2014.06.21

3.11以降の世代間倫理を考える――討議か、想像力か

戸谷洋志 倫理学

社会 #原発#世代間倫理

福島第一原子力発電所事故は、科学技術に対する私たちの見方を変えてしまった。私たちは、一流の科学者集団が状況の解明に困惑し、一流の技術者集団が事故の対応に戸惑う姿を見せ付けられた。そもそも制御できないものによって、私たちの社会が支えられていたという現実を突きつけられた。そして、同事故の処理には途方もない長い期間が必要であり、私たちは未来の世代に責任を負うことになった。それからすでに3年が経った。

本論は、同事故が与えた影響を念頭に置きながら、原子力技術が抱える哲学的な問題を検討する。戦後、多くの哲学者が原子力技術に言及し、人間との関わりの観点から批判を試みてきた。本論が特に注目するのは、主に日本で「世代間倫理」と呼ばれる倫理学の領野である。本論は、原子力技術に対する制御の困難さと、そこから帰結する未来の世代への責任のあり方を考察し、3.11以降の世代間倫理を模索していく。

「10万年後の安全」という問題提起

フィンランドのオルキルオトでは、世界初の高レベル放射性廃棄物の永久地層処分場が建設されている。その過程を描いたドキュメンタリー映画「100,000年後の安全」が話題を呼んだことは記憶に新しい。高レベル放射性廃棄物が生物に無害になるためには、最低でも10万年の期間が必要であるという。この見地から、同処分場は10万年間の廃棄物の保管に耐えるように設計されている。

劇中に印象的なシーンがあった。建設者らが、処分場の存在をどのような方法で周知したらよいか、ということに関して、議論が紛糾する場面だ。万が一、保管期間内に誰かが中に立ち入るようなことがあれば、周囲に深刻な汚染が引き起こされる可能性がある。従って、そこが処分場であることを誰が見ても分かるように配慮する必要がある。しかし、ではどのような言語で周知すればいいだろうか。いうまでもなく、数万年後の人類がどんな言語を用いているか、想像することすらできない。そうだとすれば、言語を用いた看板による周知は諦めなければならない。

やがて設計者らが考えついたアイデアは奇抜なものだった。処分場全体を巨大な棘状の建築物で覆ってしまい、不気味な形状にして人足を避けてはどうか、あるいはムンクの『叫び』のような絵画を大きく掲げ、不快感を煽るようにしてはどうか。たとえそこが処分場であることを伝えることができなくても、とにかく処分場内に人を立ち入らせないことが重要である。そうした考えから、処分場をあえて人に不快感を与えるような外観にすることが検討されたのである。

ここには原子力技術が抱える問題の本質が示されている。原子力技術が影響を与える期間は個人の生涯よりも長い。そうした技術を使用するとき、私たちは同時に未来の世代にも甚大な影響を与えることになる。しかし、言うまでもなく、私たちは未来の世代とコミュニケーションをとることはできない。従って、原子力技術を運用する場合、私たちは原理的にコミュニケーションをすることができない他者(未来世代)に対して責任を負うことになる。これは、ハンス・ヨナスが指摘する通り、哲学史において前代未聞の問題である(Jonas[1979], S.7.)。

科学技術の制御の困難さ

 

未来の世代への責任が特別に必要にされるのは、私たちが科学技術を適切に制御することができず、不慮の事故の可能性を潰し切ることができないからだ。そうした現実を露呈させたのが福島第一原子力発電所事故だった。しかし、注意しなければならないのは、そうした制御の困難さは、科学者・技術者の能力が劣っていることに由来するのではない、ということだ。もちろん、同事故の対処に当たった人々の行動の適切さは厳しく問われなければならない。ただし、考えられる限りの最善の対処さえすれば原子力技術は適切に制御できる、という考え方は楽観的に過ぎるのである。むしろ、高度な科学技術は、たとえ私たちが最善の仕方で対処したとしても、依然として制御不能なものとして考えられなければならない。

戦後早くからそうした主張を訴えていたのがギュンター・アンダースである。アンダースは、人間が作りだすことができるものと、人間が想像できるものとの間には大きな落差があると指摘し、楽観的に安全を謳うことを厳しく批判した。人間は非常に複雑で、破壊的な威力をもつ機械を作ることができる。しかし、たとえ作ることができたとしても、その機械がもたらす被害を具体的に想像する能力はもっていない。例えば、核兵器を製造することの難しさと、核兵器によってもたらされる被害を想像することの難しさは、決して同じではない。そして戦後社会において、そうした落差を如実に表しているのが原子力発電所である、とアンダースは指摘する。この落差によって、私たちが極めて危険な機械を目の前にしていても、その危険性に気付くことができなっているのである。

たとえば原子炉はそこらの工場施設とまったく同様に、危険でもなければ目立ちもせず、その潜在的な機能についても、それが有する脅威についても何も示していない。靴工場を案内するように(まだ運転されていない)原子力発電所を案内してもらった後で、挨拶を受けたとき、有名なヨーロッパの政治家は、「どこが不都合なのだ?」と得意げに嘲笑うように尋ねた。(Anders[1984], S.35.)

こうした生産能力と想像力の落差は、個人の過失によるものではなく、現代の科学技術文明がもたらした必然的な帰結である。そうである以上、専門家が自らの持ち合わせている想像力を行使して、高度な科学技術の安全性を証明しようとしても、その当の想像力が制約されているために、証明された安全性は不完全なものに留まる。それが科学技術を制御することの原理的な困難さである。アンダースは、そうした専門的知識に頼るのではなく、むしろ制約されている「道徳的な想像力」(Ander[1983], S.273.)を拡大する努力こそが必要であると主張する。

アンダースと同様に、科学技術の制御の困難さを指摘するヨナスは、科学技術の運用に際しては、なによりもまず自分が無知であることを承認することが義務である、と主張する。科学技術は本質的に予測不能なものであり、一度重大な事故が起きれば対処不能なものであり、その事故によってもたらされる甚大な被害に関しては回収不能なものである。ヨナスに拠れば、今日の科学技術の安全性を検討する際には、最も恐怖するべき最悪の結末を想像することが必要であり、そうした「恐怖に基づく発見術」(Jonas[1979], S.63.)が養われなければならない。

未来の世代への責任

ただし、科学技術に対する制御の困難が原理的なものであり、なんらかの過失に基づくものではないからといって、それが専門家や社会を免責する理由にはならない。むしろ、科学技術が予測不能であるからこそ、それに関わらざるを得ない者は責任を負う。そしてその責任は遠い未来にまで及ぶ、という点に、この責任の特殊性がある。原子力技術に限定すれば、それは10万年後の未来にまで影響を与え続ける。人類がこれまで、それほどまでに長大な時間的地平をもつ科学技術を手にしたことはなかった。

遠い未来にまで影響を与え続けるからこそ、原子力発電の産物は、私たちが未来の世代と共有するものであり、そうした仕方で私たちは未来の世代と関係を結ぶことになる。ただし、もちろん、この関係は双方向的なものではない。私たちが未来の世代に働きかけることはできるが、未来の世代が私たちに働きかけることはできない。ここに、未来への責任の問題の難しさがある。私たちは、一方的に未来の世代を傷つけることができるにも関わらず、未来の世代は私たちを裁くことができない。そうである以上、私たちは未来の世代に対して圧倒的な強者であり、それに対して未来の世代は極めて弱い立場に立たされている。

この問題は伝統的な倫理学の枠組みでは捉えることができない、とヨナスは指摘する(ibid., S.26.)。何故なら、伝統的な倫理学が前提にしている時間的地平は、当事者同士が相互に交流できる範囲に限定されているからだ。近代以降の民主主義的な倫理学は、当事者同士が話し合い、合意に至ることで拘束力をもつ規範を形成する、というプロセスを重視してきた。しかし、私たちは未来の世代と話し合うことができないのだから、民主主義の枠組みでこの問題を解決することはできない。ヨナスは、むしろ、強者と弱者の非対称的な関係を前提にする倫理学の必要性を訴える。

ヨナスが構想するのは、強者が弱者に対して一方的な配慮をする仕方での責任だ。法的な文脈では、責任は何らかの契約によって初めて拘束力をもつが、前述の通り私たちと未来世代は非対称な関係にあり、事前に契約を結ぶことはできない。しかし、そうした契約に基づかない責任も考えることができる、とヨナスは指摘する。それは「乳飲み子」に対する大人の責任である(ibid., S.240.)。目の前に傷つきやすい乳飲み子が存在するとき、大人はその乳飲み子を守る責任を自覚する。ただし、大人は乳飲み子とコミュニケーションすることはできないし、なんらかの契約を結ぶこともできない。この責任の根拠は、大人が強者であるのに対して乳飲み子が弱者であるという事実であり、両者の間にある非対称的な力関係だけである。

ヨナスはこの、乳飲み子に対する責任をモデルにして、未来世代への責任を考える。弱者がかかえる傷つきやすさは、それ自体で強者に対して保護の責任を課す。そうだとすれば、強者である私たちは、弱者である傷つきやすい未来の世代に対して、それを保護する責任を負う。こうした論証に基づいて、ヨナスは未来の世代への責任を次のように定式化する。「あなたの行為の影響が、地上における真正な人間の生命の存続と両立するように、行為せよ」(ibid., S.36.)

民主主義と世代間倫理の連結

以上のヨナスの思想は、社会的に大きな影響を及ぼし、哲学史の文脈においても新しい地平を切り開くものであったが、同時に、それが民主主義の逸脱する可能性をもつものとして批判を受けた。そうした批判者には、例えば科学哲学者のカール・ポーパーがいる(Popper [1987])。ヨナスのいう未来の世代への責任は、討議によって合意を得るという手続きを踏むことなく課せられる義務である。それは場合によっては暴力的な義務の押し付けにもなりうる。

原子力発電所の廃炉をめぐる議論を例にとってみよう。もし廃炉を決定することができれば、未来の世代が被る危険性を軽減することができ、私たちは責任を果たすことができる。一方で、それは現在の世代に電気料金の値上がりを強制するものであり、多くの人々の生活を苦しくさせる。そのため、原子力発電所を存続させるべきだ、と考える人々が社会で多数を占めているとする。そうした状況にあっても、ヨナスの思想は、あくまでも廃炉の決定を促す。何故なら、現在の世代の人々と合意を得られるか否かは、そもそも問題にはならないからである。そうだとすれば、多くの人々は自らの意志に反した生活苦が強いられるのであり、そもそも反論の機会すら用意されていないことになる。ここに、世代間倫理と民主主義の矛盾が露呈することになる。

この観点から、両者を接続させようとするのが、討議倫理学の旗手であるカール・オットー・アーペルである。アーペルは、そもそもヨナスが前提にしている、私たちと未来の世代との非対称的な関係を疑問視する。確かに、私たちは未来の世代を一方的に傷つけることができるが、だからといって私たちが「大人」で未来の世代が「乳飲み子」だと考えることは妥当ではない。むしろ未来の世代は、たとえまだ存在していないのだとしても、潜在的には民主主義的な共同体の成員として認められるべきである。そうである以上、私たちと未来の世代は同じ権利を有しているのであり、あくまでも対称的な関係にある(Apel[1988], S.196.)。

アーペルは、民主主義の改善を追求することから、未来の世代への責任を導き出す。私たちの社会は、開かれた討議による合意のプロセスによって、ルールを形成していくべきだ。しかし、現実の世界にはそうした討議を阻むものが多くある。権力、偏見、不平等などである。私たちが民主主義を支持する限り、その前提として、開かれた討議の場を実現するための努力が必要になるのであり、コミュニケーションの状況は漸次的に改善されていかなければならない。ただし、もちろんそうした改善は短期的には実現せず、無限とも思える時間が必要である。民主主義の前提となる開かれた討議の場の実現と、そのための現状の不断の改善は、未来の世代へ引き渡されるべき課題である(ibid., S.203.)。そうである以上、私たちは未来の世代が存続できるように配慮しなければならない。

アーペルの思想に従うと、現在の世代と未来の世代の利害が対立したときには、どのような結論に至るのだろうか。ヨナスとは異なり、アーペルはあくまでも現在の社会での討議を重視し、そこで得られた合意をルールとして採用する。ただし、そのルールは未来の世代の存続と両立するものでなければならない。そうでなければ、当の討議が依拠している民主主義の基盤自体が崩壊するからである。そのように考えることで、アーペルは世代間倫理と民主主義の連結を試みる。

討議か、想像力か。

 

ドイツにおける世代間倫理の最近の研究では、以上のような討議倫理の思想を前提にするものが多数派を占めている。ただし、そこにも依然として検討されるべき問題が残されている。それは、アーペルの考える世代間倫理においては、討議のプロセスが尊重される以上、専門家の意見が圧倒的な影響力をもつということである。アーペルは、未来の世代への責任を議論する際には知識人よりも専門家が主導的な役割を担うべきであると主張する(ibid., S.81.)。もちろん、高度な科学技術の運用に際して、専門家の知識は不可欠のものである。しかし、同時に考えなければならないことは、専門家による安全性の保証が、もはや必ずしも信じられなくなったということである。私たちはその現実を福島第一原子力発電所事故によって実感したはずだ。

前述した通り、アンダースとヨナスは科学技術の制御の困難さを指摘した上で、専門的知識よりも想像力の力を重視する。そうした想像力には論証がなく、根拠がない。そうである以上、討議の場で相手を説得するには使えない。しかし、討議の場で説得力のある論証が、いつでも信用できるものであるとは限らない。特に原子力技術を巡る技術において、そのことは特に留意されるべきである。ここには、討議を重視するべきか、想像力を重視するべきかの対立構造が示されている。

本論の中で結論を下すことはもちろんできない。ただ、討議倫理が多数派を占めているという現状を顧みた上で、また福島第一原子力発電所事故の経験を踏まえた上で、筆者は想像力の重視を一つの選択肢として擁護したいと思う。3.11以降の世代間倫理は、科学技術が原理的に制御不能であるという現実を前提にしなければならない。その上で、そうした制御不能なものと付き合い続けるためには、逞しい想像力を鍛えることが必要になるはずである。アンダースが主張する「道徳的想像力」、ヨナスが主張する「恐怖に基づく発見術」というアイデアは、その意味で参照するに値する。

そうした想像力が発揮された実例の一つを、「100,000年後の安全」に見ることができる。設計者たちは、放射性廃棄物の永久処分場を、ムンクの「叫び」として表象させようとした。もちろん「叫び」と処分場の間に直接的な関係はない。しかし、「叫び」として表された処分場は、「処分場」と名付けられるよりも、一層その本質を暴露しているように思える。そうした飛躍を可能にするような、しなやかな想像力を鍛えることが、未来への責任の一翼を担うのではないだろうか。

以上の考察に基づいて、筆者は具体的に次のような提案をしたい。原子力発電所の外装を、芸術家のデザインに基づいてリフォームしてはどうか。あるいは、これから建設される予定の関連施設の設計に際して、芸術家を交えては議論してはどうか。もちろん、オルキルオトの処分場のように、不快感の惹起だけを追及する必要はないし、ヨナスのように、あくまでも恐怖のみを追及する必要もない。しかし、私たちが造るものが私たちの想像力を超えているのなら、そこに想像力を超えた外観を与えることで、将来起こりうる危機の回避を促すことができるかも知れない。そして、そうした常人ならざる想像力をもつのが、例えば芸術家であろう。大阪府の舞洲工場など、芸術家が工場をデザインした例はある。特に原子力技術に焦点を絞るとき、そうした試みは単なる設計者の趣味に留まらず、未来の世代への責任として機能するはずである。

参考文献

Anders, Günter [1983] Die Antiquiertheit des Menschen 1. Über die Seele im Zeitalter der zweiten industriellen Revolution, Verlag C.H. Beck, München.

Anders, Günter [1984] Die Antiquiertheit des Menschen 2. Über die Zerstörung des Lebens im Zeitalter der dritten industriellen Revoltion, Verlag C. H. Beck, München.

Apel, Karl-Otto [1988] Diskurs und Verantwortung: Das Problem des Übergangs zur postkonventionellen Moral, Suhrkamp Verlag, Frankfurt am Main.

Apel, Karl-Otto [1994] “Die ökoligische krise als Herausforderung für die Diskursethik” in: Ethik für die Zukunft: Im Diskurs mit Hans Jonas, Dietrich Böhler(Hrsg.), Verlag C.H. Beck, München, SS.369-404.

Jonas, Hans [1979] Das Prinzip Verantwortung: Versuch einer Ethik für die technologische Zivilisation, Insel Verlag, Frankfurt am Main.

Popper, Karl Raimund [1987] Das Interview mit K. R. Popper in: DIE WELT, 8. Juli 1987.

サムネイル「Imagination」Benjamin Thompson

http://www.flickr.com/photos/beija/4585213707

プロフィール

戸谷洋志倫理学

1988年、東京都世田谷区生まれ。専門は哲学、倫理学。大阪大学大学院博士課程満期取得退学。現在、大阪大学大学院医学系研究科 医の倫理と公共政策学教室 特任研究員。現代思想を中心に、科学技術をめぐる倫理のあり方を研究している。第31回暁烏敏賞受賞。近著に『Jポップで考える哲学―自分を問い直すための15曲』(講談社/2016年)がある。

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