2015.07.06

加害者の手記――元少年Aによる『絶歌』発売から何を考え、議論すべきか

武田徹×藤井誠二×荻上チキ

社会 #荻上チキ Session-22#絶歌

神戸連続児童殺傷事件の元少年によって今月11日、元少年Aの名前で書いたとされる『絶歌』と題された本が、太田出版から発売された。事件から18年経った今、この本が発売されたに対して何を議論すべきか。TBSラジオ「荻上チキ・Session22」から抄録。(構成/住本麻子)

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「元少年A」という匿名性

荻上 今日はノンフィクションライターの藤井誠二さん、恵泉女学園大学教授の武田徹さんにお越しいただきました。まず、藤井さんは『絶歌』をめぐる様々な事象について、改めて何を考えるべきだと思いますか?

藤井 様々な視点があると思うのですが、今回の企画の前に土師守さん(被害者・土師淳くんの父親)と連絡を取り合いました。本当は土師守さんにこの番組に肉声で出ていただきたいとお願いを差し上げましたが、今日はお忙しいということでそれはかないませんでした。

ただメールのやり取りの中で、非常に心を痛めていらっしゃるということはよくわかりました。そこで私は、土師さんのような被害者遺族の気持を慮りながらお話を進めていきたいという気持ちはあります。

実は、今年の1月には太田出版とは別の出版社から「手記が出る」ということが『週刊新潮』で報道されていたのですが、一度立ち消えになったようです。そして今回突然出た。印刷も全部極秘裡でやったわけで、御遺族のショックは当然ですが、Aの矯正に関わった関係者もふくめて驚いたというわけです。

そこでまず思ったのは、「元少年A」という名前で出すというのが、すごくあざといと思いました。現在32歳ですよね。自分の経験を書いていて、元少年Aという名前で書いているわけです。「じゃあ君はいったい誰なの?」と思います。

ぼくはよほどの例外でない限り、この文章は誰が書き、この言葉は誰が発するかということは、責任の所在を明確にした上でやるべきだと思っています。文責をきちんとあきらかにするのが報道、表現の基本だと思っています。今回はそれをせず、ペンネームで筆名を付けるということすらしていないでしょう。

荻上 ええ、「元少年A」ですからね。

藤井 わざわざそういう名前をつけているということ含め、あざとい。昔の友人や同級生が出てきますが、そこから抗議があった場合、また全体やところどころで事実誤認があった場合、そしてご遺族からプライバシーの侵害などの抗議があった場合、誰が出てきてどう説明責任をとるのか、と思いました。

向こうからこっちは見えるけれど、こっちから向こう側は見えない。こっちから相手が見えない表現物に対して、それをまともに受け止めていいものか? という疑問を感じます。

荻上 メディアがこの本に注目するならば、どのような論点で報道するのか考える必要がありますよね。

藤井 過去に犯罪加害者が書いた本ってたくさんあるんですよ。市橋達也や秋葉原事件の加藤智大も書いています。それらはむろん実名で書かれています。犯罪加害者が書いてきた本はこれまで日本ではどういうふうに受け止められ、読まれてきたのか議論していきたいです。

一方で、遺族の承諾を得なければ加害者が手記等の表現をおこなってはいけないのかと言われれば、そういう法律もないし、もちろん遺族は出さないでほしいと言う権利はありますが、遺族ではない第三者がそう声高に言うのが正しいのかどうかという問題はあると思います。

これは「表現・言論の自由」の観点からそう簡単に割り切れる問題ではないとも思いますから、社会全体としては、そこは冷静に分けて考える必要があるとは思います。

荻上 語り方というものを見つめ直しながら議論をしていきたいと思います。武田さんは出版をめぐる経緯や議論はどのようにお感じになっていますか?

武田 私は、この本が出版された直後に読みました。現在、ご遺族の許可を取っていないことなどがひとり歩きして、バッシングが強くなった印象があります。もし、内容を読んだ上で議論していたら、流れも多少変わったんじゃないかなと思います。そういうバッシングが出るのは当然のことだと思いますが、一度仕切りなおして、冷静な議論をしたいと思いますね。

荻上 読んだ上でということは、この内容に価値はあるとお考えですか。

武田 かなりの切迫感はあります。ヒリヒリするような、切実な感じはある。なぜこの手記が、こうしたかたちで出されることになったのか考えろと迫っている印象があり、その問いかけを社会的に受け止める、共有する価値はあると考えました。

しかし一方でご遺族に対する問題はもちろんあるわけです。藤井さんがおっしゃるように、個人対個人の関係と、社会の問題をどうやって関係付けていくか、そういうことを議論するべきだと思います。

藤井 切り離しつつどう関係付けていくかは、メディアのあり方に関わる問題として、そして私たちがメディア人としてどう考えていくのか非常に難しい議論ですよね。

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藤井氏

出版の是非について

荻上 リスナーからたくさんメールが届いております。

「今回の手記出版なんて、出すこと自体意味がないと思います。買う人は、興味だけで買うでしょ? 被害者の気持ちを考えてほしい。仮に印税をすべて被害者にあげても、喜ばないでしょう。こんな手記を出させる出版社が信じられません」

「まだ本文を読んではいませんが、素性や身分を隠した上で自分の悪行を告白する、被害者家族にとってこれほど屈辱的なことはないでしょう。同じ殺人者の手記として永山則夫の『無知の涙』がありますが、あれは死刑囚であった永山氏が自分の素性を隠すことなく、自らの罪を償うという形で綴られています。対して今回の手記は、加害者の元少年は、自分は安全圏にいながら好き勝手に書けて、なおかつ印税ももらえるという。この元加害者少年もそうですが、出版社も商業主義優先で、モラルなんてどうでもよいのでしょうか」

藤井 本の中では印税は寄付するということは何も書いていませんが、太田出版の担当編集の方は、印税をご遺族に渡す予定があるようだ、とは言っています。しかしぼくの予想では、ご遺族は受け取らないと思います。

荻上 「弁護士ドットコムニュース」でのインタビュー(http://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_3240/)で担当編集の方がそう答えているようですね。対してこんな指摘のメールもいただきました。

「もし元少年Aが出版ではなく、無料で読め、収入にならない形のウェブのコンテンツとして発表されたとしたらどうなんでしょうか。元少年Aも表現したいことはあると思われますが、そのような形態なら、これほど問題にはならなかったのでしょうか? それとも、遺族にとっては同じことなのでしょうか? ちなみに手記は読んでいませんし、これからも読むことはないと思います」

藤井 出版社が儲からないかたちで社会公益性を満たすかたちでやるという方法は、色々あります。そこで読んだ人が意見を書けるような仕組みをつくるとか、顔を晒すことは難しいかもしれませんが、存在の真偽を示すという方法についていろんろなやり方が考えられてよかったはずです。

ただご遺族にとっては、個人と個人、被害者遺族として、あくまで個的に、それも激しい逡巡の中でやりとりしてきた言葉がオープンになってしまうという意味では同じなので、気持ちは同じだと思います。とくに土師さんはずっと「元少年A」から届けられる手紙を開封すらしていなかったわけですから。

ただ武田さんや私のような立場の人間が複数関わってインタビューをするとか、信憑性を担保するような仕組みをつくれば、また議論の方向性も違うのかなという気がしました。そして、承諾は得られないでしょうが、遺族にはきちんと事前に伝えるのが最低限の人としての、とくに加害者としての礼儀でしょう。

荻上 いじめ事件などでは、当事者参加型の検証委員会が組織されるようになりつつあります。そういうかたちならば別の反応もあったのではないかということですよね。

藤井 その可能性もあります。

荻上 いただいたメールを紹介します。

「犯罪者の手記というのは、これまでにもたくさん出版されてきたと思います。今回の件がこれほど問題にされているのはなぜなんでしょうか?」

武田 永山則夫の話が出ましたけども、彼は死刑囚として収監されて、その中で手記を出したということですよね。ですが、今回の場合は少年法の枠組みの下で、矯正教育を施すある程度の期間を経た後に加害者は社会復帰しています。社会の中にいるからこそ、「元少年A」としか名乗れなかった事情があると。そこにも実は少年法との関わりがある。

荻上 このようなメールも来ています。

「早速読みました。加害元少年の心境の変化を伺い知ることができたと思います。この手記の出版に関し、賛否両論あることは容易に想像できましたが、もちろん遺族の方々の賛同を経て出版できればよかったのだとは思いますが、それはなかなか難しいとは思いますし、だからといって出版できなければ、私が彼の心境を知ることはできません。専門家だけで読ますべきとの言説もありますが、少なくとも彼は法的には一般の権利回復している状態でいることを考慮すると、現在の空気はちょっと過剰だと思います」

藤井 今のメールは非常に大事なポイントを押えていると思いますね。先ほども申し上げましたが、法律で「絶対出すな」と止めることはできません。

今回の遺族の憤りは土師さん個人の思いであって、被害者・被害者家族と加害者の贖罪の関係って百人いれば百通りあります。これは個別性が高くて、全部オープンにしていきたい人もいれば、一対一の関係の中で社会と隔絶されたところでやっていきたい人もいます。

今回、元少年Aを担当した元神戸家裁の判事の井垣康弘氏は家裁が認定した事件の事実関係(決定書)を月刊誌で全文公開しましたが、これについても土師さんは不快感を示しておられます。

土師淳さんのご遺族の土師守さんと山下彩花さんのご遺族のお考えというのは少し違う部分もあります。社会にオープンにしてほしくないというのはあくまで、奪われた側の心情の問題ですよね。そこを我々はどう捉えるのか。

ご遺族の気持ちを無視するというのは、加害者は「贖罪」という意味で一番やっちゃいけないことだと思いますが、それを今回は裏切るかたちでやってしまった。

荻上 加害者は法的にはすでに対応済みで、退院してから時間も経ちました。一生「元加害者」として生き続けなければならないというふうに世論が吹き上がっていくと、それはそれで不健全な社会になってしまいます。ただ一方で、本の中でもここまで何度も謝罪しているならば、被害者家族としては「なぜ」という疑問が残るでしょう。

90年代的な「心の闇」を捉え直す

荻上 武田さんは切迫感を感じたとおっしゃっていました。確認しておくと、当時の報道の盛り上がり方は「今(当時)の少年にはこれまでの世代とは異質なものが生まれてきている」というフレームアップでした。

しかし後の時代に検証してみれば、少年犯罪は減少傾向にあり、「異常犯罪」とされるものも戦前から多数ある。特異な事例を象徴に持ってくることが錯誤だったということが、2000年代に入ってから指摘されたと思うんですよね。90年代は過剰なまでに、加害者の心の問題に回収して、「心の闇に光を当てる」といった動向が増えていったわけです。

藤井 「心の闇」という言葉が使われ始めたのはこの事件からですよね。

荻上 「少年」と「心の闇」がセットになって語られ始める。それよりは、犯罪を妨ぐ社会的な支援システムの不備や、それぞれの発達の段階でケアが必要な場合もあるだろうとか、そういうことを検証するモードにここ数年で変わってきたように思います。

しかし元少年Aがこの本の中で当時の自分を説明する言葉というのは、フロイトがどうだとかサディズムがどうとか、90年代に流通したような言葉で埋め尽くされています。自分自身で心の解説を試みていますが、その言葉は当時の借り物です。

ぼくは基本的に人の心情よりも、制度やシステム面に興味を持ちます。「元少年A」の心に寄り添ったとして、じゃあどうすればいいんだろう?という道筋は描かれていない。武田さんはどうですか?

武田 心の闇を読み取って物語への欲望を喚起するような、そういう事件ではありましたよね。「酒鬼薔薇聖斗」という名前もそうですし。

そういう物語をつくる土壌が90年代にあったのか、事件が先か社会の動きが先かはわかりません。ある意味で共振共鳴現象の中で盛り上がったのだと思います。この手記の前半は、心の闇を自ら語り、事件を物語的に見ようとする欲望をもう一度喚起しかねない性格がある。後半は性格が違うけど。

荻上 例えばライターの松谷創一郎さんは、ブログ上で、酒鬼薔薇聖斗の脱神話化、つまり神格化された物語として受容されている加害者自身が、「実は生身の人間として、支援されながら生活しているんだ」と見せることは、むしろ模倣犯に対する抑止になるんじゃないかと指摘しています。(「酒鬼薔薇聖斗」の“人間宣言”――元少年A『絶歌』が出版される意義

藤井 抑制のために出版に意義があるという意見があるのは確かです。しかしその逆の例も指摘されています。彼が世界を震撼させた殺人者を取り上げた雑誌、「週刊・マーダーケースブック」を読んでおり、殺人者にものすごく憧れていたということもこの本には出てくるわけです。

つまり、彼は数々のそうした猟奇的な殺人を犯した者たちの言葉やサブカルの言葉を援用しながら自己を物語化していき、ある種の自己肯定感のようなものを得ているような読後感でした。ならばそれを読んで彼に憧れる者もまた出てくる面も否めない。

この事件以降十何件、この「酒鬼薔薇聖斗の事件」に影響を受けて起こした事件を取材してきました。彼のようになりたいと思って事件を起こしたケースもあるわけです。この間起きた名古屋の名大生の事件もそうでしょう? 彼女は自身のツイッターに神戸事件ふくめて有名になった事件に対する同調のような言葉を残しています。そのあたりの問題は両面から考えていかなきゃいけないと思います。

出版社はどうあるべきか

荻上 出すべき・出すべきじゃないという議論の中でもう一つあるのが、担当編集の方が「弁護士ドットコムニュース」のインタビューで「この本はすごいと感じた」と答えていたということですね。何がすごいと感じたかというと、彼が少年院を退院後、いろんな大人たちからものすごいフォローを受けていたことが、すごいと感じたと。

そのあとにこう続けています。「ここは、全然知られていないところです。少年を更生するために、いろいろな方々がほとんどボランティアみたいな形で力を尽くしている」。こういうフォローの実態をはじめて知ったから、この本に価値があるんじゃないかと言っています。

藤井 少年Aのその後のフォローに関しては特殊チームが組まれて、例外中の例外です。これは業界の中ではとてもよく知られた話なんですね。普通の少年犯罪の少年にはまずそんなフォローはつかない。それを知らなかったというのは、ぼくも驚いた。

荻上 驚いたことに、むしろ驚いた、ということですね。保護士の方が付くとか、そういうフォローそのものはあるわけです。それならば先ほど武田さんがおっしゃったように、社会的包摂の今の形をしっかりとクローズアップした方が、太田出版がやりたかったことはできたんじゃないかと思います。

武田 少し異論を申し上げると、担当編集の方は、フォローのチームが存在することを知らなかったわけではなく、人間の可塑性をここまで信じた大人たちがフォローに付いていることを初めて知ったということではないのでしょうか。

この本の後半は「非行少年の未来を本当に信じて献身的に助ける人がいる」ということが伝わる書き方をしていたので、フォローのチームがあったと知っていても新鮮なところがあったと思います。私自身にも新しい情報ではありましたよ。

藤井 もちろん、出所後の生活のディテールや支援者はどういう動きをしたかという情報の社会的な価値は、ぼくは否定しません。更生保護の領域というのは、普段光が当てられる話ではないし、関わる人たちも少ない。だからどういう人たちがどういう動きをしたのかということを情報として知ることは大切なことかなとは思います。

情報公開の重要性と被害者参加の仕組みづくり

荻上 藤井さんはこの事件に関連する人たちの取材も行ってきたんですよね。

藤井 私は事件そのものよりも、土師さんら事件後のご遺族の活動を見てきた立場です。その後も光市の母子殺害事件など様々な事件がありましたが、そういうご遺族の方々は全国的に集まって「あすの会」という被害者遺族組織を作ったわけです。土師さんはその会の中心メンバーでした。

土師さんご夫婦は法務省に対して、一貫して情報公開を求めてきました。どのような矯正教育がなされているのかなどの情報公開を遺族に対してはきちんとやってほしい、と。個別の加害者の更生プログラムや、少年院の内情については外にはぜったいに出すことはしなかった。が、そういうことを教えてほしいと、ずっと訴えてきたわけです。

そこでこれは異例中の異例だったわけですけども、少年院の仮退院の記者会見を法務省はやりました。こんなことは普通ありませんよ。土師さんはそんな働きかけをずっとやられてきて、成果はあったと思いますよ。少年法の度重なる改正や刑事訴訟法の改正、犯罪被害者等基本法の制定等、いろいろな法制定や改正にもつながったと思います。

荻上 つまり被害者の家族も部外者にしないという努力が、これまでなされてきた。

藤井 国は少年事件のその後の情報に関しては、例外なく公開しないという方針でやってきたし、少年法を護持する立場の弁護士さんや研究者、矯正教育に関わる人たちもそういう閉鎖性を少年の更生のために是としてきましたから、土師さんの活動は大きかったわけです。

荻上 例えば障害の分野でもこの部分が進んでいます。「私たち抜きに私たちのことを決めるな」という有名なフレーズがあります。例えば厚労省などで障害者政策を決めるにしても、いろんな分野の障害の当事者が参加して決めていくというのをスタンダードにしていこうという動きがあります。

その意味では被害者や被害者家族に対しても、その後の更生プログラムを知るというだけでなく、参画とまでは行かなくても、少なくとも置いてけぼりにならないようにするための動きは必要です。どの程度、進められてきたんでしょうか?

藤井 現在、被害者基本法ができ、基本計画が制定され、さまざまな被害者救済・支援のシステムを法務省は導入を進め、自治体でも取り組んではいます。最近は少年院や刑務所にご遺族の方を呼んで講演することもあるようです。しかし、被害者や遺族の個別の問題にまでこまかく手が届いているかというとまったく遅れているのが現状で、比べるとまだまだ進んでいないと思います。

たとえば、被害者通知制度といって、加害者の服役状況などについて知りたいと申請すると加害者がいまどういう状況なのかが、定期的にペーパーで通知が来ます。ただこれも、「態度:中の上」とか「やっていること:農作業」とか、その程度なんですよ。詳細については、ほとんどわからない状態です。

出版に対する反応

荻上 土師守さんと代理人の弁護士は、13日、太田出版に抗議の申し入れ書を提出しました。その全文を紹介したいと思います。

貴社は、平成9年発生の神戸連続児童殺傷事件の加害男性から手記を入手して、6月10日発売の「絶歌」という題名の書物を出版しています。

上記の手記出版行為は、本事件の遺族に重大な2次被害を与えるものであり、私たちは、以下のとおり、強く抗議を行うとともに、速やかに同誌を回収するよう申し入れます。

犯罪被害によって近親者を奪われた遺族の悲嘆が甚大であることは言うまでもありません。

そして、遺族は、犯罪そのものによる直接的被害に加え、その後の周囲からの心ない対応や、過剰な報道により、その名誉や生活の平穏が害され、深い孤立感にさいなまされるなどの2次被害を被ることも少なくありません。

本事件においては、直接的被害の重大性は言うまでもないところであり、それに加え、事件後のセンセーショナルな報道などによる2次被害も重篤なものでありました。

遺族は、本事件により筆舌に尽くしがたい被害を被り、事件後約18年を経て、徐々に平穏な生活を取り戻しつつあるところでした。

また、私たちは、毎年加害男性から手紙をもらっており、今年の5月の手紙では、これまでとは違い、頁数も大幅に増え、事件の経緯も記載されていました。

私たちは、加害男性がなぜ淳を殺したのか、事件の真相を知りたいと思っておりましたので、今年の手紙を受け取り、これ以上はもういいのではないかと考え、少しは重しが取れる感じがしておりました。

ところが、貴社が本誌を出版することを突然に報道で知らされ、唖然(あぜん)としました。

これまでの、加害男性の謝罪の手紙は何であったのか?

今にして思えば、心からの謝罪であったとは到底思えなくなりました。

18年もたって、今更、事件の経緯、特に淳への冒涜(ぼうとく)的行為などを公表する必要があったとは思われません。

むしろ、加害男性は自己を正当化しているように思われます。

貴社の出版行為によって、本事件が改めて社会の耳目を引くこととなり、また、淳への残忍な行為などが広く社会に知られることとなりました。

もとより、遺族は、最愛の子が殺害された際の状況について、18年を経過した後に改めて広く公表されることなど望んでいないことはいうまでもありません。

私たちは、多大な衝撃を受けており、いたたまれない気持ちです。もういいのではないかという思いが完全に踏みにじられました。

このように、遺族の受けた人格権侵害および精神的苦痛は甚だしく、改めて重篤な2次被害を被る結果となっております。

貴社は、新聞報道によると、「批判はあるだろうが」、「反発やおしかりも覚悟している」などと開き直った発言をしているとのことです。

このように、貴社は、遺族の2次被害について検討した形跡は全くなく、むしろ、2次被害もやむを得ないと考えているようで、極めて配慮を欠き、悪質なものであります。

一般に、出版・表現の自由は国民を知る権利に資する点に価値があるとされております。

そして、貴社は新聞報道によると、「彼の心に何があったのか社会は知るべきだと思った」、「事実を伝え、問題提起する意味はある」などと発言して、本件出版が少年事件を一般的に考察するうえで意義があり、国民の知る権利に資するかの如く主張しておられます。

しかし、本事件は、わが国において発生した少年事件のなかでも極めて特異で残虐性の高い事案であり、その事件のいきさつなどを公開することによって、少年事件を一般的に考察するうえで益するところがあるとは考えがたいところであります。

また、一般的に言えば、加害者側がその事件について、手記などを出版する場合には、被害者側に配慮すべきであり、被害者の承諾を得るべきであると考えております。

従って、本件出版行為は、出版・表現の自由や国民の知る権利を理由として正当化しうる余地がありません。

もとより、出版・表現の自由は無制約のものではありません。他者の権利・利益を侵害することは許容されません。

貴社による本件出版行為は、公益的観点からの必要性も認められないにもかかわらずあえて加害者の手記を公表し、遺族の人格権を侵害し、重篤な2次被害を与えているものと言わざるを得ません。

従って、私たちは、貴社に対し、上記出版行為について強く抗議を行うとともに、速やかに本誌を回収するよう申し入れるものです。

藤井 私はたくさんの犯罪被害者や被害者遺族の方を取材してきました。「取材には協力はしたいが、出すのはしばらく待ってほしい」とお願いされたり、それから一旦出版した後に、「子どもが大きくなってきたから、増刷はしないでほしい」という方もいらっしゃいます。

遺族のリクエストをすべて聞き入れることは難しいですが、ここはきわめてデリケートな問題ですし、二次被害を生まないためにも非常に慎重にコミュニケーションを取り、話し合っています。

例えば取材して書く相手が何らかの権力者であれば、内密に書いて出版するということが当然ありますよね。それでも訴えられるということはあるから、非常に慎重に裏を取ったりするわけです。今回のように被害者の方がいらっしゃるケースは誰が書こうがそういう手順は踏むべきでしょう。

この土師さんのメッセージに何度か同じ表現が出てきます。「もういいだろう」という言葉が何度も出てきますね。これは土師さんのお気持ちが揺れ動いた部分の表現だろうと思います。

十数年間、絶望や怒りの感情を抱え込みながら、あくまでも加害者と被害者という個と個の関係でやってきた贖罪を、許可を取らない出版と言う形でひっくり返されてしまった。裏切られたというお気持ちだと思います。

荻上 「これ以上もういいのではないか」という表現は、「もう許そうと思った」というのとは違いますよね。

藤井 赦す/赦さないという二択ではないでしょう。それぞれの心の整理の仕方や、加害者との関係性は、言葉にはできない部分が多いんです。うまく言い表せないからこそ、個々の関係で積み上げてきた。しかし、その積み重ねを今回の出版で「踏みにじられた」と感じているのでしょう。

「もういいのではないか」という表現には十数年間、地獄の淵をのぞいてきた遺族が、加害者との「関係」をこれでそろそろ一区切り付けたいというお気持ちなのか、もうどんな言葉が来ても加害者は本質的な変わらないのではないかという諦めにも似たお気持ちなのか、そのあたりはぼくにはわかりません。苦しみ抜いた十数年間という時間が、一瞬にして無になってしまったお気持ちに今はなられているかもしれません。

武田 当然の反応だと思います。その一方で表現の自由、出版の自由ということがありますよね。また社会が知るべきだという出版社の主張、これも一方では正しいだろうとも思います。

被害者が事件について知ることができない状況はわずかながらに改善されていますが、社会が知ることはより困難です。たとえばノンフィクション作家、沢木耕太郎さんや吉岡忍さんは少年犯罪を小説という形で書かれています。そこに取材が困難だからという理由がなかったとはいえないでしょう。

情報を知らせる意義はありつつも、もちろん、その方法については議論する必要はあると思いますが。

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武田氏

荻上 先ほど太田出版への抗議文全文をご紹介しましたけれど、一方で番組から太田出版あてに取材の申し込みもしました。それに対し担当編集の方からは「出版を継続できるように話し合いを求めている」とのコメントをいただきましたが、出版の経緯に関するインタビューに関しては、辞退をしたいとのことでした。

「話し合いを求めている」ということなので、いま話し合いをしているということではなく、「求めている」ということですね。

一方で啓文堂書店が取り扱いをやめたことも大きく取り上げられました。番組側から書店に取材をしたところ、「被害者感情から、販売を取りやめました」というコメントと、「今までに販売を取りやめたことは過去に一度もなく、今回がはじめてだ」という主旨のコメントをいただきました。

武田 もしもこの本にアクセスするすべての方法がシャットダウンされるようなことになれば、知りたいと思う人のニーズにどう応えるかという別の議論が必要になるでしょうが、現段階で、啓文堂さんがそういう判断をしたということに対しては尊重したいと思いますね。

藤井 「ヘイトスピーチの本は置かない」などの取り組みをしている書店もあります。書店というのは本と社会をつなぐ大事な場所ですから、それは社会の色々な問題を鑑みながら、かつ公的なスペースであるということも踏まえて、これは差別なのか、これは被害者の感情を考えるべきなのかなどを考えながら棚を作っていくというのは、大事な試みだとは思いますね。

武田 書店の次には公共図書館の問題がでてくるわけですよね。そのときにどういうロジックで我々は判断すべきか考える必要があります。

藤井 公共図書館に置いてほしいという声があった場合に、図書館はどう答えるべきかということですよね。

荻上 そうですよね、地域によってもまた意味が変わってくるでしょう。啓文堂はポリシーを持って取り扱いをやめて、こうして声明も出したわけですが、「なんとなく」の陳列や撤去のほうが、いっそう怖い気がします。こうして問い合わせに答えるという姿勢が、それぞれの自由を裏打ちするものになるでしょう。

藤井 少年の実名報道や写真を報道した週刊誌を、逆に少年法に抵触するからといって、流通から引き揚げた事例もありましたよね。こういう問題に関しては、横にならえの態度が多かったんですよ。だけど個別に対応していくということを、なぜかという理由を公表することとセットで書店さんはもっとやってほしいと思いますね。

これから議論すべきこと

荻上 そもそも犯罪被害・犯罪加害を考えるために、常日頃から議論しておくべきことはなんでしょうか?

藤井 今回の問題は、「元少年A」という正体不明の人物が出したという問題はあるけれど、こうした情報を社会公共性、社会の知る権利としてどう考えるのかというテーマにたどり着くでしょう。

元々は被害者遺族も知らない状況が続いていたわけで、それがイレギュラーな形で出てくることで社会が混乱したり、当事者の方が困惑したりしている状況だと思います。少年法でベールに包まれた領域の情報と、遺族の思い、それがパブリックな情報として扱われるべきかどうかという議論をきちんと仕切り直す議論が必要だと思います。

今回の『絶歌』をジャーナリズムが検証しようとした場合、どういう検証の方法があるのか。情報の所在を明らかにするシステムをこれからつくっていく必要があるでしょうね。ぼくらは少年犯罪や事件についての情報不足の状況に慣れていて、こういう議論に慣れていない。

荻上 こういう情報不足が、「卒アル報道」のような、被害者や加害者に関係あるものを、とにかく引っ張り出す報道にシフトさせてしまっているのでしょうか?

藤井 日本では事件の情報がパブリックなものではないので、とくに少年事件については「なかったもの」にされてしまう仕組みが何十年も続いているので、「とにかく何でもいいからネタを手に入れよう」が報道する側のスタートラインになっています。

一方、欧米は誰でも刑事記録にアクセスできるわけです。もちろんケースバイケースですが。アクセスできるから、社会が「これは冤罪だ」とか、「まだ隠されていることがある」と指摘できます。

武田 匿名性を担保しておかなきゃいけない案件もあるでしょうが、それでも検証できるシステムはつくっておくべきです。その両立を目指さなければならないと思っています。匿名性を担保する中で情報が欠落し、根拠のない話が出てきちゃうでしょう、それは最悪ですよね。その流れを断つためにも、両立させるシステムをいかにつくるかが重要だと思います。

藤井 そうですね。またこれはアメリカのことですけどほぼ全州で、「サムの息子法」という、加害者が自らの経験で本を書いても本人や版元、それに群がる人々が利益を得られないようになっている法律があります。

荻上 これの日本版を、という議論も出ています。

藤井 それらを全部導入すれば解決するとは思いませんが、法律含め準備や議論が必要でしょう。とにかく、犯罪と表現に関するルールづくりの議論が日本は著しく遅れている。

矯正現場においても様々な努力をされている方がいますが、外からは見えません。どのようなことが行われているのか、社会が知ることは、必要だと思います。

荻上 被害者遺族の参加のあり方について、この20年間議論がありました。一方で、『加害者家族』(鈴木伸元)という本が去年出されましたよね。加害者家族の人権のあり方は議論されてこなかったし、犯罪を生んだものとしていつまでもバッシングを受けるわけですよね。メディアもいつまでも追いかけてくる。

藤井 そうした議論も非常に遅れていますね。加害者家族というものも一通りではなくて、たとえば家族の中の誰が加害者になるかで関係性は変わるでしょう。

たとえば、秋葉原事件の加藤智大の弟は自殺をしています。弟ということに耐え切れなくて、自分から命を絶ったわけです。佐世保の同級生殺害事件も、加害者のお父さんが自殺をされています。父親が事件を起こしたら残された子どもたちはある意味で「被害者」になってしまいます。家族内で事件が起きて、家族内で被害者・加害者が発生することもあります。

どんなケースでも専門的に扱う行政の部署がなく、ごくごく一部のNPOが活動を細々と続けています。加害者家族もどこにも相談する場所がなく、背負いきれなくなってしまい、崩壊している例が多いと思います。

武田 社会的制裁が家族にまで及ぶ現状を考えると、成人か少年かの別なく犯罪加害者の実名報道をすべて控えるべきだと主張するひともいる。それも一理あるのですが、極端な話、冤罪だった場合の検証が難しくなるとか弊害もあって、一筋縄にはゆかない。

荻上 「反省しろ」とか「責任を取れ」という、終わりがないような批判が加害者家族にもついてまわってしまう。

いろんな角度で、「その後のケア」の話がやっぱり足りていないと思うんですね。それは加害者の更生の話、それに関わる制度や人の話もそうでしょう。それから被害者あるいはその家族がどう制度に関わっていくかという点もまだ進んでいない。それから加害者家族の話にはほとんどスポットが当たらず、被害者家族のネットワークはありますが、加害者家族のネットワークはほとんどありません。

藤井 現実問題として、加害者家族に向き合うというのは難しいです。なぜ難しいかというと、重罪を犯した人間は刑務所にいますし、仮に社会に戻ってきたとしても、その人たちとコミュニケーションを取るというのは、実際難しい。やろうとしたけど諦めたという方たちをぼくは結構知っています。

武田 今の藤井さんの話からもわかるように、やはり社会の質が問われているんですよね。加害者家族と向き合うことがなぜできないのか、少年法では加害少年の更生を目指しており、その理想のために献身的に関わる人もいるのになぜ社会復帰が難しいか。そうした社会の質を考えるためにも、どういう形で今回の事件が知られるべきだったのかを議論していく必要があるでしょう。

藤井 犯罪や事件は全部様態が違いますし、加害者と被害者の関係も差異があります。その個別性に責任をもって対応できる人がたくさんいる社会が健全だと思います。その意味での人的資源をもっともっとつくっていく仕組みが必要でしょうね。

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プロフィール

藤井誠二ノンフィクションライター

1965年愛知県生まれ。ノンフィクションライター。当事者に併走しつつ、綿密な調査・取材をおこない、社会や制度の矛盾を突くノンフィクション作品を数多く発表。TBSラジオ「BATTLE TALK RADIO アクセス」のトークパーソナリティーや、大阪朝日放送「ムーブ!」で「事件後を行く」、インターネット放送で「ニコ生ノンフィクション論」などのコーナーを持つなど幅広い媒体で活動をつづけてきた。大学では「ノンフィクション論」や「インタビュー学」などの実験的授業をおこなう。著書に、『17歳の殺人者』、『少年に奪われた人生』『暴力の学校 倒錯の街』『この世からきれいに消えたい』(以上、朝日文庫)、『人を殺してみたかった』(双葉文庫)、『少年犯罪被害者遺族』(中公新書ラクレ)、『殺された側の論理』『少年をいかに罰するか』(講談社)、『大学生からの取材術』(講談社)、『コリアンサッカーブルース』(アートン)、『「悪いこと」したらどうなるの?』(理論社)、『体罰はなぜなくならないのか』(幻冬舎新書)など多数。

この執筆者の記事

武田徹評論家・ジャーナリスト

評論家・ジャーナリスト・恵泉女学園大学教授・国際基督教大学大学院比較文化研究科修了。著書に酒鬼薔薇事件を含め、戦後史の諸事件を取り上げた『暴力的風景論』や『流行人類学クロニクル』(サントリー学芸賞受賞)などがある。

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荻上チキ評論家

「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。

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