2015.09.01

関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない 工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』への批判

山田昭次 日本史

社会 #関東大震災#朝鮮人虐殺

朝鮮人暴動を捏造した司法省発表を踏襲する工藤の著書

韓国強制併合一〇〇年を迎えて日本の植民地支配責任を真剣に考え、これを清算しようとする動きが展開されている。しかしこの時期に、これとまったく逆行して日本の植民地支配責任を全面的に否認する動きがある。その一つの現われが工藤美代子著『関東大震災――「朝鮮人虐殺」の真実』(産経新聞出版、二〇〇九年)である。(注1)

(注1)同書は、小学館から発行されている雑誌『SAPIO』二〇〇八年五月一四日号から二〇〇九年七月二二日号に「関東大震災〝朝鮮人虐殺″の真実」と題して連載した原稿に加筆・訂正したものである。

彼女は同書で、これまで「震災に乗じて朝鮮の民族独立運動家たちが計画していた不穏な行動は、やがて事実のかけらもない『流言蜚語』であるかのように伝えられてきた」が(同書、八頁。以下同書からの引用は頁数のみ記す)、しかし「噂ではないのだ。実際に放火や殺人、強姦事件が震災発生直後に起こったのである。自己防衛の正当性が認められねばならない」と述べ(九〇頁)、これまでの関東大震災発生時の朝鮮人虐殺事件研究を全面的に否認した。

一九二三年一〇月二〇日に司法省は朝鮮人の犯罪があったと、次のように言明した。

「今その筋の調査した所によれば、一般鮮人は概して不良であると認められるが、一部不逞鮮人の輩があって幾多の犯罪を敢行し、その事実喧伝せらるるに至った結果、変災に因って人心不安の折から恐怖と興奮の極、往々にして無辜の鮮人、または内地人を不逞鮮人と誤って自衛の意味を以て危害を加えた事犯を生じた……」(注2)

(注2)『国民新聞』一九二三年一〇月二一日付

 

実際に朝鮮人暴動があったという彼女の見解は、事件後間もない時期に発表された右の司法省の見解と同じである。

私は二〇〇三年に著した拙著『関東大震災時の朝鮮人虐殺――その国家責任と民衆責任』(創史社。以下すべて同書を拙著と記す)で朝鮮人の犯罪・暴行が存在したと認定する司法省の調査所を綿密に検討して、それが朝鮮人の犯罪・暴行を証明するに足る確証が欠けていることを論証した。

しかし彼女は、拙著での結論の裏づけとなる論証をまったく検討もせずに、拙著を「虐殺宣伝の資料」と罵倒した(二二五頁)。史料に基づく私の論証をまったく検討もせずに拙著を「虐殺宣伝の資料」と判定するのは、研究者が取るべき作法ではない。

彼女の朝鮮人に対する見方も、朝鮮人を「一部不逞鮮人」と「純粋な一般鮮人」に分類する司法省をはじめとする当時の官憲の態度と同じく、朝鮮人を日本国家に反抗するテロリストと「大多数の健全な朝鮮人」に分類する(九五頁)。彼女は日本の植民地支配に服従した朝鮮人を「健全」と今日も見なすのである。

その原因は、彼女が、日本は「李朝近代化への経済投資を惜しまなかった」(七〇頁)とか、韓国併合条約は「国家同士の国際条約にのっとった平和裏の調印だった」(七一頁)として朝鮮に対する日本の武力侵略を認めず、朝鮮に対する日本の植民地支配を今日も肯定するからである。

朝鮮人暴動は実際に存在したのか――事件の発端から司法省の捏造までの経過

 

関東大震災が起こったのは、一九二三年九月一日午前一一時五八分。東京市内、その他で、この日夕方早くも警察官が朝鮮人が殺人や放火をしたと触れ回った。二日夕方には、埼玉県内務部長は、内務省から帰って来た地方課長がもたらした内務省の指令に基づいて郡役所経由で県下町村に東京で起こった朝鮮人と社会主義者の暴動に対処して自警団を組織し、一朝有事の場合に備えろとの指令を電話で伝達する処置を取った。

三日午前八時一五分には、船橋海軍無線電信送信所から朝鮮人が東京市内で爆弾を持って放火するものがあるので各地でも朝鮮人の行動を取り締まれとの地方長官宛の内務省警保局長の電文が送られた(拙著、七七~八三頁)。

朝鮮人が暴動を起こしたという官憲の誤認情報の布告は、同時に行われた戒厳令の布告と相俟ってナショナリスティックな多数の民衆の朝鮮人虐殺を頻発させた。

ところで、工藤は関東大震災時に朝鮮人が実際に暴動を起こした証拠として朝鮮人が放火したとか、日本人を殺害したという九月二日から六日頃の『大阪朝日新聞』、『東京日日新聞』、『河北新聞』等の記事を挙げる(一一四~一一七頁。一二〇~一二五頁)。ところが、この朝鮮人暴動の認定に対する疑惑が、早くも九月二日、三日以降、軍隊や官憲内部に発生した。

東京南部の警戒に当った第一師団の報告によると、二日「午後五時頃より品川、目黒、池尻、渋谷各方面より不逞鮮人多摩川を渡河して来襲するの報」があり、同じく午後「品川、恵比寿停車場方面の町村長より同様なる頻次の報告」があるので、斥候や小隊を派遣したが、「総て虚報」だったことが判明した(注3)。

(注3)東京市役所編・刊『東京震災録』前輯、一九二六年、二九二頁

三日には、第一師団長は集まった在京各団体長宛の訓辞で、「不逞鮮人の動作」に関して「計画的に不逞の行動をなさんとするが如き形勢を認めず」と述べた。(注4)また同師団は、「鮮人暴動」説がことに甚だしい東京西南隣接町村に警備軍隊を派遣したが、「徒党せる鮮人の暴行はこれを認めざるを以て」、三日早朝にそれが流言に過ぎないことを明らかにした宣伝文を市内に貼った(注5)。

(注4)東京市役所編・刊、前掲書、三〇三頁

(注5)東京市役所編・刊、前掲書、三〇五頁

八日のことと思われるが、東京地方裁判所検事正南谷智梯は、次のように朝鮮人暴動の存在を否認する見解を発表した。

「今回の大震災に際し、不逞鮮人が跋扈しつつありとの風説に対して、当局に於ても相当警戒調査しているが、右は流言蜚語が行われているのみである。七日夕刻まで左様な事実は絶対にない。もちろん鮮人の中には不良の徒もあるから、警察署に検束し、厳重取調を行っているが、或は多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にないことと信ずる(注6)」

(注6)『日刊新秋田』一九二三年九月一〇日付

この南谷の発言を報道した『日刊新秋田』以外の新聞は、九月九日付『東奥日報』『いはらき』『下野新聞』『新潟毎日新聞』、同月九日付夕刊の『函館新聞』『函館日日新聞』、同月一〇日付『北海タイムス』であって、東京で発行された新聞には一切報じられていない。南谷の見解は官憲の中枢部にとって都合が悪いので、東京では報道が差し押さえられたのかもしれない。

ともあれ、朝鮮人暴動を認定する見解と否認する見解が軍隊・官憲内部で起こった。そこで官憲内部で見解の調整・統一の必要が起こり、五日に臨時震災救護事務局警備部に各方面の官憲が集まって「鮮人問題に関して外部に対する官憲の取るべき態度」を合議、決定した。

決定した第一の事項は、「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事例は多少ありたるも、今日全然危険なし」と発表することだった。官憲が朝鮮人暴動を事実と認定した結果、お上の権威つき情報を信じこんだ民衆が軍隊や警察と共に朝鮮人虐殺に加担する事態が起こってしまった以上、いまさら朝鮮人暴動はなかったとは言えず、多少はあったと発表することに決めた。

第二に、この発表の辻褄を合わせるために、「朝鮮人の暴行又は暴行せむとしたる事実を極力捜査し、肯定すること」にした。第三に、そのために「風説を徹底的に取調べ、これを事実として出来る限り肯定することに努むること」が決定された。(注7)

(注7)姜徳相、琴秉洞編・解説『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房、一九六三年、七九~八〇頁

工藤は、前述のように九月二日から六日までの新聞記事により、「朝鮮人の襲撃事件は実際にあった」と力説する。しかし、九月五日に各方面の官憲が集まって、朝鮮人問題に対して官憲の統一方針を合議、決定した右の状況を見れば、この日になっても官憲は朝鮮人暴動の確証を持っておらず、新聞に報じられた朝鮮人暴動情報を朝鮮人暴動の確証とするに足るものと見ていなかったことが判明する。だからこそ官憲は焦って朝鮮人暴動の確証をこれから捜そうと申し合わせたのである。

その後の官憲の動向を見ると、前述のように一〇月二〇日に司法省は朝鮮人の犯罪なるものを発表した。司法省が朝鮮人の犯罪と称するものを内容別に分類整理したのが、「[表]司法省調査による関東大震災時の朝鮮人犯罪」である。これにより司法省が言うところの朝鮮人の犯罪の実態を分析すれば、次のようである。

ぐらふ

(1)表中の1、2、3の欄に属する者は、氏名または所在が不明の者、および氏名は判明しても逃亡または死亡している者などで、犯罪の確証は残されていない者たちである。その人数は約一二〇名で、それは司法省によって犯罪人とされた朝鮮人総数一四〇名の約八六%にも達する。

(2)4の欄に属する三件は、取調べ、予審、公判の最中であって判決を受けていない者であるから、容疑者であっても、少なくとも法的には犯人ではない。法を司ることを任務とする司法省が、法を無視して判決を受けていない容疑者を犯罪人と決め付けた処置は、何が何でも犯罪人を捏造しようという姿勢を示すものであり、驚くべきことである。

しかもこの調査書では予審中だった呉海摸は、一一月三日に東京地裁から爆発物所持の理由で懲役一年の判決言渡しを受けたが、爆発物と暴動の関係は証拠不十分とされた(注8)。したがって呉を爆発物を利用して暴動を起こした犯罪人と判定できない。

(注8)『東京朝日新聞』一九二三年一一月三日付夕刊

(3)5の欄に属する者は窃盗、横領、贓物(窃盗物)運搬の罪を犯した者で氏名も判明しているから、これは事実行われた犯罪であろう。この件数は一五件である。東京区裁判所が一九二三年九月一日から一一月三〇日までに受け付けた窃盗の数は四四〇四件だった(注9)。

(注9)『法律新聞』一九二三年一二月二五日

これは地震と火災のために衣食に窮した結果、多発した犯罪であろう。朝鮮人の窃盗、横領、贓物運搬も同様な原因から生じたものであろうから、これには政治性はない。朝鮮人の犯罪で確実にあったと見られるのはこの程度のものであって、「多少の窃盗罪その他の犯罪人を出すかも知れないが、流言のような犯罪は絶対にない」と、在日朝鮮人の動向を判断した南谷検事正の見解は正しかった。

以上検討したように、司法省調査すら朝鮮人の政治的犯罪を確証する裏づけを欠く。これは朝鮮人虐殺の国家責任を隠すために、官憲が苦心して捏造した朝鮮人の犯罪であろう。

ともあれ、官憲すら信用しなかった新聞記事に現われた朝鮮人暴動の記事によって朝鮮人暴動の実在を主張する工藤の見解は、無理を極めたものと言わざるを得ない。

 

虐殺の総数を正確に調査できなかった責任はどこにあるのか

 

上海で刊行された一九二三年一一月五日付『独立新聞』に、罹災同胞の慰問を名目にして被虐殺朝鮮人数を調査した朝鮮人調査団の報告書が掲載された。これには「被殺者総合計六千六百六十一人」と記された。

工藤は「『独立新聞』の報告も、同胞慰問班の調査も(『独立新聞』掲載の報告は慰問班の調査に基づくもので別のものではないのだが――山田注)、その数字の根拠は恐るべき雑駁曖昧なものといわざるを得ない」と述べ(二二九頁)、かつ「嘘の数字を羅列した『朝鮮人虐殺』人数の責任は簡単には拭いきれまい。

結果、疑問の声もあがらず、八十六年が過ぎて今日に至っているのだ」と言い(三〇三頁)、この数字を疑問視したのは、彼女の創見であるかのように書いている。

この数字が正確なものではないことは、私はすでに拙著で認定していた。ただし、その原因について、私は彼女と見解をまったく異にしていた。すなわち、私はすでに拙著で「朝鮮人虐殺数を今日も明確にできない根本原因は、官憲が虐殺された朝鮮人の遺体の隠匿を行ったからである」と結論づけていたのである(一八三~一八四頁)。他方、彼女は虐殺数調査が不正確な責任を専ら慰問班に押し付け、慰問班の調査を徹底的に妨害した警察の行動をまったく不問に付した。

朝鮮人による被虐殺朝鮮人の調査に対する警察の妨害策動について、拙著では一七六頁から一八四頁にかけて詳しく論証した。論証はこれに譲り、ここではその論証を基礎にして朝鮮人の調査に対する警察の妨害状況を要約して述べる。

在京の朝鮮人たちが調査団を組織したのは、一九二三年一〇月初めであり、調査はそれから一一月末まで約二ヶ月間にわたって行われた。調査団が「在日本関東地方罹災朝鮮同胞慰問班」という名称を名乗ったのは、殺された朝鮮人犠牲者の調査に対する警視庁の禁止措置を避けるためだった。

この調査に従事した朝鮮人から調査の状況を後に聴取した韓相は、警察の遺体隠蔽政策による調査の困難さを戦後に次のように記した。

「いかに調査委員が綿密に調査したことであったが、震災から既に二箇月を経過していたし、『鮮人騒ぎ』が全く事実無根のデマ(官製の)のために起きた日本人の失態であることが、明白になったので、不幸失命の同胞の死体を、隠ぺいして証拠いん滅を、(官の指令で)してしまったことがあるので、なかなかその実数は正確を期することが、できるものではなかった。」

一九二三年九月四日の晩、日本人群衆が埼玉県児玉郡本庄町(現本庄市)の本庄警察署を襲撃し、同署に収容されていた朝鮮人を殺害した。その虐殺人数は八六名とも一〇一~一〇二名とも言われる。同警察署の巡査新井賢次郎はその死体を焼くに当って「数がわからないようにしろ」と命令された。

鄭然圭は一九二三年一〇月末か一一月初めに警視庁内鮮課に朝鮮人遺骨の引渡しを要求したが、拒絶された。

この年の一一月一四日には、警官隊が東京府南葛飾郡本田村(現東京都葛飾区東四つ木)と吾嬬町(現東京都墨田区八広)の間を流れる荒川にかけられていた四ツ木橋近辺に現れ、この付近の川原に埋められていた数多くの朝鮮人の遺体が埋められていたのである。

この朝鮮人遺体持ち去り事件は、この年の九月四日夜から翌日未明にかけて、亀戸署内で習志野騎兵連隊の将校や兵士によって労働者十人が殺害された亀戸事件と関係があった。一〇月一四日に亀戸署長は、労働者遺族や弁護士布施辰治に対して、労働者の遺体は荒川の堤防で焼死溺死者や朝鮮人死体百余名と共に火葬したと言った。

そこで一一月二三日に遺族、布施、労働組合関係者、朝鮮人代表二名等は、四ツ木橋付近の河川敷に埋められた遺骨の発掘に出かけた。しかし四ツ木橋付近にいた警官や憲兵は、遺体はすでに埋まっていないと言って、労働者の遺体を引き取りに行った一行を追い返した。そして前述のように、その翌日に警官隊がここに現われてこの川原に埋められていた遺骨を掘り返して持ち去ったのである。

つまり警察側は、日本人労働者の遺体の発掘は同時に大量の朝鮮人遺体の発掘をもたらし、朝鮮人の大量虐殺の実態が明るみに出ることを恐れて、日本人労働者の遺骨を含めてすべての遺骨を持ち去ったのであろう。

一九二三年一一月六日付の警視総監報告書によると、警視総監は朝鮮人の慰問班からの朝鮮人「遺骨引取方の申出に対して之を拒絶した」という。

このように警察は虐殺された朝鮮人の遺体の隠匿につとめ、朝鮮人の遺体の引渡し要求をことごとく拒否した。

肉親が虐殺されたうえに、遺体も引き取れなかった朝鮮人遺族の悲しみや怒りは深かった。京都で発行されたこの年の一一月二二日付『中外日報』によれば、朝鮮人遺族たちは「既に虐殺されたことは不運として忍び難い怨みをも忍んで諦めるが、一つ諦めようとして諦め難いのは、せめてその遺骨だけなりとも捜し出して懇ろに葬りたいが、それすらできない」と嘆いた。

遺体を引き取れない朝鮮人の無念な想いは、上海で発行された一九二三年一二月五日付『独立新聞』に掲載された独立新聞社社長・金承学(ただし報告書の宛先は希由という金承学の号を記載している)宛の一一月二八日付の被虐殺朝鮮人人数の報告書にも現われている。この報告書には「合計三千二百四十人(以上은屍體도옷자자)」と記された箇所がある。「자자」は現在の文法では「」である。これを邦訳すれば、「合計三千百四十人(以上は屍體も探せなかった同胞)」である。「도」は通常「も」と訳すが、これに否定の語が伴うと、「すらも」とか、「さえも」という強調の意を表す。したがって、この文章は「合計三千二百四十人(以上は屍體さえも発見できなかった同胞)」と訳したほうが、文意をより良く表現しているであろう。

この短い言葉に被虐殺朝鮮人の状況を調査した朝鮮人が、日本の警察によって死体を隠された結果、その人数も確認できず、死体を引き取って葬ることもできない無念の想いが滲み出ていることに注意していただきたい。

ただし、姜徳相、琴秉洞編『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房、一九六三年)に掲載されたこの報告書の該当部分の翻訳文は「合計 三、二四〇人(以上は屍體を探せなかった同胞)」と訳されている。「도」を「を」と訳したのは誤訳か、それとも翻訳文の底本とした愛国同志援護会『韓国独立運動史』に掲載された報告書では「도」が「를(を)」に誤植されて、「合計三千二百四十人(以上은屍體를옷자자)」、すなわち、これを邦訳すれば「合計三千二百四十人(以上は屍體を発見できなかった同胞)」と印刷されていたのかもしれない。

いずれにしても、これは原史料と異なっており、一字の違いのために、原文に込められた朝鮮人調査員の無念の想いが伝えられていないのは遺憾である。

ところが工藤は『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』に誤訳されて掲載された文章に依拠して、この報告書に対して次のような非難を書いた。

「この調査報告の奇怪なことは『屍体を発見できなかった同胞』数が実に二千八百八十九人(これは工藤の誤読で、原文は三千二百四十人 山田注)に及んでいる点である。

『虐殺された』と主張する死体が発見できないままに、それを虐殺としてカウントするのはしょせん道理が通らない。おそらく最大好意的に解釈したとしても、氏名と住所が確認されたものの本人が見つからない、どうやら殺害されたに違いないと判断した、ということだろう。

そうだとすれば、それは『行方不明者』としてカウントされるべきものである。不明だから殺された、という主張は非論理的である。」(二二一頁)。

私は拙著で、姜徳相、琴秉洞編解説前掲書に邦訳された報告書は、原本である『独立新聞』掲載の報告書と字句の違いがあるので、『独立新聞』掲載の報告書を見なければいけないと注意していた(一六五頁)。

このように私が注意したにもかかわらず、工藤は原史料である『独立新聞』掲載の報告書の文章を調べる労を省いて、姜徳相、琴秉洞編解説前掲書に邦訳された報告書に依拠した。これはあくまで実証的に研究すべき研究者としてまったく不誠実である。このために工藤は報告書の文章から朝鮮人調査員の無念な想いをまったく汲み取れずに数字の合計の仕方の不合理の問題としか理解できず、これを非難し、被害者の痛みをまったく理解できない結果となった。

終りに

 

関東大震災時の朝鮮人虐殺事件は、朝鮮人虐殺にのみ問題があるのではない。官憲は朝鮮人暴動という誤認情報を流して、朝鮮人虐殺を引き起こしたうえに、その責任を隠すために、虐殺された朝鮮人遺体を隠して朝鮮人に引き渡さず、かつ朝鮮人暴動を捏造するなどの非人道的犯罪を重ね、虐殺事件後から一九三八年頃まで在日朝鮮人によって毎年続けられた虐殺に対する抗議や犠牲者追悼の営みを弾圧し続けた。(注10)

(注10)在日朝鮮人によって事件後に毎年続けられた抗議や追悼の営みに対して警察が過酷な弾圧を続けた実態の一端については、拙稿「今日における関東大震災時朝鮮人虐殺の国家責任と民衆責任」(『思想』二〇一〇年一月号)で言及した。

日本人民衆は、このために朝鮮人が抱いた無念の想いを深く受け止め、かつ国家に対して謝罪を求めなければならない。これは日本人が今後果すべき民衆責任である。

しかし工藤は、朝鮮人に対して犯した罪を隠すためにさらに犯罪を累積して行った日本の国家の行為に、今日積極的に手を貸した。このような工藤の著書が、実証的な論証をまったく欠いた非学問的な著作であるからと言って、今日これを放置しておいて済むものではない。

工藤の著書にも現われている思想的動向が「在日特権を許さない市民の会」や「主権回復を目指す会」などによる朝鮮人学校に対する数々の嫌がらせや乱暴狼藉の行為、あるいは朝鮮高級学校に対する政府の無償化除外措置となって現われたものと思われる。それだけに、こうした思想状況に対して研究者は沈黙してはならないと考える。

※「関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない–工藤美代子著『関東大震災–「朝鮮人虐殺」の真実』への批判」『世界』(岩波書店)2010年10月号より転載

サムネイル「関東大震災(寿小学校ヨリ展望)」

プロフィール

山田昭次日本史

1930年生まれ。立教大学名誉教授。近著に『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後―虐殺の国家責任と民衆責任』(創史社)『全国戦没者追悼式批判―軍事大国化への布石と遺族の苦悩』(影書房)『関東大震災時の朝鮮人迫害―全国各地での流言と朝鮮人虐待』(創史社)など。

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