2015.06.11

老いのかたち、福祉のかたち――フィンランドの「自立」した高齢者たち

髙橋絵里香 文化人類学

福祉 #フィンランド#高齢者問題

真夜中の警報

2013年12月。国土の3分の1が北極圏に含まれるフィンランドでは、冬至の時期になると日中でもほとんど太陽の姿を見ない。今が深夜であることを示唆するのは、車の往来の少なさと、消えたネオンサインだけである。ナイトパトロールの担当者であるラーケルは、タウンハウス(長屋状の住居)が立ち並ぶエリアで車を停めた。私たちが車を降りると、玄関前で煙草を吸っている女性がラーケルに話しかけた。

「ハンナなら、もう家に戻ったわよ。郵便ポストをのぞいていたけど。彼女、間違ったポストから郵便を持って行ってしまうから困るのよね」

ラーケルは持参の鍵を使い、喫煙中の女性の隣の家に入った。室内は暗く静まり返っている。寝室のある二階に上がり、問題のお婆さんが寝室で眠っていることを確認した。

認知症のために時間の感覚を失ったハンナにとって、昼と夜の区別をつけることは難しい。夏季は真夜中でも明るく、冬季は昼間でも暗いことが、ハンナの混乱が増す原因となっているのだ。それで、正午ごろに届くはずの郵便を受け取るため、真夜中に何度も屋外へ出てしまう。そのたびに玄関に取りつけられた警報が作動し、ナイトパトロールの携帯電話に通報が入る。郵便を取るだけで家に戻れば害はないのだが、本人が電話に応答しない場合は、安否確認のために訪れる必要がある。

ナイトパトロールのオフィスに戻ってから、ラーケルはハンナの身上調書を探した。玄関のアラームが鳴ったとしても、その時点でパトロールスタッフが遠方にいればすぐに駆けつけることはできない。近隣に暮らす親族がおり、スタッフの代わりに確認に行くことを了承している場合、調書に明記してあるからだ。

だが、ハンナには助けてくれる身寄りはいなかった。

国家による社会福祉制度が整備されたフィンランドでは、多くの高齢者がハンナのように行政のサービスを利用しながら独居生活を続けている。それは素晴らしいことのように思えるのだが、実現するためには何が必要なのだろうか。社会福祉に十分な予算と人的資源を投入すれば、家族介護を前提としない在宅介護システムが構築できるのだろうか。

緊急通報システム

サービス付き住宅群
サービス付き住宅群

筆者が15年にわたって人類学的フィールドワークを行ってきたフィンランドの「群島町」(仮称)[*1]では、独居高齢者のための緊急通報システムが発達している。多くの高齢者が「安心電話」(turvapuhelin / trygghetstelefon:fin / swe)という腕時計タイプのアラームを装着しており、転倒などの際にはボタンを押して助けを呼ぶことができる。また、テラスハウスやアパートのような集合住宅では、玄関扉にアラームが取りつけることができ、扉が開くと自動的に行政の担当者へ通報が入るようになっている。

[*1] 群島町の人口は約15000人。高齢化率は18%である。なお、本稿に登場する人名や地名はすべて仮名を用いている。

夜間の通報先となるナイトパトロールは、サービス付き住宅群[*2]のケアステーションに待機している。いつも身に着けている腕時計型のアラームボタンを押すことでスピーカーフォンが起動し、担当者と会話することができる。怪我などを負っている場合は、電話の受付担当と訪問看護婦の二人が高齢者の自宅に急行する。

[*2] サービス付き住宅(palvelutalo / servicehus:fin / swe)は日本における「サービス付き高齢者向け住宅」にあたり、ケアの専門家が敷地内に常駐し、バリアフリー化されたテラスハウスが連なるエリアである。

安心電話のスピーカーフォン。転倒などによって電話口まで行けない場合でも、担当者と話すことができる。
安心電話のスピーカーフォン。転倒などによって電話口まで行けない場合でも、担当者と話すことができる。
腕時計型のアラームボタン
腕時計型のアラームボタン

ハンナの家を訪れた晩は、群島町一帯で玄関扉のアラームが10回、安心電話のボタンが13回押された。ただし、安心電話を押すのは転倒した人だけではない。トイレを使いたいので簡易便器までの移動を手伝ってほしい、寝返りを打たせてほしい(両足が切断されているので、自力で寝返りが打てない)、といった理由でボタンを押す人もいるからだ。

これは、冬季としてはおおむね平均的な出動回数であるという。多いとみるべきなのか、それとも少ないとみるべきなのかは、見方によって変わってくるだろう。ただ、人びとは徘徊や転倒の危険を抱え、歩行困難や寝たきりといった身体状況にありながら、なおも独居生活を続けている。ナイトパトロールは、そうした人びとにとっての命綱となっているのだ。

社会福祉制度成立の背景

フィンランドの高齢者福祉と老いに関する人類学的な現地調査を行っていることを説明すると、必ずといってよいほど返ってくるのは「北欧って福祉が進んでいるんでしょう?」というコメントだ。あるいは、税金の高さや隣国スウェーデンにおける移民政策の失敗などを挙げて、北欧型福祉国家が完璧なシステムではないことを指摘する人もいる。

だが、理想としての北欧型福祉国家にあこがれることも、それが実は虚像であるという暴露に溜飲を下げることも、同じ前提に基づいている。すなわち、日本も北欧型福祉国家のシステムや技術を輸入するべきであるのか、それとも見習う価値はないと切って捨てるべきであるのか、という二者択一の議論である。

明治維新以来、日本は海外の進んだ技術を効率よく取り入れることで、西欧諸国に追いつき、追い越そうとしてきた。この“進んでいる/遅れている”という発想の背後には、社会福祉制度は単線的に発展するものであり、一本の物差しで測ることが可能だという仮定がある。そうした共通の尺度で測られることで、はじめて技術や制度は、その土地の文脈から切り離され日本に輸入されることが可能となるからだ。

町営の長期療養施設(個室)
町営の長期療養施設(個室)

実際には、フィンランドの社会福祉制度は、風土や歴史、組織の基本的な形態、人びとの価値観等と複雑に結びついている。社会福祉がそれぞれの土地の独自性に根差して成立するものであるとすれば、“良い/悪い”、“遅れている/進んでいる”という判断を下せるのだろうか?

北欧諸国において、国家が国民の福祉に対して大きな役割を果たす社会民主主義型の福祉制度が成立したのは、それを可能とする土壌を備えていたからだという議論がある。例えばセーレンセンとストロースは、北欧型福祉国家の建設を「農民の自治権保証」という歴史の連続線上に位置づけている[Sørensen & Stråth 1997][*3]。身分差が激しい大陸ヨーロッパと比べ、北欧諸国は福祉国家の成立以前から自作農の独立性が高かった。もともとの社会的階層差が大きくなかったからこそ、貧富の差を生み出すことを防ぐ社会民主主義的システムが導入されたのだというのである。

[*3] ただし、こうした「農民の北欧」というイメージがロマン主義の産物であることは否めない。さらに、福音ルーテル派プロテスタント教会の果たした役割も大きい。北欧型福祉国家を支える歴史・社会構造については、[髙橋 2013]の第三章・第五章で議論している。

また、フィンランドの多くの地域では共住の単位としての世帯規模が小さく、中世から子供は16 歳になると家を出て他の農家や町で働くという習慣があった。こうした居住規則や親族集団へと拡大しない世帯形態が、国家や教会の介入を促したとも言われている[Ka 2005]。

このように、家族介護が例外的状況となるような世帯構造や、格差の少ない社会構造を元に、現在のフィンランドの社会福祉制度は成り立っている。1970年に子供による両親の扶養義務が存在しないことが明文化されており[Sipilä et al. 1997: 33]、地方自治体が高齢者の健康と福祉に対する責任を担っている。

とはいえ、近年では老人ホームのような介護施設は財政的にも人道的にも望ましくないとされ、脱施設化が推し進められる一方で、ホームヘルプや訪問看護を主力とする在宅介護サービスが拡大しつつある。福祉国家の財政的困難を背景に、地域福祉の構造改革が進んでいるが[髙橋 2015]、それでもなお残り続けるものがある。それは、人々の考えるウェルビーイングとはどのような生き方か、という観点である。【次ページに続く】

「孤立」という生き方

カントリーサイドの一軒家。隣近所とはかなりの距離がある。
カントリーサイドの一軒家。隣近所とはかなりの距離がある。

群島町の人びとは、年を取っていく過程において、どんな価値に重きを置いて生活を続けていこうとしているのだろうか。社会福祉サービスの現場で持ち上がる日々の問題を観察していて、筆者が最も強い印象を受けたのは、人びとが非常に独特な形で「自立」を希求していることだった。

ナイトパトロールが独居高齢者を主なサービス対象としていることからも察せられるように、フィンランドでは多くの高齢者が行政の支援を受けながら独居生活を続けている。フィンランドの全人口に対する単身世帯の割合は40.6%で(2008年時点)、日本の25%を大きく上回っている[髙橋 2010:100]。これは、福祉国家のサポートがあることで、離婚や親世代との別居が容易であることが一因ではあるだろう。だが、福祉国家の副作用だと言い切ってしまうことはできない。なぜなら、積極的に孤立した暮らしを維持しようとする人々が存在することも確かだからだ。

森と湖の国というキャッチフレーズで知られるフィンランドは、実は多くの島々からなる国でもある。大小合わせて17万9千個の島々が本土を囲んでおり、広大な多島海地域が続いている。これらの島々には「夏小屋」と呼ばれる別荘が多く建てられているが、定住する人も少なくない(故トーベ・ヤンソンもその一人である)。

こうした「島独居」が物理的に不便で孤立した暮らしであることは想像に難くない。例えば、筆者の知人でも定住者人口一名という島に暮らすお婆さんがいる。買い物に出かけるためには、300メートルほど離れた大きな島まで手漕ぎのボートで漕いで行き、ボートを浜辺に押し上げてから、4キロほど先のバス停まで歩いていき、さらにバスに乗ってスーパーのある町の中心地まで移動しなくてはならない。

孤立した居住状況は、「島独居」だけではない。カントリーサイドの一軒家は、たいていの場合は隣近所の家の様子が見えないほどお互いに離れている。これは19世紀初頭の土地改革制度(囲い込み)によって家々の距離が離され、集落の機能が解体されたことも影響している[Pred 1986]。だがそれだけではなく、自分自身の独立した住処を持つこと(できればサウナ小屋だけでも自分で建てること)を夢見る人は多いのである。

もちろん、カントリーサイドでの暮らしが困難になれば、より生活しやすい居住形態に転居するのが常道である。実際、群島町の中心部のアパートやテラスハウスといった集合住宅に暮らす人々の大半が独居高齢者である。だが、どんなに困難でも住み慣れた場所での暮らしを続けようとする人も一定数存在し、行政もそれをサポートせざるを得ない。年をとっても自立した暮らしを続けるためには、逆説的ではあるのだが、多くの支援が必要となるからだ。

群島町中心部の高層住宅。退職後にカントリーサイドから引っ越してきた人びとが多く暮らしている。
群島町中心部の高層住宅。退職後にカントリーサイドから引っ越してきた人びとが多く暮らしている。

孤立は自立なのか?

群島町では、250人程度の高齢者が安心電話のサービスを利用している。特に人里離れた場所で独居を続ける高齢者にとって、このサービスは命綱となる。

例えば、群島町のある訪問介護チームにとって、最も遠方に暮らしている利用者はエルヴィという90代の女性である。彼女の暮らす家に行くためには幾つかの橋を渡り、森の中の舗装されていない小道を車で延々と行かなくてはならない。訪問介護チームは、エルヴィを一日に三回訪問し、着替えから食事にいたるすべての活動をサポートしている。彼女は安心電話を常に身に着けており、転倒などした場合にはいつでも呼ぶことができる。

だが、エルヴィが安心電話のボタンを押したのは転倒した時ではなかった。ある雷が鳴りやまない嵐の夜、彼女は何度もナイトパトロールの担当者を呼び出してしまった。深い森の中に暮らしているにも関わらず、エルヴィは雷を強く恐れていたからである。

雪の道を歩く高齢者たち
雪の道を歩く高齢者たち

安心電話について、本来の用途からは外れた用い方をするのはエルヴィだけではない。トイレや寝返り介助の呼び出しにも用いられるし、不安に駆られた高齢者も助けを求めてくることも珍しくない。

末期がんを抱えるベングトという男性は、在宅で死を迎えることを選択していた。ところが、ある晩に突然それが耐え切れなくなり、パニックに駆られて安心電話のボタンを押した。結局、ベングトは病院へ運ばれ、そのまま入院先で亡くなった。サイラという100歳超の女性も、アパートでの独居生活を続けていたが、一晩に4回も安心電話のボタンを押し、ナイトパトロールの担当者がいくら慰めても落ち着くことができない夜があった。

なぜ、ここまで不安だというのに、彼らは家に留まり続けようとするのだろうか。こうしたフィンランドの独居高齢者の生活状況を「自立」と呼んでいいのだろうか。

老いという生き方

誰にもみとられずに死ぬことを、日本では「孤独死」と呼ぶ。

フィンランドに孤独の問題が存在しないわけではないことは、安心電話の利用状況からも明らかである。行政の社会福祉担当者も、高齢者の孤独と鬱を問題視し、少しでも社交生活をもたらすサービスを企画しようとしている。だがその一方で、誰にもみとられずに死ぬこと自体が忌避されているわけではない。

ナイトパトロールを初めとする行政による手厚いサービスにも関わらず、独居生活中に亡くなる人は多い。特に心臓発作や事故といった突発事態により、独居高齢者が死後に発見されたという話はしばしば耳にする。そうした顧客について、ホームヘルパーを初めとする行政のスタッフは、最後まで一人で暮らすことができて良かったという感想を述べる[髙橋 2013:211]。

彼らにとって、みとられずに死ぬことは「孤独死」ではないのかもしれない。少なくとも、社会問題として注目されることはなく、日常会話の中でスキャンダルとして語られない程度には。それこそが、フィンランドで老いて死んでいくことをめぐる価値としての「自立」を形づくっているのではないか。

群島町の高齢者たちは、社会福祉サービスの助けなしには生活を維持していくことはできない。訪問介護やナイトパトロールは、彼らの独居生活を維持するために欠かせないものである。その意味で、彼らは身体的には自立していない。だが、家に住み続けるという選択は彼ら自身のものであり、判断能力に欠けるという医師の診断が下されない限りは、行政もその決定を尊重する。

社会福祉のかたちは多様であり、それは老いのかたちの多様さに由来している。つまり、独居を前提とした在宅介護システムを成立させているのは、人々の間に共有された価値や意味であると言えよう。そして、フィンランドで老いていくことは、時折不安に駆られ、誰かに頼りながらも、自分の生活形態を自分で選び続けることにある。

だとすれば、日本で老いていくことは、何を守り抜き、何を手放しながら生きていくことなのだろうか。そのように自問自答してみることにこそ、社会福祉の偶有的で個別的な在り様を捉える契機が潜んでいるのかもしれない。

参考文献

・Ka, Lin 2005 Cultural Traditions and the Scandinavian Social Policy Model. Social Policy and Administration 39(7): 723-739.

・Pred, Allan 1986 Place, Practice and Structure: Social and spatial transformation in southern Sweden 1750-1850. Policy Press.

・Sipilä, Jorma, Margit Andersson, Sten-Erik Hammarqvist, Lars Norlander, Pirkko-Liisa Rauhala, Kåre Thomsen, and Hanne Warming Nielsen 1997 A Multitude of Universal, Public Services: How and why did four Scandinavian countries get their social care service model? In Social Care Services: The Key to the Scandinavian Welfare Model. Jorma Sipilä (ed.), pp.27-50. Ashgate.

・Sørensen, Øystein and Bo Stråth 1997 Introduction. In The Cultural Construction of Norden. Øystein Sørensen and Bo Stråth (eds.), pp.1-24. Scandinavian University Press.

・髙橋絵里香 2010「ひとりで暮らし、ひとりで老いる―北欧型福祉国家の支える「個人」的生活」『「シングル」で生きる―人類学者のフィールドから』椎野若菜(編)、御茶の水書房、pp. 99-112。

・髙橋絵里香 2013『老いを歩む人びと―高齢者の日常からみた福祉国家フィンランドの民族誌』勁草書房。

・髙橋絵里香 2015「決定/介入の社会形態―フィンランドの認知症高齢者をめぐる地域福祉の配置から考える」『現代思想』43(6):231-245。

プロフィール

髙橋絵里香文化人類学

千葉大学文学部准教授。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。著書に『老いを歩む人びと―高齢者の日常からみた福祉国家フィンランドの民族誌』(勁草書房, 2013年)。また、論文に「孤独への道程―フィンランドの独居高齢者の社会生活と在宅介護」椎野若菜編『境界を生きるシングルたち』(人文書院、2014年)、「ひとりで暮らし、ひとりで老いる―北欧型福祉国家の支える「個人」的生活」椎野若菜編『「シングル」で生きる―人類学者のフィールドから』(御茶の水書房、2010年)、「決定/介入の社会形態―フィンランドの認知症高齢者をめぐる地域福祉の配置から考える」(『現代思想』43(6)、2015年)などがある。

この執筆者の記事