著作権保護強化は明日のアーティストを生み出すか――「表現の自由」と「消費」のあいだ

ネットで紹介されているこんな作品の画像に癒され活気を与えられる人もいるだろう。私もその一人だ。

 

http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/02/story_n_5435626.html

 

ここに載っているのは古典名作画がもとになっている二次創作(二次的著作物)だから著作権の問題はないと思うが、たとえば1940年ごろに活躍して1970年に死んだ作家の作品だったら、どうだろうか。

 

一部の成功した作品は、かなり高額の著作権料支払いが必要になる。それを除いたほとんどの作品は、作者の死後数十年の時間が経てば、現在の著作権者を探し出すのは金と手間がかかりすぎてほとんど不可能である。日本の場合には、芸術創作や学術のための利用について著作権の効力を免除する一般規定(フェア・ユース規定と呼ばれるもの)がないため、「引用」「教育」「図書館での利用」というふうに著作権法で細かく特定された免除以外には免除されず、著作権者の意思ひとつで正面からの権利処理が求められたり、差止めが認められたりすることになる。著作権処理に金と手間をかけることのできない一般庶民が20世紀・21世紀の絵画や漫画や映画をこんなふうに二次創作の土台にすることはできなくなっていく。

 

こんなとき、『レ・ミゼラブル』[*1]の神父には、ジャン・バルジャンに銀の食器をプレゼントする自由もあった。現在の著作権法は、著作権者にさえこの「自由」を許さない画一的な制度になろうとしているのかもしれず、それは著作権法の根本的変質につながる可能性がある。

 

[*1] 小説『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユゴーは、「ベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)」の発案者。

 

今、知的財産の中でも著作権法は政治的争点となっている。一方では、ネットユーザーの広がりによって著作権者が得るべき利益を確保することが困難になってきており、一方では権利保護が強すぎるために表現活動が不自由になっていると感じる人々からの制度批判の声が強まってきている。ヨーロッパの国々では「海賊党」といった政党の出現などに見られるように、これが実際に大きな政治的争点となっている。

 

日本でも去る6月9日、参議院の質疑応答で山田太郎議員が、TPP交渉における著作権侵害刑事罰の非親告罪化に関する懸念を指摘し、進捗を尋ねる質問を行っている。そこでは「一律の」導入は避けるとの答弁が文科大臣によって行われているが、この言葉からは、何らかの形で部分的には導入されることが読み取れる。

 

これらの論争が政治的争点となっているとなれば、その論題は民主社会の言論ルートで十分に開かれた議論に乗らなければならない。しかしこの論題が今、《問答無用》のワンサイド・ゲームとなっていることが問題である。ここで起きている知財の国益化と、それに伴う知財法の刑法化の流れには、厳格に考えなければならない人権制約の問題がある。

 

 

「犯罪です」と刷り込む前に

 

最近、著作権法を刑法の一分野だと思っている人がいる。これは部分的には間違っていないのだが、知的財産法全体から見ればかなり極端なイメージで、「〇〇は犯罪です」というスローガンが人々の法認識の中に刷り込まれていることが伺える。映画などの有料コンテンツの流出を、「それは犯罪です」というスローガンによってピシャリと抑えるのはたしかに実効性・即効性のある処方箋である。しかし実効性の追求の前に、そこに巻き込まれてくるさまざまな表現者への自由制約の問題や萎縮の問題に考察を及ぼす必要が高まっている。

 

特許権や著作権などの知的財産権は、それを生み出した者や権利を譲り受けた者(個人や企業)の利益を確保する権利である。これらを規制している様々な法律は、《私法》ないし《民事法》と言われる分野に属する[*2]。そのため、柔軟な解決や調整が可能になっているし、下からのルール形成に対して開かれた構造になっている。しかし近年の法改正の方向は、この柔軟性を塞ぐ方向に傾いていないか、との疑問が湧く。それが積み重なった結果、著作権(法)の意味が変質しつつあるのではないか。

 

[*2] 知的財産法を民法の特別法という基本から整理解説したものとして金井高志『民法でみる知的財産法』(第2版)を参照。

 

日本では、漫画・アニメ産業とコミックマーケット、音楽産業とライブハウス文化のように、著作権法を額面通りに通そうとすれば煩雑な権利処理が必要となる事柄が権利者によって敢えて黙認されたり、自発的・折衷的な仕組みによって調整されたりしてきている。これは、模倣を楽しむアマチュアがいるからこそプロが育ち、プロの作品を買う消費文化も活性化されるという社会的現実を織り込んだ知恵と言える。こうした文化領域は、知財利益を生み出すようなプロの文化の土壌や苗床(なえどこ)のような役割を果たしている。

 

アマチュア表現文化とプロの表現・経済活動とが、こうした自生的な調整によって共生関係を作ってきた事実[*3]を考えると、この共生関係自体が「文化」の名に値する出来事と言えるだろう。私法の領域では、各当事者がこうした知恵を出し合ってルールを工夫することもできる。訴訟になったときにも、民事訴訟の場合には、訴訟になった後で双方の利益を勘案した和解や折衷案を作っていくことも可能である。しかし刑事罰規定を根拠として警察が乗り出してきたときには、そうした解決の弾力性・柔軟性は失われる。刑法は民事法とは異なり、法的安定性を確保して公権力の逸脱・濫用を防ぐため、「罪刑法定主義」という原則によって拘束され、紛争の現場で知恵を出し合って柔軟な解釈を取ったり新たな解決法を見つけたりすることはできないからである。

 

[*3] その一例として、漫画の世界では「同人マーク」による二次創作許諾の意思表示の自主ルール化や、プロ文化とアマチュア文化との共存を目指した法知識共有が試みられており、当事者や当事者に理解を寄せる出版関係者・法律関係者の自発的努力は尊重されるべきものだろう。その一端として、雑誌『コミケ・プラス』1号、2号(2014年)の法律知識ページを参照。

 

今の著作権法が向かっている方向は、スポーツの世界に喩えるならば、プロ選手の権利を強化して観客に観戦のために金銭を払わせるルールを徹底した結果、その副作用として観客が自分でテニスをしようとすると、何をやっても模倣に該当して面倒に巻き込まれそうで、「さわらぬ神に祟りなし」と嫌気がさしてきて、おそらくは鑑賞者としても引いてしまう、といった状況ではないだろうか。

 

憲法の「表現の自由」の理論では、人々がこのように不利益を怖れて表現活動から引いてしまうことを「委縮効果」と言う[*4]。これに加えて、ここに刑事罰を導入した場合には、良識的な人ほどこの委縮効果を強く被る。痴漢冤罪事件などからわかるように、万が一にも公権力とメディアから「犯罪者」呼ばわりされたとき、仮に後から裁判で疑いを晴らすことができたとしても、失うものが大きすぎるからである。つまり刑事罰は、悪質なフリーライダーを排除するために採用された方策でありながら、そうではない良質な文化享受者を失う可能性が高い策なのである。

 

[*4] 「表現の自由」と委縮効果については、毛利透『表現の自由―その公共性ともろさについて』を参照。

 

もしも文化産業とこれを国益とする国家が「タニマチ」の役に立たない文化享受者をあからさまに犯罪者扱いするようになれば、文化は次代の担い手を失って衰退するだろう。この成り行きを憂慮して現在の著作権制度の方向に疑問を投げる識者、憲法違反と論じる識者も出てきている[*5]。

 

[*5] その代表として、ローレンス・レッシグLawrence Lessigの名が挙げられるだろう。

 

刑事罰は人々を問答無用に従わせる威力があり、逮捕・取り調べの段階から各種の人権の停止を伴う強度の規制方法である。また、逮捕を受けた者が被る社会的スティグマ(汚名の不利益)も大きい。だから「疑わしきは罰せず」「罪刑法定主義」といった権力抑制の原則があり、全体の方向として「刑法の謙抑性」や「刑法の補充性」の原則が確認されている。憲法のほうでも人権への規制が必要限度を超えるものにならないように、アメリカ流の憲法訴訟論からは立法目的と規制手段の両方についてさまざまな憲法的ハードルを設け[*6]、ドイツ流の理論からは「比例原則」によって規制の強度を抑える思考がとられてきた。

 

[*6] とくに刑事罰については、他にもっと人権制約の度合いの少ない手段があるときにわざわざ強度の高い手段を選択している場合には憲法違反となるとするLess Restrictive Alternative(LRA)の原則に照らして考える必要があるだろう。

 

著作権法の刑事罰規定は、こうした基準に照らしたとき、過剰な規制と判定される可能性が高い。違法ダウンロード行為が刑事罰の対象となった法改正でこの問題は看過できるものではなくなってきたため、社会的議論として浮上することとなった。

 

 

刑法、民法、憲法と著作権法の地図確認

 

この話が全体の中でどのような位置にある話なのか、あるいは問題群がどのように広がっているのかを見るために、地図を概観してみたい。

 

法律は大きく分けて憲法・刑法・行政法などの公法、民法や商法や労働法などの私法に分けられる。憲法は国家などの公権力と国民との関係を定めた《公法》である。一方、私法の領域は原則として市民同士の自由意思でさまざまなことを取り決めていく《私的自治の領域》で、国家に「市民の自由を守れ(介入はするな)」と命じるのが憲法である。しかし現代では人権保障と福祉の実現という観点から国家の守備範囲が広がり、それに合わせて憲法も私法領域を間接的にカバーするに至っている。こうした経緯を総合して、憲法は、国内のすべての法について、その法の影響下に置かれる人々の人権ないし福利に資すること、およびその法の影響下に置かれる人々の人権ないし福利を害さないことを求めている(憲法前文、98条)。

 

知的財産権の制度は模倣表現や模倣品売買を一定のルールに服させることで、表現の自由や経済活動の自由に一定の制約を課している。こうした規制のさまざまな場面が憲法裁判になったときにどういう理論で解決していくかという問題は、日本ではまだ判例蓄積のない分野だが[*7]、英米には判例の蓄積もあり、研究者の間では検討されている課題である[*8]。

 

[*7] 日本の裁判では、憲法判断なしで解決できる事案については憲法判断をしないという「憲法判断回避の原則」が強く作用する。

 

[*8] 大日方春信『著作権と憲法理論』、山口いつ子「表現の自由と著作権」、小島立「著作権と表現の自由」、大林圭吾「表現の自由と著作権に関する憲法学的考察」、阪本昌成「小島報告のコメント」。

 

知的財産権は全体としては私的自治の原則を基本原則とする民事法領域の権利である。権利は権利者が主張したければ主張できるし、黙認しようと思えば黙認してもよいものである。もちろんスマホの技術をめぐる特許や意匠権の訴訟を見ればわかるように、先端技術による商品価値(から得られる収益)を争う特許の世界で、権利侵害を受けた企業が侵害を黙認することはまずないだろう。

 

しかしそうした競争も、基本的にはそれぞれの主体の自由意思に委ねられている。権利者と利用者の間に合意があれば十人十色の選択があってよいというのがもともとの基本だから、『レ・ミゼラブル』の神父には、ジャン・バルジャンを逮捕しようとする警察官を制止して、彼に食器をプレゼントする自由がある。

 

これが全体の骨組みだが、この骨組みの上に罰則(刑事罰)の規定があるのが知的財産法の特徴である。侵害となる行為の中止(差止め)と損害の回復を加害者に求めるのが《民事》の措置であるのに対し、侵害の防止と処罰を目的として警察力に訴えるのが《刑事罰》である。現在のデジタル技術社会・インターネット社会では、劣化のない複製と情報の無限拡散が可能になったことにより、権利侵害も短時間に拡散し、侵害を受けた者が侵害者に対して法的な装置を講じることが難しい場合が多い。これに対応するために罰則強化などによって権利保護を確実にする必要性が主張され、度重なる法改正もその方向を反映している。

 

罰金は近年の法改正で相当な高額に引き上げられており[*9]、そのインパクトもさることながら、「警察」によって「犯罪」として扱われる(「逮捕」される)ことの社会的・心理的インパクトも大きい。このインパクトは刑法の一般抑止機能と言われ、刑法の社会的役割として期待されているものである。しかし「表現の自由」への規制として社会に萎縮効果を与えやすく、逮捕された当人にスティグマを与えることを考えると、看過できない副作用を持つ《もろ刃の剣》である。2012年の法改正による違法ダウンロード刑事罰化も、この角度から大きな議論となったことは記憶に新しい。

 

[*9] 例として、特許法第196条では特許権を侵害した者は10年以下の懲役または1000万円以下の罰金、著作権法第109条では著作権または著作隣接権を侵害した者は10年以下の懲役または1000万円以下の罰金が定められている。他に不正競争防止法や意匠法にも刑事罰規定がある。

 

これまでのところ、この罰則は親告罪(被害者からの告訴があってはじめて刑事事件となるもの)となっていることから、表現領域への委縮効果もそれなりの歯止めがかかっていた。現在の著作権法の組立てからは、《権利者自身が権利を行使する意思はあるが自力では加害者を特定しにくく、民事のルートでは法的救済を受けることが困難》という状況の中で、《侵害行為を早急に止めさせて利益の逸失を止めたいと切実に望んでいるような場合》に、刑事告発をして警察力を借りるルートがあるのだ、と理解することが可能だった。つまり制度全体の足場はあくまでも民事上の権利とその救済にあり、刑事罰は権利者の意思の範囲内で、民事ルートでの救済が困難な場合にこれを補う応急止血の手段として存在している、と理解することができたのである。

 

だから、著作権法には二次創作表現をお目こぼしする一般規定はないが(採用されなかったが)、二次創作をしたいと思う者は、意思決定者である著作(権)者から黙認してもらえるような実践を積み重ねることで道が保たれると期待できていたわけである。

 

その実践の軌道に沿う形であれば、著作(権)者がファンの好意表現を無碍に扱うことはないだろう、との期待の下に二次創作を自己実現の場としてきた人々にとっては、この《期待》が萎縮効果への避雷針となっていた。そこでは「逮捕者が出た」というニュースも、一方的に萎縮効果を及ぼすわけではなく、「これをやったら著作権者は刀を抜いてくるぞ」という学習材料として作用してきたと言える。

 

こうした文化的実践の蓄積は、法の世界でも尊重されるべきものである。海外の著作権法にあるような「フェア・ユース(公正な利用)」の一般規定を設けていない日本の著作権法のもとで、刑事罰の非親告罪化が実現すれば、こうした文化的実践が大きく損なわれる可能性がある。

 

もっとも、丁寧に考えれば、複製権や上映権などの権利について著作権法が保護するのは、著作者よりも著作権者である。わかりやすいのは音楽アーティストと音楽事務所の関係だと思うが、事務所と契約を交わしたアーティストは自分のオリジナル曲であっても事務所を通さずに楽曲利用を許諾することはできなくなる。個々のアーティストがもたらす収益は、企業や業界全体を支える収益だから、アーティストの一存で、タダで利用許諾をすることは認められず、企業が権利譲渡を受けるか管理するという行き方が採られている。

 

このような方式も私的自治領域の知恵として出てきたことだから、双方に合意があって著作者の利益を不当に害するものでない限り、基本的には自由である。しかし、もしも国家がこれにとってかわって《利益の取りはぐれのない仕組み》を社会に一律に敷こうとしているのだとしたら、話は別である。そこでは、法制度の根本的な変質が生じることになる。

 

たとえば、ネットではプロの漫画の吹き出しの中に自分の短文コメントを入れた表現や、映画の一場面に独自の字幕を添えるパロディ表現がある。自ら漫画を描いたり映画を撮ったりする技術を持っていない一般人が社会状況や政治を批判したり風刺したりする警告表現を発したいときには、既成の著作物をこのように使う方法がよく使われる。現在でもこの種の表現に対して著作権者の権利行使があれば著作権が当然に優位することになるのだが、この現状に加えて、著作権保護制度が警察に独自の判断権を与える制度に変更された場合、このような市民的自由領域の表現が巻き込まれてくる蓋然性は一挙に高まる。

 

社会状況や政治を批判したり風刺したりする警告表現や、これにコメントを述べる政治的意見表明は、憲法のほうから言えば、その自由がもっとも保護されるべき市民的自由に属する。著作権法は表現を正面から禁止的に規制するものではないが、その表現内容に他人の著作物が含まれていた場合には差止めまたは高度な権利処理が要求されるというのは、表現者にとっては十分に重い負担であり、「表現の自由」に対する制約になっている。

 

これに加え、著作権侵害への刑事罰を非親告罪とした場合には、こうした表現が、著作者・著作権者の意向と関係なしに(著作権制度の本来の趣旨からも離れて)警察力によって抑制される可能性もある。これは今、多くの論者が「別件逮捕」の問題として危惧しているもので、憲法のほうからは規制対象が「過剰に包摂」されることの問題となる。この懸念は、10年前に起きた「立川反戦ビラ事件」[*10]を考えてみれば、杞憂とは言い切れない。そのような惧れはない、と立法者側が考えているとしても、そのような惧れを市民に与えているという事実は、萎縮効果の問題として斟酌されるべきだろう。

 

[*10] 自衛隊イラク派遣に反対する見解を書いたビラを自衛官宿舎のポストに入れた市民団体メンバーが住居侵入罪で逮捕された事件。2004年の東京地裁判決では無罪判決が出たが、その後の高裁・最高裁では有罪となっている。

 

国家が自由を規制する場面、とりわけ刑事規制を行う場面では、法律の内容がこのような可能性を含んでいる場合、国が「そのような運用はしませんから国を信頼してください」と言うのをそのまま通すことはできない。市民的自由への制約を伴う法律は、厳しい憲法チェックを受けなければならない。【次ページへつづく】

 

 

 

■■■ 「シノドス」へのご寄付のお願い ■■■

 

 

1 2 3
300_250_5g 困ってるズ300×250 α-synodos03-2

vol.196 特集:当事者と非当事者

・小峰公子氏インタビュー「福島の美しさを歌いたい——福島に「半当事者」としてかかわって」

・山本智子「知的障害がある当事者の「思い」を支えるために――「当事者性」に関与する「私たち」のあり方」

・李洪章「『研究者の言葉』から『当事者の言葉』へ」

・熊谷智博「他人同士の争いに参加する非当事者の心理」