2014.06.14
「夢」から覚醒するためのカリカチュア――チェルフィッチュ『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』
「世界の演劇」のひとつとして
わたしは今、南ドイツの小さな都市・マンハイムに滞在している。町にはスーパーやキヨスクはあるものの、24時間営業のコンビニなんてないし、自動販売機も見当たらない。いたるところにいい感じの広場があり、長閑で、治安もわりと良さそうだ。碁盤の目のようにひろがる中心市街地・クアドラーテには深夜営業のカフェバーが点在するが、ほとんどのエリアは夜になるとすっかり暗くなる。それでも特に大きな不便も不安も感じない。毎日の体験が濃厚なせいもあるけれど、日本にいる時よりも、夜はぐっすりと深い眠りに落ちている。
ここに来たのは、3年に一度ほどのペースで開催されている国際的な舞台芸術祭、テアター・デル・ヴェルト(Theater der Welt=世界の演劇)を観るためだ。参加アーティストたちは、世界の様々な都市を拠点にしている。ベルリン、ウィーン、ハンブルグ、ロンドン、パリ、ブリュッセル、マドリッド、マルメ、ヘルシンキ、モスクワ、イスタンブール、ベイルート、テルアビブ、エルサレム、サンパウロ、ニテロイ、サンディエゴ、チュニス、ヨハネスブルグ、サンフランシスコ、シドニー、マニラ、そして東京……。マティアス・リリエンタールという優れた目利きがプログラム・ディレクターを務めるこのフェスティバルでは、まさに「世界の演劇」の名を冠するにふさわしい作品が日々上演されている。
このテアター・デル・ヴェルトに、チェルフィッチュ(岡田利規主宰)と庭劇団ペニノ(タニノクロウ主宰)というふたつのカンパニー(劇団)が参加した。彼らはそのツアーを続けるため、すでにそれぞれ別の都市へと向かったが、まずはここマンハイムに素晴らしい成功の足跡を残していったと言えるだろう。どちらのカーテンコールも、満員の観客による大きな拍手に包まれていた(このテアター・デル・ヴェルトの30を超える全作品に触れたけれども、彼らに対する観客の反応は、他と比べてもかなり熱いものだった)。
けれどもわたしは、チェルフィッチュが上演した『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』のカーテンコールを、複雑な感慨をもって見つめることになった。今や日本を代表する劇団であるチェルフィッチュの、海外でのワールドプレミア(世界初演)の場に立ち合うことができた、というスペシャルな高揚感もあった。だがそれだけではない。この作品で描かれているのは、今の日本の経済・社会構造の縮図そのものであり、その戯画化された姿を、遠く離れたヨーロッパで観ていることの意味が、にわかには腑に落ちなかったのである。ユーモアに満ちていて、かなりふざけた話ではあり、事実何度も笑ったのだが、かといって「わあ、おもしろーい!」で済ませることは到底できなかった。
劇場からの帰り道、やはり似たような感慨を抱いたのかもしれない。居合わせた野村政之氏(劇団サンプルのドラマトゥルクなど)がぽつりとひと言、「副題をつけるなら、蝿…「五月の蠅」ですかね……」と呟いた。なるほどそれは言い得て妙だと思った。
チェルフィッチュのこれまで
「五月の蠅」と評された最新作『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』について話を進める前に、チェルフィッチュについて少しばかり解説しておきたい。
全作品の劇作・演出を務めるのは岡田利規。そのマスターピースである『三月の5日間』(2004年初演)は2005年に第49回岸田國士戯曲賞を受賞。2007年に同作がクンステン・フェスティバル・デザールに招聘されて以降、チェルフィッチュは数々の海外公演を経験してきた。この作品を嚆矢として彼らはヨーロッパの先進的なフェスティバルに幾度も招聘されるようになり、そのマーケット(プロデューサーたちが目を光らせ、作品が売買されている)にとって極めて重要な存在となった。
能や歌舞伎といった伝統芸能だけではなく、日本の現代演劇がヨーロッパの演劇界に認知されるにあたって、チェルフィッチュが果たした功績には計り知れないものがある。今回のテアター・デル・ヴェルトでも次のように紹介されていた。「Toshiki Okada is one of the most significant contemporary theatre directors in Asia.(岡田利規は、アジアで最も重要な演出家のひとりです)」。
『三月の5日間』で体現された、コンテンポラリーダンスの思考法を取り入れたゆらめくような身体の動き、あるいは「〜っていうか」「〜ですけど」の連発に象徴されるようなダラダラした若者言葉を模倣した台詞などは、後続世代に大きな影響を与えた。ヤミツキにもなるその語り口は、それまでの演劇が持っていた「つくりものの嘘くささ」を突破して、もっと日常に肉薄していくような新しいリアリティを獲得した。しかも彼らの表現が、(ポツドール=三浦大輔などと並んで)若者たちの生きている世界の、不遇な環境や閉塞感を投影していたという事実も見逃せない。
チェルフィッチュが台頭してきた2000年代の半ばは、日本の論壇においてもフリーターやニートなどいわゆる「ロスジェネ」問題が取り上げられた時期だったが、そうしたイシューは岡田が描くテーマにも直結していた(『三月の5日間』は、イラク戦争のデモが起こる時期に、渋谷のラブホテルに籠もってひらすらセックスする若い男女の物語だった)。それにまた、前田司郎や本谷有希子をはじめ、劇作家が次々に文壇デビューを果たし、社会的なプレゼンスを高めていく時期でもあった。岡田利規もその小説集『わたしたちに許された特別な時間の終わり』で大江健三郎賞を受賞している。かくして演劇は、彼らの活躍によって芸術分野におけるその地位を高め、「復権」を果たしたのだった。
このように、(青年団=平田オリザとはまた別の形で)チェルフィッチュ=岡田利規は日本の現代演劇の「中興の祖」とも呼べる存在になった。しかしそのマネジメントを担当する制作会社プリコグも含め、彼らが歩んだ道のりは決して平坦なものではなかった。いわゆる商業演劇の流れに乗るのではなく、また公共劇場からの委嘱作品においても自由な創作プロセスを確保するために、彼らはある意味では人身御供となってフロンティアを開拓していった側面がある。ここでは割愛するが、詳細を知りたい方は拙著『演劇最強論』(徳永京子との共著、飛鳥新社)や、岡田の著書『遡行ー変形していくための演劇論』(河出書房新社)を参照していただければと思う。
「東京」の相対化、そして観客への挑発
そんなチェルフィッチュに何度目かの大きな変化が訪れたのは、2011年3月に起きた東日本大震災の後だった。家族のいる岡田は、早々に熊本への移住を選択した。もちろんそれは、たとえ引っ越しても、彼自身は関東圏で(特に横浜を拠点として)作品をつくったり発表したりすることができる環境がある、ということを前提としていたのかもしれない。しかしこの移住を契機として、岡田が「東京」を相対化するまなざしは、以前よりもかなり辛辣な形で前景化してきた。
例えば、アメリカのパフォーマンス集団Pig Iron Theatre Companyとコラボレーションした『ZERO COST HOUSE』(日本では2013年上演)では、坂口恭平やヘンリー・ソローに扮した俳優を登場させ、東京での生活(実はそんなに幸福ではないかもしれない)にしがみついている人たちを挑発した。また昨年2013年には、天変地異に見舞われたある村の人々の葛藤を描く『現在地』を再演し、さらには、もはや日本語がほとんど滅びかけている世界の話を書いた『地面と床』を連続上演。その際のインタビューに、岡田は次のように答えている。
「(日本の首都圏は)僕にとってはいちばんやりがいのある場所であり、危険な場所でもあります。僕を緊張させるという意味で。というのは、この二つの作品には人を煩わせる力があるんです。で、首都圏、東京というのは、観客を不快にさせたり苛立たせたりすることのできる場所なんですよね。」(「ぴあプラス」2013年12号)
誤解のないようにひと言添えるならば、チェルフィッチュの舞台はただ「不快」になったり「苛立」ったりするわけではない。あくまでもその舞台は快楽に満ちており、語り口や、時間のリズム、舞台の構図など、とても美しいと思う。そのうえで、ただ「ああ、面白かった」とカタルシス的に消費されることに甘んじることなく、岡田は観客を挑発しているのだ。
なんのために?
コンビニに依存する「畸形」としての日本人
最新作『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』に話を戻そう。『現在地』や『地面と床』がややシリアスな物語だったために、今度の作品は少し息を抜いたものにしたい、と岡田は語っていた。なにしろ、タイトルからしていかにもふざけている。日本の消費文化で横行している空虚なレトリックを皮肉ったものだろう。
物語もまた、痛烈なブラックユーモアに満ちている。商品の入れ替わりが激しい日本のコンビニエンスストアが舞台。ふたりのバイト店員がいて、ひとりは少しでも生き甲斐を感じようと発注仕事に喜びを見出している。もうひとりはまったくやる気がなく、むしろ妙にやる気があるやつは迷惑だとさえ考えている。そして本部に雇われているどうもパッとしない店長は、妻とセックスレスの関係らしい(と噂されている)。以前は優秀な韓国人留学生が働いていたが、将来のことを考えて早々にこの場所を去っており、まあ、そりゃそうだよね、という諦めと敗北感がこのコンビニには漂っている。代わって入ってきた新しいバイトは、普段は演劇の女優(!)をしているらしく、これまたなんとなく、うだつのあがらない感じが漂っていた。そこに、毎日アイスを買いに来る若い女性客がやってくるのだが、彼女は、自分の大好きな「スーパーソフトバニラ」が販売停止になったことに怒り出す……。
……とまあ、基本設定はこういった感じで、あとふたり面白い人物が登場するのだが、ともかくこうしたストーリーが、ひたすら反復されていくペコペコとした薄っぺらい(ファミコン的な?)音楽に乗せて語られており、そのブラックユーモアはボディブローのようにじわじわ効いてくる。
俳優たちの動きは、これまでのチェルフィッチュに比べると、ずいぶんデフォルメされている。ラジオ体操のようなポーズをしたり、ラップ調の場面があったり、手を虫のように羽ばたかせたり、ぷるぷる震えていたり……。まるで一種の「畸形」にも見えるその姿は、おそらく現代の日本人のカリカチュアなのだ。
遠く離れたドイツの土地で観たせいで、「極東の島国」で蠢いている突然変異の生物のように見えたのかもしれない。その日本人の姿は、離れた距離から相対化したまなざしで見つめた時に、奇妙である、という点においては好奇心をそそるものではある。だがそれは、しばしば西洋で流布されてきた「サムライ」や「ハラキリ」といった、エキゾチシズムにまみれて美化された(あるいは貶められた)「日本人」のイメージとは無縁のものだ。チェルフィッチュ=岡田利規は幾度もの海外公演を重ねていく中で、西洋がしばしば陥りやすいエキゾチシズムやオリエンタリズムと、その偏見を利用してセールスしようとする日本との共依存関係を確認し、そのズブズブの関係を突破しようと試みているのではないか。そして今作では明確な意志を持って、日本人を、エキゾチシズムからはほど遠い、だが奇妙な「畸形」として描いたのではないかと思う。コンビニエンスストアに象徴されるような、不必要とも思える欲望を煽る資本主義のシステムと、そのために過剰な電力に依存せざるを得なくなっている日本の「現在地」を可視化するために。
マンハイム公演の当日パンフレットで、岡田は次のように述べている。(会場で配布されたのはドイツ語と英語バージョンのみ。以下は日本語の原文から一部抜粋)
今回コンビニエンスストアを舞台にした作品をつくったのは、コンビニがわたしたちの社会を象徴しているからです。このようなあり方でよいのかと多くの人が疑問を感じていながら、それ以外のオルタナティブなあり方を現実的に考えることはとても難しいわたしたちの社会を、三年前に起きた震災と原発事故を契機に、大きく変革することだって可能だったはずなのが、少なくとも今のところそうなる気配のないこの社会を、コンビニは象徴しています。
「畸形」として描かれた日本人のカリカチュアを見せつけられるのだから、ただ笑って済ませられるわけもない。なぜなら自分もまた、その「畸形」の中に含まれているのだから。
マンハイムに来てから2週間以上が経ち、あらためて驚いているのは、劇場でも、食堂でも、トラムでも、街路でも、ケータイやスマートフォンをいじっている人がほとんど見当たらないということ。彼らの目は周囲を見つめ、口はその考えを語り(あるいは愛の言葉を囁き)、手は握手するために、そして身体はハグするために、常にひらかれている。別にそれがいいとは必ずしも思わないが、おそらくもう日本人は、機械の画面とその奥にひろがるバーチャルリアリティ(これももはや死語だ)を無しにして、生きていくことは難しいだろう、と否応なしに思い知らされる。身体的な振る舞いとして、今やほとんどの日本人が、大なり小なりギークやナードと化しつつあるのだ。わたし自身も含めて。いったいそのことをどう受け止めて、次世代に繋いでいけばいいのか?
東京は「夢」から醒めることができるか?
3年前の震災と原発事故は、甚大な……できればこんな話題には触れたくない、と思わせるほどの回復不可能な傷をもたらしたと思っている。これからも多くの生命が損なわれていくだろう。そしてそのことを、生き残った人間たちは、隠したり、忘れたりしていくのだろう。けれど、岡田が当パンに書いていたように、あのカタストロフィは、日本人が新しい生き方を選択する契機でもあったはずだ。だがそうはならなかった(そうしなかった)、というのは、日本人なら誰もが知っているはずの事実である。
『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』の客席のほとんどを埋め尽くしていたヨーロッパの人々の目に、いったいこの「コンビニ=過剰な電力と欲望」に依存して生きている「畸形」たちの姿がどのように映ったかはすべて把握できるものではないが、「五月の蠅」のようにジリジリと羽ばたくその「畸形」の姿に、フラストレーションを微塵も感じなかったということはありえないだろう。もちろん最終的に大きな拍手がカーテンコールで巻き起こった、というのはすでに述べた通り。それに、エキゾチックなものとして「日本」や「日本人」のイメージが消費されるということもなかっただろう。
わたしはしかし、ヨーロッパで初演を迎えたこの作品は、本当のところは当の「日本人」に向けてつくられたのではないかと思っている。特に「東京」で暮らしている人たちに向けて。かつての「東京」が抱いた「夢」の残滓に依存せざるをえなくなっている人々に向けて。目覚めよ、とチェルフィッチュは呼びかけている!……少なくともわたしはそう思う。巨大な地震と原発事故に揺り起こされても、結局はまたあの古い「夢」を再び見ようと、二度寝のまどろみの中に戻ろうとしている日本人に対して。
もちろん、あらゆる革命的な試みは、ほとんどの場合、失敗に終わる。ハートフルな物語も、テロリズムも、このコンビニ的な世界を破砕することはできない。ただ、ある内的な爆発が起こるシーンでは、音と光が、微かにそののっぺりしたコンビニ的世界の「外側」を示しているようにも感じられた。人間はおそらく、彼/彼女自身がそう思い込んでいるよりも遙かに自由なのであり、世界の豊かさをその手にする権利を有している。「スーパー」「プレミアム」「W」「リッチ」といった虚飾のレトリックを使わなくても、あるいは無駄な電力に頼らなくても、際限のない消費者的欲望を捨てても、もっとプリミティブな豊かさにアプローチすることができるはずなのだ。
『スーパープレミアムソフトWバニラリッチ』はこの後ベルリンで上演され、あちらでも大きな反響を得たようだ。今はさらにリスボン、ロンドン、トリノをめぐっている。日本での上演は12月のKAAT(神奈川芸術劇場)まで待たなければならない。もちろんわたしも駆けつける。今度は日本人の観客に囲まれて、この作品を観る。それはきっと、いささかの緊張をともなう、シビれるような体験になるだろう。
目覚めよ、という呼びかけは無駄に終わるのだろうか?
東京は、日本は、古い「夢」のまどろみの中に戻っていくのだろうか?
プロフィール
藤原ちから
編集者、批評家。BricolaQ主宰。1977年高知県生まれ、横浜在住。武蔵野美術大学広報誌「mauleaf」、世田谷パブリックシアター「キャロマグ」などを編集。主に舞台芸術について様々な記事を執筆。共編著に『〈建築〉としてのブックガイド』。共著に『演劇最強論』。2014年4月、演劇センターFの立ち上げに関わる。また、ゲームブックを手に都市や半島を遊歩する『演劇クエスト』を各地で創作している。