動き出した減反廃止――減反の歴史と「戦後レジーム」からの脱却

ついに減反廃止が動き出した。正直言って、筆者はこれほど早く減反廃止が実現するとは思っていなかった。それは農学部にいて農業関係者に会う機会が多いから、農協や農林族の力を過信していたためだろう。減反廃止を言い出せば、必ずや農協や農林族が騒ぎ出して収集が付かなくなると思っていた。

 

しかし、今回政府が減反廃止を言い出しても、農協や自民党農政族は不気味なほど静かである。あっけないほど簡単に、政府が提案した減反廃止の方針を自民党が了承してしまった。

 

なぜ、そうなったのであろうか。本稿では、減反の歴史やその政治的背景を見ることから、40年余りも延々と続いて来た制度が、こうもあっけなく廃止されることになった理由を考えてみたい。

 

 

戦前から機能し続けた食糧管理制度

 

減反とは政府の命令に基づいて、水田の一部分でコメを栽培しないことを言う。減反は1970年に始まっているが、減反が行われるようになった理由を理解するには、戦前にまで遡って、食糧管理制度について理解する必要がある。

 

食糧管理制度とは政府が農民から一括してコメを買い付けて、それを一定の価格で国民に平等に販売するものである。この制度は太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年に、東条内閣によって作られた。このことからも分かるように、食糧管理制度は戦時体制の一環である。

 

不足しがちになったコメを金持ちが買い占めて、貧乏人が飢えることになれば、社会不安につながりかねない。それは戦争を遂行する上で、まことに都合が悪い。そのために、国家総動員体制の一環として、食糧管理制度を作ったのだ。戦争後期になると、恐れていたようにコメ不足が深刻化したが、食糧管理制度があったおかげで、なんとかコメを公平に分け与えることができた。

 

戦争が終わった昭和20年の秋から翌年の夏にかけて、日本は戦争末期よりも深刻なコメ不足に陥った。それは戦争末期に軍部が本土決戦を計画して、農民を大量に動員したためである。それまでにも農家の若者は軍隊に取られていたが、中年の多くは農村に残って農作業を行っていた。しかし、昭和20年になると中年にも召集令状が来たのだ。その結果、昭和20年の作柄は前年に比べて約3割の減収になった。昭和19年の生産量も戦争が始まる前に比べれば低下していたが、それよりも3割の減収になったのである。多くの餓死者が出るとの予測も出た。

 

しかし、戦後も食糧管理制度が機能したために、餓死者はほとんど出なかった。全国民が等しく飢えたものの、イモなどで食いつないで、なんとか生き延びることができたのだ。このように、戦時体制の一環として作られた食糧管理制度は、コメが不足しがちであった昭和20年代に大いに役に立った。

 

 

日本農業の活力を奪った減反

 

戦争から惨禍から立ち立ち直ると、コメ不足は徐々に解消に向かった。そして、昭和30年代になると豊作が続いて、誰もが十分にコメを食べられるようになった。そうなれば、戦時体制の一環であった食糧制度など必要ない。ここで、食糧管理法を廃止していれば、戦後の日本農業はまったく違った道を歩むことになったと思う。

 

しかし、戦前には予測できなかった新たな事態が発生した。経済が発展するにつれて都市で働く人々の賃金は大きく上昇し始めたが、農民の収入は都市住民ほどには増えないのだ。当然、農民は不満を持った。

 

当時、集団就職などによって、農村から都市への人口移動が始まっていたが、それでも人口の半数近くが農村に住んでいた。沢山いるから、政府は農民の意向を無視することができない。

 

政府は食糧管理制度を利用して、都市で働く人々の所得を農民に移転することを考えた。本来、食糧管理制度はコメ価格高騰を抑えるためのものであったが、その理念を180度転換して、政府がコメを市場価格より高く買うことによって、農家の所得を増やそうとしたのだ。

 

政府は都市で働く人々の所得が上昇すると、それに見合う形でコメの買い取り価格も上げた。コメの買い取り価格は米価審議会において決められたが、その会場をむしろ旗を掲げた農民が取り囲んで圧力をかける姿は、秋の風物詩にもなっていた。

 

しかし、昭和40年代に入ると都市の所得はいっそう上昇し、それに伴い人々は肉や乳製品などを多く摂取するようになった。パンの消費量も増え、食の多様化が進んだ。その結果、コメ消費量は大きく減少した。

 

その一方で、水路の整備が進み、また化学肥料や農薬が普及したことによってコメの生産量は増加し続けた。当然のこととして、コメが大量にあまるようになった。あまったコメは政府が備蓄に回したが、毎年、その処理のために膨大な国費が使われることになった。

 

このような事態を受けて、減反が行われるようになった。そして、これは全国一律で行われたのだ。もし、全国一律で減反を行わなかったら、美味しいコメを栽培している新潟県魚沼などは、いくら生産しても追い付かない状況になる。その一方で、美味しくないコメを作っている地方はコメを作らなくなってしまう。市場原理によって淘汰が進むことになる。

 

しかし、長い間コメを作って来た日本では、コメ生産に市場原理を導入することには抵抗感があった。そのために全国一律の減反を行うことになったのだが、減反はカルテルであり、極めて社会主義的な手法と言える。そのような手法が日本農業の活力を奪うことになったことは当然のことであろう。

 

 

 

シノドスのサポーターになっていただけませんか?

98_main_pc (1)

 

 セミナー参加者募集中!「スノーデンと監視社会の現在」塚越健司

 

 

無題

 

vol.232 芸術にいざなう 

 

・吉澤弥生氏インタビュー「人をつなぐ芸術――その社会的評価を再考する」

・【現代演劇 Q&A】長瀬千雅(解説)「時代を捕まえるダイナミクス――現代演劇事始め」

・【今月のポジ出し!】橋本努「タックス・ヘイブン改革 香港やシンガポールにも圧力を」

・増田穂「『知見』が有効活用されるために」

 

vol.231 ひとりひとりが生きやすい社会へ 

・森山至貴氏インタビュー「セクシュアルマイノリティの多様性を理解するために」

・【障害児教育 Q&A】畠山勝太(解説)「途上国における障害児教育とインクルーシブ教育」

・【あの事件・あの出来事を振り返る】矢嶋桃子 「草の根の市民活動「タイガーマスク運動」は社会に何をもたらしたのか」

・成原慧「学び直しの5冊 <プライバシー>」

1 2 3 4
シノドス国際社会動向研究所

vol.232 特集:芸術へいざなう

・吉澤弥生氏インタビュー「人をつなぐ芸術――その社会的評価を再考する」

・【現代演劇 Q&A】長瀬千雅(解説)「時代を捕まえるダイナミクス――現代演劇事始め」

・【今月のポジ出し!】橋本努「タックス・ヘイブン改革 香港やシンガポールにも圧力を」

・増田穂「『知見』が有効活用されるために」