2014.12.05

著作権保護強化は明日のアーティストを生み出すか――「表現の自由」と「消費」のあいだ

志田陽子 憲法、言論・芸術関連法

社会 #著作権#知的財産

ネットで紹介されているこんな作品の画像に癒され活気を与えられる人もいるだろう。私もその一人だ。

http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/02/story_n_5435626.html

ここに載っているのは古典名作画がもとになっている二次創作(二次的著作物)だから著作権の問題はないと思うが、たとえば1940年ごろに活躍して1970年に死んだ作家の作品だったら、どうだろうか。

一部の成功した作品は、かなり高額の著作権料支払いが必要になる。それを除いたほとんどの作品は、作者の死後数十年の時間が経てば、現在の著作権者を探し出すのは金と手間がかかりすぎてほとんど不可能である。日本の場合には、芸術創作や学術のための利用について著作権の効力を免除する一般規定(フェア・ユース規定と呼ばれるもの)がないため、「引用」「教育」「図書館での利用」というふうに著作権法で細かく特定された免除以外には免除されず、著作権者の意思ひとつで正面からの権利処理が求められたり、差止めが認められたりすることになる。著作権処理に金と手間をかけることのできない一般庶民が20世紀・21世紀の絵画や漫画や映画をこんなふうに二次創作の土台にすることはできなくなっていく。

こんなとき、『レ・ミゼラブル』[*1]の神父には、ジャン・バルジャンに銀の食器をプレゼントする自由もあった。現在の著作権法は、著作権者にさえこの「自由」を許さない画一的な制度になろうとしているのかもしれず、それは著作権法の根本的変質につながる可能性がある。

[*1] 小説『レ・ミゼラブル』の作者ヴィクトル・ユゴーは、「ベルヌ条約(文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約)」の発案者。

今、知的財産の中でも著作権法は政治的争点となっている。一方では、ネットユーザーの広がりによって著作権者が得るべき利益を確保することが困難になってきており、一方では権利保護が強すぎるために表現活動が不自由になっていると感じる人々からの制度批判の声が強まってきている。ヨーロッパの国々では「海賊党」といった政党の出現などに見られるように、これが実際に大きな政治的争点となっている。

日本でも去る6月9日、参議院の質疑応答で山田太郎議員が、TPP交渉における著作権侵害刑事罰の非親告罪化に関する懸念を指摘し、進捗を尋ねる質問を行っている。そこでは「一律の」導入は避けるとの答弁が文科大臣によって行われているが、この言葉からは、何らかの形で部分的には導入されることが読み取れる。

これらの論争が政治的争点となっているとなれば、その論題は民主社会の言論ルートで十分に開かれた議論に乗らなければならない。しかしこの論題が今、《問答無用》のワンサイド・ゲームとなっていることが問題である。ここで起きている知財の国益化と、それに伴う知財法の刑法化の流れには、厳格に考えなければならない人権制約の問題がある。

「犯罪です」と刷り込む前に

最近、著作権法を刑法の一分野だと思っている人がいる。これは部分的には間違っていないのだが、知的財産法全体から見ればかなり極端なイメージで、「〇〇は犯罪です」というスローガンが人々の法認識の中に刷り込まれていることが伺える。映画などの有料コンテンツの流出を、「それは犯罪です」というスローガンによってピシャリと抑えるのはたしかに実効性・即効性のある処方箋である。しかし実効性の追求の前に、そこに巻き込まれてくるさまざまな表現者への自由制約の問題や萎縮の問題に考察を及ぼす必要が高まっている。

特許権や著作権などの知的財産権は、それを生み出した者や権利を譲り受けた者(個人や企業)の利益を確保する権利である。これらを規制している様々な法律は、《私法》ないし《民事法》と言われる分野に属する[*2]。そのため、柔軟な解決や調整が可能になっているし、下からのルール形成に対して開かれた構造になっている。しかし近年の法改正の方向は、この柔軟性を塞ぐ方向に傾いていないか、との疑問が湧く。それが積み重なった結果、著作権(法)の意味が変質しつつあるのではないか。

[*2] 知的財産法を民法の特別法という基本から整理解説したものとして金井高志『民法でみる知的財産法』(第2版)を参照。

日本では、漫画・アニメ産業とコミックマーケット、音楽産業とライブハウス文化のように、著作権法を額面通りに通そうとすれば煩雑な権利処理が必要となる事柄が権利者によって敢えて黙認されたり、自発的・折衷的な仕組みによって調整されたりしてきている。これは、模倣を楽しむアマチュアがいるからこそプロが育ち、プロの作品を買う消費文化も活性化されるという社会的現実を織り込んだ知恵と言える。こうした文化領域は、知財利益を生み出すようなプロの文化の土壌や苗床(なえどこ)のような役割を果たしている。

アマチュア表現文化とプロの表現・経済活動とが、こうした自生的な調整によって共生関係を作ってきた事実[*3]を考えると、この共生関係自体が「文化」の名に値する出来事と言えるだろう。私法の領域では、各当事者がこうした知恵を出し合ってルールを工夫することもできる。訴訟になったときにも、民事訴訟の場合には、訴訟になった後で双方の利益を勘案した和解や折衷案を作っていくことも可能である。しかし刑事罰規定を根拠として警察が乗り出してきたときには、そうした解決の弾力性・柔軟性は失われる。刑法は民事法とは異なり、法的安定性を確保して公権力の逸脱・濫用を防ぐため、「罪刑法定主義」という原則によって拘束され、紛争の現場で知恵を出し合って柔軟な解釈を取ったり新たな解決法を見つけたりすることはできないからである。

[*3] その一例として、漫画の世界では「同人マーク」による二次創作許諾の意思表示の自主ルール化や、プロ文化とアマチュア文化との共存を目指した法知識共有が試みられており、当事者や当事者に理解を寄せる出版関係者・法律関係者の自発的努力は尊重されるべきものだろう。その一端として、雑誌『コミケ・プラス』1号、2号(2014年)の法律知識ページを参照。

今の著作権法が向かっている方向は、スポーツの世界に喩えるならば、プロ選手の権利を強化して観客に観戦のために金銭を払わせるルールを徹底した結果、その副作用として観客が自分でテニスをしようとすると、何をやっても模倣に該当して面倒に巻き込まれそうで、「さわらぬ神に祟りなし」と嫌気がさしてきて、おそらくは鑑賞者としても引いてしまう、といった状況ではないだろうか。

憲法の「表現の自由」の理論では、人々がこのように不利益を怖れて表現活動から引いてしまうことを「委縮効果」と言う[*4]。これに加えて、ここに刑事罰を導入した場合には、良識的な人ほどこの委縮効果を強く被る。痴漢冤罪事件などからわかるように、万が一にも公権力とメディアから「犯罪者」呼ばわりされたとき、仮に後から裁判で疑いを晴らすことができたとしても、失うものが大きすぎるからである。つまり刑事罰は、悪質なフリーライダーを排除するために採用された方策でありながら、そうではない良質な文化享受者を失う可能性が高い策なのである。

[*4] 「表現の自由」と委縮効果については、毛利透『表現の自由―その公共性ともろさについて』を参照。

もしも文化産業とこれを国益とする国家が「タニマチ」の役に立たない文化享受者をあからさまに犯罪者扱いするようになれば、文化は次代の担い手を失って衰退するだろう。この成り行きを憂慮して現在の著作権制度の方向に疑問を投げる識者、憲法違反と論じる識者も出てきている[*5]。

[*5] その代表として、ローレンス・レッシグLawrence Lessigの名が挙げられるだろう。

刑事罰は人々を問答無用に従わせる威力があり、逮捕・取り調べの段階から各種の人権の停止を伴う強度の規制方法である。また、逮捕を受けた者が被る社会的スティグマ(汚名の不利益)も大きい。だから「疑わしきは罰せず」「罪刑法定主義」といった権力抑制の原則があり、全体の方向として「刑法の謙抑性」や「刑法の補充性」の原則が確認されている。憲法のほうでも人権への規制が必要限度を超えるものにならないように、アメリカ流の憲法訴訟論からは立法目的と規制手段の両方についてさまざまな憲法的ハードルを設け[*6]、ドイツ流の理論からは「比例原則」によって規制の強度を抑える思考がとられてきた。

[*6] とくに刑事罰については、他にもっと人権制約の度合いの少ない手段があるときにわざわざ強度の高い手段を選択している場合には憲法違反となるとするLess Restrictive Alternative(LRA)の原則に照らして考える必要があるだろう。

著作権法の刑事罰規定は、こうした基準に照らしたとき、過剰な規制と判定される可能性が高い。違法ダウンロード行為が刑事罰の対象となった法改正でこの問題は看過できるものではなくなってきたため、社会的議論として浮上することとなった。

刑法、民法、憲法と著作権法の地図確認

この話が全体の中でどのような位置にある話なのか、あるいは問題群がどのように広がっているのかを見るために、地図を概観してみたい。

法律は大きく分けて憲法・刑法・行政法などの公法、民法や商法や労働法などの私法に分けられる。憲法は国家などの公権力と国民との関係を定めた《公法》である。一方、私法の領域は原則として市民同士の自由意思でさまざまなことを取り決めていく《私的自治の領域》で、国家に「市民の自由を守れ(介入はするな)」と命じるのが憲法である。しかし現代では人権保障と福祉の実現という観点から国家の守備範囲が広がり、それに合わせて憲法も私法領域を間接的にカバーするに至っている。こうした経緯を総合して、憲法は、国内のすべての法について、その法の影響下に置かれる人々の人権ないし福利に資すること、およびその法の影響下に置かれる人々の人権ないし福利を害さないことを求めている(憲法前文、98条)。

知的財産権の制度は模倣表現や模倣品売買を一定のルールに服させることで、表現の自由や経済活動の自由に一定の制約を課している。こうした規制のさまざまな場面が憲法裁判になったときにどういう理論で解決していくかという問題は、日本ではまだ判例蓄積のない分野だが[*7]、英米には判例の蓄積もあり、研究者の間では検討されている課題である[*8]。

[*7] 日本の裁判では、憲法判断なしで解決できる事案については憲法判断をしないという「憲法判断回避の原則」が強く作用する。

[*8] 大日方春信『著作権と憲法理論』、山口いつ子「表現の自由と著作権」、小島立「著作権と表現の自由」、大林圭吾「表現の自由と著作権に関する憲法学的考察」、阪本昌成「小島報告のコメント」。

知的財産権は全体としては私的自治の原則を基本原則とする民事法領域の権利である。権利は権利者が主張したければ主張できるし、黙認しようと思えば黙認してもよいものである。もちろんスマホの技術をめぐる特許や意匠権の訴訟を見ればわかるように、先端技術による商品価値(から得られる収益)を争う特許の世界で、権利侵害を受けた企業が侵害を黙認することはまずないだろう。

しかしそうした競争も、基本的にはそれぞれの主体の自由意思に委ねられている。権利者と利用者の間に合意があれば十人十色の選択があってよいというのがもともとの基本だから、『レ・ミゼラブル』の神父には、ジャン・バルジャンを逮捕しようとする警察官を制止して、彼に食器をプレゼントする自由がある。

これが全体の骨組みだが、この骨組みの上に罰則(刑事罰)の規定があるのが知的財産法の特徴である。侵害となる行為の中止(差止め)と損害の回復を加害者に求めるのが《民事》の措置であるのに対し、侵害の防止と処罰を目的として警察力に訴えるのが《刑事罰》である。現在のデジタル技術社会・インターネット社会では、劣化のない複製と情報の無限拡散が可能になったことにより、権利侵害も短時間に拡散し、侵害を受けた者が侵害者に対して法的な装置を講じることが難しい場合が多い。これに対応するために罰則強化などによって権利保護を確実にする必要性が主張され、度重なる法改正もその方向を反映している。

罰金は近年の法改正で相当な高額に引き上げられており[*9]、そのインパクトもさることながら、「警察」によって「犯罪」として扱われる(「逮捕」される)ことの社会的・心理的インパクトも大きい。このインパクトは刑法の一般抑止機能と言われ、刑法の社会的役割として期待されているものである。しかし「表現の自由」への規制として社会に萎縮効果を与えやすく、逮捕された当人にスティグマを与えることを考えると、看過できない副作用を持つ《もろ刃の剣》である。2012年の法改正による違法ダウンロード刑事罰化も、この角度から大きな議論となったことは記憶に新しい。

[*9] 例として、特許法第196条では特許権を侵害した者は10年以下の懲役または1000万円以下の罰金、著作権法第109条では著作権または著作隣接権を侵害した者は10年以下の懲役または1000万円以下の罰金が定められている。他に不正競争防止法や意匠法にも刑事罰規定がある。

これまでのところ、この罰則は親告罪(被害者からの告訴があってはじめて刑事事件となるもの)となっていることから、表現領域への委縮効果もそれなりの歯止めがかかっていた。現在の著作権法の組立てからは、《権利者自身が権利を行使する意思はあるが自力では加害者を特定しにくく、民事のルートでは法的救済を受けることが困難》という状況の中で、《侵害行為を早急に止めさせて利益の逸失を止めたいと切実に望んでいるような場合》に、刑事告発をして警察力を借りるルートがあるのだ、と理解することが可能だった。つまり制度全体の足場はあくまでも民事上の権利とその救済にあり、刑事罰は権利者の意思の範囲内で、民事ルートでの救済が困難な場合にこれを補う応急止血の手段として存在している、と理解することができたのである。

だから、著作権法には二次創作表現をお目こぼしする一般規定はないが(採用されなかったが)、二次創作をしたいと思う者は、意思決定者である著作(権)者から黙認してもらえるような実践を積み重ねることで道が保たれると期待できていたわけである。

その実践の軌道に沿う形であれば、著作(権)者がファンの好意表現を無碍に扱うことはないだろう、との期待の下に二次創作を自己実現の場としてきた人々にとっては、この《期待》が萎縮効果への避雷針となっていた。そこでは「逮捕者が出た」というニュースも、一方的に萎縮効果を及ぼすわけではなく、「これをやったら著作権者は刀を抜いてくるぞ」という学習材料として作用してきたと言える。

こうした文化的実践の蓄積は、法の世界でも尊重されるべきものである。海外の著作権法にあるような「フェア・ユース(公正な利用)」の一般規定を設けていない日本の著作権法のもとで、刑事罰の非親告罪化が実現すれば、こうした文化的実践が大きく損なわれる可能性がある。

もっとも、丁寧に考えれば、複製権や上映権などの権利について著作権法が保護するのは、著作者よりも著作権者である。わかりやすいのは音楽アーティストと音楽事務所の関係だと思うが、事務所と契約を交わしたアーティストは自分のオリジナル曲であっても事務所を通さずに楽曲利用を許諾することはできなくなる。個々のアーティストがもたらす収益は、企業や業界全体を支える収益だから、アーティストの一存で、タダで利用許諾をすることは認められず、企業が権利譲渡を受けるか管理するという行き方が採られている。

このような方式も私的自治領域の知恵として出てきたことだから、双方に合意があって著作者の利益を不当に害するものでない限り、基本的には自由である。しかし、もしも国家がこれにとってかわって《利益の取りはぐれのない仕組み》を社会に一律に敷こうとしているのだとしたら、話は別である。そこでは、法制度の根本的な変質が生じることになる。

たとえば、ネットではプロの漫画の吹き出しの中に自分の短文コメントを入れた表現や、映画の一場面に独自の字幕を添えるパロディ表現がある。自ら漫画を描いたり映画を撮ったりする技術を持っていない一般人が社会状況や政治を批判したり風刺したりする警告表現を発したいときには、既成の著作物をこのように使う方法がよく使われる。現在でもこの種の表現に対して著作権者の権利行使があれば著作権が当然に優位することになるのだが、この現状に加えて、著作権保護制度が警察に独自の判断権を与える制度に変更された場合、このような市民的自由領域の表現が巻き込まれてくる蓋然性は一挙に高まる。

社会状況や政治を批判したり風刺したりする警告表現や、これにコメントを述べる政治的意見表明は、憲法のほうから言えば、その自由がもっとも保護されるべき市民的自由に属する。著作権法は表現を正面から禁止的に規制するものではないが、その表現内容に他人の著作物が含まれていた場合には差止めまたは高度な権利処理が要求されるというのは、表現者にとっては十分に重い負担であり、「表現の自由」に対する制約になっている。

これに加え、著作権侵害への刑事罰を非親告罪とした場合には、こうした表現が、著作者・著作権者の意向と関係なしに(著作権制度の本来の趣旨からも離れて)警察力によって抑制される可能性もある。これは今、多くの論者が「別件逮捕」の問題として危惧しているもので、憲法のほうからは規制対象が「過剰に包摂」されることの問題となる。この懸念は、10年前に起きた「立川反戦ビラ事件」[*10]を考えてみれば、杞憂とは言い切れない。そのような惧れはない、と立法者側が考えているとしても、そのような惧れを市民に与えているという事実は、萎縮効果の問題として斟酌されるべきだろう。

[*10] 自衛隊イラク派遣に反対する見解を書いたビラを自衛官宿舎のポストに入れた市民団体メンバーが住居侵入罪で逮捕された事件。2004年の東京地裁判決では無罪判決が出たが、その後の高裁・最高裁では有罪となっている。

国家が自由を規制する場面、とりわけ刑事規制を行う場面では、法律の内容がこのような可能性を含んでいる場合、国が「そのような運用はしませんから国を信頼してください」と言うのをそのまま通すことはできない。市民的自由への制約を伴う法律は、厳しい憲法チェックを受けなければならない。【次ページへつづく】

近代型放任から現代型規制へ、あるいは「二重の基準」

経済領域は近代革命期に、当事者の意思の自由が基本とされる市民の「私的自治」の領域となった。人は自分の才覚で新しい事業を起こすこともできるし、自分の才覚と努力で生み出した収穫は自分自身の収益として良いわけで、そこに身分制による資格制限や許可制や恣意的な収奪が課されてくることを拒否するというのが18~19世紀末の欧米で確立した《近代》の基本原則だった。「財産権」を絶対的に重要な「不可侵の権利」と見る見方も、正理としては、国家による理不尽な支配や収奪に抵抗するためのものだった。

こういう文脈から、近代憲法を生み出した当初の国家は、自由放任(介入しない)という形で国民のさまざまな活動の自由(自由権)を保障することが求められていた。ここでは他者の利益を侵害する行為や、放置しておくと侵害的な結果が起きる蓋然性が高いためどうしても調整が必要な事柄(交通ルールなど)のみが規制の対象になる。このことは日本の憲法では13条に表れている[*11]。ここで正当化される国家介入は《必要なこと》に絞らなくてはならず、政権担当者の価値観でもって《余計なお世話》をしてはならない。とくに「思想良心の自由」や「表現の自由」といった市民的自由については、国家が国民の政治的意思や生き方を誘導する《余計なお世話》は厳に慎むことが求められている。

[*11] 憲法13条「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。ここで自由権が「最大限に」尊重されることの裏返しとして、自由権を制約する法律は、国(政権担当者)の選好で作ることは許されず、「公共の福祉」によって正当と認められる目的が存在しなければならないし、目的の正当性が認められた場合にもその規制のあり方は必要最小限のものでなければならない。この「公共の福祉」は、国にとってなんでもありのマジックワードとして使われることのないよう、憲法のフィールドではその内容を定義づけて絞り込むさまざまな理論的努力が行なわれてきた。

こうした国家のあり方を「消極国家」と言う。著作権侵害は窃盗と同じだという理解は《正当な利益を不当な収奪から守る》ということだから、この路線上にあることになるのだが、現在、それ一本で説明を完了する見解は少数である。著作権法を含む知的財産制度を支える原理としては、利益を確保する制度を作ることで創作者やこれに投資しようとする事業者の意欲を支えるという「インセンティヴ論」があり[*12]、これについては次の積極政策型の国家観を前提にして理解する必要がある。

[*12] 田村善之「知的財産法 第5版」を参照。

20世紀に入ると、経済活動の領域については、上記の消極的な原則とは異なる国家的配慮が加わることになる。経済社会の実情に照らすと、上記の原則だけでは格差の拡大を止める仕組みがない。また急激な経済状況の悪化が起きたときには国家が国民の生活を支える必要も出てくる。そこで弱者保護や市場の健全化・経済の安定化のために、国家が経済領域を規制する政策を行う方向に転じてきた。憲法でもその必要性・正当性を認めた上で、条文制定と理論化が図られるようになる。このことは、日本国憲法では22条(職業選択の自由)と29条(財産権)の条文にある「公共の福祉」に現れている[*13]。

[*13] 近代・現代の整理については樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』、財産権については中島徹『財産権の領分―経済的自由の憲法論』を参照。

ここから、経済社会がうまくいっていないときには「財政出動を伴う積極政策で経済全体を活性化しよう」という戦略発想も許容されるに至っている。知的財産保護の強化による産業経済活性化、文化の活性化、そしてその収穫としての国益の増強ということも、その発想の中に位置付けることができる。もっとも、日本国憲法が採用した「公共の福祉」の筋からは、そこで目指される「国益」の増強は、国民に還元される福利から説明できるものでなければならない。現在の著作権保護強化は、ここのところで説明がつくものかどうか、問われなければならないだろう。

上のような国家の役割の歴史的変化は憲法理論にも反映され、「二重の基準」と呼ばれる思考枠組みが憲法の判例・学説で広く共有されてきた。これは、憲法13条を根拠にして規制される「自由」の領域と、憲法22条・29条によって規制される経済的自由の領域を分けて考え、自由への規制が憲法違反だという疑義が裁判所に出されたときには、それぞれ異なる基準で判断するという考え方である。

この考え方では、精神的自由の領域の人権を規制する法律や行政について憲法違反の疑いがあるときは裁判所が厳しくチェックし、経済的自由の領域の人権を規制する立法や行政行為の場合には立法府や行政府の判断を尊重してその裁量を広く認める方向で緩やかにチェックすることになる。「表現の自由」に関する規制は、精神的自由の領域への規制として厳しいチェックを受けると同時に、その社会的重要性と脆弱性からとくに「優越的権利」として強い保護を受ける。著作権法は、このように強い保護を受ける権利を制約する法律なので、本来ならば厳しいチェックを受けるべき法律だということになる。

これがまず基本となる「二重の基準」の考え方だが、ここに、もう一段の区分が加わる。現代的な「公共の福祉」の制約を受けるとされる経済領域にも、国民の権利や安全を守る(危害の防止)という目的(消極的目的)をもつ法律と、経済の安定化や活性化や弱者保護など社会政策上の目的(積極的目的)をもつ法律がある。これを見分けて、前者については規制が必要な限度を超えないように裁判所がチェックするべきだが、後者については国の政策判断を尊重し、裁判所は原則として国の判断の詳細には踏み込まない、とする場合分けが加わるのである。

こうした整理に照らしてみたとき、著作権法は、「精神的領域か・経済的領域か」「近代消極型(侵害排除型)か・現代積極政策型か」と一括して言うことはできない複合的な内容になっているため、もう一段の腑分けが必要だろう。

著作権法の多面性と循環性(1)表現規制法か、経済規制法か

先に見たように、憲法のフィールドで考えるときには、それが経済分野にかかわる規制なのか「表現の自由」にかかわる規制なのかということが一つの分岐点となり、それによって「これは憲法違反なのではないか?」と考えるときの判断の仕方が変わってくる[*14]。

[*14] 著作権法保護のためのルールが一般の表現活動に何らかの制約を課す表現規制になっているときには、まずそこに切迫した必要性・正当性があるかどうかが吟味されなければならない(目的の正当性)。次に、そういう必要性・正当性があっての規制であるとしても、規制手段が必要な限度を超えていないかどうかが吟味されなければならない(手段の相当性)。刑事罰という、もっとも強い方法を導入することについては、こうしたハードルをクリアしているのかどうか、慎重な吟味が要請されるはずである。

知的財産権のうち、特許法、意匠法、不正競争防止法などの法律群(産業財産法)は、「業として」行った行為を規制対象としているので、経済的自由の領域に属する事柄を立法目的としたものであることははっきりしている。これらの法律は個人が趣味や勉強のために作った模倣作品を侵害に問うものではないので、一般の「表現の自由」や幸福追求権と衝突したり、委縮効果が生じたりすることは考えにくい。

一方、著作権法は、産業上の創作と経済市場への参加を目的としない文化的表現とを分けていない。著作権法が言っていることは「権利者はこれこれの行為(たとえば絵画の複製や映画の上映)を実行する独占権を持っているので、権利者以外の者は無断でそれをやってはいけない」⇒「やりたければ権利者の許諾を得てからやりなさい」、ということである。ここには言外の意として、「多くの場合に権利者は、許諾するにあたっては対価を得たいという意向を持っているはずだから、そのあたりのことについては合意を作りなさい」⇒「その合意は(契約として)双方を拘束します」ということになるので、常識的にはこの法律は経済的利益に関するルールとして扱われる。

ただ、それらのルール内容は、経済的利益の発生しない表現活動にも及んでいる。規制には、趣味で無償で行う表現活動や、世論形成の一局面として現れる政治的意見表明や情報共有、「表現」の定義によっては「表現」とは言わないかもしれない文化享受までが含まれてくる。プロ向けに発せられた牽制ボールが、素人のアマチュア表現者にデッドボールとなって当たってしまうことを、著作権法が十分に回避できているかどうか。《そこを回避しようとしたら重大な利益逸失を防げなくなる》というのが、立法者側の意図だろう。一方、《そこを回避できていない点で著作権法は市民的自由の不当な制限になっている》というのが、現在多くの市民から出されている疑義である。

著作権法は、法文を素直に読む限り、「文化の発展」が立法の目的となっており、その目的のために《権利保護》と《文化的所産の「公正な利用」》との間でバランスを図ることが目指されている[*15]。これを素直に読めば、経済利益確保のためのルールとされる部分も、それ自体が即自的価値として扱われるのではなく、「そのルールが文化発展の役に立つのか?」という問いをクリアする限りで保護されるべきことになるし、憲法への係留を考えるならば、その文化発展は、国民の福利の一環として考えられるべきものだろう[*16]。

[*15] 著作権法第1条 「この法律は、…権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与することを目的とする」。

[*16] 現在のTPP交渉からはこの問題意識が抜け落ちて、経済的利益としての「国益」が即自的価値として扱われた上で利益調整のカードとなっていることが指摘されている(中山・福井「対談・デジタル時代と変わりゆく著作権」参照)

この問いに対して著作権法の裁判理論は、《著作権者の利益保護が創作意欲への動機づけになっている》という側面から、《これらのルールは文化の発展に役立つ》と答えてきた。この説明では経済的利益と表現文化との好循環の関係が目論まれているが、今、この好循環が本当に成り立っているのか、という根本的な疑義が出されているのである。

そうしたさまざまな議論を斟酌しながら、著作権法の特性を、目的、期待される役割、規制内容(対象および規制方法)、社会的影響に分けてそれぞれの面から見ると、次のように整理できる。

(1)目的については第1条の文言を素直に見る限り「文化の発展」を目的にした法律である。

(2)期待されている役割・機能は、経済的利益の公正な還元と調整である(これは経済的利益の確実な還元とは完全には重ならないこともありうる)。

(3)その規制の内容を見るならば、規制内容の多くが営利活動であるか否かを問わず《表現活動》を対象としており、その規制手段は差止めや刑事罰といった、「表現規制」としては最も重いタイプの規制を多く含んでいる。

(4)規制内容が広い範囲の表現活動を含むため、立法者の意図や期待された機能を離れて起きる結果的影響(社会的現象)として、「表現の自由」への委縮効果が起きる可能性があることを視野に入れなければならない[*17]。

[*17] 6月9日の参議院での山田議員の質問も、この問題を指摘したものだった。

著作権法の多面性と循環性(2)消極規制と積極政策

知的財産法(とくに著作権法)は、先に見た《近代型消極規制か、現代型積極政策か》、というところでも、その両方が循環的に組み込まれている複合的な性格を持った法律群だと言える。

もともと文芸や美術や音楽といった創作表現をしようとする人間の意欲や、それらが人々に与える感銘という価値は、国家によって支援されるまでもなく、人間が自発的に生み出すものである。産業の発展を促してきたさまざまな先端技術についても、新しいものに活路を見出そうとする人間の意欲や、自分が正当に得た財産を不当に奪われない権利は、国家の存在以前のものと言える。憲法はそういうものを、幸福追求権、さまざまな精神的自由、そして経済活動の自由としての「職業選択の自由」や「財産権」といった「人権」として保障している。

ここで「保障する」とは、自発的に行われる活動を国家が妨害も強要もしないということを意味する(著作権法は著作物を作ることを禁止したり要求したりしているわけではない)。知的財産法は、創作表現が行なわれた後の利害関係を「権利」の話法によってルール化することで創作者の意欲を支えていると考えられている(インセンティヴ論)。

こうしてみると著作権法は、一方では《経済的利益》を確保するルールが《創作表現への意欲》を支えるという形で経済と表現文化の好循環関係が目論まれ、また一方では《正当な利益の不当な逸失を防ぐ》という消極型の規制が《創作者や投資者の意欲を支える》という積極型の政策目的に資するという形で、消極目的と積極目的の好循環関係が目論まれている。憲法の領域で思考整理のための理念型として共有されてきた二つの二分論が、二つとも循環関係の中に取り込まれているのである。

ところで、経済領域への国家の介入というのは、憲法のもともとの趣旨では、福祉国家化に伴う経済的自由への修正ということだったはずで、日本国が弱者切り捨てに堕さずに《必要なケア》を政治アジェンダに組み込むためのグランド・デザインだった。ここでは国民への福利還元と関連付けることができない「国益」、まして「公共性」のフィルターを通さないむき出しの「財界の意向」が人権制約の理由となることは想定されていない。この原点に照らしたとき、現在の著作権保護強化の方向は、近代自由主義的な法のあり方から見て《余計なお世話》、現代福祉国家的な法のあり方から見て「公共の福祉」からの脱線、さらには本来の「インセンティヴ論」が期待する循環の軌道からも脱線して、近代への転換期に人々が拒否した《既得権者によるルール支配》に近づいてきているのではないか、との疑問が湧く。

もちろん、表現・文化の領域にたいして国家が積極的支援の姿勢をとることを《余計なお世話》として丸ごと否定するべきではないだろう。国家による文化支援政策[*18]は「文化国家」のあり方として受け入れつつも、《国家が慎むべき政治介入や誘導》をどう見分けて防ぐかという議論が進められている。この流れからすれば、著作権法が創作への意欲を支えて高めようとする意図を含んだ制度であることも原則としては肯定的に位置づけられ、その上で本来の制度目的から離れた特定産業保護に傾いていないか、表現内容を不当に統制する部分が含まれていないかどうか、また意図せざる結果として市民的自由を過剰に巻き込む部分がないかどうかという観点から、その限界を見極めていくという筋道になるだろう。【次ページへつづく】

[*18] 「文化芸術振興基本法」がその一例である。この分野についてはとくに横大道聡『現代国家における表現の自由』を参照。

知的財産と「人権」

著作権の侵害は「窃盗」だ、と言われることが多い。筆者自身も、短時間でとりあえず理解してもらおうと思ったときにはこの喩えを使うが、このアナロジーを出発点に据えてしまうと、重い刑事罰があることが最初から「当たり前」のように思えてしまい、つい思考停止を起こしてしまう。これが問題である。

現在のさまざまな議論は、《権利者の経済的利益を強く保護していくのか、それとも、さまざまな著作物を文化的公共財産と位置付けて一般人にとって利用しやすいものにしていくのか》、という二つのベクトルの間でどう適正なバランスを見出していくか、というところに集約されるだろう。これは民主的議論(世論)に対して開かれるべき政治的争点である。この二つのベクトルは、相互補完的な役割を果たしながらwin-winの循環を描く関係として「調整」できれば理想だが、これが世界的に大きな政治的争点となっている現在、この二つのベクトルがwin-winの循環ではなくゼロサム的な緊張関係に立っている――そうした実感を持っている消費者・表現者が増えている――という事実は、認識する必要がある。その一方の当事者のニーズを刑事罰という問答無用の強制力によって社会に課すことは、人命や人身の自由のような普遍的価値(人権)を守るために殺人罪や人身売買禁止の国際ルールを設けることとは、位相が異なる。

人権とは、議会の決定(多数者の決定)に優位するルールとして「これは人権だから守れ」と言える特別な重さ・強さを持った権利のことである。「表現の自由」はここに属する。「経済的自由」の一環としての「財産権」も、先に見たようなさまざまな制約や調整が入るという条件つきで、人権である。知的財産権は、その具体化の一場面ではあるが、国家によって政策的に作られた権利としての側面を持つため、これらと同列の権利とは、一般には考えられていない。

したがって、「表現の自由」と著作権法のルールが衝突した場合、その二つが対等な重さで比較され、「窃盗」のアナロジーと近代型の侵害排除の論法によって著作権保護が優先し、「表現の自由」のほうが当然に規制を受けるというのは、本来の筋とは異なっている。逆に、《切迫した必要のない理由や過剰な規制手段で「表現の自由」を制限してはならない》という原則が著作権に上位する憲法ルールだということを、確認しなければならないだろう。

アメリカの裁判では、この憲法ルールにのっとって「表現の自由」への規制の合憲性を厳しくチェックする作業は、著作権法に限っては不必要だという考え方がある。著作権法と「表現の自由」とのバランス調整はもう済んでいるので「表現の自由」への規制をチェックするときの厳しい基準は必要ないという考え方なのだが、当のアメリカでも、この考え方を見直す議論が勢いを増している[*19]。憲法に抵触しないように配慮する調整はあらゆる法律を策定するときに行われなければならないことである。それに対して市民の側から権利侵害の疑義が出されたということは「その調整の仕方ではダメだ」ということなのだから、「調整した」という理由はその疑義を門前払いする正当な理由にはならないだろう。

[*19] 日本で最も有名な裁判として、「エルドレッド判決」Eldred v. Ashcroft, 537 U.S.186, 123 S. Ct. 769 (2003)を挙げておく。

「憲法判断回避の原則」が強く働く日本の裁判では、著作権法と憲法の関係を正面から扱った判例はまだないが、もしも裁判所が著作権法と憲法との同期化に踏み込む事案に直面したときに、この「調整済み」という論法が「立法裁量論」に織り込まれて使われることになるとしたら、それは誤りである。その場面で「議会の判断を尊重し、裁判所は踏み込まない」との立法裁量によって門前払いをしてよいのは、「積極的政策としての創作インセンティヴがまだ足りない」、あるいは「ベストな方策になっていない」「他にもっと有効な方策がある」という申し立てが出たときだろう。こうした訴えは「民主主義のルートで実現を目指してください」ということで「立法裁量」となる。しかし「その政策は憲法上の人権(表現の自由)を侵害している」という訴えをこの筋道に回収することは、誤っている。

TPPとの関係は

現在交渉が進められているTPP(「環太平洋戦略的経済連携協定」)には、知的財産に関する取り決めが含まれていることが伝えられている。著作権法に関する内容としては、現在、新聞報道や識者の論説や市民の情報提供によって知りえた情報によると、著作権の保護期間の延長および刑事罰の非親告罪化が要望されており、日本はこの要望を受け入れる公算が強い[*20]。これによって国民が文化を享受することにかかる金銭が上がっていくことは必至だから、この著作権保護強化の内容は国民への文化的福利の保障と緊張関係に立つことになる。

[*20] TPPと著作権との関係については、福井建策『ネットの自由vs著作権』参照。直近の動向については、中山・福井「対談・デジタル時代と変わりゆく著作権」、特集「著作権の文化経済学」(エコノミスト)を参照。

条約や協定などに関する外交交渉の交渉過程というのは、国民にリアルタイムで明らかにしなくても、国会で事後承認でも良いとされているので(憲法73条)、表向きは憲法違反とならない。しかし、あらゆる事柄について国際化が進んだ現代国家では、外国との取決めが国内の国民の福利にも重大な影響を与えることになるので、内閣が行った外国との取決めが国民との関係で憲法違反の内容を含んでいる場合や、国会の事後的承認が得られないことになった場合のことも考えておく必要がある。そういう場合にはどうすべきか、という問題は1950年代以来、安全保障問題をめぐって議論され続けている。

TPPの場合にも国内の経済や生活に大きな影響を及ぼす内容が想定されること、協定が発効した後は生産品の価格や安全基準や著作権の保護期間などの重要な事柄が日本国内の討議プロセスを経ずに共有される仕組みになる可能性があること、その意味で憲法が定める意思決定と民主的コントロールの仕組みに抵触することなど、多くの点で憲法の観点から問題がある。

ところで、先ほど筆者は、著作権保護強化が結果として市民的表現の自由を巻き込んでしまうことにもっと注意を払うべきだ、という言い方をした。しかし、「アベノミクス」の性格を考え併せたとき、じつはこれは意図せざる結果ではなく意図された策ではないのかとも推論したくなる。現在伝えられている保護期間延長と刑事罰の非親告罪化のセット(しかもこのセットの中には「公正利用」の一般規定を置くという中和策が入っていない)は、ほぼ強制に近い《消費への誘導》であり、これは《眠っている預金をあらゆる手段で市場に出させる》という現在の政府の経済活性化手法に通じるものに見えるからである。

アメリカで1980年代から推進された「プロパテント政策」も、ある種の「価値づけ」の錬金術を含むものだったことは否めない。いわゆる「ITバブル」の時期に、「知財ブーム」と言うべき期待過剰現象も見られ、日本の有名企業の中にも、これで過剰に勢いづいた結果疲弊した衰弱者が存在する。

ブームが去って、ブーム最盛期にあてにしていた収益が取りきれず、苦難に直面しながら体質改善を余儀なくされる産業部門が出てくるというのは、あらゆる経済活動について起こりうる現象である。たとえば、連鎖倒産の危機にある特定の業界(建設業や銀行など)を税金を使って支援・救済することはこれまでも何度か行われており、そのたびにそこに国民の税金を使うことの是非をめぐって、議論が戦わされてきた。もちろん、エンタテイメント系の企業を政府が半国有化することは考えにくい。しかしその議論との対比で考えてみたとき、膨らみすぎて一歩間違えば投資倒れの危機にあり、是が非でも期待した収益を確保しなければならない(外国の)特定の業界を、国民の《自由権》の制約と《消費の強制》を引き換えにして支援することを、国民が喜んで認めるかどうか……。こうした策の賢愚については憲法裁判の及ばない政策判断の領域ということになるのかもしれない。しかし、そうであればなおのこと、国民に対してその都度の情報が開かれ、意思表明のルートが開かれていなければならない、ということだけは、憲法の要請として指摘しておかなければならない。

刑事罰の非親告罪化は、日本以外のTPP参加国は非親告罪の制度を持っていないから、という形式的理由もあるだろうし、より実質的には外国での権利侵害に対して企業が逐一侵害の実態を把握して告訴するのは手間がかかるので、「侵害を見つけたらそちらの判断で動いてくれ」と現地の警察に委任できれば産業界にとって省力メリットになると考えられる。また、日本以外のアジア諸国で多発する著作権侵害を抑え込むことがアメリカにとっての主要関心事であって、ここで日本の親告罪制度が抜け穴として作用することのないように穴のない防衛ライン作りへの協力が求められているのかもしれない。それぞれに、利益の確実な回収という観点からは理解できる。しかしこれが制度として動き出せば、利益の逸失を敢えてルーズにあいまいに黙認するという文化人的配慮を、著作(権)者自身にさえ認めない制度になりうる。この成り行きは、著作者の創作意欲を支えるインセンティヴとは異質のものとなるだろう。

TPPで著作権侵害への刑事罰の非親告罪化が合意された場合、日本では、この問題を自分たちの頭で考え自分たちの知財文化慣行を形成していく時間的余裕と人的・空間的余地が相当に狭められることになる。せっかく自生的なルールがボトムから形成されてきているところで、そうした強引なトップダウン型の刑事規制を強行すれば、禍根を残すことになりかねない。

さいごに

現在報じられているTPPの内容が、著作権法の刑事罰強化の方向に拍車をかけるものになっていることはたしかだが、仮に今後TPPの中で「非親告罪化」は危惧したほどの徹底さでは採用されなかったとしても、著作権制度が刑事罰頼みの制度に傾いているという問題はそれとして議論し続ける必要がある。そこで最後に、著作権法における刑事罰の強化はどういう意味を持つのか、というところをまとめておきたい。

これまでは、刑事罰(警察による摘発・逮捕)は、著作権法の中の特殊なケースと考えることができた。法文上はかなり広汎な適用範囲が定められていても、権利者が刑事罰を望むのはかなり悪質な場合であろうと期待できたし、文脈から見て黙認されることを期待できる場合もある。音楽、映画、アニメなどの領域で、「もしも今あの作家が存命していたら、この作品については、市民の意見表明投稿の材料として利用されることを許諾したいと望むかもしれない」と思えるような作家も思い浮かぶ。

しかしそれらの作品は産業界にとって貴重な収入源であると同時に、国家にとっても国益となるため、そのようなルーズさは認めない方向が目論まれているのかもしれない。知財に対して国民が支払う料金そのものは税金ではないが、その強化(著作権保護期間の延長を含む)によって国民の「消費」が増えれば、政府の通信簿である景気動向へのプラスともなり、税収の増加にもつながる。「表現の自由」や「幸福追求権」といった精神的・人格的・市民的自由の領域にある文化享受は、《不用意に巻き込まれている》のではなく、《消費創出》のために動員すべき潜在マーケットと見込まれているのかもしれない。もしもこの仮説が当たっており、著作権制度が――とくにその中の刑事罰の制度が――、市民的自由に属する行為を「消費」という経済活動領域へと駆り出すために使われているのだとすれば、これは制度の目的外使用と言うべきだろう。

産業界と政府は、《著作物は、利益収穫のための資源(生産財)だ》との価値観を当然に共有しているため、この方向を推進したいかもしれない。しかし著作権法1条を読む限り、著作権法の保護下にある者は権利者だけではなく、「文化」享受者全般である。また、権利者の中には、その価値観を共有しない者も存在する。著作権制度は、そうした千差万別でありうる文化享受者・権利者の《意思の多様性》を保護する制度から離れて、産業界および国家にとって《取りはぐれのない画一的な制度》へと方向転換しつつあるのかもしれないが、民主主義国家であれば、ここに「待った」をかけて議論を尽くさねばならないのではないか。

今の方向は、先に見た積極国家における「公共の福祉」の筋から説明することのできない、むき出しの「特定産業利益≒国益」である可能性が高い。この流れの行き着く先に、20世期の南アフリカのダイヤモンド鉱山の絵図――警察や軍隊を使って企業の資源利益を自国民から防衛する風景――が思い浮かぶのは、筆者の連想過多であることを祈りたい。しかし、その方向を是としない人々がさまざまな角度から疑問を投げかけている現在、この領域で必要な憲法論を組んでいくことと民主的討論を活性化させることは、喫緊の課題と言えるだろう。

参考文献一覧

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奥平康弘『「表現の自由」を求めて』(岩波書店、1999年)

奥平康弘『なぜ「表現の自由」か』(東大出版会、1988年)、

大日方春信「著作権と憲法理論」(信山社、2011年)、

金井高志『民法でみる知的財産法』(第2版)(日本評論社、2012年)

小島立「著作権と表現の自由」新世代法政策学研究vol.8 (2010)

佐伯仁志「刑法の社会的機能の変容」新世代法政策学研究vol.11 (2011)

阪本昌成「小島報告のコメント」(全国憲法研究会編『憲法問題』21巻、2010年)。

田村善之「知的財産法 第5版」(有斐閣、2010年)

中島徹『財産権の領分―経済的自由の憲法論』(日本評論社、2007年)

中山信弘『著作権法』(有斐閣、2007年)

中山信弘・福井健策「対談・デジタル時代と変わりゆく著作権」(ジュリスト2014年2月号)

浜本隆志『海賊党の思想―フリーダウンロードと液体民主主義』(白水社、2013年)

樋口陽一『近代立憲主義と現代国家』(勁草書房、1973年)

福井建策『ネットの自由vs著作権 TPPは終わりの始まりなのか』(光文社、2012年)

毛利透『表現の自由―その公共性ともろさについて』(岩波書店、2008年)

山口いつ子「表現の自由と著作権」相澤英孝、大渕哲也、小泉直樹、田村善之編『知的財産法の理論と現代的課題』(弘文堂、2005年)

横大道聡『現代国家における表現の自由――言論市場への国家の積極的関与とその憲法的統制』(弘文堂、2013年).

特集「著作権の文化経済学」(エコノミスト2013年12月10日号)

雑誌『コミケ・プラス』1号、2号(2014年)における編集部による法律知識ページ

サムネイル「copyright (1)」Maria Elena

https://www.flickr.com/photos/melenita/9771579591

プロフィール

志田陽子憲法、言論・芸術関連法

武蔵野美術大学造形学部教授 博士(法学)。2000年より武蔵野美術大学で、「憲法」および表現者のための法学を担当。研究対象は、表現の自由と人格権、文化的衝突と人権・民主過程、文化芸術に関連する法律分野。映画や音楽などの文化の中に憲法の精神や歴史背景を探る講演活動がライフワーク。著書に『文化戦争と憲法理論』(法律文化社、2006年)、『映画で学ぶ憲法』(編著・法律文化社、2014年)、『表現者のための憲法入門』(武蔵野美術大学出版局、2015年)、『合格水準 教職のための憲法』(共著・法律文化社、2017年)、『「表現の自由」の明日へ』(大月書店、2018年)。

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