2017.09.04
2つの祖国の狭間で――中国残留孤児3世代に渡るライフストーリ―
戦時中、開拓団として満州に渡り、戦後の動乱の中、さまざまな理由で帰国がかなわず中国に残らざるを得なかった中国残留孤児たち。1972年の日中国境正常化以降、そのほとんどが日本に永住帰国した。慣れ親しんだ「異国」と、異文化の「祖国」の間で揺れ動く彼らのライフストーリーとは。中国残留孤児研究がご専門の、張嵐氏に伺った。(取材・構成/増田穂)
中国残留孤児と中国人留学生
――そもそも「中国残留孤児」とはどのような人々のことなのでしょうか。
1932年3月、日本は中国東北地方で「満州国」という傀儡政権を作り上げました。以後第二次世界大戦の終結に至るまで、満州は日本の植民地支配を受けます。約13年間におよぶ植民地統治のなかで、日本は軍事的必要性と、世界恐慌以降の農村の惨状打開の施策を組み合わせて、満州に大規模な開拓移民を送り込みました。こうした移民は満蒙開拓団とよばれ、国策として全国から30万人以上の人々が満州へ送られました。
1945年の日本の敗戦と同時に、多くの日本移民は国家の保護を失いました。一部の子女は、混乱のなかで家族と離れ離れになり、集団引揚げの情報を知ることもなく、チャンスを逃し、中国社会に留まらざるをえず、「中国残留孤児」と呼ばれるようになったのです。
彼らは中国人養父母に拾われ、中国人家庭の中で中国人同様に育てられました。しかし1972年9月の日中国交正常化を契機として、多くの中国帰国者が日本に帰国するようになります。中国帰国者とは、いわゆる「中国残留孤児」、「残留婦人」、「残留邦人」、及びその「同伴家族」、「呼び寄せ家族」で、日本に帰国・来日した者の総称です。1945年8月9日時点で、13歳未満であった者を残留孤児、13歳以上であった女性を残留婦人、13歳以上であった男性が残留邦人と呼ばれています。厚生労働省の統計によれば、国交正常化から2017年6月30日までに、永住帰国した中国帰国者の総数は6720世帯、20900名におよぶといいます。そのうち、残留孤児を含む世帯は2556世帯(9377名)とのことです。
――張さんはこういった経緯で、中国残留孤児の問題に注目するようになったのですか。
私は2002年から2012年までの10年間、日本で留学生活を送っていました。実は、日本に来るまで、「中国残留孤児」という言葉すら知らなかったんです。
2005年の6月に、千葉大学で「中国文化紹介会」を主宰することがありました。その際、千葉近郊に住む中国残留孤児の方々にも文化交流の場に参加してもらいたいと声をかけたんです。彼らには、中国の伝統楽器・二胡を演奏してもらいました。それを契機として、「中国残留孤児」という“特殊”な集団の存在に関心を持つようになりました。
残留孤児と接する中で、彼らが日本人であるにも関わらず、戦争のため何十年間も中国で生きてきたことがわかりました。そして彼らは、永住帰国後もさまざまな問題を抱えながら生活しています。第二次世界大戦の終結から、すでに70数年の月日が流れました。しかし、戦争の時代の犠牲となり、いまだに苦しんでいる人々がいます。中国残留孤児はまさに戦渦の爪痕を象徴する「時代の証人」といえるでしょう。戦争を経験したこともなく、「中国残留孤児」という言葉さえ知らなかった私にとって、彼らとの出会いは、実に衝撃的でした。
日本帝国、「満州帝国」、中華人民共和国、そして現在の日本社会を生きぬく中国残留孤児……。彼らは一体どんな存在なのか、彼らはどのような歴史を背負っているのか、日本と中国の狭間でどう生きてきたのか、また、どう生きているのかを知りたい。それがこの研究を始めた素朴な動機でした。
――実際に多くの中国残留孤児当事者や関係者の方から聞き取りを行っていますよね。
はい。長年かけて、日本と中国の両国において、養父母・残留孤児・残留孤児2世という、中国残留孤児に関する三世代の聞き取り調査を行ってきました。中国人留学生としての立場から、中国語と日本語を使い、残留孤児の話に耳を傾けてきたことが、これまでの先行研究と違う結果を見出すことができたと考えています。
――具体的にはどのようなことですか。
中国残留孤児と私は、中国で長く生活を営み、日本へやってきた、異文化体験者という立場を共有しています。そのため、残留孤児にとっての母国語である、中国語を使って、彼らの語りのなかから微妙な心の襞や思いを聞くことができました。インタビューの中でも、よく「われわれみんな中国人だから、本当の話をするけど」、「あんたも中国人だから、よくわかると思うけど」などと言われました。こうした言葉にみられるように、インタビューの答えにおいて、特に感情的な要素は当事者の生活世界の解釈や調査結果と大きくかかわってくると思われます。さらに、中国人として、今までほとんど研究されなかった中国にいる残留孤児・養父母にインタビューすることにも成功しました。その意味で、日本人研究者の調査とは異なった形で、自らの特性を活かして残留孤児の生活世界を明らかにしたと考えています。
日中の「これまで」と「これから」を語る残留孤児の存在
――中国残留孤児は、中国と日本のそれぞれの社会でどのように描写されているのですか。
まず、日本の残留孤児に関する報道の内容について詳しく分析したところ、中国に残された残留孤児の帰国は困難に満ちた長い道のりであり、憧れていた“祖国”もただの夢であったに過ぎない、という言説が読み取れました。また、残留孤児の日本に戻るまでの経緯に関心が向けられた一方、彼らの永住帰国後の生活への配慮に関する報道は十分とは言えないように思われます。本来は、中国残留孤児の9割を占める人々が参加していた訴訟裁判で明らかになったように、むしろ帰国後の生活こそが、残留孤児当事者および二世・三世にとって、最大の問題だったのです。
敵国の子どもを育てた中国の養父母に関する記事は少なさも目立ちました。こうしたテーマについては「養父母訪日招待」、「養父母の養育費」などの問題は集中的に報道されたものの、それ以後は忘れ去られてしまっています。実際は、今なお十分解決できていない状況であり、生存している養父母は養子と離れ離れになり、生活支援のない状態で不安な老後を送らざるを得ない状況にさらされています。こうした問題に関しては、日本政府・マスコミ・国民は忘れてしまっているように思えます。
もっとも記事が少なかったのは残留孤児二世・三世に関するものです。彼らについては、「生活」に関する記事より、「日本語教育」と「犯罪」に関する記事の方が多かったのが特徴的ですね。しかし、残留孤児二世・三世の問題は、日本語教育だけで万事が解決することはなく、また、犯罪に目を奪われてしまうことで犯罪の背後にある社会状況を忘れてしまうおそれがあると思われます。
――全体的に言って、日本の報道では、中国残留孤児の帰還までに注目する傾向が強く、その後の諸課題についてはなおざりになってしまっている部分があるのですね。
ええ。一方、中国における残留孤児に関する報道は、日中関係が大きく関わっていると思われます。中国残留孤児は当時の日本が発動した中国侵略戦争によって生まれた、戦争の犠牲者でもありますが、日中友好・国際交流が主流となっている今日、中国のマスコミは、残留孤児のことを「日中友好のシンボル」、「日中の間の架け橋」と位置づけ、日中関係と大きく関わる、政治的な意味合いを含んで言及することが多いと思われます。
私は、この点が日中マスコミの大きな違いであると考えています。つまり、ご指摘の通り、日本のマスコミの中国残留孤児に対する注目は事実報道に集中しており、しかも、残留孤児が永住帰国するまでの「訪日・肉親探し」にもっとも注目しています。残留孤児の問題を日中関係の一環として論じることはほとんどありません。言い換えてみれば、残留孤児のことを「これまで」の歴史上の出来事として捉える傾向が強いのです。一方で、中国のマスコミは、残留孤児のことを日中友好のシンボルとして捉え、残留孤児に、「これから」の日中の間の架け橋となることを期待しています。
複層的な帰国動機
――中国残留孤児の9割近くはすでに日本に永住帰国していると聞いています。彼らが日本への帰国を決めた背景にはどのような理由があるのでしょうか。
中国残留孤児の帰国動機のモデル・ストーリーとしては、これまで、「望郷の念」または「日本経済への憧れ」があげられされてきました。つまり、非常にシンプルに、祖国に帰りたいという思いと、物資的に豊かな日本でより豊かな生活がしたいというものです。
しかし、丁寧かつ深いインタビューを通して、こうしたモデル・ストーリーから隠され、モデル・ストーリーに回収されなかった多元的で複雑なストーリーを捉えることができました。中国残留孤児には中国残留から日本帰国に至るまでの心情や動機に多様な変化があり、永住帰国という自己選択をした時の繊細な心の揺らぎがあったのです。
インタビューをしていると、多くの場合最初に「望郷の念」が語られましたが、さらに深く話を聞くと、別の理由がいくつも語られました。例えば、「差別」の語りであったり、「いじめ」の語りであったり、中国での生活におけるネガティブな側面が語られたことによって、潜在的に「やっぱり日本がいい」という理由が存在したことが浮かび上がったのです。
また、動機というよりは、外的な要因が曖昧な動機として語られたのも特徴的でした。自分の意思で帰国したというより、成り行きや周囲のお膳立てでなんとなく永住帰国することになったというきわめて曖昧な動機であり、語られたのはすべて自己決定とは異なる外的な要因です。
つまり、これまで、「日本経済への憧れ」も動機の中の一つの大きな外的要因とされてきましたが、こちらも丁寧にインタビューをしていくと、「日本経済への憧れ」というよりは、むしろ家族関係や政府の支援状況などによる動機が強いことがわかったのです。例えば、「友達に勧められた」、また「友達や息子に進められ、それに、政府が積極的に手続きをしてくれた」などのような外的要因が語られました。
更に、帰国動機が固定的でも明確でもなく、いまなおそれを探し求めている中国残留孤児もいます。ここでは、インタビュー中、中国残留孤児は“現在の時点から、過去を振り返って語っている”ことを忘れてはいけません。つまり、彼らが過去の出来事を語るときは、過去の時点で考えているわけではなく、現状に作用されながら、過去を語っています。
日本に永住帰国した中国残留孤児の6割以上は生活保護で暮らしており、9割近くの人たちは国家賠償請求訴訟に参加していました。この現状は彼らの生活に対する不満や不安を映し出しています。「帰ってきて本当によかったのだろうか」、「むしろ中国の方が良かったんじゃないのか」という葛藤を抱え、中国での生活に愛着をもち、自分を第一に中国人だと認識するような中国人的なアイデンティティを持つ人びともいます。
当事者たちの帰国理由やその決断に対する自己評価は、非常に複合的かつ揺らいでいるものなのです。
――今お話にも出ましたが、永住帰国した残留孤児たちの多くは、国から十分な社会的支援を得られなかったと感じているそうですね。
ええ。その点に関しては、2002年から、日本に永住帰国した中国残留孤児約2201人が全国15の地方裁判所で、国は早期の帰国支援と帰国後の支援を怠ったとして、集団で国家賠償請求訴訟を起こしました。
中国残留孤児は、次にあげる理由などから、政府が孤児の人たちの「普通の日本人として人間らしく生きる」という基本的な権利を侵害していると主張しています。まず第一に政府が戦後に中国にいた住民らを「棄民」したこと。次に孤児らの存在を認識していたにもかかわらず、1959年に「戦時死亡宣告」制度によって、孤児らに「法的死亡宣告」をしたこと。そして、帰国後も孤児らに生活支援対策を十分に果たしてこなかったこと、の3つです。この「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利を」というテーマの集団訴訟は、一人に3300万円の損害賠償を求めていました。
この訴訟は、2007年11月28日、中国残留孤児に対する支援を充実させる中国残留邦人支援法改正案が、参院本会議で全会一致で可決、成立し、決着を迎えました。永住帰国した孤児の9割が原告となった訴訟は、最初の提訴から5年をかけて、ようやく決着を迎えることになったのです。
――9割というのは、非常に大きな割合ですよね。皆さんそれだけ国の対策に憤りを感じていたということでしょうか。
全員が全員、強い怒りを感じていたかというと、必ずしもそういうわけではありません。実は、詳しく見てみると、裁判に参加している中国残留孤児の望みはそれぞれ異なっています。
もちろん、国の落ち度を強く批判し、賠償を求める人々もいます。「中国で、日本人として生きてきた」孤児が、敗戦の混乱や逃避行の修羅場をくぐり抜け、その後の異国での生活のなかで、日常的に受ける差別や疎外に耐え、悲運を背負いながら生きてこられたのは、「いつかは日本へ帰る」、つまり「落葉帰根」を心の支えとしてきたからです。多くの残留孤児が口にするこの「落葉帰根」とは、「落葉が根元に帰るように、人間が死んだらふるさとに帰る」という意味で、これは、「人間の最後は自分の故郷に帰り、骨を故郷に埋める」といった、中国の古くからの考え方です。中国の文化から多大な影響を受けて育てられた中国残留孤児らは「日本人の血が流れているので、自分は日本人である」と主張し、帰国を望んでいました。
だからそこ、彼らはすべてをかけて、万難を克服して、やっと日本に帰ってきたんです。その分、祖国である日本政府の対応に非常に期待を抱いたといえるでしょう。しかし、彼らの期待に反し、国の対応は冷たかったのです。そのため、彼らは立ち上がって、全面的に国の失策を訴え、訴訟の中心メンバーとして積極的に参加していました。
一方、中国での生活に愛着をもち、中国人的なアイデンティティを自認する人々が、「ただ一年に一回中国に帰り、養父母の墓参りに行く」ことのような些細なことを求めている場合もあります。
さらに、中国で豊かな生活を送り、教師などの比較的高階層に位置する職業に就いていた人々がいます。彼らは中国での生活に満足していたものの、友人の勧めや、子供の将来を考えた結果として、永住帰国しました。自身の明確な帰国動機を持たなかった彼らは今でも来日の動機を探し求めています。期待の薄かった彼らはそれほど日本政府に期待せず、どちらかというと、現在の生活に満足しているように窺えます。彼らも裁判には参加しているものの、明確な目的がなく、それは「周囲が参加しているから」という仲間意識を大切にした結果で、極めて消極的です。
――国の支援不足訴える人々は、具体的にどのような問題を指摘しているのですか。
中国残留孤児は帰国してからあわせて一年間ほどの日本語教育を受けるチャンスが与えられました。しかし、一年後、「自立してください」、「仕事をしてください」、「働きなさい」と生活保護の担当職員から折に触れて迫られています。「働きながら言葉を覚える」ことを指導方針として、方言の日本語しか話せない人にすぐに働くことを強いたりする自立指導員がいます。しかし、言葉の壁や高齢のため、仕事は見つかりません。「税金で養われている」という後ろめたさも実感していました。
厚生労働省の残留孤児政策は「生活できなければ、生活保護を受ければいい」というものです。しかし、例えば、残留孤児が養親の墓参をするために中国に行けば、その間の保護費がカットされます。また、知人を自宅に泊めれば、生活に余裕があるとして保護費の一部がカットされてしまいます。子どもの扶養家族には支給されないので家族で同居できないケースもあります。生活保護をもらうことで、生活スタイルまで規定されてしまう。これが実情でした。インタビューの中でも、生活保護制度は「制約が多い、“屈辱的”」と口に出す中国残留孤児が少なくなかったです。
さらに、孤児たちの心にひっかかっていることがありました。それは、北朝鮮拉致被害者との差でした。「われわれは二等国民で、北朝鮮拉致被害者は一等国民なのか」という声は多かったです。「彼らは日本語もできる。親も、兄弟もいる。政府も支援している。でも私たちはだれも相手にしてくれない。苦しいです。私たちの失った過去はもう戻らない。この苦しい人生が孤児の責任ではなく、国の責任であることを認めてほしいです」と語っている孤児がいました。
日本へ帰国した北朝鮮拉致被害者への支援には何の異論もありません。ただ、彼らとの待遇の格差を見ると、「自分たち孤児はいったい何なのか」と孤児たちの心は暗くなりました。自分の意思に反して外国で長期間の生活を余儀なくされてきた日本人が、祖国・日本に帰ってきて、新たに生活を始めるという点では同じです。もちろん、原因には違いがありますが、彼ら自身が立ち向かわなければならない問題はかなり似通っています。
北朝鮮拉致被害者は帰国後5年間の限定はついているものの、一人17万円、夫婦で24万円の生活支援金が支給されています。これは生活保護ではないため、働こうが、ほかに収入があろうが、生活保護のように引かれることはありません。また、国民年金にしても、拉致被害者の場合は、国がすべての保険料を全額負担するという形になっているため、孤児たちのように日本にいなかった期間の保険料を追納せずにして、満額を受給できる。家族も含め、日本語教育や就労支援もあります。
国の支援も自分たちに比べて手厚く、また、日本語を自由に使えて、公的な仕事などについた拉致被害者を孤児たちは「うらやましい」と思っています。拉致被害者との待遇の差に孤児たちの心は傷ついています。こうした感情もまた、彼らを裁判に駆り立てた背景にありました。原告らは「せめて北朝鮮拉致被害者と同じような支援策を実施して欲しい」「北朝鮮拉致被害者の加害者は北朝鮮であるにもかかわらず、あのような手厚い支援策が実施されている。私たちの加害者は政府自身なのだから、拉致被害者と同じような支援策が実施されてもおかしくないはずだ」といいます。
2007年、「祖国日本の地で、日本人として人間らしく生きる権利を」というテーマの集団訴訟は終結を迎えました。以前は3分の1の支給にとどまっていた国民年金(月額6万6000円)を満額支給し、医療費、介護費、住宅費を国が負担するほか、生活保護に代わる給付金制度を創設して単身世帯で最大8万円を上乗せする内容でした。また、孤児の6割が受けていた生活保護では、預貯金や扶養の可能性、働いて得た収入のチェックなど、孤児にとって「生活監視」「生活干渉」ともいえる手続きが多くありましたが、支援策では、制度の運用で、こうした苦しみを与えない配慮をするとしています。さらに、原告のほとんどが経済的理由から猶予されていた提訴に必要な収入印紙代、総額約2億5000万円(約2200人分)についても、訴訟取り下げでも孤児の負担にならないよう解決する案が示されていました。原告・弁護団はこれを受け入れ、すべての訴訟で一時金の賠償を求めずに和解か取り下げの形で、訴訟終結をはかることにしました。【次ページへつづく】
アイデンティティの多様性
――中国と日本という2つの祖国の間で、中国残留孤児たちはどのようなアイデンティティを持つようになっているのでしょうか。
中国残留孤児や残留婦人、そして、二世らのアイデンティティに関する研究は、これまで、ほとんど彼らのアイデンティティの葛藤と動揺に注目してきました。ここでの「葛藤と動揺」とは、主に、「中国にいれば日本人と言われ、日本にいれば中国人と言われる」というように、周りの人びとに受け入れてもらうことができず、そのための、「自分はいったい中国人なのか、日本人なのか」、「それとも中国人でもない、日本人でもないのか」という所属感に対する動揺と悩み、特に彼らの自己認識上の葛藤を示しています。
私は、残留孤児のアイデンティティを、当事者の生活史全体の中で位置づけるという、これまでとは異なる新たな視点から考察した一方、中国人留学生というインタビュアーとしての立場から、アイデンティティが構築される多様かつダイナミックなプロセスを検討してみました。残留孤児のライフストーリーを詳細に分析していくことで、次の三つの自己の語りを取り出すことができました。
まず第一には、はっきりとした「私は日本人だ」、「中国で、日本人として生きてきた」という自己定義を持っている一方、日本社会でいじめや差別を受け、日本人とのコミュニケーションの中では、自分も気づかないうちに、「あんたたち日本人」、「彼ら日本人」というように、無意識に自分のことを日本人と対立した立場に置くようになった場合があります。
第二に、アイデンティティに拘らず生きている残留孤児らもいます。「中国人でも日本人でも、両方を言うが、人によるよ」といったように、相互行為の相手が日本人なのか、中国人なのかによって、自動的に自己認識を変えていく姿を見せてくれたケースもありました。
三つ目は、私が中国人だからこそ語られたかもしれませんが、アイデンティティの動揺を感じさせず、「私は中国人だ」というように自己が定着している残留孤児らもいました。
中国残留孤児のアイデンティティは、彼ら一人ひとりが日本社会でどのような状況に置かれ、また中国社会でどのような体験をしてきたかによって、そのあり様は大きく変化し、規定されてきました。
日本人アイデンティティか中国人アイデンティティかという二極の間の単純な揺れという視点だけではなく、日本人でも中国人でもない新たなカテゴリーの主体的な創造性も視野に入れるべきではないでしょうか。また、日本人でもある、中国でもある、というアイデンティティの多様性も無視することができないでしょう。
さらに、中国人アイデンティティが揺るぎなく、アイデンティティについての問題は生じない残留孤児の存在も忘れてはいけないと考えられます。このように、インタビューからは中国残留孤児のアイデンティティは、彼らと日本社会そして中国社会との歴史的でダイナミックな相互作用の中で、彼らの生きる戦略の中で形成されてきたことを確認できました。
――張さんは、さらに残留孤児二世、三世のおかれた状況にも注目されていますね。
はい。中国残留孤児二世は農村出身者が大多数で、来日後は都会に定住しているケースが多く見られます。社会発展の面で、中国の農村社会は日本の都市社会より何十年も遅れていると言って過言ではありません。そのような社会環境から出てきた彼らは、日本の都市生活に自分を適応させるために、短期間でこの社会になじまなければなりません。
大久保明男さんが指摘したように、衣食住などの日常生活から学校、職場、地域などでの社会生活まで、生活そのものを支える経済的基盤や、生活のあらゆる面における知識、習慣などを、二世はほとんどゼロに近い状態から築いていかなければならなかったのです。
その中で彼らは、言語や文化、意識形態などの違いから発生するさまざまなトラブルを克服し、乗り越えることが求められます。若いうちに来日して、言葉に全く問題のない二世であっても、文化・習慣など家庭において伝承される知識は著しく欠けていて、そうした部分で適応をもとめられます。
こうした文化や慣習の差異はさらなる問題の構造を生み出します。日本社会の排除の構図、あるいはマイノリティ化です。二世は言語の習得はできても、一世から受け継いだ文化や習慣の違いから、学校生活などにおけるいじめなどの排除を経験し、それが彼らの疎外感や劣等感を醸成させることになります。
日本社会における中国残留孤児二世は、中国残留孤児一世と同様、「かわいそうだ」という感情的な一言によって端的に表現される、「軽蔑的な同情」を注がれ、差異化された少数の存在でもあります。つまり、残留孤児二世は日本社会でマイノリティ視され、社会の周辺に置かれているのです。
例えば、大学で日本人にも中国人にも仲間として見てもらえず、居場所が見つからなくて、非常に苦悩していた二世がいました。また、小学校時代からずっとクラスメートに仲間はずれにされ、どんどん自分に自信がなくなってしまい、強い劣等感を感じていた人もいました。
アイデンティティは他者による規定と自己による規定によって形成されるものですが、残留孤児二世のアイデンティティは、マイノリティ視される日本社会の環境のなかで、受動的に形成されてきた部分が多いです。マジョリティの権力によって出来上がったネガティブなイメージが、社会のマイノリティに位置づけられる残留孤児二世に「私はいったい何人なの?」と考えさせているのではないかと思います。
中国に残るストーリー
――多くの残留孤児が日本に帰国した一方で、中国に残る選択をした残留孤児の方もいますよね。彼らはなぜ中国に残ることを選んだのでしょうか。
そうですね。2009年1月31日現在の厚生労働省社会・援護局の統計によれば、これまで日本政府によって認定された中国残留孤児は2815人とされています。そのうちの89.8%を占める2529人の残留孤児がすでに永住帰国しました。逆に言えば、残りの1割強の残留孤児は、残留孤児と認定されたにも関わらず、現在でも中国に住み続けているということになります。具体的にその数は285人にものぼります。さらに、その内訳を見てみると、身元判明者は188人で、在中残留孤児の66%を占めます。つまり、7割近くの在中残留孤児は身元が判明し、日本国内の親族を見つけたにも関わらず、帰国しなかったのです。圧倒的多数の残留孤児が帰国をする中で、なぜ彼らは日本に永住帰国しないのか、確かに疑問に思うかもしれませんね。
中国残留孤児が1945年に中国残留を強いられてから、中国定着か日本への永住帰国かを選択するまでの長いプロセスの間、彼らを取り巻く外部環境と社会背景にいくつかの大きな変化がありました。まず外部環境の変化としては、日中両国の間における変化として、1945年の日本の敗戦、1946~1949年の日本人前期集団引揚げ、1953~1958年の日本人後期集団引揚げ、また、1972年の日中国交正常化などが挙げられます。
次に、中国残留孤児が長期間暮らしてきた中国の国内情勢の変化としては、1949年の社会主義新中国の成立、1950~1952年の土地改革、1950~1952年の三反五反運動、1957年のインテリ批判の反右派闘争、1966~1976年の大規模なプロレタリア文化大革命、また、1978年以降の改革開放路線、市場経済政策の実施などが挙げられます。これらのいくつかの時代の変遷と外部環境の変化が、中国残留孤児が中国定着もしくは日本への永住帰国を決めるのに影響を与えていると考えられます。
――と、いいますと。
日本政府に認定され、日本の親族を見つけたにもかかわらず、彼らが中国に住み続けることを選択した理由はいくつか考えられます。その一つとして、一部の残留孤児は中国で安定した職業に就き、しかも、能力が認められ、高い職位に就いています。中国社会で非常に居心地よい暮らしができているからと考えられます。
一方、中国政府によって「中国残留孤児」として認定されたものの、日本政府に認定されていない在中残留孤児の存在もあります。認定されない理由はさまざまですが、例えば、日本人の生母と対面はしたものの、生母が残留孤児の帰国によって、これまでの生活が壊されてしまうのではないかと恐れ、実子の帰国を拒否した場合などがあります。または、「証拠不足」という理由で、詳しい説明もないまま、日本政府から日本人として認められない人もいます。さらに長年日中両政府から認められず、近年になって、ようやく中国政府によって認定されたものの、日本政府の認定にはさらに時間を要している人もいます。
在中残留孤児の中には、暮らし向きに満足し、帰国を希望しなかった人や、帰国を望みながらも認定が下りず帰国がかなわずにいる人など、さまざまな人がいるのです。
――中国残留孤児に関するあまり語られないストーリーとして、養父母との関係があります。張さんはこちらにも注目され、養父母へのインタビューをされていますが、そこからはどのようなことが分かったのでしょうか。
残留孤児の養父母たちは、終戦時、大きなリスクを背負い敵国日本の子どもを引き取り、戦後の貧しい生活と文化大革命の恐怖に耐えながら、養子を育てました。彼らはみな日本の侵略・支配によって直接的または間接的に被害を受けました。彼らがなぜ、敵である日本人の子を引き取り、養子として育てることにしたのか。その闊達さはどうやって生まれたのか。養父母へのインタビューの中核はこの疑問から成り立っていました。
回答から考えられる理由の一つとしては、養父母は残留孤児を一人の日本人として引き取ったというより、一人の人間として引き取ったということです。つまり、国籍や国家の境界線を超え、血統よりも、一人の人間として重視したといえるでしょう。「なぜ残留孤児を引き取ったのですか」という質問に対して、養父母たちが一致して口にしているのは、「子どもがかわいそう。助けないと死んでしまう」、「戦争は国と国の間のことで、子供たちとは関係ない」という言葉でした。
しかし当然ながら、動機は多層で複雑です。さらに深く聞いてみると、残留孤児を引き取った動機はいろいろあることがわかります。一部の養父母が「自分が子どもを産めない」、「老後の頼りとして子どもがほしい」という動機で、残留孤児を引き取ったということは否定できないと思われます。
また、残留孤児が帰国する際、中国政府は「養父母の同意なしでは、残留孤児は日本に帰国することができない」とし、養父母が同意書にサインをしなければ、残留孤児を帰国させない方針でした。しかし、「自分の子と同じように育てた」と涙しながらも、同意書にサインしない養父母は一人もいませんでした。私は養父母たちが耐え難い別離の悲しみに押しひしがれつつ、それでも養子の永住帰国を認めた背景にも興味を持ちました。インタビューからは、彼らが養子の帰国を認めたのは「日本人の血を引く日本民族」だったからではないことがわかりました。多くの場合、中国東北地方の経済・社会状況を踏まえ、日本に永住帰国した方が、養子や孫たちの生活展望が開けるだろうと考えたからでしょう。
――養父母の経験は今後の紛争の和解などにも示唆的だと感じます。今後さらにストーリーを深めていってもらいたいです。
そうですね。生存している養父母の総数を知るすべはありませんが、中国のある行政関係者は「生きて話ができる養父母は数十人しか残っていないのではないか」と語ります。彼らがどのように生活し、どのような思いで日々暮らしているかについてはほとんど知るすべがありません。養父母から直接に話を伺うことのできる時間は決して長く残されていないのです。彼らが中国残留孤児とともに歩んできた人生を記録することは喫緊の課題であるように思われます。
――戦後時間が経過する中で記憶が消えてしまう前に、伝えられることを残していきたいですね。張さん、お忙しいところありがとうございました。
参考文献
大久保明男(2000)「アイデンティティ・クライシスを越えて―「中国日裔青年」というアイデンティティをもとめて―」『「中国帰国者」の生活世界』行路社
プロフィール
張嵐
中国出身。2010年、千葉大学人文社会科学研究科博士後期課程修了、千葉大学博士(学術)。2012年、日本学術振興会外国人特別研究員、立教大学社会学部特別研究員を終え、中国暨南大学新聞与伝播学院副教授に赴任、現在に至る。主な研究分野は社会学、日中関係、中国残留孤児研究、ライフストーリー研究等。