特定秘密保護法と「社会的なるもの」

法案をめぐる議論の問題点

 

以上のように特定秘密保護法の内容となお残る問題点を確認した上で、その提案・審議・成立に至る過程は我々に何を示しているだろうか。

 

まず、本法案のような成立過程をどう評価するかという問題には難しい点がある。(1)従来のように政府が内閣法制局審査を経て完全な法案を用意し、国会はそれを事実上追認することによって民主的正統性を付加するに留まるという実態を前提とすれば、議会審議に入ってから多くの実質的変更を経ることとなった本法案はそれを大きく逸脱していて問題だということになろう。

 

一方、(2)本来、与党(連合)の一部政治家と行政官が構成する「政府」と議会内の与党は異なる存在であり、議会審議を通じてそのあいだの意見・利害のズレが調整されるのが当然だし、人民の代表者である議員の意見を反映させるという観点からは民主的にもより正しいという見方からは、むしろ当然の過程だということになろう。また今回のようにその過程で元の法案にあった問題点が改善されているとすれば、立法の品質保証としての意義も持つことになる。

 

(3)だがそれにしても修正内容が十分に詰まりきらず(これまで述べてきたように)重要な問題を積み残していることを考えると正当化しきれないという立場もあり得るように思われる。

 

この点について最終的には、人民に選ばれた(一方で能力的な保証は必ずしも十分ではない)政治家と、条文作成・運用の高い専門的能力を持つ(が別に我ら人民の味方だという保証もない)行政官のどちらをより信用するかという判断が問われることになる。ここではただ、(1)のような専門家支配を無条件に肯定し、その立場から本法案の審議過程を断罪することは難しいのではないか、とだけ指摘しておこう。

 

政府・議会関係以上に本法案の審議過程で特徴的だったのは、明らかな虚偽やデマに近い情報が、法案に反対する立場の人々によって流布されたことである。本法案に関する国会審議に参考人として出席した長谷部恭男は、それをいみじくも「ホラーストーリー」と形容している(2013年11月13日)。

 

法案成立を受けてThe New York Timesが掲載した社説「Japan’s Dangerous Anachronism(日本の危険な時代錯誤)」(12月16日)もたとえばその一例であり、特定秘密保護法によって”inappropriate”な手段で情報を得たジャーナリストが処罰されると主張しているのだが、22条2項は「法令違反又は著しく不当な方法によるもの」に処罰対象を限定しており、inappropriate(不適切)という表現とは大きく異なっている。他の点からもこの社説の筆者が日本語の条文や国会審議の記録を直接読んでいるとは思えないので、おそらく日本国内の反対派が情報源となったのだろう。

 

同様の問題は、テロリズムの定義(12条2項1号)の解釈についても見られる。

 

 

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」(12条2項1号)

 

 

すでに園田寿が詳細に指摘しているのでそちらに譲るが(「条文はこう読む:特定秘密保護法の「テロリズム」をめぐる誤解」Yahoo! ニュース)、簡単に言えば「何らかの主義主張を他人に強要しようとする活動」がすべてテロリズムに含まれ、たとえばある政党を褒める発言なども拡大解釈すればこれに該当し得るので言論・表現の自由や政治活動の自由が失われるという批判が反対派から多く発信されたのだが、これが「又は」と「若しくは」という接続詞の使い分けと列挙の表記方法というルールを踏まえていないものだった、という問題である。

 

だがその例として園田が言及している発言(『世界』851号、岩波書店、2014、p. 149)を行なっているのは、日本弁護士連合会の情報対策委員会委員長・秘密保全法制対策本部事務局長である弁護士・清水勉である。前述のルールは法学部卒業者であれば必ず理解しているレベルの、法解釈にとってごく初歩的なものであり、この分野の定番書籍である林修三『法令用語の常識』(日本評論社、改訂版1958)でも冒頭10ページ以内で説明されているレベルのものである。弁護士である清水の知的能力を信じるとすれば、知的廉直性の方を根本的に疑わざるを得ないだろう。

 

 

特定秘密保護法の問うもの

 

問題はこういうことだ。すでに前稿(図書新聞掲載)で述べた通り、自由な個人の自己決定を基礎として民主政が形作られ、そこで構成された「人民の意思」に基づいて行なわれるものを、近代的統治と位置付けることができる。ここで政府は「人民の意思」に従属すべき存在である以上、人民に対して特定の情報を勝手に隠しだてすることは許されない。

 

樋口陽一が指摘する通り、主権者=統治者たる人民には「知る責任」がある。たとえ不快な情報であろうが人民にそこから目を逸らすことは許されない。「知る権利」のように行使したくなければ行使しないとか、放棄することが可能な趣旨のものではないということにもなるだろう(だが付言すればここで個人から「政治に無関心でいる自由」は奪われている。したいことをする(したくないことをしない)消極的自由を認めず、政治への参画をむしろ責務と捉える点において、樋口の見解は正しくルソー主義の系譜に属している)。

 

だが現実の個人は本当にそのように「強い」存在であるだろうか。むしろ統治者としての責務からは逃れ、我々の幸福に配慮してくれる「慈悲深い独裁者」に支配されることを望むものもいるだろう。あるいは統治者の一部として得た情報を差別など他者を傷付けるために利用したり、他の個人を出し抜いて自分だけが得をするために利用しようとするものもいるだろう。近代的統治が夢見たようには我々が「強く」ないからこそ、そのように正しくない個人から他の個人を守るために国家の機能が要請されると、私は述べたのだった。

 

だがここにはもう一つの可能性が隠されている。現実の個人と近代的統治を担う政府とのあいだにギャップがあるとしても、それを政府の側が埋め合わせることが唯一の選択肢だというわけではないはずだ。むしろ個人と政府のあいだにある「社会的なるもの」によってこの問題が克服されることが、とくに政府の肥大化と暴走を懸念する立場からは、目指されなくてはならない。具体的には、個人の自由かつ自発的な結合としての結社(association)と、合理的な意思決定の基礎となるであろう情報とその意味を人民に届ける存在としてのマスメディアが、ここで考えられる。ある意味では当然ながら、この二者は民主政における多数者の専制を警戒したアレクシス・ド・トクヴィルが、その抑制機構として期待をかけた存在でもあった(『アメリカの民主政治』)。

 

だが現実にはどうだっただろうか。すでに述べたように、専門家の結社としての日弁連の・この問題に関する代表的立場にある法律家自身が、事実に反する説明を堂々と流布させていた。そしてマスメディアの少なくとも一部は、それに立脚した「ホラーストーリー」によって人民の誤った情念をかきたてることに熱心だったように思われる。

 

要するに彼らは人民の自己決定を支援するどころか、デマゴギーによって彼らを支配し、近代的統治を崩壊させようとしていたとしか整理しようはない。だがそれは、彼らが少なくとも表向きの大義名分として掲げていた旗印とは大きく矛盾する所業だとしか言いようはないだろう。

 

特定秘密保護法の制定が、反対派にとっての政治的敗北であることは間違いないだろう。だが正しい見解の持ち主が政治的に敗北したという例は枚挙にいとまがないし、そのこと自体が主張の正しさを傷つけるものでもない。しかし今回の騒動では、国家による秘密の保護という考え方自体に反対し・個々人の自由な自己決定を通じた近代的統治を実現しようと主張する側こそが、政治的勝利を求めて真実からほど遠い「ホラーストーリー」を流布させてしまった。反対派の行動それ自体が反対派の主張に反する行動になっているという意味において、それは思想的敗北ないし自己崩壊にほかならない。

 

「社会的なるもの」が支える近代的統治の可能性は、本来はそれを担うべき人々の手によって扼殺された。今回の騒動において何事か記憶されるべきことがあるとすれば、その点なのではないだろうか。

 

サムネイル「Wash away doubt」_scartissue

http://www.flickr.com/photos/92051732@N02/8374723902/

 

 

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