生物と非生物の境界、ウイルスとは何か

この二つの発見は「ウイルスは生物か非生物か?」という問いを再燃させた。大雑把に状況をまとめると、ウイルスの方は遺伝子が1個から2,500個ほど持つものまで、徐々に複雑になっており、細胞を持つ「生物」の方も、三万個ほど遺伝子を持つ真核高等生物から、最低150個ほどしか遺伝子を持たない共生細菌まで、やはり様々な段階のものが存在している。遺伝子の数やゲノムの大きさで考える限り、この二つの集団は完全にオーバーラップしており、はっきりとした境界はつけようがない。

 

細胞構造を持たないという理由で、ウイルスを生物に含めない、と定義づけすることは可能である。しかし、では、ウイルスとは何なのか?と問われれば、答えに窮する。ウイルスは、我々に病気を起こす病原体というだけでなく、そこらにいる細菌とさほど変わらない数の遺伝子を持つようになるまで複雑化し、進化する存在だったのである。それを「単なる物質」と見なすことは、もう難しいと言わざるを得ない。

 

少し話は変わるが、この問題を考えるために、生命の起源に関する二つの仮説を紹介したい。それは「レプリケーター起源説」と「代謝起源説」である。「レプリケーター起源説」は、複製が可能な構造を持つ原始的な化合物(レプリケーター、複製子)が、生命の起源になったという説である。一方、「代謝起源説」は、生命のような定常状態(平衡)を保っている系は、必ずエネルギーを外部から取り入れ、エントロピーを捨てる仕組みが必要であり、それを可能とする化合物のネットワーク、つまり代謝系が先に出来たとする説である。ざっくりと単純化して言えば、「遺伝子が先か、細胞が先か」と言い換えることができる議論だ。現在の生物は、細胞と遺伝子の両方を持っているが、その遺伝子と細胞と、そのどちらが生物にとって本質的なものかという命題でもある。

 

私は「レプリケーター起源説」の立場を取っている。何故なら、遺伝子の変化が細胞の状態を変えることはあっても、細胞の状態が遺伝子配列を変えるような仕組みは知られていないからである。もし、化合物の自己組織化のようなことで細胞が先にできて、生物へと進化したのなら、その細胞の状態を作り出せるように遺伝情報が後から出来てくるという仕組みがなければ、生物へとつながる論理的な説明はできない。また、遺伝物質を持たない原始細胞には自己複製や進化をするための物質的な基盤がなく、そんなものが生物へ進化するというのなら、それは「生気論」(注4)への逆戻りではないだろうか。

 

(注4)「生気論」
生命には、機械論的に説明しえない「生気」を持つとする仮説。アニミズムのような古くからある考え方に起源があり科学史的には重要な説である。しかし、現在の生物学では物理化学的な法則に則った機械論に基づいて体系が構築されており、認められていない。

 

自らの細胞を持たない、現代に生きるレプリケーターとも言えるウイルスが「外部環境」を利用して、れっきとした生物である細菌と同じくらい複雑な存在へと進化している事実は、そういった意味でも示唆的である。レプリケーターには、そのサイクルを回す環境があれば、それを利用して発展・展開する可能性があるが、レプリケーターなしに生物のような複製や進化をしている存在は、これまで見つかっていない。その意味で、生物を生物足らしめている特徴は、根源的にはレプリケーターに依存していると言ってよいのではないかと思っている。

 

原始的なレプリケーターはただの物質と考えられており、そうであるなら我々「生物」は、「物質」と呼ばれているものまで切れ目なくつながっている存在ということになる。また、もし「生命」が単純な化合物から進化してきたとする「化学進化説」をとるなら、実は「リプリケーター起源説」であれ、「代謝起源説」あれ、それは必然的な論理的帰結でもある。ウイルスは、現在でもその生物と物質のはざまに存在しており、それらを橋渡ししているかのようである。

 

ただ、物質と生物が一つながりであると言う時、どこか感覚的な違和感があるのもまた事実である。この違和感の正体は何なのだろう?

 

そこには人間が持つ二つの「生」という問題があるのではないかと思う。形を変えて古くから繰り返し指摘されていることではあるが、人間は少し異なる二つの「生」を生きている。一つはDNA情報からなる生物「ヒト」としての「生」であり、もう一つは脳情報からなる人格を有した「人」としての「生」である。

 

この違いは、例えば、こんなことを考えると分かり易い。ある男性が交通事故で亡くなったとして、その男性からすぐに精子を取り出し冷凍すれば、多くの場合、その精子には受精能力が残っている。つまりその精子を使って人工授精をすれば、亡くなった後でも、その人の子供が生まれてくるのだ。微生物であれば、自己のDNA情報を後代に引き渡す能力が残っていれば、それは「生きている」と判断されるし、実際細胞としての精子はまぎれもなく「生きて」いる。しかし、だからと言って、亡くなった男性がまだ生きているとは誰も思わない。それは「ヒト」としては生きているが、「人」としては亡くなっているとでも形容されるべき奇妙な状態である。

 

この物質であるDNAに依存して成り立っている「ヒトとしての生」と、目には見えない脳情報による「人としての生」の間にある断層が、人間と物質との間に境界線を生んでいる。我々は、「われ思う故に、我あり」であるが、その「思う」という行為がどう物質とつながっているのか、実感を持てていない。人間にとってより重要なのは「人としての生」であり、それが物質であることから、少し離れた所にあるのだ。鉱物のように結晶化するウイルスを生物と考えることへの違和感は、そこに根源があるのではないだろうか?

 

しかし、40億年とも言われる長い生命の歴史を鑑みれば、脳情報による「生」とは、DNA情報による「生」の上に二次的に派生した、恐らく一部の生物のみが持つものであろう。すべての生物に共通する「生」は、DNA情報に基づいたものであり、その意味ではこれまで述べてきたように、我々とウイルスはつながっているのだ。本稿のテーマである「生物と非生物の境界」とは、いろんな意味で、結局、我々人間の脳が作り上げたものに過ぎないのかも知れない。まぁ、それを言っちゃお終いよ、という気がしないでもないが。

 

※本稿はαシノドスvol.213からの転載です

 

 

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