2014.03.27
「公安テロ情報流出事件」裁判――警察はあらゆる個人情報を自由に集められるのか
いまから3年ほど前の2010年11月4日、尖閣諸島中国漁船衝突事故の映像がYouTubeに流出し、大いに世間を騒がせました。みなさんも覚えていらっしゃるでしょう。しかしその6日ほど前に発覚した、より深刻な情報流出事件のことを覚えている方はいるでしょうか?
ファイル共有ソフト“Winny”(ウィニー)を介して、警視庁公安部(外事三課)が収集したとされる大量の個人情報を含む内部資料がインターネット上に流出した「公安テロ情報流出事件」です。
テロ捜査資料が流出してからおよそ半年後、個人情報を収集された挙句、流出させられたムスリムとその配偶者の合計17人は、国と警視庁の所属する東京都を 相手方として、一人当たり1100万円を求める国家賠償訴訟を提起しました。提訴の理由は、今回の捜査が、捜査される側が許容できるような限界を超えた、 違法な捜査であるというものでした。私は原告の代理人の1人として、この訴訟に関与しました。
これから、この事件について、流出した情報の概要を説明しつつ、裁判の経緯についてご説明したいと思います。
流出した個人情報
まず、どのような捜査資料が流出したのでしょうか。流出の実態が端的にわかるA4サイズ1枚分の資料があります(資料1)。
資料1をご覧頂くとお分かりの通り、流出したのは、日本に居住するムスリム(イスラム教徒)の方々の詳細な個人情報です(どのような方々が捜査の対象になったのかについては後述します)。実際の流出資料にはもちろん黒塗りはありません。住所、氏名、生年月日といった基礎的な情報はもちろんのこと、モスクへの出入状況、本人や配偶者の勤務先や子どもたちの通学先、前科・前歴といった詳細な個人情報が、履歴書の様な形式の1枚の紙に記載されています。
この資料を見て、「警察がこういった資料を作るくらいだから、この資料に載っている人達はテロと関係が深い人たちなのではないか」と思われるかもしれません。しかし、これは大きな誤解です。流出した資料に掲載されていた方々は、飲食店の経営者や運転手、大手企業に勤務するサラリーマンなど、一般的な職業に就き、家庭を持つ、いわば普通の市民でした。
また、この資料1には『容疑』という欄がありますが、この欄に記載されている情報をみると、そもそも『容疑』として捉えること自体がおかしい内容か、伝聞に伝聞を重ねた結果の間違った情報ばかりだったことがわかります。
例えば、あるムスリムは『容疑』欄に「テロ関係者に航空券を手配した」といった記載されています。その方は日本とイスラム諸国間に特化した旅行代理業をしていました。不特定多数に航空券を手配しており、その中に、知らないうちにテロ関係者が混ざってしまった可能性があるだけです。
また別のムスリムの『容疑』欄には、「テロ関係者が立ち寄ったモスクのコックだった」とか、「テロ関係者が立ち寄ったモスクの警備員だった」などと書かれています。モスクはオープンなスペースです。ムスリムであれば誰でも入り、祈り、出される食事を食べることができます。知らないうちに自分の働くモスクにテロ関係者が立ち寄っただけで『容疑』をかけられてはたまりません。しかもこの情報は、伝聞に伝聞を重ねたものとして資料に記録されており、本当にそのモスクにテロ関係者が立ち寄ったのかもわからないのです。
こういった低レベルの『容疑』についての捜査では、例えばテロ関係者とされる人を乗車させたタクシー運転手や、食事を出したレストランのコック、旅行券を手配したJTBなどの旅行代理店に勤務している方々についても漏れなくテロ関与者の『容疑』があることになってしまいます。
資料に記載された『容疑』とはこの程度のものでした。警察は、すべてのムスリムの言動を把握し、詳細な個人情報を収集しながら、この程度の事実しか『容疑』欄に記載できていませんでした。このこと自体、記載された人々がテロと全く関係がなかったことを物語ります。
けれども、多くの人は、「警察がすることだから間違いはないだろう」という過度の信頼を前提に、「この資料に掲載されたムスリムはテロと何かしらの関係がある人だろう」と考えてしまいました。
ある方は、勤め先をクビになってしまいました。ある方は、経営していた飲食店の売上が激減しました。ある方は、ムスリムの仲間内からつまはじきにされてしまいました。ある方は、古くからの取引を打ち切られてしまいました。また、モスクに行く気持ちが薄れてしまった方もいます。自分の管理するモスクに来る人が減ってしまうこともありました。社会のいたるところから、偏見を浴びせられた結果です。
そして、これらの被害は子どもを含めた家族にも及びました。警察は子どもであっても、「ホームグローンテロリスト」(国外からではなく、国内出身者が引き起こすテロリズムの実行者)の疑いがあるとして、捜査の対象としていました。結婚、就職、その他の社会生活で、大きなハンデになってしまう――テロ関係者として個人情報が流出したムスリムは皆、そういった懸念を感じざるを得ない状況に追い込まれていきました。
捜査の概要
次に、警察がこのような情報をどのように収集したのかをみてみましょう。情報収集の方針が分かる1つの流出資料があります(資料2)。
この資料から2つのことを読み取ることができます。1つは、ムスリムであれば一切の例外なく情報収集の対象とされたことです。警察がこれほどあからさまに1つの宗教を名指しして捜査の対象としたことは、地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教を除き過去に例がありません。しかも、その対象は、世界に16億人いると言われるムスリムです。捜査対象の分母がこれほど大規模にわたることも、歴史上はじめてのことだと思われます。
もう1つは、OIC加盟国出身者であれば、ムスリムでなくとも捜査対象としていたということです。OIC加盟国の中には、ウガンダやスリナムなど国民に占めるムスリムの比率が10%程度にとどまる国もあります。警察は、すべてのムスリムはテロに関係している可能性があることを理由としてすべてのムスリムを捜査対象としていますが、ある国の国民であれば、ムスリムかどうかすら曖昧なまま捜査の網にかけるという、粗っぽい方法だったということがわかります。
次に情報収集の方法を見てみましょう。まず資料2から、警察が「安価なアパートに的を絞」り、「企業・会社」や「店舗」、「学生寮」などに、「まめに立ち寄り」、漏れなく「国籍」、「氏名」等の個人情報を集めていたことがわかります。
また、「モスク」を監視してムスリムの個人情報を収集していたことも明らかになっています。資料3をご覧ください。
午前8時30分から午後7時30まで、「モスク動向の把握」、「モスクへの新規出入者及び不信者の発見把握に努める」とされています。朝から晩までモスクを監視していたということです。
この監視の実態がより具体的に分かる資料(資料4)があります。
この資料を見ると、午前8時30分から午後5時30分までモスクの前で見張ることに加えて、「17:00ころから翌8:30ころまでの間はビデオ解析」をしていたことがわかります。モスクに出入りする人を夜通しカメラを使って監視していたのです。
警察はモスクを徹底的に監視し、1人ひとりについて「人定」(住所、氏名、生年月日等、その人を特定するための情報のこと)を把握していました。「人定」を把握できていないモスク出入者に対しては、「行確」(公安用語の一つで、「行動確認」の略)、すなわち尾行をして自宅等を特定し、それから住民基本台帳や旧外国人登録原票と照合することで、氏名や生年月日、国籍などを特定していました。
より原始的な方法も取られています。聞き込みです。個々のムスリムに「イスラム教の事を教えてほしい」などと接近し、他のムスリムの生活ぶりや信仰の深さなどを聞きまわっていました。多くのムスリムは、まさか自分に容疑がかけられているとは思わず、警察に協力していました。
警察の情報収集の方法はこれらにとどまりません。例えば、東京三菱銀行(当時)は、イラン大使館の大使を含む全職員の口座情報を警視庁に提供していたことが明らかになっています。また、流出した資料の中には「都内に本社を置くレンタカー業者大手4社(トヨタレンタリ―ス、ニッポンレンタカー、オリックスレンタカー、ニッサンレンタカー)から、照会文書なしで利用者情報の提供が受けられる関係が構築」されていると誇らしげに報告する資料もあります。
資料によれば、化学剤を取り扱う業者や、ホテル、インターネットカフェ、レストランなども、ムスリムに関する情報を警察に提供していたようです。楽天株式会社は、肥料の通信販売を行っている業者名簿の提供を確約したと報告されています。いくつかの大学は、OIC諸国出身の留学生名簿を提供しています。このように、警察は、民間事業者から詳細な個人情報を収集する体制を築き上げていました。
また、流出資料には、しばしば「事件化」という用語が現れます。いわゆる別件逮捕です。捜査対象者を入管法違反等の微罪で逮捕し、それを口実に自宅の捜索、所有するコンピュータなどの差押え、解析をするなどして、逮捕された事件とは関係の無い捜査対象者の信仰の深さ・信条・交友関係などを調査しました。
警察は、このようにして日本に住むすべてのムスリムの情報を片っ端から収集し、保管していました。
資料4をもう一度ご覧ください。平成19年9月時点の「面割率」が約61%であると記載されています。面割率とは、捜査対象者全員のうち個人情報を把握して「人定」を特定している者の割合を意味します。流出した他の資料(警察庁の会議概要)によれば、平成20年11月の洞爺湖サミットまでに、その面割率は98%に上昇していたと報告されています。つまりこの時点で警察は日本全国におよそ7万2000人居たOIC諸国(56カ国、1地域)出身者の98%の「人定」を把握していたということになります。
このようにしてムスリムの個人情報やコミュニティに関する詳細な情報をこと細かに調査し把握した結果は、次のような資料にまとめられています(資料5)。
左上の表はOIC諸国の一覧です。「外国人登録者数」、「把握件数」、「把握率」の項目があります。把握率が100%を超える国が幾つかありますが、これは「登録者」ではない入国者、すなわち不法滞在者も把握していたということです。
写真付きでまとめられているのは都内の主要なモスクです。真ん中下の「ハラールフード」というのは、イスラム教の教義上、食することが許された食材のことを言います。国内のハラールフード店はすべて監視対象とされていたようです。
また、そのすぐ左には、NGO・NPO50団体が監視対象とされていたとまとめられています。その中には、JICAや国境なき医師団などが含まれています。これらの団体が監視対象とされた理由は不明ですが、NGOの情報をまとめた別資料の中で、国境なき医師団の「活動状況」には、「アフガニスタン等へ看護婦・助産婦」を派遣したと記載されているので、おそらくOIC諸国と何らかの関係を有していたことを理由とするものと思われます。このように少しでもイスラム教と関係があれば、片っ端から情報を収集し、データベース化し、コンパクトな二次資料に再構成されているのです。
この捜査の何が問題か
さて、皆さんはこれらの資料を見てどのようにお感じになるでしょうか。日本国内のテロを予防するためにはこういう捜査が必要だと感じる方もいるでしょう。確かに、世界各国でイスラム過激派による国際テロが発生していることは事実です。また、テロを予防するため、何らかの捜査活動が必要であることもまったくその通りでしょう。
しかし、この捜査には重大な問題があります。
例えば、ごく一部の日本人がある国際テロを起こしたとします。皆さんが海外に居住しているとして、自分が日本人であるという理由だけで、住んでいる国の公安警察から捜査の対象とされ、良く行く日本人コミュニティの溜まり場や日本の食材を売っているお店などが一日中見張られ、これらの場所に一度でも出入りすれば徹底的に警察に尾行され、日常生活の一挙手一投足を記録され、自分の周囲の人から人となりや交友関係について聞き込みをされ、ネット通販や銀行取引の情報も収集され、家族についての詳細な情報を含む、ありとあらゆる個人情報を収集された場合でも、「自分と同じ日本人がテロを起こしたのだから仕方ない」と我慢することができるでしょうか。
集められた情報は誤っているかもしれませんが、訂正することはできません。尾行され、監視されているように感じるけれども、確信は持てないので真正面から問いただすことはできません。いつ尾行され、誰に自分の話を聞かれているかも分かりません。友人に相談すれば、気のせいじゃないか、証拠はあるのかと言われてしまいます。もちろん、警察に相談することはできません。悪いことをしたと疑われるだけの事情があればやむを得ないかもしれません。しかし、監視されている理由は、日本という特定の国の出身者であることだけです。このような状態に陥った時に、強いストレスや反発を感じないでしょうか。
警察は、犯罪を予防したり、犯人を捕まえるための組織です。そのために、他の組織には与えられていないさまざまな権限が与えられています。適切に使われている限りは問題ありません。問題は、警察は良かれと思ってやっているけど、その手法が犯罪捜査にまったく役立っていなかったり、少しは役立つとしてもそれにも増して弊害が大きい場合です。
例えば、犯罪の疑いがまったく無い人に対して、職務質問をしたり、自宅のガサ入れをすることは法律上許されません。また、犯罪の予防や犯人の逮捕に役立つ手法であれば何をしてもよいわけではありません。例えば、犯人の検挙に役立つからといって、現場付近にいた人間を全員逮捕することなどは許されません。これは「警察比例の原則」といって、目的を達成するために必要かつ相当な手段のみを用いることができるという、警察権の暴走を防ぐため、近代国家に当然に存在するルールです。警察法や警察官職務執行法といった警察に関する法律でも、冒頭にこのルールが明記されています。
特定の属性を持つ人を「犯罪者予備軍」又は「犯罪関係者」とするということは、犯罪の疑いがまったくないとしても、その属性を有していることのみを理由として、捜査の対象にするということです。「犯罪の予防」を根拠にこのような情報収集を許せば歯止めは一切なくなります。世の中に、「犯罪の予防」に全く役立たない情報は、ほとんどないからです。そしてこのような犯罪予防のための捜査は実際に犯罪が起きるまで、半永久的に無批判に継続され、ただひたすら情報が収集され続けることになるのです。
歴史を紐解けば、洋の東西を問わず、警察はときに市民の権利を侵害するような行為を行ってきました。その態様は2つに分けられます。ひとつは、意図的な権限の悪用です。これは言語道断です。しかし、もうひとつの侵害の歴史を忘れてはなりません。それは言わば、目的が手段を正当化してきた歴史です。捜査機関は、「正義」の実現を目指す組織です。犯罪の予防や捜査は、正しい目的です。国民の生命や財産を守ることは極めて重要な目的です。しかし、その崇高な使命のために、組織内部で、さらには組織の外部の多数の市民が、警察のあらゆる権限行使を正当化してしまい、結果として警察が暴走してしまうことがあるのです。
ひとたび目的が手段を正当化して警察のルール違反が黙認されれば、他の事件でも同じように破られることを、過去の歴史は教えてくれます。捜査機関の暴走は例外を許してはなりません。警察を含む行政権が守るべき大原則を国家の基本法として定め(憲法)、警察とは独立した機関が憲法に基づき適切なルールを定め(法律による行政)、そして、具体的な警察権が行使される事前と事後に、政治部門から離れ国民のパニックから遠ざけられた機関(裁判所)が、冷静な視点からチェックする必要があります。
ムスリムに対する網羅的な捜査活動は、警察比例の原則に反します。その手法は、犯罪捜査にまったく役立っていなかったり、少しは役立つとしてもそれにも増して弊害が大きい場合にあたるのです。冷静な視点を有する裁判所が、憲法や法律を適切に適用することで、今回の捜査に異議を述べなくてはいけません。
提訴
原告は、裁判において大きく分けて次の2つの主張をしました。
1つは、捜査資料の漏えいに関するものです。上述のとおり、流出した資料には、原告の詳細な個人情報が含まれていました。また、原告がテロリスト予備軍またはテロリスト関係者であるかのような記載がなされていました。そのようなセンシティブな資料がインターネット上にばらまかれたのです。このような情報は極めて厳重に取り扱われなければなりません。センシティブな情報を取り扱う捜査機関として、今回の資料の保管態様には本来守られるべき基準を満たさない違法がある点を主張しました。
もう1つは、捜査の態様に関するものです。テロ対策の美名のもとに、すべてのムスリムの信仰や思想を含む詳細な個人情報を収集することが許されるのかという点を、真正面から問題視しました。このような個人情報の収集は、憲法で認められるプライバシー権、平等権、そして信教の自由に反する違法なものであり、許されないと主張しました。
この「プライバシー権の侵害」について、少し敷衍します。個人情報と一口に言ってもさまざまな内容があります。氏名や住所、生年月日などは、ある程度公開されることが予定されています。他方、信仰する宗教、支持政党、よく読む本、好きなサイト、性的嗜好、前科・前歴、出自など、人格のあり方と密接にかかわる情報は、一般に公開するものではありません。仲の良い友人であっても、これらの情報は互いにほとんど知らないものです。こうした情報を、誰にどの程度明らかにするかは、個々人の人生観に委ねられています。これらの情報は、それぞれの人生と分かちがたく結びついているのです。
国家は原則としてこれらの情報に介入してはならず、必要不可欠な場合に限り、最小限の範囲で、収集し、利用することが許されるにとどまります。今回の捜査活動は、この限界を超えるものであり、憲法の定めるプライバシー権に反するものです。
また、今回の捜査はテロ対策のために行われたにもかかわらず、警察は個人情報の収集後、捜査対象者がテロとまったく無縁であることが明らかとなった場合でも、個人情報を廃棄していません。ただひたすらにムスリム及びOIC諸国出身者に関する情報を集め、巨大なデータベースを作成しています。
現代では膨大な情報を容易に管理することができます。ソートをかければ一瞬で必要な情報だけを抽出することができます。そのため警察は、理想を言えば、すべての国民のすべての個人情報を把握し保管したいと考えていいるのでしょう。そうすれば犯罪は起きないし、起きたとしてもすぐに逮捕できると考えているのです。実際、ここ数年、何の法的根拠もなく、警察に逮捕された人は任意に唾液を提供させられています。DNAを取り、保管するためです。国民すべてのDNAを保管し、データベース化することを、警察は目指しているのです。
警察がムスリムの情報を収集していたのはテロ対策のためと言うのであれば、テロとまったく無縁のムスリムについては、情報を廃棄するべきでした。しかし、恐らく警察は現時点において一切廃棄をしていません。すなわち、警察は、「今後、必要があれば利用しよう」という程度で詳細な個人情報を収集し、保持しているものと考えられます。このような事態は、「国民の私生活上の自由」は、憲法13条に基づき、「警察権等の国家権力の行使に対しても保護される」と判断した過去の最高裁判所の判例に反するものです。
以上を整理すると図1のようになります。
判決の概要
以上の原告の主張に対し、第一審の東京地方裁判所民事第41部(始関正光裁判長)は、以下のように判断しました。
(1)捜査情報を漏えいさせたことは問題であり、これにより原告のプライバシーや名誉が損なわれたことについて、東京都は賠償しなければならない。
(2)他方、イスラム過激派によるテロの危険があった以上、警察は、モスクの内部に立ち入ってでも、すべてのムスリムの個人情報とムスリムコミュニティに関する情報を収集する必要があった。また、適法に収集した情報をデータベース化することは必要な保管態様である。従って、捜査は適法である。
判決が損害賠償請求を認めたことから、「原告勝訴」「東京都に総額9000万円超の賠償を認めた」という報道がなされました。しかし、裁判所が出した結論は、「日本に住むすべてのムスリムやOIC諸国出身者は、日本の安全のために、たとえテロとまったく無関係であっても、モスクに立ち入られたり、尾行されたり、信仰の深さや子どもたちに関する情報を収集され、その情報をデータベースとして無期限に保管されるくらいは、我慢しなければならない」というおよそ受け入れがたいものだったのです。
判決の問題点その1
この判決にはいくつもの問題点がありますが、ここではそのうちの2つをご紹介します。
第1は、抽象的なテロ捜査の必要性から、安易にムスリムの個人情報を収集する必要性を認めたことにあります。この点について、判決文の記載を整理すると以下のようになります。
判決はまず、テロ捜査の必要性について以下のように述べています。
ここまでは、警察が提出した資料をうのみにしている点もあるものの、現状認識として概ね妥当なものと思われます。問題はこれ以降の部分です。
上の青い矢印が、判決の論理の中で最もおかしいと思われる点です(赤いクエスチョンマークを付けました)。
まず、テロリストの早期発見のためになぜムスリムコミュニティ全体を把握しなければならないのかについて、判決では十分に説明されていません。
また、仮にテロ対策のためにムスリムコミュニティ全体の把握が必要だとしても、今回のような日本に居住するムスリム全員に対する事細かな個人情報の収集という執拗とも言うべき捜査をする必要があるのか、という疑問について、判決は何ひとつ説明をしていません。ムスリムコミュニティを利用したテロを防止する目的の情報収集であれば、モスクに監視カメラを設置したりムスリムを一人ひとり尾行したりせず、犯罪と無縁なモスクの責任者に事情を説明して、定期的にモスクを巡回したり、不審者がいれば通報するよう促すなどして、ムスリムコミュニティと協力体制を築けばよいだけです。なぜテロ対策をするには、すべてのムスリム又はOIC諸国出身者の、詳細な個人情報を秘密裏に収集し、かつ膨大なデータベースを作成しなければならなかったのか、この点に関する説明はありません。
また、世界に約16億人いるムスリムの中に、国際テロを企てている者は極めてわずかな人数しかいません。それにもかかわらず、「平穏なイスラム教徒かテロリストかを見極めるために」、「その者の宗教的儀式への参加の有無」等の「諸般の事情からの推測によらざるを得ない」と決めつけています。本当にほかの方法は一切ないのでしょうか。そんなはずはありません。これは「宗教的儀式への参加といったムスリムとしての活動=テロ行為を疑わせる行為」という、ムスリム全員をテロリストと見るに等しい論理です。
ムスリムであれば、尾行をされてもしょうがない――これは日本においては比較的少数であり誤解されやすい立場に居るムスリムをさらに窮地に追いやる論理であり、裁判所自体が差別を容認するものに他なりません。また、この理屈で言えば、諸般の事情により「平穏なイスラム教徒」であることが明らかになった者については、もはや警察として情報を保持する理由がないのですから、「平穏なイスラム教徒」であることが明らかになった時点で個人情報を廃棄するべきです。しかし、裁判所は、警察は、適法に取得した情報をいつまでも自由に使うことができるとして、この点についても違法を認めていません。
裁判所の判断は、国際的な常識にも反しています。英米やドイツでも、ムスリムを狙い撃ちにした捜査が一時期なされていました。しかし、すでに世界はその人権侵害性を認識し、乗り越えています。国連の人権理事会では、各国における多数の研究を取りまとめ、2007年1月に「テロ対策における人権及び基本的自由の促進及び保護に関する特別報告者による報告書(訳文はこちら 訳者:弁護士・難波満)」という資料を掲出しています。
国連は、今回のような捜査手法を「テロリスト・プロファイリング」と定義づけ、このような捜査は以下の点から違法であると結論付けています。
(1) 「民族、出身国や宗教といった特徴に基づくテロリストのプロフィールは不正確であって、広すぎると同時に狭すぎるものとなる」
(2) 「潜在的なテロリストの国籍、民族的、宗教的及び社会的な背景について、過激化を受けやすい者を特定するのに資する一貫したプロフィールは存在しない」
(3) 「テロリスト・プロファイリングは、何らテロリズムに関係がない非常に多数の者に影響を及ぼすことになる」
(4) 「警察機構に多大な負荷を掛け……重要な警察のリソースが、他のより有益な業務から奪われてしまう」
(5) 「民族、出身国及び宗教に基づくプロファイリングは、概ね効を奏していない」
どれも常識的な判断ではないでしょうか。しかし、東京地裁は、このような国際常識から離れ、警察の主張をうのみにして、今回の情報収集活動が、テロ捜査として有効であると結論付けました。判決は、警察の捜査を追認するための論理に終始し、警察の過失を認めやすい「情報の漏えい」の点のみを認め、損害賠償請求を認めました。これは、形式的には原告にとり勝訴判決ですが、警察のルール違反を是正し、暴走を食い止めるという、裁判所の役割を放棄したと言わざるを得ないのです。
判決の問題点その2
もうひとつの判決の問題点は、個人情報の重要性を極めて低く評価していることです。警察は、すべてのムスリムについて、信じる宗教、信仰の深さ、宗教的言動など、個人の内面に深く関わるセンシティブな情報について、詳細に情報を収集していました。しかし、判決は、以下のように述べて、ムスリムが被る被害は大したことがないと判断しました。
「本件情報収集活動全体でみても、これらは原告に対して信仰の証明を強要したりするものでも、不利益な取扱いを強いたり、宗教的に何らかの強制・禁止・制限を加えたりするものでもなく、モスクの付近ないしその内部に警察官が立ち入ることに伴い、原告が嫌悪感を抱き得るにとどまる」
判決は、センシティブな個人情報を収集されることの不安感、警察に差別的な取扱いをされることに伴う自己否定感等について、単なる「嫌悪感」と言い切り、たとえテロと無縁であっても、その程度の弊害は甘受するべきであると判示しました。
人格と分かちがたく結びついた個人情報は、それぞれの個人が、自分の人生観や世界観に照らし、いつ、どのように、誰に対して開示し、共有するか、自由に決めることができるはずです。購入した図書や映画、音楽の履歴について、国や企業が自由に収集し利用できるとなれば、とても生きづらい社会になってしまいます。
すべてのムスリムから、これほど詳細でセンシティブな個人情報を収集し利用することが、本当に国際テロを防止するために必要不可欠であったのか、厳密に審査されなければならなかったはずです。
しかし、判決は、このような情報を収集されたとしても「嫌悪感を抱き得るにとどまる」として、このような厳密な審査を放棄してしまいました。センシティブな情報の重大性を見誤ったものと言わざるを得ません。
結語に代えて
今回の判決の考え方は、テロ対策という大義名分の下で、警察による情報収集活動の必要性を過大に評価し、一人一人の個人が被る被害を過少に取り扱うものです。「目的が正しければ、手段は正当化される」、「目的が崇高である以上、少しくらいのルール違反は大したことがない」、「崇高な目的のためであれば少数派の宗教の信者は犠牲になっても仕方がない」という誤ったメッセージを発しかねないもので、立憲主義の基盤を揺るがすものです。
原告はこの判決を不服として控訴をしました(控訴理由書)。これから東京高裁に議論の土俵は移ることとなります。東京高裁において、今度こそこの捜査活動の違法性が認められるよう、代理人として尽力していきます。
プロフィール
井桁大介
弁護士・あさひ法律事務所所属。早稲田大学大学院法務研究科卒業。