2014.02.10

特定秘密保護法と「社会的なるもの」

大屋雄裕 法哲学

社会 #安全保障#特定秘密保護法

昨年12月6日、「特定秘密の保護に関する法律」(以下「特定秘密保護法」)が衆参両院における「強行採決」を経て成立した。

同法案に対しては周知の通り相当の批判があり、また自民党や与党である公明党からも問題点を指摘する声が相当数出たためか、日本維新の会・みんなの党との合意にもとづいた修正が加えられることとなった。

そこで以下では、成立時の条文を前提として、特定秘密保護法がなにを定めた法律であり、どのような問題を含んでいるかについて説明したのち、本法案をめぐる議論がしめすものについて述べることにしよう。

なおそもそも国民に対する秘密を作る法律などというものがなぜ必要なのか(あるいはどのような条件があれば不要なのか)という問題については別稿で論じているので参照していただければありがたい(大屋雄裕「秘密と近代的統治:「特定秘密」の前に考えるべきこと」『図書新聞』3140号(2014年1月1日)、図書新聞社、3面)。

特定秘密保護法の構成

特定秘密保護法は、(1)一定の情報を「特定秘密」に指定し(第2章)、(2)それを取り扱うことのできるものを制限するとともに(第4章)、(3)提供し得る場合・相手方を限定する(第3章)制度だと言うことができる。

特定秘密を取り扱うものはまず行政機関の職員であり、派生的に関連業務の委託などを受けた適合事業者の従業員等であるから、本法が第一義的に対象としているのは行政内部の統制だということになろう。

特定秘密の指定は、行政機関の長(典型的には大臣)が行なう(3条)。指定し得る情報の種類は別表で規定されており、防衛について「自衛隊の運用又はこれに関する見積り若しくは計画若しくは研究」など10項目、外交について5項目、特定有害活動(いわゆるスパイ行為)について4項目、テロリズム防止について4項目の合計23項目となっている。それぞれを秘匿するために用いる暗号が別々に規定されているなど実質的には重複する部分もある。また定義はいずれも、基本的には十分詳細なものとなっている。

特定秘密に指定された情報についてはその旨が表示される。表示できない情報については、特定秘密の取扱者に対して通知される(3条2項)。指定の有効期間の上限は5年であり、その満了時になお特定秘密の条件を満たす場合には更新することができるが、上限は通算30年とされている(4条)。

なお、やむを得ない場合には内閣の承認を得て通算60年まで更新を続けることができ、さらに「人的情報源に関する情報」「暗号」「外国の政府又は国際機関から六十年を超えて指定を行うことを条件に提供された情報」など4条4項に列挙された7項目についてはさらにそれを超えて保護することが認められる。

特定秘密の取扱者については、大臣・副大臣・政務官など11条に列挙された一部の職を除けば、行政機関の長による適性評価を受けることが求められる。適性評価においては「犯罪及び懲戒の経歴に関する事項」「薬物の濫用及び影響に関する事項」などが調査される(12条2項)。評価結果は本人に対しても通知され、不服がある場合には苦情を申し出ることができる(13条)。

特定秘密を提供することが認められるのは、安全保障上の必要があって行政府内・警察庁と都道府県警察間・適合事業者・外国政府や国際機関に提供する場合(6~9条)に限られるのが原則であり、いずれの場合も必要な水準の秘密保護措置を講じていることが求められる。これ以外には、国会が非公開の審査・調査を行なう場合、刑事事件の捜査・公判維持に必要な場合、民事訴訟法の規定に基づいて裁判所に提示する場合、そして情報公開・個人情報保護審査会に提示する場合が例外的に規定されているに留まる(10条)。

その上で、このような制度に違反した場合の罰則が規定されている(第7章)。罰則もまた特定秘密取扱者による漏洩(23条)が中心となるが、スパイ的に特定秘密を取得したものに対する罰則(24条、詳細は後述する)、漏洩やスパイ行為を「共謀し、教唆し、又は煽動した者」に対する処罰(25条)が規定されているため、行政職員・適合事業者従業員以外のものに対しても適用される可能性はあるということになる。

特定秘密保護法のあまり問題ではない点

さて、ではこのような枠組を持つ特定秘密法案にはどのような問題があるのだろうか。

まず特定秘密となり得る情報の範囲については、修正案によって「安全保障」の定義(国の存立に関わる外部からの侵略等に対して国家及び国民の安全を保障すること)や列挙部分の規定が明確化されたこともあり、過度に広かったり曖昧だったりする懸念はあまりないと評価することができるだろう。

秘密の保護期間についても修正案によって限定が強まり、確かに要保護性が高いと思われる6項目以外については内閣の承認を得ても上限60年、それ以外では30年とされており、内容的には理解可能である。

ただし、「前各号に掲げる事項に関する情報に準ずるもので政令で定める重要な情報」(4条4項7号)というかたちで特例の範囲が拡大する可能性が残されている点、保護期間内の特定秘密が廃棄される可能性があり、期間終了後の公文書管理制度への移行と公開が絶対的な保障となっていない点については、なお問題としなくてはならないだろう。

特定秘密取扱者に対する適性評価について問題にする声もあるが、おそらくは従来から非公然の範囲で行なわれてきただろうものを明示的に制度化し、一定の制約を加えたものと整理するほうが妥当だろうと思われる。その際、調査対象者の同意を義務付けている点(12条3項)、調査する事項を限定列挙している点(12条2項)、また苦情の申出という救済制度を導入した点(14条)は肯定的に評価することができる。

一方、同意の任意性が本当に確保できるか(現実には、評価自体を拒否したものも特定秘密関連の業務からは排除されるため、キャリアには相当のマイナス効果が及ぶであろう)、調査事項は適当か(とくに「飲酒についての節度」や配偶者など家族の生年月日・国籍を含む点)、単に評価者に対して「誠実に処理し、処理の結果を苦情の申出をした者に通知する」こと(14条2項)のみを義務付ける制度が救済として機能するか、といった点については一定の疑問が呈されるだろう。

罰則について見ると、特定秘密取扱者による漏洩(23条)については前述の通り第一義的には行政職員と適合事業者従業員を対象にするものであり、要件も明確であって妥当と評価すべきだろう。ただし、最高刑を10年以下の懲役とした点については従来の制度(職務上知り得た秘密につき1年以下、防衛秘密につき5年以下、特別防衛秘密につき10年以下)と比較して議論があり得ると思われる。

いわゆるスパイ行為(24条)については、やはり修正案によって要件の明確化が図られた部分である。成立した条文では、(1)目的について、(a)外国の利益を図る、(b)自己の利益を図る、(c)我が国の安全を害すべき用途に供する、(d)国民の生命・身体を害すべき用途に供する、という4類型のいずれかに属し、(2)手段について(a)人を欺く・暴行を加える・脅迫する、(b)財物の窃取・損壊、(c)施設への侵入、(d)有線電気通信の傍受・不正アクセス行為、(e)その他の特定秘密保有者の管理を害する行為、という5類型のいずれかに該当した上で、特定秘密を取得したものが処罰されることとなっている。

手段面を見るといずれも基本的に他の法律によってすでに処罰対象となっている違法行為であり、そのような行為に関係のない一般人が本条に抵触するような事態は想定しがたい。目的面についても絞り込みが十分に行なわれていると評価することができよう(ただし(2)(e)について解釈により拡大し得る余地があることには注意する必要があるが、それ以外がすべて犯罪行為であるという規定ぶり自体がこの項目の解釈にあたっても基準として作用するものと考えられる)。

漏洩・スパイ行為を共謀・教唆・煽動したものに対する処罰(25条)については、なにが特定秘密に属するかということが前述の通り特定秘密取扱者に対しては明示されている(それ以外に対しては周知されない)点に注意する必要がある。

ある情報が特定秘密に属するということを知らずに行政職員に漏洩を教唆した一般人やジャーナリストが処罰の対象になってしまうのではないかという問題であるが、スパイ行為についてはそもそもその手段が基本的に犯罪であり、従ってそれを教唆・煽動した場合に対象の性質を十分に知らなくとも処罰対象にすることは不自然でない。漏洩についても、行政職員が職務上知り得た秘密を漏らすことはそもそも犯罪であるという点に注意する必要がある。

言い換えれば、当初から犯罪である行為を教唆・煽動したところ対象が特定秘密であったことが判明し・事後的に処罰が強化されるというケースは考え得るが、犯罪行為への意図がないにもかかわらず処罰対象になることは基本的にない。そもそも本条自体が自衛隊法122条など防衛秘密に関する既存の条文の引き写しに近いものであり、そちらでこれまで問題が起きていないにもかかわらず本条のみを問題にすることはバランスを逸している。

とくに「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為」については「専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限り」正当な業務上の行為として刑法上不可罰とする(刑法35条)旨の解釈基準が設けられていることから(22条2項)、西山事件(1971年)のように当初から情報を得る目的で女性行政職員を酒に酔わせて情交関係を強いたとか、得た情報を報道するのではなく政権攻撃の材料として野党議員に提供したなどといった場合であればともかく、正当なジャーナリズムの範囲に留まる限り《ジャーナリストの側において》恐れる必要はさほどないものと言うことができよう。

それでもなお萎縮する可能性はあるという指摘も事実ではあるが、それが法律の側の問題なのか、ジャーナリストを称する人々の職業意識の問題なのかについては議論が必要だろう。むしろ、行政職員等に対して明確な規制が敷かれることにより、正当な目的・手段による取材に対しても対応しにくくなる、従来より口が重くなる、迷惑な取材を追い返す口実として利用されやすくなるといった「取材される側」の萎縮効果のほうが問題であろうと思われる。

積み残された問題点

特定秘密保護法は完成された法律だと言えるのだろうか。これまで述べてきた通り、国会内での修正を経て問題が改善された部分も多いのだが、残念ながら十分に良くできた制度にはなっていないというのが正直な評価だろう。

それは、制度として構築された通りに現実が動作しているかを検証し、必要であれば修正するシステムが欠けているからである。言い換えれば、設計図としてはまあ一応は成立しているのだが、建築施工がその通りにされているかがよくわからない、誰がそれを保証するのかが十分に考慮されていないという問題である。

この点も国会内で修正が加えられた部分であり、一定の仕組みが盛り込まれてはいる(第6章)。すなわち特定秘密の指定・解除や適性評価については政府により統一的な基準が定められるし、その基準を定める際には有識者からの意見を踏まえて閣議決定が行なわれる(18条1・2項)。また総理大臣は毎年この制度の運用状況について当該有識者に報告して意見を求め、問題があるときは責任者として改善を指示することになっている(同3・4項)。国会に対しても、有識者からの意見を含めた運用状況の報告が毎年行なわれ、その内容は公表される(19条)。

だが前述の通り特定秘密保護法が第一義的には行政機関の職員を縛るための制度であるところ、総理大臣というのは本来その行政組織の親玉なのであり、それが責任をもって制度を適切に運営するというのは(安倍総理自身はそのような趣旨の答弁を国会でも繰り返していたけれども)いわば「泥棒に縄をなわせる」ものにほかならないと指摘されるだろう。

特定秘密に指定される件数が(衛星写真などが個別にカウントされることもあって膨れ上がっているにせよ)30万件台になるだろうと予測されている状況で、多忙極まる総理大臣に個別の指定・解除の適切性を評価・判断する余裕があるとも思えない。

とくに秘密保護制度については、その指定から解除に至るまでが国民の目から隠されている(そのための制度である)。利害関係のある国民やNGOなどの有志による監視・問題の指摘・訴訟提起による救済の要求といったメカニズムの働きに期待することができない以上、構築された制度が意図の通りに動作しているかを《秘密保護制度の枠内において》検証することは必須の要件だと言ってよい。

法案審議において政府は、情報保全諮問会議・保全監視委員会の設置といった対応を取ることでこの問題を施行前に解決すると明言しているが、本来はそれらの対策を含めた制度の是非を一体として議論することができるよう当初から提案されるべきものだったと言うことはできるだろう。

だがこの問題の解決がそれなりに困難なことも間違いない。そもそも秘密保護法制自体が、「秘密」として国民の目から隠すという判断が適切であることを・最終的には国民の判断によって正当化しなくてはならないという矛盾を背負っている。

もちろん行政当局の判断をそのまま「正しいもの」として納得するようなことができるわけはないが、(1)日本の憲法体制では国会・裁判所に属さない組織はすべて「行政」なので(独立性が特別に規定されている会計検査院を除く)、審議会や独立行政委員会を構成しても所詮は行政内部の判断と言うことは可能であろうし、もちろん人選などに行政当局の意図が働き得ることも否定できない。

(2)国会ならどうかというと、日本では審議過程が原則として公開されているので秘密をめぐる判断に向かないという点に加え、議院内閣制では行政府の支配者(与党)と国会の多数派が一致しているのが当たり前なので、行政に対する独立性・中立性が高いとは必ずしも言えない。

この点は、厳格な三権分立を採用し・行政府の長(大統領)と立法府を構成する議員がまったく独立の選挙を通じて選ばれるアメリカとは根本的に事情が異なっている。またアメリカの議会は委員会審議が基本的に非公開であり、秘密情報に触れる議員スタッフ・議会職員に対する適性評価などが議会自身によって行なわれている点にも注意する必要があろう。

(3)もちろん司法府(裁判所)はこの独立性・中立性という問題をかなりのレベルでクリアできるが、やはり公開が原則であるという問題点に加え、意外かもしれないが現状ですでに負担過剰であり・このような任務を負わせるなら相当の補強が必要になる(が有資格者は限られているのでそう簡単ではない)という点が問題として指摘できる。

(4)日本のこれまでの制度を離れて、という議論をすればおそらく有望なのはオンブズマン制度であり、国民の選んだ独立の代表者にすべてを見せて判断してもらう代わりに守秘義務を厳守させるというシステムだろう。問題点としてはまだ我が国では馴染みのない制度になるという点に加え、保守革新や与野党の対立を超えて「この人の判断なら黙って従おう」と国民が納得するような代表者を選ぶことができるかという点にあるように思われる。

要するに結論的には「狼男を倒す銀の銃弾はない」ということであって、独立行政委員会をベースにして人事における国会同意を組み込むとか、最終的には裁判上の救済を制度的に保障するなど、複数の考え方の積み重ねで納得できるレベルまで持っていくしかないということになるだろう。この点に関する制度的手当てが待たれるところである。

法案をめぐる議論の問題点

以上のように特定秘密保護法の内容となお残る問題点を確認した上で、その提案・審議・成立に至る過程は我々に何を示しているだろうか。

まず、本法案のような成立過程をどう評価するかという問題には難しい点がある。(1)従来のように政府が内閣法制局審査を経て完全な法案を用意し、国会はそれを事実上追認することによって民主的正統性を付加するに留まるという実態を前提とすれば、議会審議に入ってから多くの実質的変更を経ることとなった本法案はそれを大きく逸脱していて問題だということになろう。

一方、(2)本来、与党(連合)の一部政治家と行政官が構成する「政府」と議会内の与党は異なる存在であり、議会審議を通じてそのあいだの意見・利害のズレが調整されるのが当然だし、人民の代表者である議員の意見を反映させるという観点からは民主的にもより正しいという見方からは、むしろ当然の過程だということになろう。また今回のようにその過程で元の法案にあった問題点が改善されているとすれば、立法の品質保証としての意義も持つことになる。

(3)だがそれにしても修正内容が十分に詰まりきらず(これまで述べてきたように)重要な問題を積み残していることを考えると正当化しきれないという立場もあり得るように思われる。

この点について最終的には、人民に選ばれた(一方で能力的な保証は必ずしも十分ではない)政治家と、条文作成・運用の高い専門的能力を持つ(が別に我ら人民の味方だという保証もない)行政官のどちらをより信用するかという判断が問われることになる。ここではただ、(1)のような専門家支配を無条件に肯定し、その立場から本法案の審議過程を断罪することは難しいのではないか、とだけ指摘しておこう。

政府・議会関係以上に本法案の審議過程で特徴的だったのは、明らかな虚偽やデマに近い情報が、法案に反対する立場の人々によって流布されたことである。本法案に関する国会審議に参考人として出席した長谷部恭男は、それをいみじくも「ホラーストーリー」と形容している(2013年11月13日)。

法案成立を受けてThe New York Timesが掲載した社説「Japan’s Dangerous Anachronism(日本の危険な時代錯誤)」(12月16日)もたとえばその一例であり、特定秘密保護法によって”inappropriate”な手段で情報を得たジャーナリストが処罰されると主張しているのだが、22条2項は「法令違反又は著しく不当な方法によるもの」に処罰対象を限定しており、inappropriate(不適切)という表現とは大きく異なっている。他の点からもこの社説の筆者が日本語の条文や国会審議の記録を直接読んでいるとは思えないので、おそらく日本国内の反対派が情報源となったのだろう。

同様の問題は、テロリズムの定義(12条2項1号)の解釈についても見られる。

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」(12条2項1号)

すでに園田寿が詳細に指摘しているのでそちらに譲るが(「条文はこう読む:特定秘密保護法の「テロリズム」をめぐる誤解」Yahoo! ニュース)、簡単に言えば「何らかの主義主張を他人に強要しようとする活動」がすべてテロリズムに含まれ、たとえばある政党を褒める発言なども拡大解釈すればこれに該当し得るので言論・表現の自由や政治活動の自由が失われるという批判が反対派から多く発信されたのだが、これが「又は」と「若しくは」という接続詞の使い分けと列挙の表記方法というルールを踏まえていないものだった、という問題である。

だがその例として園田が言及している発言(『世界』851号、岩波書店、2014、p. 149)を行なっているのは、日本弁護士連合会の情報対策委員会委員長・秘密保全法制対策本部事務局長である弁護士・清水勉である。前述のルールは法学部卒業者であれば必ず理解しているレベルの、法解釈にとってごく初歩的なものであり、この分野の定番書籍である林修三『法令用語の常識』(日本評論社、改訂版1958)でも冒頭10ページ以内で説明されているレベルのものである。弁護士である清水の知的能力を信じるとすれば、知的廉直性の方を根本的に疑わざるを得ないだろう。

特定秘密保護法の問うもの

問題はこういうことだ。すでに前稿(図書新聞掲載)で述べた通り、自由な個人の自己決定を基礎として民主政が形作られ、そこで構成された「人民の意思」に基づいて行なわれるものを、近代的統治と位置付けることができる。ここで政府は「人民の意思」に従属すべき存在である以上、人民に対して特定の情報を勝手に隠しだてすることは許されない。

樋口陽一が指摘する通り、主権者=統治者たる人民には「知る責任」がある。たとえ不快な情報であろうが人民にそこから目を逸らすことは許されない。「知る権利」のように行使したくなければ行使しないとか、放棄することが可能な趣旨のものではないということにもなるだろう(だが付言すればここで個人から「政治に無関心でいる自由」は奪われている。したいことをする(したくないことをしない)消極的自由を認めず、政治への参画をむしろ責務と捉える点において、樋口の見解は正しくルソー主義の系譜に属している)。

だが現実の個人は本当にそのように「強い」存在であるだろうか。むしろ統治者としての責務からは逃れ、我々の幸福に配慮してくれる「慈悲深い独裁者」に支配されることを望むものもいるだろう。あるいは統治者の一部として得た情報を差別など他者を傷付けるために利用したり、他の個人を出し抜いて自分だけが得をするために利用しようとするものもいるだろう。近代的統治が夢見たようには我々が「強く」ないからこそ、そのように正しくない個人から他の個人を守るために国家の機能が要請されると、私は述べたのだった。

だがここにはもう一つの可能性が隠されている。現実の個人と近代的統治を担う政府とのあいだにギャップがあるとしても、それを政府の側が埋め合わせることが唯一の選択肢だというわけではないはずだ。むしろ個人と政府のあいだにある「社会的なるもの」によってこの問題が克服されることが、とくに政府の肥大化と暴走を懸念する立場からは、目指されなくてはならない。具体的には、個人の自由かつ自発的な結合としての結社(association)と、合理的な意思決定の基礎となるであろう情報とその意味を人民に届ける存在としてのマスメディアが、ここで考えられる。ある意味では当然ながら、この二者は民主政における多数者の専制を警戒したアレクシス・ド・トクヴィルが、その抑制機構として期待をかけた存在でもあった(『アメリカの民主政治』)。

だが現実にはどうだっただろうか。すでに述べたように、専門家の結社としての日弁連の・この問題に関する代表的立場にある法律家自身が、事実に反する説明を堂々と流布させていた。そしてマスメディアの少なくとも一部は、それに立脚した「ホラーストーリー」によって人民の誤った情念をかきたてることに熱心だったように思われる。

要するに彼らは人民の自己決定を支援するどころか、デマゴギーによって彼らを支配し、近代的統治を崩壊させようとしていたとしか整理しようはない。だがそれは、彼らが少なくとも表向きの大義名分として掲げていた旗印とは大きく矛盾する所業だとしか言いようはないだろう。

特定秘密保護法の制定が、反対派にとっての政治的敗北であることは間違いないだろう。だが正しい見解の持ち主が政治的に敗北したという例は枚挙にいとまがないし、そのこと自体が主張の正しさを傷つけるものでもない。しかし今回の騒動では、国家による秘密の保護という考え方自体に反対し・個々人の自由な自己決定を通じた近代的統治を実現しようと主張する側こそが、政治的勝利を求めて真実からほど遠い「ホラーストーリー」を流布させてしまった。反対派の行動それ自体が反対派の主張に反する行動になっているという意味において、それは思想的敗北ないし自己崩壊にほかならない。

「社会的なるもの」が支える近代的統治の可能性は、本来はそれを担うべき人々の手によって扼殺された。今回の騒動において何事か記憶されるべきことがあるとすれば、その点なのではないだろうか。

サムネイル「Wash away doubt」_scartissue

http://www.flickr.com/photos/92051732@N02/8374723902/

プロフィール

大屋雄裕法哲学

1974年生まれ。慶應義塾大学法学部教授。法哲学。著書に『法解釈の言語哲学』(勁草書房)、『自由とは何か』(ちくま新書)、『自由か、さもなくば幸福か』(筑摩選書)、『裁判の原点』(河出ブックス)、共著に『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣)など。

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