2017.07.04

生命美学とバイオ(メディア)アート——芸術と科学の界面から考える生命

岩崎秀雄 生命科学

科学 #生命科学#バイオアート#バイオメディアアート

生命とは何だろうか? 「生命」は、洋の東西を問わず、ひとびとが古来歴史的・思想的・文化的に育んできた複合概念の総称だ。考えてみると生命は、何かとの対比において語られることが多い。たとえば、生命と死、生命と物質、生命と人間、生命と神、生命と機械、生命と知能、生命と情報、生命と宇宙などなど。

その語りのそれぞれにおいて、生命のどの側面が問題になっているのか、文脈依存的に変わる。そして、芸術はそれらの文脈を巡るおよそすべての表現に関わってきたと言ってよい。その意味で、芸術においてどのように生命が表現されてきたのかを知ることは、多様な生命観に触れることでもある。

最近では、バイオアートあるいはバイオメディア・アート(注1)と呼ばれる、生命科学やバイオテクノロジーと関連する表現分野が台頭してきた(注2)。たとえば培養細胞工学、遺伝子工学の手法を取り入れた作品たち。バイオテクノロジーの進展が投げかけるさまざまな問いを巡るクリティカルな作品たちや、SF的な近未来像をシミュレーションする作品たち。生物や細胞に制作プロセスを委ねる作品もあるし、生物と鑑賞者の間で何らかのフィードバックをデザインする作品もある。

(注1)「バイオメディア・アート」という言葉は、狭義には生物・細胞・生体高分子などをメディア(素材・媒体)としてつくられる表現を指す。いま挙げた作品たちも、近代科学以降の生物学・医療技術の進展を受けた素材や題材を巡っていた。アートの歴史の文脈から言えば、メディアアートとして定着した電子的あるいはデジタルな表現分野を受けて、その延長線上(ポストメディアアート)としてバイオメディア・アートを位置づける見方もある。と同時に、古典的なバイオメディア表現としての造園、観葉植物、生け花、盆栽、観賞魚、愛玩動物との連続性や変遷を意識させる呼称でもある。

 

(注2)岩崎秀雄『<生命>とは何だろうか:表現する生物学、思考する芸術』講談社、2012Williams Myers Bio Art: Altered Realities Thames & Hudson2015(久保田晃弘監訳『バイオアート―バイオテクノロジーは未来を救うのか』ビー・エヌ・エヌ新社,2016年)など参照

手法的にも方向性的にも多岐にわたっているが、まず最近の作品からいくつか具体例を紹介する。その際、話題になることの多い「社会とテクノロジーの関係性を問い直すタイプの作品」を紹介し、そのスタイルと背景、そして若干の注意事項をまとめておく。そしてそのあとで「生命とは何か」という本題に繋げるために重要な、より思想的・人文的含意を孕む作品たちを紹介したい。そして最後に、芸術・表現を通じて生命を探究する位相と意義について、生命科学におけるそれと比較参照しながら論じていきたい。

バイオテクノロジーと社会に関するバイオメディア・アート

まずは、テクノロジーと社会の関係を問い直したり、SF的に未来を描いて見せたりする作品群をいくつか見ていこう。一時期バイオアートのアイコンともなった作品に、ブラジル出身のアーティストEduardo Kacが手掛けたプロジェクトがある。遺伝子工学的に蛍光タンパク質を発現させることで全身蛍光緑に発色したウサギを、そのまま発表した「アルバ」だ(注3)。これは色々な意味で興味深いパフォーマンスで、まずこのウサギ自身はKacではなくフランスの研究機関が別の目的で作ったものをアートの文脈で展示したレディメイド・アートであった。

(注3Eduardo Kac GFP Bunny in Peter T. Dobrila and Aleksandra Kostic (eds.) Eduardo Kac: Telepresence, Biotelematics, and Transgenic Art (Maribor, Slovenia: Kibla, 2000), pp. 101-131. http://www.ekac.org/gfpbunny.html にも転載(201767日閲覧)

この技術自体、発表当時既に生物学的には新規性のないものだったのだが、ヴィジュアルのインパクトとともに「緑に光る遺伝子組換えウサギを、従来の品種改良に基づく愛玩動物たちと同様に受け入れられるのか」という問題を提起した。遺伝子組換え動物と人との関わりについての議論は、僕自身にはそれほど新しいものとは思えなかったが、通常の討論会とは違った場所や観客を得て議論の場や幅が広がったのは確かだろう。

Georg Tremmelと福原志保(BCL)は、墓地が不足する50年後の都市での墓標を考えるというところから、死者のDNAの塩基配列の情報を圧縮し、樹木に遺伝子移入させるプロジェクトを提案している(”Biopresence”,2005)。これは、実際には遺伝子組換え規制の観点から実現に至っていないが、この企画の賛否を巡って(当時彼らが活動していた)イギリスで大きな議論を巻き起こしている。

アメリカのHeather Dewey-Hagborgは、その辺に落ちている煙草の吸殻などを集めてDNAを抽出し、塩基配列の一部を解読することでその持ち主の顔を(相当な想像を含めて)3Dプリンターで再現するプロジェクト( “Stranger Visions” 2012)を発表し、ある面では究極の個人情報とも言える個人のDNAが無防備に日常に晒されており、DNA関連のテクノロジーを使えばそれをデコードできることを直観的に表現して見せた。彼女はさらに、こうした不特定の他者によるDNA情報の利用を防ぐために自分の遺したDNAを分解したり、ジャンクDNAを吹き付けることで情報を消したり攪乱するためのキットをデザインしている(”Invisible” 2014)。

培養工学やその展開としての生殖医療に関わる技術についての作品にも話題作がいくつかある。たとえば、iPS細胞からの生殖細胞の分化が現実的になってきたことを受けて、同性愛カップルからも子供をつくることができる可能性とその未来を描いたプロジェクト(長谷川愛、”(Im) possible Baby”,2015)もLGBTや生殖医療の未来像を巡って反響を呼んだ。

BCLの”Common Flowers/Flower Commons”は、切り花として売られている青いバラ(青い花を咲かせるペチュニアの色素合成遺伝子を組み込むことで実現した遺伝子組換え植物)の茎の一部を切りだし、家庭でも取り揃えられる器具や薬品を使って培養することで、自分たちでも青いバラを自前で増やせることを実際に示した。

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“Common Flowers/Flower Commons”(2009)

日本では一般的に遺伝子組換え食品や農作物には厳しい視線があるのに、花卉ではなぜそうした論争が起こっていないのか、そもそも遺伝子組換え植物の所有権とはなにか、市民はどのようにそうした産物に関与しうるのか、といったことを問うプロジェクトになっている。

こうした問題提起型のバイオアートを担う作家たちは、しばしば「バイオテクノロジーが私たちの未来をどう変えるのか、流れに任せるのではなく、自分なりに未来予想図を描き、科学者・技術者・為政者たちの描くものとは異なる観方で新たな視点や論点を提起する」ことをアーティストやデザイナーの今日的意義として言及することがある。これは、スペキュラティブ・デザインと呼ばれる、問題提起型のアート・デザインと共振する姿勢である(注4)。

(注4Anthony Dunne and Fiona Raby Speculative Everything: Design, Fiction, and Social Dreaming (MIT Press, 2013)(久保田晃弘監訳『スペキュラティヴ・デザイン:問題解決から、問題提起へ。—未来を思索するためにデザインができること』ビー・エヌ・エヌ新社,2015

ただし、スペキュラティブ(予想的)な未来をキャッチーに見せる作品については、場合によっては留意していただきたいこともある。こうしたタイプの作品では、作家たちも情報の開示やオープンソースに共鳴したり、データを利用している場合が多い。

だが、作品として発表される際に、現実の技術と未来予想の間の大きなギャップ(生物学的にはほとんど捏造に近いレベルのギャップ)を、それと知らせずに提示している場合が結構多いのだ。すると、せっかく新たな視点を出されているように見えて、そもそもそうした視点(未来像)は実際には成り立たない、ということが起こりうる。

もし本当に「問題提起」を最重視するのであれば、どこまでが現実でどこまでがフィクションなのか(あるいはどこがフェイクなのか)をどこかで提示することが結局は実践的だと思うのだが、「芸術的効果(あるいは慣習)」のために情報が省かれることがしばしばある。また、それなりに既に(地味ではあるかもしれないが)議論されていることを、あたかも独自の視点で表現したように紹介されていないか、についても少し気を付けたいところだ。

これほど生命科学やバイオテクノロジーの現代社会における期待や進展が大きいことからして、スペキュラティブな作品が影響力を持ってくるのは当然だ。だからこそ、テクノロジーに関する社会的問題提起型の作品については、その問題が本当に新しいのか、その発表スタイルは問題を議論するために誠実なものとなっているのか、よくよく吟味しながら制作したり鑑賞することが肝要だ。その強度に耐える意欲作がもっと増えることを大いに期待したいし、応援していきたいと思う。

バイオの民主化とバイオアート

さて、上に紹介した作品たちは、作家たちが独自の回路で(既存の研究機関の慣行とは異なり)科学技術の情報や技術を咀嚼し、社会に向けて個々人の立場から表現を投じているものだ。それは、一面では「バイオテクノロジー・生物学の民主化」としてとらえられよう。

それに呼応するように、欧米で、また昨年からは日本でも一般の市民がアクセスできる場所にバイオラボを設置し、大学や企業の中でなくても比較的自由にアクセスできる場がオープンしている。これらはいわゆるオープンソースの精神と共鳴していることが多く、2006年以降、DIY-BIO、ガレージバイオテク、キッチンバイオ、バイオパンク、バイオハッキングなどと言ったキーワードとともに語られるようになった(注5)。

(注5)ウォールセン(2012)『バイオパンク:DIY科学者たちのDNAハック!』NHK出版;オライリー・ジャパン編(2007)『生物をハックする』オーム社;http://diybio.org/ など参照

こうしたオープンバイオラボでは、監修を担当する科学者はもちろんいるが、アーティストやデザイナーが大きな役割を担っていることが多いし、欧米では既に積極的に利用されてもいる。たとえば、昨年国内でオープンしたバイオラボは、山口情報芸術センター(YCAM)と東京渋谷にあるFabCafeの中に設置された。前者はメディアアートの殿堂としても知られる施設だし、後者では上述のGeorg Tremmelを含むバイオアーティストがラボの運営や一般参加者の取りまとめをしている。

むろん、こうした組織では安全性や倫理問題、法的制度に真摯に向き合う必要があることは明らかで、当事者たちもよく問題を認識しながら運営している。したがって、特に国内ではまだ一般の利用は限られているが、今後こうしたオープンバイオのプラットフォームがどのように使用されていくのか非常に興味深いし、その意思決定プロセス自体も透明で多くの人たちの賛同を得ながら行われていく必要があるだろう。

こうしたバイオテクノロジーの民主化の理念は、21世紀にはじまったものではなく、遺伝子工学黎明期から構想されてきた。科学史家の米本昌平は、1970年代後半に遺伝子工学が制度的に採り入れられ、そのルールが作られていくプロセスの密室性に警鐘を鳴らしつつ、個人がポケットマネーで遺伝子組換え実験をすることの「政治的なメリット」について提案している。

「この種の実験の推進の可否について社会の側から発言が増加し、実験規制の密室的な決め方にも異議申し立てが可能になる」ことや、「科学研究の担い手をこのようにして職業科学者の占有から解放することで、科学と知識の偏在が崩れ、科学者の傲慢、科学の独走、問題設定の奇形化などに、徐々にフィードバックがかかっていくはず」と、やや挑発的に指摘しているのだ(注6)。今なお一考に値する言葉ではないかと思う。

(注6)米本昌平(1980)「基本的人権としての真理探究権 ある挫折した科学批判」季刊クライシス(『独学の時代:新しい知の地平を求めて』2002,NTT出版 所収)

オープンバイオは、家庭や公共空間におけるバイオテクノロジーや生命科学の市民化の実践の場として期待されている。それらがアトリエやキッチンをラボ(研究室)化するベクトルを向いているとすれば、ラボをアトリエ化するベクトルもこの分野では重要だ。高度な科学・技術を取り入れた作品の構想・制作にあたっては、アーティストが大学などの研究機関に出入りすることが求められる場合が多いからだ。

そうしたプラットフォームの代表格が、西オーストラリア大学の生理学・解剖学部(医学部系)内に設置したバイオアートの専門機関SymbioticAである。組織培養工学を用いたアートのパイオニア、Oron CattsとIonat Zurrらが中心となって2000年に設立された実験的な組織だ。今ではSymbioticAはバイオアートのアーティスト・イン・レジデンスや教育に最も貢献度の高い組織として、多くのアーティストにラボを利用した制作活動の機会を提供するとともに、バイオアートの博士号を授与できるまでになっている。

筆者が主宰しているプラットフォームmetaPhorestも、早稲田大学先端生命医科学研究施設内の生命科学の研究室をアーティストに開放し、制作・研究の場を広く提供しており、今までに20名ほどのアーティスト・デザイナーに利用してもらっている。その際重要なことは、アーティストやデザイナーを科学者や研究機関のアウトリーチ活動の担い手として消費せず、飽くまで独自のプロジェクトを行う対等の存在としての関係を維持することだ。

いっぽう、そのためにはアーティスト側にも科学研究の現場についての配慮や理解が求められることは言うまでもないし、それは後述するように別の表現手段の学びにも繋がる可能性がある。科学者自身にとっても、自らが行っている研究の素材や目的が、自分たちの表現スタイル(論文発表やモノづくり)とは異なる文脈で表現されたり、論点化されたりしていく体験を得ることになる。それは、自らの研究を相対化し、深く見直すきっかけになることがある。場合によっては、アートプロジェクトに伴う通常と異なる実験によって、新たな現象が発見されることで新たな研究のネタが見出される場合だってある。

思想的側面を踏まえた作品たち

さて、「社会とテクノロジー」という観点より、もう少し思想的・人文的な含意を巡る興味深い作品もしばしば発表されてきた。「生命とは何か」という視点からすれば、本題はむしろここからとも言える。

DNAはATGCの4文字(4塩基)でデジタルに情報をコードできるメディアだ。ブラジル出身のアーティストEduardo Kacは、聖書のフレーズをDNAにコーディングしたものを組み込まれた大腸菌に、鑑賞者が紫外線を当てることで突然変異(DNAの塩基の書き換え)を促し、フレーズの意味が変化されてしまう作品を発表している(“Genesis”,2001)。

上述のSymbioticAの主要メンバーでもあるGuy Ben-Aryが手掛けた最近の学際的プロジェクトでは、まず作家自らの細胞からiPS細胞を作製し、そこから神経細胞に分化させる。これを微小電極のついた培養皿で生かしながら、そこから出てくるニューロンの活動電位を音情報に変換させた楽器(シンセサイザー)と、音楽家がセッションをする。音楽家の出す音情報は電気信号を介して神経細胞にフィードバックされ、活動電位が変化することでシンセサイザーから出てくる音も変化していく(“CellF”,2015)。このシンセサイザーは、それ自体が「音楽セッションをする作家自身の脳と身体」の雛形として提示されているのだ。

上にも触れたBCLも最近iPS細胞を用いたプロジェクトを発表している。初音ミクの何らかの特性を表現しうると期待される遺伝子配列を含む人工DNAを合成し、それを組み込ませたヒトiPS細胞を心筋細胞に分化させる。その拍動する様子を顕微鏡を通じて可視化して見せるインスタレーションである(BCL “Ghost in the Cell”,2015)。身体性をある意味失う普通の亡霊と異なり、ここではヴァーチャルなヴォーカロイドの「身体性」自体が亡霊のように映し出されることになる。

石橋友也は、metaPhorestで「金魚解放運動」と名付けたプロジェクトを展開した。金魚はもともと鑑賞のためだけにフナを品種改良して作られた動物だ。しかしその極端な色彩と形態のため、野外では容易に捕食されたり遊泳速度が著しく遅く、淘汰されやすいと考えられている。そこで、さまざまな金魚の品種を交配し、「本来の野生(権利)を回復(解放)する」べくフナ化(先祖返り)を促進していく(作家はこれを、新たな動物愛護運動と見なす)。

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石橋友也「金魚解放運動」(2012-)

これは通常の金魚養殖のプロセスでは積極的に排除される者を選別していく逆品種改良であり、同時に「どこから金魚はフナになるのか」という連続性を問うプロジェクトでもある。遺伝学の研究としてもそれなりに真っ当な探究という側面もあり、反響を呼んだ。

AKI INOMATAは、彼女の毛髪で作られた衣服を飼犬が、飼犬の体毛で作った衣服を自らが身にまとうことでペットと人間の関係性を問い直したり(“I Wear the Dog’s Hair,and the Dog Wears My Hair”.2014)、移民・国籍といった属性を3Dプリンターで作った人工的な殻に託してヤドカリに殻を選択させる作品たち(“Why Not Hand Over a Shelter to Hermit Crabs?”,2009-2016)を発表している。

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AKI INOMATA “I Wear the Dog’s Hair, and the Dog Wears My Hair”(2014)

いわば、制作プロセスを動物たちと協働しつつ、その動物に一種人間的な振る舞いを演じさせる独特のスタイルをとっている。一見綺麗でスタイリッシュな見かけと裏腹に、張り詰めた人間と動物の関係性に思いを致される作品世界でもあり、国内外で評価を得ている。

こうした作品たちは、僕たち人間にとって生命あるいは生物がどのような存在なのかを問い直すとともに、通常は無条件に受け入れられがちな「主体を持った人間の特権的な作家性」を相対化するようなところがある。生物や細胞を通じて、人間という存在の自明性を問い直されていると言ってもよいだろう。同時に、改めて生命とはどういう存在なのか、が問われなければならない。

生命と芸術の感得様式の親和性:「生命とは何か」という問いをめぐって

その問題意識を踏まえ、芸術を参照しながら生命を探究するアプローチが特に重要だと僕が思う点について、少し理論的に記述してみたい。まず、芸術活動は本来生命探究と相性がよいはずだ、という見通しを与えてみたい。それは、芸術の立場から自然科学的な生命探究を捉え直す試みでもある。ここからしばらくは、生物学がどのように生命を捉えているのか、をある程度具体的に整理しつつ、それを問い直していくことにする。

生物学では、しばしば次のような問いかけがなされる。「生物はどのような物質からできているのだろうか?」「どんな種が存在するのだろうか?」「どのように進化してきたのだろうか?」「どのように環境に適応しながら生きているのだろうか?」いずれも興味深い問いであり、生命科学は多くの知見を明らかにしてきた。

たとえば、生物はDNAを遺伝情報として持っており、生体高分子などの化学物質からできている。内と外を分ける細胞膜などを持ち、代謝を行うことで常に物質とエネルギーを外部と交換しながら自律的に増殖したり恒常性を維持する。自己同一性を保ちつつ、常に変異を起こし、進化・適応することで多様性も生み出してきた、といった具合だ。

いっぽう、次のように問うこともできる。「僕たちは日常的に生命をどのように感得しているのだろうか?」「生命という概念の哲学的な基盤とは何か?」「時代や文化によって、生命観はどのように異なるのか?」これらの問いは、一般的には「文系的」な問いとみなされ、生物学の教科書には普通書かれていない項目だ。だが、重要な問いであることは疑いがない。たとえば、「活き活きと」とか「活気に満ちた」という表現に見られる躍動的な生命感、死者を想う時の粛然とした気分、深い森の中にいる時の自然への畏怖の感覚、親しい存在や動植物に感じる愛着など、僕たちの死生観に関わる印象は、いずれも「僕たちにとって」生命が何なのかを示している。

ここでは、生命は「観察者と対象との情動的な関係性の中で感得されるもの」であり、必然的に主観的で情動的な要素を含む。それに対し自然科学では、一般的に(一部の脳科学・認知科学などを除き)主観性や情動性を排除しようとする。そこで上に書いた生物学的な立場では、生命は特定の対象(生物学的生命としての生物や細胞)に内在する特性として記述されていく。換言すれば、自然科学では生命は対象に宿るが、日常的に感得される生命は、対象と僕たちの関係性の中に宿るのだ。

この見方は芸術に関する古典的な議論と重なる。芸術を対象(作品)に内在的に宿るものとしてみるか、あるいは鑑賞者と作品の関係性の中に宿るものとしてみるのか、という議論だ。ある絵画作品が、どのような構図や技法、配色で描かれているのか、といった作品分析は、ある意味生物学的に生物の在りようを分析する試みだ。と同時に、作品との関係性において僕たちは「芸術的な体験」をするというわけである。

生命の問題もこれと似たところがあるのではないか。生命が生物に内在する固有の特性であることと、僕たちが対象との関係性において生命性を感得・体験するということ、その両面に目を向けないといけない。その際に、その両面を常に認識している芸術という立ち位置は参考になるのではないか。生命と芸術を感得する様式には、こうした共通項がある。

「生命をつくる」試み:人工細胞+人工生命

かつて、物理学者のリチャード・ファインマンは「つくれないうちは理解したことにはならない」という趣旨の格言を残した。確かに、パソコンを一から組み立てることができる人を見れば、僕らはその人物がパソコンのことを深く理解しているはずだと思うだろう。この基準では、少なくとも生物学的な意味での生命を、僕たちはまだ理解できているとは言えない。では、ファインマン先生に倣って、生命をつくってやろう、と思ったらどこから手を付けたらよいだろう?

生物学では、生命の基本を細胞に求めることが多い。細胞は、細胞膜を介して内と外を分ける境界を持ち、代謝(物質やエネルギーのやりとり)を行い、自律的に増殖する単位と考えられている。したがって、多くの研究者は生命をつくる(再構築する)なら細胞から、と考えてきた。とはいえ、「単細胞」の単純なイメージと裏腹に、細胞はめくるめく小宇宙で、直径100分の1ミリに満たない小スペースの中で、数万とも言われる化学反応が常時動き続けている、想像を絶する複雑系だ。とても一朝一夕に再現できるわけがない。

そこで、細胞を特徴づける要素(サブシステム)を少しずつ再構成していって、やがて増殖できたり進化できたりするものがつくれたら、と研究者たちは考えてきた(注7)。たとえば、DNAが複製する反応、タンパク質を合成する反応などが再現されている。ここまで本質的なところではないが、僕自身も、体内時計(生物時計)と呼ばれる細胞内で生じる24時間周期の振動現象を、世界で初めて試験管内で再構成した瞬間に立ち会った経験がある(注8)。それはなかなか感動的な瞬間だった。

(注7)岩崎,前掲書;岩崎秀雄(2010「バイオメディア・アート:美学的見地から観た合成生物学の可能性」科学(岩波)747-754;土居信英・柳川弘志・浅島誠・板谷光泰・菅原正・四方 哲也(2010『合成生物学』岩波書店など参照

(注8Nakajima M, Imai K, Ito H, Nishiwaki T, Murayama Y, Iwasaki H, Oyama T, Kondo T. (2005) Reconstitution of circadian oscillation of cyanobacterial KaiC phosphorylation in vitro. Science 308: 414-415.

こうした生体反応だけでなく、器(うつわ)をつくる研究も重要だ。人工脂質膜を用いて、細胞のような微小なスケールの容器を再構成したり、その中に遺伝子やタンパク質を導入して特定の生体反応を模倣する技術などが少しずつ開発されてきている。ある特定の条件では、こうした人工細胞の容積を増やし、分裂させることもできるようになってきた(注9)。さらに、多少人為的な操作も含まれてはいるが、一種の進化のプロセスを再現することもできるようになっている(注10)。

 

(注9Kurihara K, Tamura M, Shohda K, Toyota T, Suzuki K, Sugawara T. (2011) Self-reproduction of supramolecular giant vesicles combined with the amplification of encapsulated DNA. Nature Chem. 3:775-781

 

(注10)Ichihashi N, Usui K, Kazuta Y, Sunami T, Matsuura T, Yomo T. (2013) Darwinian evolution in a translation-coupled RNA replication system within a cell-like compartment. Nature Communications.,4(2494),1-7.

では、こうして作られる人工細胞は、はたして「生きている」と言えるだろうか? 逆に言えば、どこまでが物質(の集合体)で、どこからが生命なのだろうか? その問いは、結局上に掲げた「生命とは何か」という根源的な命題に回帰する。

その時、僕たちには複数の道が拓かれている。ひとつは生物学的に議論される「膜による内外の区別、物質とエネルギーのやり取り(代謝)、自律的な秩序形成、増殖、進化可能性」といった性質が満たされているのか、を判定していく道。そして、もう一つは「その人工細胞に接した(観察した)人が、そこに生命性を感得できるか」ということで判定していく道である。科学的な記述を連ねたのちにこう言うと、なんとなく拍子抜けした気分になるかもしれない。しかし、これは案外強力な判定基準でもある。

逆に考えてみよう。ぬいぐるみは、生物学的にはどうみても生物の規範たる多くの事柄を満たしてはいない。しかし、それをあたかも生物のように子供は(場合によっては大人も)かわいがることができるし、傷つけられたぬいぐるみに哀れみすら感じることができる。これは、生物学的生命の定義を満たさない対象に対しても、「関係性の中に宿る生命性」と似た状態を、ぬいぐるみと僕たちの間に創発することを示唆している。それは、「岩石を砕いた物質(絵具)の集合に過ぎないはずの画面(絵画)との関係性において芸術的な体験をすること」になぞらえることのできる話だ。

この意味で、なんらかの情動性を呼び起こす芸術や、そこに強い思い入れを見いだすフェチシズムの対象をつくることは、一面では「生命をつくる」ための(人工細胞的な探究とは異なる)道の一つである。考えてみれば、芝居や芸術作品の核心を「生命」になぞらえることはそれほど珍しいことではない(「命を宿した演奏」など)。とすれば、創作を行うこと自体、実はオルターナティブな意味での「人工生命」の試みなのかもしれない。

2016年に茨城県北芸術祭の一環として、僕たちmetaPhoerstのチームは「人工細胞+人工生命の慰霊碑」をつくるというプロジェクトに取り組んだ(”aPrayer: まだ見ぬつくられしものたちの慰霊”,2016,注11)。

(注11)石碑:茨城県常陸太田市折橋町799 折橋コミュニティステーション(旧酒蔵金波寒月)内。

https://www.waseda.jp/top/news/44775(プレスリリース)、https://www.youtube.com/watch?v=tf4ikiq-3EU(いずれも201767日閲覧)

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aPrayer: まだ見ぬつくられしものたちの慰霊(2016)

周知のように日本には、古来動植物だけでなく、針や人形、筆などの生物学的生命ではない対象をも慰霊する習慣がある。これは、慰霊という儀式を通じて、無生物に対して生命性を感得する、あるいは生命認定をする儀式として考えられる。

そこで、敢えてまだ完成しているとは言いがたい人工細胞や人工生命の慰霊という場面を想定し、それらは慰霊の対象になり得るのか、そもそもそれらの生命性とは何なのかを捉え直すことを試みた。その際,多くの人工細胞・人工生命研究者たちや地元の醸造業者の方々に長時間インタビューし、その記録映像も作った。さらに、墓標や慰霊碑として一見最も無生物的と考えられる石が使われていることの意味も踏まえ、地元の方の多大な協力を得ながら常陸太田市に石碑を実際に建立した。

細胞や生体を用いたバイオアートの作品は、一般的には一過的で保存することが困難なものが多いが、このプロジェクトではむしろ石碑の形で「世代を超えて生命について考えるためのモニュメントを遺す」という逆の方向性を敢えて目指したのだった。

表現としての生命科学

いっぽう、自然科学的なアプローチは上述したように、極力「主観性」を排除しようとするが、そもそも生命とは「一種の主観性あるいは生きることの主体性」を前提とした概念でもある。たとえば「自律性」というが、一体物質がどうやって主体性を獲得するというのか。これは強度に哲学的な難問だ。このことから、自然科学における生命言及は、それ自体一種アクロバティックな表現世界を現出しているところがある。

たとえば、生物学では生体高分子や酵素はほかの物質を「認識する」としばしば記述されるが、これは物理学では通常許容されない記述様式だろう。いや、それは単に特定の分子と衝突し、反応しているだけだ、という反論がありそうだが、ならば敢えて認識するなどという擬人的な表現は避けたほうがずっと「客観的」であるようにも思える。

では、認識ということで何がもたらされているのだろう。それは、分子レベルの「主体性」に他ならない。これは主体概念の上層(細胞や個体)から下層(分子)への一種の還元とみなされなくもない。万物に生命性を認めるのはアニミズムだが、こうして生物学が分子を擬人的に語る時、そこに希薄化されたアニミズムの気配を感じることがありうる。

それは、生物学がまだ物理学のように厳密化されていないところから来ると言うよりも、「科学的に主体性を記述することの困難」を前に、生物学者たちがギリギリのラインで選択してきた絶妙な言語表現として捉え直せないだろうか、というのが僕の見通しである(注12)。

(注12)岩崎、前掲書

逆説的なことに、ある存在に主体性を見いだすことは、しばしば観察者にとって「その存在を見通せない」ことと裏腹の関係にある。機械のように御しやすい対象ではない、予定調和的ではない存在である、ということだ。

見通せないからこそ、なんとかコミュニケーションを図ろうとする。近づけて理解し合えたような気がするが、しばしば裏切られたり予想を外れた行動に出会ったりする。これが主体性を持った他者との付き合いであることを、僕たちは経験的によく知っている。いわば、そういう「付き合い」をしていくうえで、できるだけ誤解のないように厳密な記述を心がけることの極北が、学問(とりわけ自然科学)という探究方法であり、論文という表現様式なのであった。

先に、僕は芸術を総合的な知的な活動であるというニュアンスを持ってバイオを巡るアートについて書いてきた。と同時に、今度は生命の自然科学的探究とその成果たる論文を、表現文化史の中に位置づけて捉えなおすことが絶対に必要だ。とりわけ、生命科学や医学においては芸術に自ら接近している面がある。

というのも、これらの論文の中核に位置するのは図表であり、写真、描画、グラフという視覚表現の形で最も重要な実験データがまとめられているからだ。テキストの多くはそうした図表の注釈であり、それらを導くための手法や条件の記述である。だからこそ、顕微鏡や細胞の染色法、遺伝子発現動態などに関する日進月歩の可視化技術の革新は、生物学を日々刷新する大きな原動力であり続けている。それがあれば確実に僕たちの視覚に入る世界の幅は広がる。これを視覚表現文化の大きな担い手として把握しないとすれば、明らかに片手落ちと言わねばならない。

“Culturing <Paper>cut”という僕の作品は、こうしたことを踏まえた試みの一つだ。自分で執筆・発表した論文(paper)から切り絵(papercut)をつくり、そこから論文の題材になっているバクテリアが増殖していく作品である。

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Hideo Iwasaki “Culturing <Paper>cut”(2013-)

先程書いたように、客観性を旨とする科学論文にも、実際には主観的見解、主体的観察の過程が刻印されている。そうした部分が、写真の右側のようにところどころ切り取られている。テキスト以外の部分は、一見有機的で抽象的な模様が工芸的に刻まれているが、論文の図やグラフの意匠は積極的に残してある(写真の左部分)。この論文―切り絵を滅菌してから培地に載せ、主観的として切り抜かれたテキストの部分にシアノバクテリアという生物を植菌し,展示期間中培養(culture)し続ける。このようにして、ここでは科学的表象としての図、工芸的もしくはファインアート的な造形としての切り絵、そして増殖に伴って独自の複雑な模様を展開するバクテリアのパターンという三者の意匠と情報が、共存しながら絡み合っていくという作品だ。

学問と芸術は、世界を把握し、何らかの形で脳内変換したものを表現したもの、という意味では共通である。そして生命の探究とは、なんらかの主体的な存在をどのレベルでどのように認定するのか、ということの不断の試行錯誤とコミュニケーションを要請する活動なのだ。

そのためには、必要に応じて自然科学であれ、社会科学であれ、人文学であれ、芸術的手法であれ、あらゆる手法や表現を総動員することが望ましいし、そうでなければ取り組めないほどに「生命」とは錯綜した、複合的なスーパーコンセプトだと言わねばならない。だが、それは同時に僕たち自身の生き方の問題であり、生の条件を巡る最も身近で切実な拠り所でもあるのだ。

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〈生命〉とは何だろうか――表現する生物学、思考する芸術 (講談社現代新書)

岩崎秀雄 (著)

プロフィール

岩崎秀雄生命科学

1971年生。アーティスト、生命科学研究者。生命美学プラットフォームmetaPhorest主宰、早稲田大学理工学術院電気・情報生命工学科教授。博士(理学)。著書に『<生命>とは何だろうか:表現する生物学、思考する芸術』(講談社2013)、主なアート作品にaPrayer(人工細胞の慰霊、茨城県北芸術祭2016)、Culturing <Paper>cut (ICCなど2013)、Biogenic Timestamp (アルスエレクトロニカセンター、ICC、2013-)、metamorphorestシリーズ(ハバナビエンナーレ、オランダペーパービエンナーレなど)。バクテリアの生物時計の遺伝子群同定、試験管内再構成、形態形成などの研究で文部科学大臣表彰、日本ゲノム微生物学会奨励賞、日本時間生物学会奨励賞など。「細胞を創る」研究会会長(2016年)。

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