常識的道徳の悲劇を乗り越えるために――「深遠な実用主義」に向けて

税制、福祉、中絶、同性婚、環境規制……何が正義か、誰がどんな権利をもつのかをめぐって現代社会は引き裂かれる。人々が自分の考えを心の底から正しいと信じて争うとき、対立を解決する方法はあるのか? ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』から阿部修士氏による解説を転載する。

 

 

これまでの本とは一線を画する、新たな道徳哲学の本がついに翻訳・出版された。著者のジョシュア・グリーン氏は、若くしてハーバード大学心理学科の教授となった新進気鋭の研究者である。彼は二一世紀初頭に、「少数の命を犠牲にしてでも多数の命を救うべきか?」といった人間の道徳判断に関わる脳のメカニズムを、世界に先駆けて報告し、一躍時の人となった。

 

彼の研究は心理学と神経科学、そして道徳哲学を独創的に融合させたものであり、今なお世界中の多くの研究者に多大な影響を与え続けている。本書は彼のこれまでの研究の集大成であり、極めて野心的かつユニークに、科学的な知見――とりわけ心理学や神経科学といった、人間のこころと脳のはたらきに関する最新の知見を織り交ぜながら、道徳哲学を議論する珠玉の一冊である。

 

本書において彼は、社会生活を営む我々人間を取り巻く二種類の問題と、人間に備わった二種類の脳のモードについて説明しながら、自身の道徳哲学の議論を進めていく。

 

二種類の問題とは「コモンズの悲劇」と「常識的道徳の悲劇」である。コモンズの悲劇とは、ある特定の集団内における、自身と他の人間との葛藤や対立――すなわち、《私》と《私たち》との間に生じる問題を指している。ある集団の中で、全員が自身の利益を貪欲に追求すれば、共有すべき資源は枯渇し、その集団はたちゆかなくなる。この問題を回避するには、他者と協力すること、すなわち《私たち》を《私》に優先させることが必要だ。

 

一方、常識的道徳の悲劇とは、文化や宗教、そして道徳的価値観に違いのある集団間の葛藤や対立――すなわち、《私たち》と《彼ら》との間に生じる問題を指す。道徳を異にする集団はそれぞれ、《彼ら》なりの正当な価値観を持っているため、その対立は容易には解消されない。この問題を乗り越えるには、様々な集団間でも共有可能な新たな価値観を見つけ出し、《私たち》と《彼ら》との溝を埋めることが必要だという。

 

中東におけるイスラム国の台頭など、現在の日本でも目をそむけることのできない多くの問題が生じているが、つまるところ、こうした対立の多くは道徳的価値観の違いに起因しており、集団間の問題である。

 

コモンズの悲劇と常識的道徳の悲劇という言葉で表現される、集団内と集団間の対立を解消するために、グリーン氏は脳の二種類のモードを使い分けることが必要だと主張する。彼は脳をカメラにたとえ、それら二種類のモードを「オートモード」と「マニュアルモード」と呼ぶ。

 

「オートモード」は直感的反応や情動的反応に関わるものであり、自動的で素早いこころのはたらきのことである。「五人の命を救いたいからといって、一人の命をわざわざ犠牲にするなんて、そんな恐ろしいことはできない!」というのがオートモードのはたらきだ。一方、「マニュアルモード」は熟慮を要するような、論理的思考や合理的判断を担うこころのはたらきである。マニュアルモードの思考は、「五人の命を救えるのなら、一人の命を犠牲にすることも、全体の利益を考えればやむを得ない」といった具合である。

 

グリーン氏は、脳のオートモードは我々の道徳的直観の担い手であり、コモンズの悲劇、すなわち集団内での対立を回避するうえで有効だと主張する。彼の理論では、道徳とは協力を促進するために、生物進化や文化進化によって結実した、一連の心理的能力とされている。つまり、我々人間は少なくともある集団内では、自然と協力的になりうる。

 

思わず反論したくなった読者の方もおられるだろう。人間は所詮、自分の利益こそが最優先であり、他者のことなど二の次ではないのか、と。ところが、様々な心理実験の結果が、人間に本質的に備わっている集団内での協力性の存在を示唆している。したがって、集団内でうまくやっていくには、つまりコモンズの悲劇を回避するには、オートモードに任せておけばよい。

 

では、常識的道徳の悲劇、すなわち集団間での対立を回避するにはどうすればよいのだろうか? グリーン氏は、ここで脳のマニュアルモードを使うことが重要だと主張する。オートモードは集団内の協力を促進させるため、ともすれば《彼ら》よりも《私たち》をひいきする。しかも、わたしたち人間は、このオートモードのはたらきに無自覚である。したがって、オートモードに任せていては、《私たち》と《彼ら》との対立は避けられない。「《私たち》対《彼ら》の問題ならゆっくり考えよ。」というのが彼のメッセージだ。対立を生む集団間の感情は、いったん脇に置き、マニュアルモードを使って考えるということだ。【次ページにつづく】

 

 

 

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vol.256 

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