキングなどと言ったキーワードとともに語られるようになった(注5)。

 

(注5)ウォールセン(2012)『バイオパンク:DIY科学者たちのDNAハック!』NHK出版;オライリー・ジャパン編(2007)『生物をハックする』オーム社;http://diybio.org/ など参照

 

こうしたオープンバイオラボでは、監修を担当する科学者はもちろんいるが、アーティストやデザイナーが大きな役割を担っていることが多いし、欧米では既に積極的に利用されてもいる。たとえば、昨年国内でオープンしたバイオラボは、山口情報芸術センター(YCAM)と東京渋谷にあるFabCafeの中に設置された。前者はメディアアートの殿堂としても知られる施設だし、後者では上述のGeorg Tremmelを含むバイオアーティストがラボの運営や一般参加者の取りまとめをしている。

 

むろん、こうした組織では安全性や倫理問題、法的制度に真摯に向き合う必要があることは明らかで、当事者たちもよく問題を認識しながら運営している。したがって、特に国内ではまだ一般の利用は限られているが、今後こうしたオープンバイオのプラットフォームがどのように使用されていくのか非常に興味深いし、その意思決定プロセス自体も透明で多くの人たちの賛同を得ながら行われていく必要があるだろう。

 

こうしたバイオテクノロジーの民主化の理念は、21世紀にはじまったものではなく、遺伝子工学黎明期から構想されてきた。科学史家の米本昌平は、1970年代後半に遺伝子工学が制度的に採り入れられ、そのルールが作られていくプロセスの密室性に警鐘を鳴らしつつ、個人がポケットマネーで遺伝子組換え実験をすることの「政治的なメリット」について提案している。

 

「この種の実験の推進の可否について社会の側から発言が増加し、実験規制の密室的な決め方にも異議申し立てが可能になる」ことや、「科学研究の担い手をこのようにして職業科学者の占有から解放することで、科学と知識の偏在が崩れ、科学者の傲慢、科学の独走、問題設定の奇形化などに、徐々にフィードバックがかかっていくはず」と、やや挑発的に指摘しているのだ(注6)。今なお一考に値する言葉ではないかと思う。

 

(注6)米本昌平(1980)「基本的人権としての真理探究権 ある挫折した科学批判」季刊クライシス(『独学の時代:新しい知の地平を求めて』2002,NTT出版 所収)

 

オープンバイオは、家庭や公共空間におけるバイオテクノロジーや生命科学の市民化の実践の場として期待されている。それらがアトリエやキッチンをラボ(研究室)化するベクトルを向いているとすれば、ラボをアトリエ化するベクトルもこの分野では重要だ。高度な科学・技術を取り入れた作品の構想・制作にあたっては、アーティストが大学などの研究機関に出入りすることが求められる場合が多いからだ。

 

そうしたプラットフォームの代表格が、西オーストラリア大学の生理学・解剖学部(医学部系)内に設置したバイオアートの専門機関SymbioticAである。組織培養工学を用いたアートのパイオニア、Oron CattsとIonat Zurrらが中心となって2000年に設立された実験的な組織だ。今ではSymbioticAはバイオアートのアーティスト・イン・レジデンスや教育に最も貢献度の高い組織として、多くのアーティストにラボを利用した制作活動の機会を提供するとともに、バイオアートの博士号を授与できるまでになっている。

 

筆者が主宰しているプラットフォームmetaPhorestも、早稲田大学先端生命医科学研究施設内の生命科学の研究室をアーティストに開放し、制作・研究の場を広く提供しており、今までに20名ほどのアーティスト・デザイナーに利用してもらっている。その際重要なことは、アーティストやデザイナーを科学者や研究機関のアウトリーチ活動の担い手として消費せず、飽くまで独自のプロジェクトを行う対等の存在としての関係を維持することだ。

 

いっぽう、そのためにはアーティスト側にも科学研究の現場についての配慮や理解が求められることは言うまでもないし、それは後述するように別の表現手段の学びにも繋がる可能性がある。科学者自身にとっても、自らが行っている研究の素材や目的が、自分たちの表現スタイル(論文発表やモノづくり)とは異なる文脈で表現されたり、論点化されたりしていく体験を得ることになる。それは、自らの研究を相対化し、深く見直すきっかけになることがある。場合によっては、アートプロジェクトに伴う通常と異なる実験によって、新たな現象が発見されることで新たな研究のネタが見出される場合だってある。

 

 

思想的側面を踏まえた作品たち

 

さて、「社会とテクノロジー」という観点より、もう少し思想的・人文的な含意を巡る興味深い作品もしばしば発表されてきた。「生命とは何か」という視点からすれば、本題はむしろここからとも言える。

 

DNAはATGCの4文字(4塩基)でデジタルに情報をコードできるメディアだ。ブラジル出身のアーティストEduardo Kacは、聖書のフレーズをDNAにコーディングしたものを組み込まれた大腸菌に、鑑賞者が紫外線を当てることで突然変異(DNAの塩基の書き換え)を促し、フレーズの意味が変化されてしまう作品を発表している(“Genesis”,2001)。

 

上述のSymbioticAの主要メンバーでもあるGuy Ben-Aryが手掛けた最近の学際的プロジェクトでは、まず作家自らの細胞からiPS細胞を作製し、そこから神経細胞に分化させる。これを微小電極のついた培養皿で生かしながら、そこから出てくるニューロンの活動電位を音情報に変換させた楽器(シンセサイザー)と、音楽家がセッションをする。音楽家の出す音情報は電気信号を介して神経細胞にフィードバックされ、活動電位が変化することでシンセサイザーから出てくる音も変化していく(“CellF”,2015)。このシンセサイザーは、それ自体が「音楽セッションをする作家自身の脳と身体」の雛形として提示されているのだ。

 

上にも触れたBCLも最近iPS細胞を用いたプロジェクトを発表している。初音ミクの何らかの特性を表現しうると期待される遺伝子配列を含む人工DNAを合成し、それを組み込ませたヒトiPS細胞を心筋細胞に分化させる。その拍動する様子を顕微鏡を通じて可視化して見せるインスタレーションである(BCL “Ghost in the Cell”,2015)。身体性をある意味失う普通の亡霊と異なり、ここではヴァーチャルなヴォーカロイドの「身体性」自体が亡霊のように映し出されることになる。

 

石橋友也は、metaPhorestで「金魚解放運動」と名付けたプロジェクトを展開した。金魚はもともと鑑賞のためだけにフナを品種改良して作られた動物だ。しかしその極端な色彩と形態のため、野外では容易に捕食されたり遊泳速度が著しく遅く、淘汰されやすいと考えられている。そこで、さまざまな金魚の品種を交配し、「本来の野生(権利)を回復(解放)する」べくフナ化(先祖返り)を促進していく(作家はこれを、新たな動物愛護運動と見なす)。

 

 

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石橋友也「金魚解放運動」(2012-)

 

 

これは通常の金魚養殖のプロセスでは積極的に排除される者を選別していく逆品種改良であり、同時に「どこから金魚はフナになるのか」という連続性を問うプロジェクトでもある。遺伝学の研究としてもそれなりに真っ当な探究という側面もあり、反響を呼んだ。

 

AKI INOMATAは、彼女の毛髪で作られた衣服を飼犬が、飼犬の体毛で作った衣服を自らが身にまとうことでペットと人間の関係性を問い直したり(“I Wear the Dog’s Hair,and the Dog Wears My Hair”.2014)、移民・国籍といった属性を3Dプリンターで作った人工的な殻に託してヤドカリに殻を選択させる作品たち(“Why Not Hand Over a Shelter to Hermit Crabs?”,2009-2016)を発表している。

 

 

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AKI INOMATA “I Wear the Dog’s Hair, and the Dog Wears My Hair”(2014)

 

 

いわば、制作プロセスを動物たちと協働しつつ、その動物に一種人間的な振る舞いを演じさせる独特のスタイルをとっている。一見綺麗でスタイリッシュな見かけと裏腹に、張り詰めた人間と動物の関係性に思いを致される作品世界でもあり、国内外で評価を得ている。

 

こうした作品たちは、僕たち人間にとって生命あるいは生物がどのような存在なのかを問い直すとともに、通常は無条件に受け入れられがちな「主体を持った人間の特権的な作家性」を相対化するようなところがある。生物や細胞を通じて、人間という存在の自明性を問い直されていると言ってもよいだろう。同時に、改めて生命とはどういう存在なのか、が問われなければならない。【次ページにつづく】

 

「ポピュリズムはなぜややこしいのか?」

 

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