2013.07.25

乳がんの原因遺伝子特許判決にみるアメリカの研究開発戦略

八代嘉美 幹細胞生物学 / 科学技術社会論

科学 #遺伝子特許#乳がん

遺伝子を知的財産として認めることの合法性・合憲性を問う

去る6月13日、米連邦最高裁は、乳がんの原因遺伝子の特許をめぐる訴訟で、人の遺伝子は特許の対象にならないとする判決を出した。おりしもハリウッド女優アンジェリーナ・ジョリーが、この遺伝子による診断を受け、変異が見つかったために乳房切除手術を受けたことが報じられており、注目が集まるなかでの判決であった。

今回の訴訟は、2009年に「アメリカ自由人権協会(ACLU)」が研究者や患者らを代表し、がん抑制遺伝子BRCA1およびBRCA2遺伝子の特許無効の訴えを行ったもので、2010年にニューヨーク州南部地区米連邦地裁が特許無効の判決を、2011年に米連邦巡回控訴裁判所はこれに反して特許を認める判決を出すなど、下級審での判断がわかれていた。

今回の米連連邦最高裁の判決は、ACLU側の主張を認め、ユタ州に本社を置くミリアド・ジェネティクス社(以下、ミリアド社)が保有するいくつかの特許を無効とする判断をしめした。ミリアド社は1994年に創業されたバイオ/ゲノム・ベンチャーで、創業者マーク・スコルニックがユタ大学、NIH、カナダのマギル大学などと共同して乳がんを抑制する遺伝子「BRCA1」に関する論文を発表、パテント(特許)を取得したことで現在に至っている。

ミリアド社はBRCA1とBRCA2遺伝子配列そのものと、その変異を検出して乳癌と卵巣癌へのかかりやすさを調べる検査についての特許を取得しており、他社に特許権の使用許諾を与えるかたちではなく、自社で「BRAC Analysis」という遺伝子診断事業を実施してきた。

BRCA1変異による乳がん、および卵巣がんの罹患率は、BRCA1・2 いずれかの変異を持つ人の80%が70歳までに乳癌を発症し、BRCA1変異の保有者の40%、BRCA2変異の保有者の20%が同じく70歳までに卵巣癌を発症するという統計結果がある。このように、BACA1変異は、乳がんの発症ときわめて関係のある遺伝子変異であり、この遺伝子検査が非常に有用なものであることは間違いない。しかし問題はこの検査の料金が、アメリカ・カナダでは約35万円(日本でもほぼ同額)と、決して安価ではないところにある。

例えばミリアド社の特許が2000年(BRCA1)、2001年(BRCA2)に成立しているカナダでは、それ以前から各州の政府が、乳がんの遺伝子検査を行なっており、およそ1200カナダドル程度の料金で行われていた。しかし、特許成立後にミリアド社がライセンス料支払いの請求を開始してから、一時的に診断を中止する州、ライセンス料を支払う州など対応はわかれたものの、いずれにせよ広範な特許権の存在が、一般の人々が遺伝子検査にアクセスする際の大きな障壁になることを明らかにした。

ACLUの訴えは、ミリアド社の特許のうち、物質クレームの対象範囲が広すぎることから、BRCA1やBRCA2に関する研究者の研究を阻害していると主張していた。つまり、この特許によって、該当する遺伝子の検査におけるすべての新しい科学的知見や方法論も権利保護の対象となり、新しい安価な方法の開発・参入、そして他の研究者の研究を阻害し、科学的な進歩も妨げられるというものである。せんじつめれば、遺伝子というあらゆる人間がもつもっとも基本的な要素を、独占的権利の根源となる知的財産として認めることの合法性・合憲性を問うものであった。

ヒトゲノムプロジェクト以後の研究開発の分業体制

結果としては冒頭に記したとおりで、遺伝子配列そのものは特許の対象にはならない、ということで、ミリアド社が持っていた全面的な権益は失われたかたちとなる。ただ今回の判決はなかば予想されていたものでもあった。その理由は、もともとの特許が成立した時期――ヒトゲノムプロジェクトの前か後か――と大きく関係がある。

もともと、遺伝子の探索は既知、あるいは偶然発見されたタンパク質からさかのぼって探索を行うもので、必然的に有用性のある物質への興味は重複・競合することとなり、特許訴訟が頻発する。

その上、レーガン政権下で強力に推進されたプロパテント政策による「より広範な保護」政策の結果、ゲノムプロジェクト以前に同定されたBRCA1遺伝子への特許のように、「広範な特許権」の認定へとつながっていった。

しかし、ヒトゲノムプロジェクト以後研究の方法は劇的に変化した。総数が不明であった遺伝子の総数が概算可能となり(現時点では2万数千)、遺伝子の配列や発現情報、疾病等に関連するレセプターや酵素の特定、そして医薬品や検査法の開発という研究・開発の流れが形成されることになった。いわば、ゲノムプロジェクト以前の還元論的な方法論から構成論的方法論へとシフトしたのである。

こうした「分業体制」の進展により、研究の水源である遺伝子配列の決定という成果のみで権利を独占させることは、その領域全体の研究開発を過度にコントロールすることにほかならず、科学の進歩という面でも技術の発展という意味でもイノベーティブな結果にはつながらない、というコンセンサスが成立しつつあるため、今回の判決はなかば予想されていたものだったのだ。

今回の判決によって、遺伝子の変異や転座、欠失といったものと検知する遺伝子診断法などの開発が自由に行えるようになり、安価な診断法の開発等によって受益者を増やすことができるだろう。

科学記事の裏に見え隠れする国家戦略や経済問題

その一方で、今回の判決で「保護の対象となる」としめされたものもある。それは「単離されたDNA分子や人工的に合成された遺伝子(cDNA)」だ。これらは自然に発生しない遺伝子であり、特許で保護されるものとされた。それでは遺伝子とcDNAとはどう違うのか? ここにひとつのキモがある。

よく知られている通り、遺伝子というのはDNA分子で記されたタンパク質の設計図ともいうべきものだが、ヒトを始めとする真核生物の遺伝子には、タンパク質をつくるための情報を含む「エクソン」という領域と、それを持たない「イントロン」という領域がある。

タンパク質が作られる際には、イントロンの部分が取り除かれ、mRNAという「設計図のコピー」が作られる。このとき、mRNAから「逆転写」という、リバースエンジニアリングのような手法で合成されたものがcDNAである。つまり、cDNAは遺伝子のなかのエクソンのみからなるDNAであり、もとから細胞のなかに存在する、いわば自然の産物で「発見」される遺伝子配列と異なり、科学的に合成されるcDNAは「発明」と呼びうるということになる。

cDNAの権利の確保は、すなわちその最終産物であるタンパク質の権利の確保にもつながる。このようなcDNAの権利の確保によって、細胞外での大規模なタンパク質発現スクリーニング系を用いたプロテオミクスやメタボローム解析(タンパク質をはじめとする細胞内の代謝産物を網羅的に解析する研究法)のような、多種多様なタンパク質による相互作用による疾患の発症機構や創薬標的の同定といった方法は保護されることとなり、企業の開発意欲を削ぐことなく、創薬の面で諸外国との競争の優位性を確保し続けようという配慮が見える。これは現オバマ政権が採っている政策でもあり、最高裁がこれを受け入れたともいえ、そうした意味でも今回の判決は予想しえたものといえる。

なににせよ、今回の判決は企業の開発意欲を削ぐことなく、イノベーティブの余地を拡大することを可能にしたバランス良い判決といえるだろう。こうした例をみるにつけ、アメリカの研究開発戦略におけるしたたかさを思わずにはいられない。我が国でも疾患特異的iPS細胞を活用した病因の同定が盛んであるとはいうものの、研究者の努力だけでは欧米系メガファーマに対抗することは困難なのは言うまでもなく、日本版NIHを設立したからといって競争力が高まるわけでもない。

こうした問題を報じた新聞などのメディアにも、残念ながらこうした国レベルでの戦略につなげるものは見当たらなかった。折しも数日後は参議院選挙の投票日である。不要不急とみなされるのか、なかなか科学や技術の戦略について、選挙の争点・論点になることは少ない。せっかく社内に政治部、経済部といったプロを抱えているにもかかわらず、科学記事の裏に見え隠れする国家戦略や経済問題を論じてくれないのは残念である。

結局こうした無関心は、「大本営発表」を掲載しつづけ、敗戦後に当事者を糾弾することで免責を勝ち得るという、いつか来たメディアの無責任へとつながるだけである。もちろん、こうした話題に国民全員が興味を持たねばならないわけではない。だが「一番じゃなきゃだめ」というような情緒的な科学的報道一本槍から、どうしたら萌芽的な、あるいは一番を取り損なった「科学」を、国益を生む「技術」へと転化していくかという観点があることも伝えていくべきではないだろうか。メディアが果たせる役割も少なくないはずだ。

参考文献


・National Comprehensive Cancer Network. NCCN Clinical Practice Guidelines in Oncology Genetic/Familial High-risk Assessment:Breast and Ovarian.
・隅蔵康一, 生命科学と知的財産権, バイオバンク構想の法的・倫理的検討.179-205,2009
・田村明照, バイオテクノロジーの広い特許保護を巡る最近の論点.特許研究. 29:41-45,2000

サムネイル:「DNA rendering」ynse

http://www.flickr.com/photos/ynse/542370154/

プロフィール

八代嘉美幹細胞生物学 / 科学技術社会論

1976 年生まれ。京都大学iPS細胞研究所上廣倫理研究部門特定准教授。東京女子医科大学医科学研究所、慶應義塾大学医学部を経て現職。東京大学大学院医学系研究科博士課程修了、博士(医学)。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。再生医療研究の経験とSFなどの文学研究を題材に、「文化としての生命科学」の確立をを試みている。著書に『iPS細胞 世紀の技術が医療を変える』、『再生医療のしくみ』(共著)等。

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