2017.04.13
介護保険のパラドクス──成功なのに失敗?
介護保険の不思議───成功なのに失敗? 成功だから失敗?
介護保険は2000年の発足からわずか16年で、全国に普及、利用者は3倍超に急増し、「介護」(という名の日本的な高齢者ケア)を世界に知らしめた。今や介護保険は高齢社会日本にとって欠かせない重要な社会的インフラストラクチャーとなっている。世界からも注目され、とくに東アジアでは韓国や台湾が日本の介護保険を参考にしながら対応しようとしている(注1)。介護保険は高齢化という先進国共通の大きな問題へのクリーン・ヒットだったのだ。
ところが、このままでは介護保険財政は破綻するとして見直しを求める意見がたえない。昨年出された「介護保険制度の見直しに関する意見」(社会保障審議会介護保険部会)を見ても、介護費用が増大し、これから団塊の世代が後期高齢者になることなどを理由とし、見直しは避けられないとしている。
しかし介護保険は「高齢社会における介護の社会化」が目標だった。つまり、利用の拡大は成功のはずなのだ。ところが、どうしたことだろう。事業者は介護保険改正のたびに介護報酬の切り下げに振り回され、事務処理は煩雑になるばかりで制度は複雑怪奇となり、今や人間が理解できる範囲をこえたと言われるほどだ。思いっきりアクセルを踏んだあと急にブレーキをかけているようなもので、制度に期待をかけて走ってきた事業者、とりわけNPOなど非営利法人の人たちほど、激しくつんのめっている。あの理念と市民参加の期待は何だったのか、との思いが強いからだ。
そもそも介護事業は高齢社会の数少ない有望な成長産業だったはずなのに、そのような見方は早々とどこかに消えてしまった。当初はもてはやされていた介護職も、いつのまにか不人気業種になってしまった。介護報酬の総額が幾重にも管理されているため、介護現場では、介護職の給与水準を抑えるくらいしか「経営」しようがなかったせいだろうか。特別養護老人ホームなどでは措置時代とくらべて介護職の給与水準は下がったという。その結果、制度改正のたびに介護職の離職率の高さが注目をあつめ、マスコミからは「3K」労働の典型のように言われてしまった。今では、どこの事業所でも介護人材の確保に四苦八苦している。このように「制度を持続させる」ための対策が、かえって制度を不安定にしている。
介護保険は、なぜ「成功したのに失敗」ということになるのか。このような逆説(パラドクス)が起こってしまう理由は何か。ここを考えてみたい。
なぜこのままでは存続できないのか─高齢化による必然?
介護保険は、このままでは持続できないという。2016年12月に社会保障審議会介護保険部会から出された「介護保険制度の見直しに関する意見」を見ても、介護費用の総額も当初の約3倍の約10兆円になり、しかもこれから団塊の世代が後期高齢者になるなど、悲観的な人口構造になる見通しなので、見直しは避けられないとしている。説明は、次のようなものだ(注2)。
第1に人口構造の急速な高齢化と今後の介護ニーズの爆発的増大予測(団塊の世代の後期高齢化や団塊ジュニアの高齢化が迫っている)、第2にサービス利用者の増大と介護保険財政の逼迫(利用者も介護保険費用も当初の約3倍、500万人で総額10兆円となり、保険料も上がり続けて現在は平均5千円を超えている)、第3に介護人材の不足(介護職は当初の55万人が現在約177万人と3倍増になっているが、離職・転職率も高く、今後の需要増への対応が困難と予測される)だという。
制度がこのままでは維持できないという議論になる理由は、少子・高齢化と人口減少が避けがたいと前提しているためだ。関心をもって調べたりする人ほど、この「高齢社会悲観論」にやすやすと取り憑かれてしまう。高齢社会は社会保障負担がたいへんだという「固定観念」はかんたんにはぬぐいされない。しかし、ちょっと待ってほしい。人口の趨勢からみた説明は、一見、もっともらしいし分かりやすい。しかし単純化しすぎているのだ。まず第1に、現在の人口動態を、単純に未来に投影するのは誤りだ。人口はきわめて多くの要因が複雑にからまって推移していくものだからだ(注3)。
また第2に、少子化や高齢化が早かったヨーロッパで「人口減少」や「地方消滅」が声高に言われているだろうか。日本の県くらいの人口規模しかない北欧の国々など、日本より社会も経済も元気ではないか。事実の受け止め方はひとつではない、多様なのだ。
つまり、一見したところ事実そのものに見える人口動態のデータこそ、知らないうちに私たちを「上から目線」にして悲観的に考えさせてしまうのだ。地方が消滅していく、日本も人口減少していく、さぁ大変だ、というふうに信じ込ませてしまうのである。このパラドクスの原因のひとつは、生身の人間として見る場合と抽象的な人口として見る場合とで、視点の分離と思考の分裂が起こるからだろう。以下、具体的にいくつかを見ていこう。
社会と保険のダブルバインド
社会制度は様々な条件や目的が複合して出来上がっているものだ。介護保険制度にも「介護の社会化」によって核家族化・小家族化した家族の介護負担を社会連帯によって支え合うという「表」の目的だけでなく、高齢者医療費や社会的入院費用を、医療保険から切り離し、介護という新しい分野へと移して財政費用の総量管理を行っていくという「別」の目的もあったことは事実だろう。介護保険制度の二重の意味(ダブルミーニング)である。当初から「社会」を維持するための制度という側面と、「財政」を維持するための工夫という側面があり、制度発足当初は前者が強調され、制度が根づいて利用が進むと後者が前景へとせりだしてきたと考えられる。
しかしこの転換が急だと、様々な問題を引き起こすことになる。まず表の意味を信じて参入してきたボランティア団体や介護系NPOの現状をみると、制度改正のたびに、めざしてきたことと、していることとの乖離と矛盾に直面している。やっていることの無意味感、無力感、そして社会の中で正しいことが行われていないという無規範感覚、つまり社会学でいう「アノミー」の徴候が現れているのではないか。
社会福祉法人や社会福祉協議会も介護保険のもつ二重基準(ダブルスタンダード)に翻弄されてきたと言えるだろう。社会福祉法人は、措置の時代には公の支配に服して独自の「経営」は許されなかった。介護保険の時代になると一転して事業者として「経営」しろと迫られた。そして現在の社会福祉法人改革の中では再び「社会貢献」しろと言われている。
「経営するな」から「経営しろ」へ、ふたたび「経営」ではなく「社会貢献」しろというのでは混乱するのが当然だ。しかも介護保険では、営利法人と非営利法人とが混在している。それが進むと、経営しろ、社会貢献しろ、ボランティアもしろ、あれもこれもしろ、ということになる。混乱して、いったいどうしたら良いのだと叫びだしたい気持ちになるのではないか。ダブルバインド(二重拘束)状態である。
制度というのはそんなものなのだと「達観」すべきなのだろうか。いや、それこそ問題だ。制度を守るための工夫が、逆に、制度への信頼を失わせ、担い手の活力をそぎ、結果的に制度の存立そのものを危うくしていく、そういうパラドクスになっていくからだ。
中途半端な覚悟─先行き不安の迷走
「高額化する介護保険料」とよくいわれる。このままでは保険料が上がり続けてたいへんだという。しかし、これも考えてみると不思議な感覚である。いったい何が適価なのか、どこから「高額」になるのか。じつは、そこにあるのは相対的な感覚だけなのだ。だからこそ、消費税率と同じく、上がるたびに「高額」と思われるのである。日本の高齢社会化は急激だったので社会の側に覚悟ができていないのだろう。いつまでも負担増が続きそうなことが、この恐怖の本質なのである。この恐怖に対抗できるだけの覚悟はできていない、いわば中途半端な覚悟なのである。
ヨーロッパは早く少子化し早く高齢化したので「高福祉高負担」を早くから覚悟してきた。北欧など対応にも腰が据わっている。税率はすべて高く、たとえば消費税25%がふつうだ。日本は消費税10%ですら実現できない(注4)。グローバル化への対応と同じで、後退しながら仕方なしに少しずつ受け入れようとするから、ますます不満と不安が高まる。しかもこの趨勢はいつまで続くか分からない、だからよけいに怖くなるのである。
「非営利」はどこに消えたのか
介護保険は福祉なのか保険なのか。年々あいまいになっている。これも不思議だ。「社会保険」だというにしては「非営利」があまりにも軽んじられている。介護保険では営利と非営利の区別がなく、すべての事業者がほとんど同一に扱われるのも奇妙なことではないか(注5)。
介護保険以前には、住民参加型在宅福祉サービス活動や、町なかの古い民家を活用した宅老所など、多様なボランティアや非営利の活動もあった。こうした制度外の非営利活動と制度とが補完し合えば望ましい相乗効果があるはずだった。ところが、介護保険が発足するとすべてのサービスが制度内へと収斂していった。ボランティア団体等が有償で提供していたサービスよりも自己負担は少なくて済むのだから当然だ。結果的に制度外は縮小してしまった。
「行動経済学」の知見からは、営利と非営利とを混ぜ合わせると、市場規範が社会規範を「閉め出す」ことが分かっている。このことは、介護保険制度の発足前後には一般的には知られていなかったのかもしれない(注6)。当時は、新たな制度が新たな市場や供給者を生み出すためには、多様な事業者が切磋琢磨することが必要で、それが供給者を拡大するとされていた。
しかし、ドイツの介護保険では宗教系の非営利団体が8割以上を担っている。アメリカの非営利セクターも市場や政府から独立した巨大な存在だ。それにたいして、日本の非営利法人は、法人種別ごとに縦割りの法律にしばられており、税制の扱いも薄い。つまり世界標準の非営利組織からはほど遠い。これでは「非営利」とは名ばかりで、内実は政府や行政の規制や管理で活力を奪われた「不自由な存在」になってしまうのではないか。「非営利」が本来持っているはずの可能性を回復させ、新たな活力を生み出せるような社会環境を作り出すことが必要だ。
「上から目線」の制度改正の落とし穴
「介護」という言葉にはもともと「上から目線」のパターナリズム(温情主義)が含まれているとフェミニズムからは批判されてきた。同じく「高齢社会」という言い方にも、「高齢者」への微妙な否定感情(エイジズム)が含まれているのではないか。日本では「定年」は、ごく普通に何の疑念もなく行われている。しかしアメリカでは定年制度は「年齢を理由にした差別」として憲法違反なのだ。
人種差別、性差別と同じく「年齢差別」も、個人の努力ではどうしようもない年齢という属性を理由にした社会的な差別とみなされるからだ。アメリカでは高齢者団体を中心とした社会運動によって1960年代から70年代にかけて段階的に撤廃された(注7)。日本ではまだそこまでいっていない。上野千鶴子らが高齢者には「当事者主権」の感覚が薄いというゆえんだ。
3年ごとの介護保険改正は、日本全体で財政バランスを見ながら持続可能な運営にしていくという困難な課題のためになされていることは理解できる。しかし介護現場でサービスを提供している人たちやサービスを受ける人たち、当事者の家族などのニーズや目線をじゅうぶんに踏まえているだろうか。制度を運営する側の「上から目線」の論理が強すぎるのではないか(注8)。
介護保険への介護が必要だ
介護保険は、四方八方から批判され、進むべき方向性が見えなくなって、先行き不安におちいっているように思える。身近な制度ゆえ欠点ばかり眼につくようになる。利用すればするほど、あれも足りない、ここもだめ、となりがちだ。批判しているうちに、何が大切だったのか、何を大切にしなければならないかを見失ってはいないか。「あまりに大切なので、かえって大切にできない」という逆説的な状態になっている。このままでは「成功したのに失敗」ということになってしまう。
ひとつには介護保険があまりにすべてを抱え込みすぎているからではないか。制度発足当初は社会的入院や「寝たきり老人ゼロ」が目標だった。やがて認知症ケアへの対応が重要になり、現在では看取りが大きな課題となってきた。また、施設と在宅だけでなく地域まで包括してケアしようとしている。医療や介護の「ビッグデータ」も取り込みながら、地域の様々な社会資源も包括して活用するという。
これはいくらなんでも「抱え込みすぎ」ではないだろうか。かつての家族介護がそうだった。なんでも家族で抱え込みすぎると「バーンアウト(燃え尽き)」がひき起こされる。結果として、介護放棄や虐待などを生み出すという問題が指摘されてきた。だからこそ介護の社会化が必要だったはずなのだ。現在では、介護保険自体が抱え込みすぎてバーンアウトしはじめているのではないか。
大切な制度を守ろうとして、事業者をがんじがらめに規制していくと「制度を存続させることが制度の目的だ」と反転していく。これは不幸な負のスパイラルを生み出す。大熊由紀子の『物語介護保険』を読むと、日本の介護保険は、困難な政治状況の中、まさに絶妙のタイミングで実現されたものだったことがよく分かる。
ここで介護保険を「失敗だった」と総括してしまうと、二度とこのような制度は生まれないかもしれない。制度があまりにも抱え込みすぎ、窮屈になっていくのは残念なことだ。財政の観点も大切だろうが、制度は人や社会から信頼されなければ成りたたない。曲がり角を迎えた今こそ、介護保険をもう一度元気づけることが必要だ。もっと前進する勇気を持つために、ここは、ひとつ逆転の発想で「介護保険への介護が必要だ」と言うべきではないか(注9)。
まずは「高齢社会」悲観論のような一面的な見方を考え直すことが必要だ。福祉を社会保険で支えるというアイデアに立ち返り、「非営利」のあり方も見直すことも必要だろう。
ケアの効果をエビデンスで評価するというが、はたして「正しい」介護はあるだろうか、「正しい」制度があるのだろうか。「正解」ばかりを求めると、ダブルスタンダードやダブルバインドの矛盾から逃れられなくなる。制度はひとつの出発的であって到着点ではない。ひとつの制度がきっかけとなって、新たに生まれた種が飛んでいって、制度の周囲に豊かな多様性が生まれていくことこそ望ましいのではないか。
今、介護保険にとっては、正解ではなく理解が必要な時期ではないか。私たちは「介護保険を介護しよう」と言うべきではないだろうか。
(注1)かならずしも日本の制度を真似ているわけではない。むしろ反面教師としている部分も大きいようだ。
(注2)厚生労働省・社会保障審議会介護保険部会「介護保険制度の見直しに関する意見」(2016年12月9日)など。
(注3)たとえば合計特殊出生率の予測は過去30年間にわたってはずれつづけてきた。
(注4)覚悟だけでなく、エスピン=アンデルセンのいう「福祉国家レジーム」、つまり福祉国家の推進主体や政治体制が重要なのは,もちろんのことである。
(注5)社会福祉法人などへの税制優遇などはある。ここからイコールフッティング論のような、「非営利」を営利と同じように扱うべきだという議論が出てくる。
(注6)マイケル・サンデルやダン・アリエリーらの著作によって行動経済学のこの原理が良く知られるようになったのは2004年以降のことだ。
(注7)安立清史『福祉NPOの社会学』(東京大学出版会)、田中尚輝・安立清史『高齢者NPOが社会を変える』(岩波ブックレット)などを参照。
(注8)同じことが「地方消滅」という場合の「地方」という言い方にも見られる。中央から見た地方という視点には微妙な差別感覚が紛れ込んでいる。「消滅可能性都市」という選別の発想も、まるで災害時の「トリアージ」のようだ。
(注9)ここでは本旨からはずれてしまうので「介護」という言葉に温情主義的な古さがあることを認めつつ、深くは追求しないでおく。
プロフィール
安立清史
九州大学大学院人間環境学研究院・教授(共生社会学講座)。1957年、群馬県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。日本社会事業大学助教授、UCLA(カリフォルニア大学ロサンゼルス校)客員研究員を経て、1996年から九州大学文学部助教授、2010年から現職。その間、2000年、ジョンズ・ホプキンス大学にてNPOを研究。2005年、ボストン・カレッジ客員教授。2016年、ハワイ大学社会学部訪問研究者として米国のボランティアとNPOなどを研究。著書に『福祉NPOの社会学』(東京大学出版会)、『介護系NPOの最前線』(共著・ミネルヴァ書房)、『高齢者NPOが社会を変える』(共著・岩波ブックレット)など。