2017.08.03

内部告発者を取り巻く社会環境――スキャンダリズム社会における勇気とは何か

塚越健司 情報社会学・社会哲学

社会 #ウィキリークス#内部告発

内部告発は、その性質上世間の関心を集めることが多い。加計学園問題をめぐり内部告発を行った元文部科学省事務次官の前川喜平氏など、実名の告発者が昨今注目を集めている。本稿は内部告発をめぐって、告発者のリスクやその社会的な問題点を考察する。

内部告発と法整備

まずは法整備について簡単に述べておきたい。自身が所属する団体の不正を告発する内部告発は、常に危険が伴う行為であり、告発者には相当の倫理的覚悟が必要とされる。そこで法的な支援を目的に、アメリカでは「公益通報者保護法」(Whistleblowers Protection Act)が1989年に、イギリスでは「公益開示法」(Public Interest Disclosure Act)が1998年に施行されている。これらの法律を参考にして、日本においても「公益通報者保護法」が2006年施行され、告発によって告発者が不利益を被ることのないような保護処置が取られることになり、各都道府県の行政機関にリーク専用通報窓口が設置された。

現在消費者庁には行政機関のどの窓口に通報すればいいのか、通報先や相談先を検索するシステムを設置している。ただし、現状では保護される内部告発者の範囲は限定されており、退職後は法律の適応外となったり、告発に対する報復行為への賞罰なども設定されていないなど、問題を指摘する声も多い。

また民間企業内でもホットラインが設置され、セクハラや不正の隠蔽など、自社の問題をはやめに組織内で把握し、自浄作用を促す企業も増えている。不正の度合いが大きければ問題を公表し謝罪を行うこともあるが、迅速な対応であればあるほど企業の透明性が確保され、風通しの良い職場環境が提供できる。ただし企業が自分を守ってくれるかどうかは、告発内容によっても異なることが予想されるため、重大な不正行為への告発は困難が伴うことも多い。

代表的な内部告発

いかに法律が整備されていたとしても、内部告発者には相当のリスクが生じることは否定できない。法律制定以前ではあるが、日本においては1974年のトナミ運輸事件などが有名だ。この事件では業界の闇カルテルを新聞社に告発したトナミ運輸の社員が、その後2006年に退職するまでの32年もの間、閑職に追いやられてしまった。告発者はそれまでの職場から追い出され、会社の研修所の管理などを命じられ、十分に能力を活かすことができなかったばかりか、昇給もなく、身内にも脅迫などが行われた。

また2000年代に注目された一連の食品偽装問題でも、内部告発が行われている。2002年に雪印が牛肉偽装事件を、その後2007年に北海道の食品加工卸会社「ミートホープ」が食肉表示偽装を行ったことを記憶している読者も多いのではないだろうか。雪印は取引先の企業が告発し、ミートホープでは同社の常務取締役が告発を行った。

ミートホープ事件では当時すでに公益通報者保護法が成立していたにもかかわらず、告発を行うも行政機関には相手にされず、最終的にマスコミに持ち込んだ告発から注目を浴びることになった。自社の不正を告発した者は正義の味方とも捉えられるが、実際は多くの困難が告発者を待ち受けている。ミートホープ事件の告発者の著書からは、事件によって会社が自己破産したことで社員から批判されるだけでなく、取引先からも「裏切り者、自分も不正に加担していたくせに」と詰め寄られたこと。また裏切り者というイメージから地域からものけ者にされ、家族間にも大きな亀裂が入ったことなど、多くの苦労が語られている。

不正を告発したものの、その不正行為の真っ只中に自分がいたことを責められてしまっては、告発者にとって社会正義や自己の信念の貫徹以外のメリットは何もなく、1個人としてはあまりに高リスクな行為であることがわかる(2017年6月にこの告発者のインタビュー記事がYahoo!ニュースに掲載されている)。このように告発は得るものより失うものが多いからこそ、不正を告発する者の勇気について我々は敏感でなければならない。

しかし現代において告発をめぐる状況は一層の困難が生じている。後述するようにそれはSNSの普及であり、告発内容よりも告発者の人格など、これまで以上にスキャンダリズムに社会の注目が注がれてしまう点にある。

告発のリスクを減らすことはできるか

内部告発には法的保護が定められてはいるものの、上記のように適切に保護されないケースもある。実際に通報された情報を担当者が誤って当事者に伝えてしまった事例や、告発者が直接担当者と面接しなければならない場合もある。また告発対象が行政機関など国家権力を相手にする場合、告発者の心理的リスクを考えれば、やはり法を頼るだけには限界があると言わざるを得ない。告発にあっては信頼と安心感が必要不可欠であるが、法の存在の周知をはじめとして、社会の告発に対する認識が改められる必要がある。

一方、告発に伴うリスクを減らし、告発内容そのものを世に知らしめるための試みも生じている。代表的なものとしては2006年に誕生したリークサイト「ウィキリークス」がある。ウィキリークスは暗号を利用した情報源秘匿技術によって、告発者が身元を秘匿したまま告発内容をウィキリークスに提供することが可能となり、ウィキリークスが情報を精査した上で内容をホームページに掲載するものだ。ウィキリークスには世界中から多くの情報が集まり、2010年に公開したアメリカ外交公電事件をはじめとして、世界中に大きな影響を与えた。

リークと内部告発は厳密には異なる概念ではあるが、内部告発者の負担を減らしウィキリークスが告発の肩代わりをするという発想は、以後世界の大手メディアや各所で登場したリークサイトにも採用され、ウィキリークス同様暗号を利用した情報源秘匿技術によって、告発のリスク減少が目指されている。こうしたリークサイトでは、世界を揺るがす告発でなくとも、地域や特定の問題に限定したものなど、多彩なリークサイトが登場している。

ただし、告発は世間の関心を呼ぶことではじめて成功するものだとも言える。ウィキリークスは代表のジュリアン・アサンジ(1971〜)が世界中にその存在をアピールしたが、顔を晒すことには一定の意義があることも確かだ。多くのリークサイトは当然のことながら告発者の顔がわからず、アピール力に欠ける、という問題もある。実際多くの人はウィキリークス以外のリークサイトの存在を知らないのではないか。

逆にウィキリークスは、ジュリアン・アサンジというカリスマを伴う強烈な人格的存在が世間へのアピールに成功するも、彼が主導し公表するリーク内容に政治的偏りが指摘されるなど、人称性を全面に押し出すが故の政治的・人格的な問題が生じている。特に2016年の米大統領選をめぐってウィキリークス=アサンジは、当時の大統領候補ヒラリー・クリントンをあからさまに敵視する発言を行い、2016年7月には米民主党全国大会委員会の内部メール数万通などを公開する一方、対立候補のトランプ候補に関するリークはなく、彼に対する言及も多くなかった。

もちろんリークが集まらなければ公開できないのは当然だが、ウィキリークスが政治的な中立性を宣言する一方、あまりの非対称的な情報公開に多くの批判が寄せられた。リーク内容をウィキリークス自身が選択するというスタイルが、人々のウィキリークスの公正さに対する信頼を困難にしている。

ウィキリークスが発明したリークシステムは安全だが、それだけを利用した知名度の低いリークサイトでは、広く世間に問題を広めることは難しい。一方でウィキリークスのようなサイトを利用すれば、政治的恣意性の疑惑が持たれてしまう。こうして告発者は、改めてどのような告発手段を取ればいいのかに悩まされることになる。

告発者の人格ではなく、告発内容に関心を集中せよ

近年最も有名な内部告発は2013年、元CIA(米中央情報局)やNSA(米国家安全保障局)の職員であったエドワード・スノーデン(1983~)が行ったNSAの監視体制に関する暴露であろう。彼は顔を晒して事件を公表し、アメリカ政府の監視実態に対する問題を訴えたこ とで世界中から注目を浴びた。

ここで注目すべきは、彼がプライベートや告発の動機など、多くを語らなかったことにある。それが何か秘密を隠すためではないかと指摘される一方、スノーデンは語ることで報道が自分の人格に集中することを避けたためだと述べている。彼にとって重要なのは、自分のことではなく、アメリカの不正義の内容に集中してもらうことだった。

内部告発は一種のスキャンダルだ。故に人々は告発者の身元や人格について推測し、告発内容の正当性を人格から判断しようとする。それはある程度必要不可欠な要素であり、それ故にスノーデン自身も内容の正当性を訴えるために実名で告発を実行した。

しかし過剰に人格に着目すれば、内容についての議論に注目が及ばなくなってしまう。ここまで告発者が告発によってどのようなリスクを負ったかを述べてきたが、リスクを負いながらも行った告発が議論されず、告発者自身のプライベートな情報に議論が集中してしまう状況は、告発者というより告発を受け取る我々や社会の側に問題があるように思われる(昨今の日本社会をみれば、告発につきまとうスキャンダリズムがあちこちで確認できる。もちろん告発者側がその人格を意図的にアピールするような方法を取ることもある)。

この問題は重大なジレンマを孕んでいる。ある程度の人格が見えなければ告発が世間に注目されない一方、過度な人格への着目は告発内容そのものの議論を停滞させ、加えてスキャンダリズムによって不必要な混乱が生じてしまう。このバランスはメディアやそれを受け取る我々の意識の問題であるとは先ほど述べたが、その背後にはSNSやスマートフォンによって加速するアテンションエコノミー構造(注目する/されることで問題の本質より表面的な事象に人々の意識が奪われてしまうこと)など、現代の情報環境にも問題の一因が認められる。

我々は情報から距離を置いて思考する間を与えられることなく脊髄反射的にニュースに反応させられる、そのような社会を生きている。こうして告発とスキャンダリズムのふしだらな癒着が前景化する日本社会においては、倫理的覚悟をもって語った告発者にこれまで以上のリスクが生じてしまう。

告発者の勇気、市民の勇気とは

確かに内部告発には妬みや嫉みなど、一定の恣意性を孕んだ告発や、完全なガセネタもあるだろう。故に告発内容の精査に関しては細心の注意が払われなければならず、告発者の人格なども考慮の対象になる。しかし、優先順序は人格よりも告発内容だ。この点を我々は忘れてはならない。付言するならば、昨今のポストトゥルース(脱真実)と呼ばれる時代においては、ある内容が正しいか否かといった真偽に関心が払われなくなっており、「信じたいものを信じたい」人々が情報を自分の都合に合わせて消費する。したがってどれほど告発内容が正当なものであっても、「みたい事実だけをみて」告発内容を解釈されたりスキャンダリズムに巻き込まれるなど、告発者は大きなリスクを背負うことになる。

するとここでもまた告発はジレンマを帯びる。こうした状況に負けず、批判を覚悟で語る告発者の姿勢に賞賛の声が上がる一方、語れば語るほど告発者のリスク増大を意味してしまう、というものだ。そしてそのような状況を前に、我々は告発者の「勇気」に頼らざるをえない。だがこの勇気や「立派な告発者」という考えもまた一種の人格的な判断であるため、勇気や「立派さ」の評価をめぐってさらなる社会的混乱を招いてしまう恐れもある。それほどまでに、この社会は複雑で混乱した状況に陥っている。

勇気や覚悟が困難な時代にあって、それでも勇気を振り絞る告発者を我々はどのように受け止めるべきか。課題は尽きない。

プロフィール

塚越健司情報社会学・社会哲学

1984年生。拓殖大学非常勤講師。専門は情報社会学、社会哲学。ハッカー研究を中心に、コンピュータと人間の関係を哲学、社会学の視点から研究。著書に『ハクティビズムとは何か』(ソフトバンク新書)。TBSラジオ『荒川強啓デイ・キャッチ!』火曜ニュースクリップレギュラー出演中。

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