2014.01.31
貧困ツーリズム『東京難民』で語られたものと語られなかったもの
どこにでもいる大学生が授業料の未払いをきっかけにホームレスへの道を辿る映画『東京難民』。メディアが取り上げてきた貧困を取り巻くプロットを散りばめている「貧困ツーリズム」と評する荻上チキと、ホームレス支援に携わり現場から貧困を見ているNPO法人自立生活サポートセンター・もやいの大西連氏、『女性ホームレスとして生きる』の著者である立命館大学准教授の丸山里美氏が、『東京難民』で語られたものと語れなかったものについて語り合った。(構成/金子昂)
若者と女性の貧困
荻上 皆さん、こんばんは。評論家の荻上チキです。本日は『東京難民』試写会&トークショーにご参加いただきありがとうございます。今日のトークショーは、この映画を評価するものというよりは、映画のサブテキストとしてお聞きいただきたいと思っております。『東京難民』が語った、そして語らなかった貧困について、お二人の専門家とお話をしていきたいと思います。
さて、ゲストを紹介いたします。NPO法人自立生活サポートセンターもやいの大西連さんです。
大西 はじめまして、大西連です。ぼくは普段、生活に困窮されている方への相談業務をおこなっています。また、ホームレス状態、あるいはそれに近い方の支援に携わっている立場から、公的な支援、社会保障制度の在り方について発信をおこなっています。
荻上 大西さんからは、現場からの立場で、『東京難民』をどのように見たのか、あるいはこの映画を読み解く上で知って欲しいことについてお話いただきたいと思っています。
続いて立命館大学産業社会学部現代社会学科の丸山里美さんです。
丸山 丸山です。私はもともと女性ホームレスの研究をしておりまして、私自身もしばらくホームレス生活を送りながら、女性ホームレスの実態を取材していました。『東京難民』では、あまり女性の貧困についてはあまり多く語られていませんので、おそらくそのあたりの話をしろということで今日は呼んでいただけたのだと思っています。よろしくお願いいたします。
荻上 丸山さんには、この映画をきっかけに、メディアなどで語られにくい女性の貧困問題について、どのような形で焦点をあてて欲しいかなど伺っていきたいと思っています。短い時間ではありますが、今日はどうぞよろしくお願いいたします。
「見えづらい貧困」を描く挑戦
荻上 まずは映画を振り返りましょう。『東京難民』では、学費が滞って大学を除籍になってしまった大学生が、ネットカフェ難民になり、低賃金で働く状況となる。その後ホストになり、さらには借金を背負い、貧困ビジネスにも手を染め、ホームレスになる……そうした若者が行政に繋がることはなく、むしろ警察の取り調べの対象となってしまい、セーフティーネットから排除されていく。そんな姿が描かれています。
これは、ここ10年ほどメディアで表現されてきた貧困をとりまくプロットをこれでもかというほど散りばめて、ひとつの物語仕立てたもの。いわばメディアイメージとしてシェアされた「貧困ツーリズム」のような作品だと思うんですね。
まず大西さんは普段の活動の中で目の当たりにされている若者の貧困についてお話いただけますか?
大西 以前は「貧困」と聞くといわゆる「ホームレス」を思い浮かべる方が多かったと思います。それは「駅や公園に寝泊まりして、空き缶を拾っているホームレス」という、わかりやすい、見えやすい貧困でした。
しかし2006年ごろから「ネットカフェ難民」が取りざたされ、さらに2008年のリーマンショックの影響で派遣切り、または年越し派遣村などがメディアでも取り上げあげられるようになった。これは時代の変化と共に生まれた新しい「見えづらい貧困」です。この映画は、そのような新しい貧困を描こうとチャレンジしてくれたのかな、と感じました。
近年、生活に困って相談をしに<もやい>にいらっしゃる方の約3割が実は30代以下の方なんですね。訪れる理由も、困窮した理由も様々です。この映画の主人公のように家族との関係が切れてしまった方が多いですが、住み込みの仕事で失業と同時に住まいを失ってしまったとか、健康を害したとか、助けを求めても役所で追い返されてしまったとか、本当にいろいろです。
荻上 女性の相談者はどのくらいいますか?
大西 我々のところで統計的にとれているのは10~15%ほどです。
荻上 ということは女性の若者だともっと少なくなるわけですね。
大西 そうですね。このあと丸山さんからお話があると思いますが、女性は性的な搾取も含めて、より「見えづらく」、より厳しい状況に置かれている印象があります。
世帯の中に隠された女性の貧困
荻上 貧困が「ホームレス」のような典型的なものから変わりつつあるなかで、メディアを含めた様々な人たちが貧困を再発見し、再定義しようとしています。しかし女性の貧困については、まだまだ再発見も再定義も十分でない面があると思うんですね。
先ほどお話したようにこの映画は「貧困ツーリズム」のような形で、ドロップアウトのパターンを複数描いています。女性については、田舎に帰って実家に暮らすというパターンと風俗で働くという二つのパターンが描かれている。この点について丸山さんはどのようにお考えでしょうか。
丸山 私はこの映画を「男性の物語だなあ」と思ってみていました。この映画で女性の貧困については、いま荻上さんがおっしゃったもの以外にもう一つうっすらと描かれているものがありました。震災で息子が亡くなってしまったホームレスの鈴木さんが出てきましたが、彼は離婚をしているので、おそらく妻は母子家庭で息子を育てていたんでしょう。そういう見えにくい貧困を読み解くこともできると思います。
女性の貧困は他にもあります。よく言われるのはDVですね。それからいろいろな調査から、鬱や精神疾患といったメンタルの問題を抱えていることが多い。この映画では、そういった面はあまり見えてこなかったかな、とは思いました。
荻上 女性の貧困研究や女性学などを研究されている方は、女性の貧困に関する報道について、必要なことだと言いつつも、やや批判的な見方をすることもありました。それは、女性のほとんどが非正規雇用で働いていて、シングルマザーは貧困に直結するという問題はずっとあって、男性が貧困化してはじめて女性の貧困についても騒がれ出したという経緯からくるものだと思うんですね。
それでは、なぜこれまで女性の貧困が語られなかったのか。そしていまの女性の貧困の語られ方は、おそらく発見と再定義が上手くいっていない。なぜだと思いますか?
丸山 女性の貧困は、女性が世帯の中に隠されているために見えにくくなっているんですね。ご存知の通り、女性は男性の賃金の7割ほどと言われています。そこから考えても、女性が経済的に一人でやっていくのは非常に難しい社会にある。DVで困っていても、家からはなかなか出られない。そのために、女性の抱えている困窮やしんどさのようなものは、貧困という形ではなかなか現れてこないのではないでしょうか。
経済的な概念だけでは測れない貧困
荻上 貧困と聞くと経済的なものを連想すると思いますが、経済的な概念だけでは貧困は語りきれないということですよね。
湯浅誠さんは「五重の排除」というお話をされています。これは経済的な排除以外にもいくつかのモノが排除されて人は貧困に至るというお話ですね。例えば、「貧乏学生」であっても、親からお金を援助してもらうことで大学には行けたりする。この映画では、主人公が家族からの排除をきっかけに様々な貧困を体験しています。家族から、教育から、雇用から、福祉から排除され、最終的に自分自身からの排除となって、人によっては精神疾患になってしまうと。
大西 まさにその通りで、単純に経済状況だけでは貧困は測れません。
<もやい>に相談にくる方の男性と女性を比べると、男性は野宿をしている方など「見えやすい貧困」の方が訪れることが多い一方で、女性は住まいがあったり、仕事がある方が結構いる。ではなぜ<もやい>に来るのか。それはもちろん、経済的な理由も含めてではあるのですが、家族との関係や健康状態の問題などの様々な理由により、家から出たいと思っていても家から出られない状況があるからです。しかし、家を出たくても出られない状況にいると、「そんなに困っていない」とか「自分で選んでいるんでしょ」と「自己責任」というマジックワードで語られてしまう。
丸山 ここ5年ほど「貧困」が話題となり女性の貧困についても特集が組まれるようになってきています。ただ私が最近感じているのは、「貧困」という概念がそもそも男性的なものなのではないか、ということです。
というのも「貧困」は本来、経済的な概念です。しかし女性はまず実家にいて父親の扶養のもとで暮らし、結婚をしたら夫の扶養のもとで暮らしている。つまり女性は、父親や夫の扶養を出ることではじめて「貧困」になることができる。とくに日本のように男女の格差が大きい社会は、そこから出ることに高いハードルがあります。
私の研究している女性と貧困の領域では、「貧困の女性化」という言葉が世界的にも有名です。これは、貧困世帯のなかで女性が世帯主の世帯が過半数になる現象で、アメリカでは70年代から見られました。しかし日本は、先進国の中で例外的に「貧困の女性化」が見られない国と言われています。それは男性中心の社会で、女性が家から出られるほど自立できず、貧困にすらなれないためだ、と言われています。
荻上 世帯の家計だけみると貧困としてカウントされないけれど、DVなど家庭内での問題を抱えているものの、環境的にも経済的にも離婚という選択肢を取りづらいこともある、と。
丸山 そうですね。路上には危険がたくさんあるので、男性のようにホームレスになるのも難しいんです。
貧困は世帯単位で計測されるのが一般的ですが、女性は家から出られないために問題が見えにくいということが、女性の貧困の問題だと思います。それにもかかわらず「女性の貧困」と語ってしまうと、家から出てきた少数の女性にしか焦点が当たらなくなってしまう。いまのメディアの語られ方のよくあるパターンは、風俗とシングルマザー、そして単身女性ですよね。それ以外にも、世帯の中に隠れている女性の貧困があると思います。そこに光をあてないといけないのではないでしょうか。
荻上 いうなれば「世帯内貧困」という概念が必要となっているということですよね。家庭から離脱することによって経済的な貧困につながるが、経済的にある程度満たされている家庭だからといって自由な経済活動が許されているかというと、その範囲は限定的な可能性がある。
最近ではDVや虐待という概念にも、暴力だけでなく、心理的なもの、経済的なもの、そしてネグレクトなど、いろいろなタイプがあるという前提が共有されつつあります。もしかしたら10年後に『東京難民 part2』として「女性の貧困ツーリズム」が描かれたら、「女性の貧困って、ようやくこうやって語られてきたよね」と言われるようになるのかもしれません。
貧困と支援団体
大西 「家を失う」は大きなキーワードですね。作中では違った形で描かれていますが、彼は生活保護制度を利用できるんですよ。
荻上 ちなみにどのタイミングから?
大西 生活保護の利用は、基本的に資産と収入がなくなった段階でできるので……彼がバイトをしていたのかわかりませんが、家賃が払えないような収入と貯蓄の状況であれば利用可能だと思います。
荻上 ということは実は冒頭から申請はできた、と。
大西 そうですね(笑)。映画をみていて「もやいにきてくれたら……」と思っていました。実はアパートの失い方もあれは違法で(いわゆる「追い出し屋」というやつです)。適切な支援団体や公的な機関に繋がっていたら、アパートも失わずに済んだと思います。
日本の制度は申請主義といって、本人が自分の意思で必要な制度の申請をしないと認められないというお約束があります。生活保護制度にしても、例えば「世帯単位」が原則になっているので、夫からのDVでご飯を食べさせてもらえないような人が、夫の収入が一定程度あったりすると本来は使えるはずの制度が「世帯」の壁によって使えない、という状況があります。丸山さんが言っていたように、家を出ないと貧困になれないのはまさにそう。勇気をもって家を出て(もしくは出る覚悟を決めて)、しかも制度を知っていて、かつ勇気をもって申請にいかないと利用できない。このハードルが支援への繋がりにくさを生み出していると思うんですよね。
荻上 そういえば、この映画では、「援助する人」が描かれていませんでした。
大西 実際は全国に支援団体ができていて、河川敷などに定住されている方への訪問支援は多くの自治体で広くおこなわれています。映画の中にでてきた河川敷に住んでいるホームレス状態の人たちは、コミュニティを作っていましたが、いまはそういうコミュニティもなくなってきていて。あるいは行政が公園等の公共用地の「適正化」といって事実上の追い出しや排除をしていたり。
荻上 「施設に繋げる」という名目で住居を撤去してしまう。
大西 そうです。それでいて紹介された施設は、手を伸ばせば誰かにぶつかるような、十数名も詰められた部屋なんですね。
人間関係も矜持も失う貧困
荻上 最近だと「ネットカフェ難民」も市民権をえてきた言葉になって、概念が共有されるようになってきました。しかし先ほどからお話しているように、女性の貧困の定義づけはこれからの課題でしょう。丸山さんは今後、貧困が語られる際のリテラシーとしてどのような要望がありますか?
丸山 要望ですか、難しいですね……。
荻上さんが言ってくださったように、貧困を語る作法はまだ足りていないと思います。とくに女性の貧困の場合、研究者も含めて、どうやって問題化し語ればいいのか試行錯誤している状態です。私はやはり、まず世帯の中でどういう風にお金や権力が配分されているのかをみなくては女性の貧困は見えてこないかな、と思っています。
あとこの映画について言えば、ネットカフェ難民やホスト、飯場やホームレスがアルミ缶や雑誌を集める様子など、ディテールはリアリティのある語り方をしているのですが、一方で違和感もありました。
というのもこの映画って希望の持てるお話になっていたんですね。主人公の修は人に恵まれて、いろいろな人からサポートされていますよね。そして修自身、友達を大切にしている。ホストの順矢をかばって借金を肩代わりするくらいです。最後まで、お金よりも大事なことがあるとこだわっていたように思えました。私はそういった人間関係や人の持つ矜持のようなものまでもを失わせてしまうのが貧困だと思うんです。先ほど「自分自身からの排除」とありましたが、修にはそれはない。だからこそ映画としては希望の持てるストーリーになっていると思います。
頑張れるから頑張りすぎる
荻上 これはどんな映画でも言えることですが、最近「おしん」が映画化されてお母さん役を上戸彩がやっていたじゃないですか。めっちゃ美人で(笑)。映画化する際は、それこそ現代を生きる役者が演技をしているという限界もありますし、この映画も、主人公の修を演じる中村蒼はジュノンボーイなんですよね。すごいイケメン(笑)。だからどうしてもリアリティの面ではいろいろと齟齬が出てきてしまう。
いまビッグイシューなどの若者ホームレスに特化した調査をみると、多くの人に抑鬱傾向や精神疾患傾向を抱えていることが出てくるんですね。修の場合、めんどくさがりはするものの、コミュニケーションはちゃんととれる。そんな彼だからこそ、服とバッグを買ったとき、それを背負う姿を鏡で見る。自分の姿を気にするわけです。これは抑鬱などの傾向がない若者ホームレスの姿を切り取っていると言えなくはない。
おそらく修のように、メディアで語られる貧困をみて、「自分はホームレスじゃない」「一時的に貧困になっているだけだ」と自己定義することで、セーフティーネットに引っかかることを避けてしまう場合があると思うのですが、いかがでしょうか?
大西 ありますね。もやいはホームレス状態の方がアパートに入る際に必要な連帯保証人を引き受けています。やはりなかなか仕事が決まらない若年層の方は、家賃を滞納してしまうこともよくあるので、「制度を使いながら仕事を探せばいい」とアドバイスするんですけど、「まだ働けるから使いたくない、がんばります」といって、頑張りすぎて体を壊してしまう人もなかにはいます。
それに収入が一定程度以下であればセーフティーネットは使えるのですが、ホストや風俗は、一定以上の収入がある場合もあり、国の定義では貧困に当たらないことも。「明日こなくていいよ」と言われてしまうような労働環境だったり、映画のようにプライバシーもないような住環境で生活していても、収入や資産が一定程度をこえていると生活支援のための制度は利用できない。就労ができる程度にコミュニケーションがある若年層こそ、頑張れるから頑張りすぎてしまうんです。
荻上 自分自身への排除には、自己否定だけでなく、過剰期待もあると思うんですね。社会の「人としてこうあるべきだ」というメッセージが制度への道のりを困難にしてしまって、シングルマザーや売春をしている人たちの多くは、自分たちが生活保護を受けられるとは考えていない。これは知識の問題だけではなく、イメージする「貧困」より、自分はまだマシだと思ってしまうところに原因があるんじゃないですかね。
大西 そうですね。作中で「ズルして生活保護を受けていたんだ」というシーンがありましたが、先ほどから何度もお話しているように、一定程度以下の収入であれば生活保護は利用できます。だから、必ずしもズルではないんですよね。「働けるんだから働かないといけない」という気持ちはモチベーションになることもありますが、逆に自分を追い込んでしまうこともある。もしかしたら制度に繋がることができれば、十分な支援を受けることができて、いまよりもいい就労環境を得られるかもしれません。
荻上 いつも思うんですけど、貧困のノンフィクションルポルタージュやテレビでの報道って「生活保護を受けておきながらパチンコをしているなんて!」とか「こんなに悲惨なんです!」とか、いろいろなものがありますが、そうした報道をするなら「こんな制度がありますよ」と附則情報を付けるべきだと思うんですよね。相談先をいれるとか、工夫の使用はいくらでもある。情報が氾濫しているように見えますが、実際は届くべき情報が届いていない。
入口にも出口にもいない人々を見捨てない
荻上 丸山さんにお聞きしたいのですが、風俗嬢や売春女性の調査をする中で気になっていることの一つに、彼女たちの「金遣いの荒さ」があります。それは、しばしば本人たちから、悩みとして吐露されるものでもあります。それを「自己責任だ」と語ることもできることもできるとは思いますが、そもそも彼女らは家計管理の能力を与えられる機会があったのかな、とも思うんですね。
例えば芸能人が一カ月一万円生活をして「暮らせましたね」って言われても、家計管理のリテラシーがありますから、そりゃそうだろ(笑)、と。でもいままでに貯金通帳も作ったことないような、お小遣いも貰ったことのないような人が、貧困に陥って風俗で働いたとき、いきなりウン10万円のお金が入ってきたら、どうやって使えばいいかわからないと思うんです。だからタクシーをバンバン使っちゃったり、やたら高額なものに手を出したり、誰かに奢ってしまったりする。だからこそ、「Grow As people」のように、風俗嬢にお金管理の方法などを教える活動もするNPOも出てきている。
丸山 その通り、本人が育った環境も貧困に影響していると思います。家計管理とか調理してご飯を食べるといった習慣もないと、生活費がどんどんかかってしまいますよね。
それの男性バージョンもあって、生活保護を受給して施設に入って、そこから逃げて生活保護が切れて、また保護を受けて、ということを繰り返す人が一定層いて、これもやはり一般的には「自己責任」と言われてしまうと思います。そういう人について、<もやい>代表理事の稲葉剛さんが「自分が嫌だと思う環境から逃げることでしか問題を解決することを学んでこなかった」と言っていて、なるほどと思いました。交渉するとか、誰かに相談するという経験があまりないので、嫌な施設に入れられたり、お金をピンハネされてしまっても抗議せずに逃げてしまって生活保護を何度も受けることになってしまうんです。
荻上 貧困を表面的にみて憤りを示すんだったら、実際に貧困で困っている人に対し、お金の使い方をマンツーマンで指導して、どれくらいの労力が必要かやって欲しいですよね。政治家で生活保護を叩く人は、さぞかしクレバーなのだと思いますから。
大西 どれほど難しいことか(苦笑)。
荻上 貧困対策で、いきなり「職業訓練」の話をすることもまた、どういったリアリティを想定しているのかなとも思うわけですね。この映画のタイトルに「難民」とありますが、階段がボロボロだと、ひとつでも抜け落ちたら「難民」化してしまう。どのタイミングで、どんな支援が必要なのかをシミュレーションする素材として、この映画をはじめ、様々な映像が活かされたらいいなと思います。今日はせっかくですから、最後にこれから注目いただきたい点など、お二人にお話いただけないでしょうか?
大西 いま荻上さんが指摘されたように、よく入口問題・出口問題といわれることはあるんですが、実は中間がなんですね。入口問題とは、たとえば重度な障害があって働けないという方に、医療や福祉の制度へ繋げるような支援を考えること、出口問題は、少し頑張れば働ける人に就労支援をおこなったり職業訓練を紹介するといったものです。いわゆる「わかりやすい」状況の方って支援しやすいし、支援できたら実績にもなる。でも、その中間に、働くには準備がいる、家計管理をどうするかとか、支援しないといけないという層が一定程度いる。そしてそこが一番支援が難しい。
実はアルコール依存やギャンブル依存といった人たちは、支援者側からも行政側からも支援が難しいとされる人たちなんですね。例えばアルコール依存の人が、一週間のうち一日お酒を飲んでしまったとしましょう。それって6日は飲まずに頑張ったってことですよね? でも「飲まないって約束したでしょ!」って説教して支援をやめてしまう団体もある。これは支援者側の支援が足りていないってことなんです。飲まなくてもよくなるような支援ができればそれでいい。そういう支援を実践している団体も自治体も実際にあります。だから公的機関や支援者側の理屈で支援しづらい人を追い出してはいけない。そういう一見「わかりづらい/見えづらい」入口でも出口でもない、中間層の人たちを数字化して、制度を整えるのがこれからは大切だと思います。
荻上 それでも、数字化するための概念も発明しないといけないですよね。
大西 そうなんですよね。わかりやすい部分だけでなく、誰も見ていない人たちにもスポットライトをあてないと、「かわいそうじゃないと救われない社会」になってしまうんですよね。気のいいおじさんだけど、怒るとすぐにいなくなっちゃう人もいます。そういう人は施設をでたりはいったりしたり、生活保護を繰り返し受給したりする。でもそこには一人ひとりの事情がある。出ていくことでしか解決の方法を知らないのかもしれない。そういった人たちもちゃんと支援していかないといけないのだと思いますし、そういった一人ひとりの事情や背景によりそって支援を考えていかないといけない。
荻上 「同情を引くような典型的なケース」として取り上げるのみではなく。
大西 そうです。ぼくらもついそうしがちなんですが。
貧困を考える出発点に
荻上 そういったケースを伝えることは短期的に同情や寄付が集まるかもしれないけれど、そのケースから少しでも逸脱した人を見ると「なーんだ」となって、むしろ叩く人だって出てくるかもしれない。入口、出口のみに注目するのではなくて、貧困の多様性、多面性を分析するリテラシーが社会に必要だということなのだと思います。丸山さん、いかがでしょうか?
丸山 難しい振りですね(笑)。
いま荻上さんがおっしゃってくださったように、貧困の語り方、理解の仕方を豊潤化する必要があると思っています。ホームレスになっている人の中で、知的障害の人が3割、精神障害の人が4割いるという調査が数年前に行われて、話題になりました。それ以前、貧困を見る際に、「障害」の視点がなかったときは、ホームレスの方は「なぜか路上にいる、困った人」だと思われていました。つまり自己責任の問題として語られてきたわけです。それが、「障害」という貧困の語り方が発明されたことで、ホームレスの方の事情を理解することが可能になりました。そのように、私たちは「貧困」や「自己責任」と語られているものをどのように理解できるのか、この映画もひとつの語り方だと思いますが、ここから考えていきたいと思います。
荻上 これからもおそらく貧困の語り方、映像化のされ方は変わっていくと思います。現場の知見、誠実な研究や取材に基づいた発信でもって、どのように貧困を塗り替えていくか、不断の活動が必要になってくるでしょう。『東京難民』を出発点として、これからも注目していただければ幸いです。今日はありがとうございました。
●「東京難民」公式サイト
東京難民
2014年2月22日(土)より、全国ロードショー(有楽町スバル座ほか)
配給:ファントム・フィルム
©2014『東京難民』製作委員会
プロフィール
丸山里美
京都大学大学院文学研究科博士課程取得認定退学。博士(文学)。専攻は社会学。立命館大学産業社会学部准教授。主な著書として『女性ホームレ スとして生きる 貧困と排除の社会学』(世界思想社)、『フェミニズムと社会福祉政策』(共著、ミネルヴァ書房)、『ホームレス・スタディー ズ』(共著、ミネルヴァ書房)、共訳にマイク・デイヴィス『スラムの惑星』(明石書店)など。
大西連
1987年東京生まれ。NPO法人自立生活サポートセンター・もやい理事長。新宿での炊き出し・夜回りなどのホームレス支援活動から始まり、主に生活困窮された方への相談支援に携わる。東京プロジェクト(世界の医療団)など、各地の活動にもに参加。また、生活保護や社会保障削減などの問題について、現場からの声を発信したり、政策提言している。初の単著『すぐそばにある「貧困」』(ポプラ社)発売中。
荻上チキ
「ブラック校則をなくそう! プロジェクト」スーパーバイザー。著書に『ウェブ炎上』(ちくま新書)、『未来をつくる権利』(NHKブックス)、『災害支援手帖』(木楽舎)、『日本の大問題』(ダイヤモンド社)、『彼女たちの売春(ワリキリ)』(新潮文庫)、『ネットいじめ』『いじめを生む教室』(以上、PHP新書)ほか、共著に『いじめの直し方』(朝日新聞出版)、『夜の経済学』(扶桑社)ほか多数。TBSラジオ「荻上チキ Session-22」メインパーソナリティ。同番組にて2015年ギャラクシー賞(ラジオ部門DJ賞)、2016年にギャラクシー賞(ラジオ部門大賞)を受賞。