2016.05.31

ムスリムは何を信じているのか?

松山洋平 イスラーム思想史

社会 #イスラーム#クルーアン

現在、地球上には16億人ほどのムスリム(イスラーム教徒)がいると言われる。このうちの五分の一前後は、イスラーム教が支配的な宗教ではない国の中で、マイノリティとして暮らしている。当然、日本にもムスリムがいる。正確な統計は存在しないが、十万人前後の外国人ムスリムが日本に居住していると見られている。日本人のムスリムもおり――これも、正確な統計は存在しないが――その数は1万人から2万人程度であると筆者は考える(注1)。

(注1)これよりも少ない数を示す調査結果もあるが、それらの調査では、イスラーム団体と深くかかわらずにムスリムとして生活する日本人の多さを全く認識できていない。

ムスリムの動向は今や、グローバル化された世界の情勢を考えるための不可欠な要素のひとつである。のみならず、ムスリムが増加傾向にある現代の日本を生きる上でも、イスラーム教の世界観への理解を深める必要がある。

かかる背景から、「イスラーム」という言葉を冠した本が次々に出版されている。ただ、イスラーム教の歴史的展開や、戦争についての考え方、あるいは、中東諸国の政治情勢などに焦点をあてた本が多く、「イスラーム教の宗教としての教義はよく理解できなかった」という感想を持つ人も多いのではないだろうか。

この記事は、「イスラーム」という言葉が冠された本を読んでみたものの、ムスリムが何を信じているのかは結局よくわからなかった、という人のために執筆したものである。ここでは、イスラーム教の教義を説明する際に一般的に用いられる、「六信五行」――イスラーム教を特徴づける六つの信仰対象と、五つの宗教行為――を形式的に説明する方法をあえて避けて、そぎ落とせる部分をできるだけそぎ落とし、ムスリムの世界観の核を説明した。イスラーム教を理解するためのひとつのヒントとしていただければ幸いである(注2)。

(注2)イスラーム教に帰属意識を持つ宗派は複数存在するが、この記事は、多数派であるスンナ派の教説に依拠して書いたものである。

創造主以外のものを崇拝しないこと

イスラーム教の教義の中で最も重要なことは、世界の創造主を唯一の崇拝の対象と信じることである。

創造主ではないものは何であれ――人間であれ、天使や妖魔であれ、国家や貨幣であれ、世間や自分自身であれ――崇拝し、服従するに値するものではない。世界に存在するものはすべて創造主によって創られた被造物であり、神ではありえない(注3)。被造物ではなく、それらを創り支配する者をこそ崇拝の対象とすべきである。

(注3)この記事では、「神」という単語をアラビア語における「イラーフ=真に仕えられるべき/崇拝されるべき者」の意で用いる。

これが、アーダム(アダム)創造以降、地上のあらゆる民に遣わされた使徒(人々に創造主の使信を伝えることを命じられた預言者)が訴えた、「タウヒード(唯一なる者となすこと)」の教えである。使徒たちがもたらしたこの教えを受け入れ、創造主のみを崇拝する者を、アラビア語で「帰依(イスラーム)する者」、ムスリムと呼ぶ。

「われらは、われらに下され、あなたがたに下されたものを信じる。そしてわれらの神とあなたがたの神は一つであり、われらは彼に、帰依する者(ムスリム)である」(クルアーン29章46節)

最終啓示『クルアーン』

創造主を唯一の崇拝の対象とみなしたとしても、自分勝手な方法で崇拝行為をしてしまえば、神を正しく崇拝したことにはならない。

イスラーム教では、神を崇拝する方法として、人間への最終啓示である『クルアーン』と、その啓典を与えられた最後の使徒ムハンマドの言行に従うべきだと考える。

もっともムスリムは、有史上、地上のあらゆる民族集団に対して何万もの使徒が遣わされ、いくつもの啓典がもたらされたこと、そして、いずれの使徒も同じ教え――タウヒードの教え――を説いたと信じている。しかし、これらの教えは、人々に拒否されるか、あるいは一度受け入れられても後の時代に歪曲され、正しい教えが保持されなかったとされる。つまり、現在、創造主の言葉を正しく伝えている啓典は、『クルアーン』ただ一つということになる。そのため、最後の預言者であるムハンマドに与えられ、歪曲されることなく、啓示されたままの形で現在まで保持されている『クルアーン』と、この『クルアーン』を完全な形で世界に体現したムハンマドの生き方を、教えの源泉とみなすのである。

「ムハンマドはおまえたちの男のうちの誰の父でもない。しかし、アッラーの使徒であり、預言者たちの封緘である」(クルアーン33章40節)

別添資料:クルアーンの写真

死後の審判

すべての人間は、死後、創造主によってよみがえらされ、楽園か地獄のどちらかに振り分けられる。この審判において考慮されるのは、各人の生前の信仰の有無と、生前に為した行為である。この審判は公正かつ厳密であり、人間が為した善行と悪行が「公正な秤」によって比べられる。

「一微塵の重さでも善を行なった者はそれを見る。一微塵の重さでも悪を行なった者はそれを見る」(クルアーン99章7‐8節)。

「彼らは言った。『誰が朽ち果てた骨を生き返らせるのか。』言え。『それを最初に成した者が、それを生き返らせる』」(クルアーン36章78‐79節)。

では、誰が楽園に入り、誰が地獄に入るのだろうか?

創造主を唯一の神と認めた信仰者の内、善行が悪行にまさった者は、楽園に入ることができる。創造主を唯一の神と認めた信仰者であっても、悪行がまさった場合は、アッラーの特別な赦しにより楽園に入れられる者もいれば、いったんは地獄に入れられ、一定の期間が経過した後に楽園に入れられる者もいる。楽園での生は永遠であり、一度楽園に入った者は二度と外に出ることはなく、永遠の幸福を得る。その中には、美酒、食べ物、美しく愛情深い配偶者など、種々の褒賞が用意されている。楽園における最高の褒賞は、創造主の「御顔(ワジュフ)」を仰ぎ見ることである。

現世において、使徒の教えを拒否し、創造主のみを神とすることを拒んだ不信仰者は、審判の後に地獄に入る。地獄の中では様々な懲罰を受け、二度とそこから出ることはなく、永遠の苦痛を与えられる。

「(楽園は)アッラーとその使徒たちを信仰した者たちに約束された」(クルアーン57章21節)

「不信仰者たちに約束された火獄を畏れ、身を守れ」(クルアーン3章131節)。  

信仰の条件

人が、創造主のみを崇拝の対象とみなしたと認められる条件、すなわち、信仰者であることの――最低限の――条件は何だろうか?

この問題をめぐっては、説が2つに分かれている。

第一の説によれば、創造主こそが唯一の神であることを心の中で「承認すること(タスディーク)」によって、信仰が成立する。なお、「承認すること」は、「知っていること(マアリファ)」とは区別される。したがって、たとえ創造主が唯一の神であると知っていたとしても、傲慢さからそれを拒絶したり、その真実を嫌悪する者は信仰者とはみなされず、楽園に入ることはできない。

第二の説によれば、創造主こそが唯一の神であることを心の中で承認し、されにそれを言葉によって告白することで信仰が成立する。この説においては、たとえ心の中で創造主の唯一性を承認したとしても、言葉でそれを告白することを拒否すれば、その者は信仰者ではなく、救済にあずかることはできない。

なお、イスラーム教は法を持つ宗教であるため日本ではよく誤解されているが、神によって禁止された行為を犯したとしても、その者の信仰が失われるわけではない。たとえば、イスラーム教が飲酒を禁じることはよく知られている。しかし、たとえムスリムが酒を飲んだとしても、「罪を犯したムスリム」になるだけであり、その者はムスリムであり続ける。禁酒に関して言えば、ムスリムであることの最低限の条件は、酒を飲まないことではなく、酒を飲むことを創造主が禁じていることを信じ、飲酒を合法な行為であるとみなさないことである。

「それらの者は、アッラーが彼らの心に、信仰を書き記した」(クルアーン58章22節)

一人の使徒の教えが廃れ、その次の使徒が派遣されるまでの空白期間を生きた者、あるいは、地理的な理由で使徒の教えが伝達されていない者にも、創造主への信仰が義務となるのか否かについては見解が分かれている。

一説では、彼らにも創造主を信仰することが義務となる。なぜなら、有始なるもので構成される世界にその創り手が存在することは、理性によって認識することが可能だからである。別の説では、彼らには信仰は義務ではなく、死後、救済にあずかるとされる。この二つ以外の説も存在する(注4)。

(注4)現代の非ムスリム諸国のムスリムではない市民全般については、「正しいイスラームの知識は伝えられていない」と考え、宣教は未到達とみなす学者と、「イスラームの基本的教説は、さまざまな方法で容易に知ることができる」と考え、イスラームの宣教は到達しているとみなす学者に分かれる。

別添資料:モスクの写真

行為の決算方法

上述のように、善行と悪行は死後の審判における決算材料となるが、悪行を一、同等の善行を一と数えて、単純に比較されるのではない。

ムハンマドに伝わる伝承によれば、悪行をなした者には一の悪行が、悪行を志しても思い留まった者には一の善行が、善行を志したものの実際には行わなかった者には一の善行が、そして、善行を実際に行った者には、十または百、あるいはさらにその何倍もの善行が記録される。ムスリムが犯した悪行は、善行のほか、悔悟、痛み、悲しみなどによって随時帳消しになる。

なお、ある行為が禁止事項であると知らずにそれを行った場合、または、ある行為が義務であることを知らずにそれを放棄した場合は、彼が意図的に自分を無知な状態に置いているのでない限り、無知を理由に罪は免除され得る。

「そして彼は、その望む者を赦し、望む者を罰する」(クルアーン2章284節)

「言え。己自身に仇し、度を越したわがしもべたちよ。アッラーの慈悲に絶望してはならない。まことに、アッラーは諸々の罪の一切を赦す。まことに彼は、よく赦す、慈悲深き者」(クルアーン39章53節)

まずは根本的な世界観の理解を

「なぜムスリムは豚を食べないのか?」という問いについての日本人の興味は並々ならぬものがあり、本の表紙にこの問いが大きく書かれることさえある。たしかに、対象についての極端に瑣末な問題から入り、そこから徐々に本質に迫っていく方法があることはあるだろう。しかし、本邦のイスラーム教についての言論には、豚肉の話から入り、そこからタウヒードの実相に迫っていくようなものは見受けられない。豚肉や酒、暴力、女性のヴェールなど、たまたま目につく現象だけを個別に取り上げ、その根拠を「わかりやすく」――つまり、話を深めずに――提示するスタンスはよく見られる。

しかし、個々の問題について短絡的な説明を得たとしても、その現象・行為の意味について納得することは困難である。ムスリムが行うどのような宗教的行為も、創造主への帰依が被造物である人間の義務であると考え、各人は死後その創造主による審判を受ける、という大きな世界観が先にあり、この世界観の中で理解される道筋によって理由付けがなされる。

日本におけるイスラーム教理解のためにいま必要なことは、個々のテーマについての細かい知識ではなく、イスラーム教の全体的な世界観を、ムスリムの行動規範の土台としてとらえる視座である。

プロフィール

松山洋平イスラーム思想史

名古屋外国語大学外国語学部講師。1984年静岡県生まれ。東京外国語大学外国語学部(アラビア語専攻)卒業、同大学大学院総合国際学研究科博士後期課程修了。博士(学術)。専門はイスラーム思想史、イスラーム神学。著書に『イスラーム神学』(作品社、2016年)、『イスラーム思想を読みとく』(筑摩書房、2017年)など。

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