2017.04.26

誰のため、何のための「改正」? 精神保健福祉法改正の構造的問題

竹端寛 障害者福祉政策 / 福祉社会学

福祉 #精神保健福祉法#社会福祉

本来の趣旨に添うならば

一般的に、法律は現実の後追いである。法律で対応できない・法律が想起していなかった、現に起こっている新しい問題に対応するためには、法律の改正が時として必要になる。ただ、それが「誰のため」「何のため」か、で改正される内容が大きく異なってくる。2017年の通常国会で審議されている「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律」(以下、「精神保健福祉法」という。)の改正も、この根本の部分で構造的な課題を抱えている。

まず、精神保健福祉法とは、何のための法律なのだろうか。法第一条には、次のように書かれている。

「この法律は、精神障害者の医療及び保護を行い、障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための法律 (平成十七年法律第百二十三号)と相まってその社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行い、並びにその発生の予防その他国民の精神的健康の保持及び増進に努めることによって、精神障害者の福祉の増進及び国民の精神保健の向上を図ることを目的とする。」

この法律の大きな目的は「精神障害者の福祉の増進及び国民の精神保健の向上を図ること」となっている。そのための手段として「精神障害者の医療及び保護を行い」「その社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行い」という方法論が列挙されている。簡単に言うなら、精神障害者の福祉の増進と国民の精神保健の向上という二大目標のために、医療や保護、社会復帰の促進や自立・社会参加支援を行うための法律である。

ちょうど3年ほど前にシノドスに「精神病棟転換型施設を巡る『現実的議論』なるものの『うさん臭さ』」という論考を書かせていただいた。その時に書いたが、精神障害者「だから」精神科病院に入院する「しかない」というのは、世界的に見てもまったく「時代遅れの生産様式」である。しかし、平成27年の精神保健福祉資料によれば、27万6084人もの入院患者がいる。このことだけでも大問題で、入院患者の最小化に向けた法改正が必要不可欠である。

とりわけ最大の問題が、「終日閉鎖」の環境下に置かれている人が18万5878人もいる、ということである。精神保健福祉法第三十六条においては、「精神科病院の管理者は、入院中の者につき、その医療又は保護に欠くことのできない限度において、その行動について必要な制限を行うことができる」とされている。「必要な制限」の中には「隔離」が認められている。つまり「終日閉鎖」とは、外から鍵を閉められた閉鎖空間に入院し、自由を著しく制限されている環境を指す。僕が学生を研究室に監禁したならば「逮捕監禁罪」が適応されるが、精神医療では「医療又は保護」の必要性が認められれば、「終日閉鎖」という同種の構造が容認されている。そのような著しく自由が制限されている人が、現代日本において、僕の住む甲府市の人口に近い数、存在しているのである。世界的にみて、突出した「終日閉鎖」の患者数の多さであり、世界の「脱・精神科病院の流れ」と逆行している。

本来、「その社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助を行」うための法律ならば、そのような強制入院や閉鎖処遇の最小化こそ、喫緊の課題であり、そのための法改正こそ真っ先になされるべきである。だが、今回の法改正は、強制入院の問題に焦点化されているのだが、その最小化に向けた法改正ではない。であれば、一体誰のため、何のための法改正なのか。

精神医療の目的は犯罪予防ではない

今回の精神保健福祉法改正の大きな要因として、2016年の7月に起きた相模原の障害者入所施設における連続殺傷事件が挙げられる。この事件の容疑者は、精神科病院に「措置入院」という入院形態で強制入院させられていたが、退院後に事件を起こした。そのため、「措置入院の退院プロセスや退院後の支援・監視が不十分だった」(原因)からこそ「殺傷事件が起きた」(結果)と結論づけ、「措置入院患者への退院時・退院後の支援や監視の徹底」により、「不幸な事件を防ぐこと」を目的とした法改正が目玉改正である。実際に、厚労省は当初、法改正の主旨について次のように述べていた。

「相模原市の障害者支援施設の事件では、犯罪予告通り実施され、多くの被害者を出す惨事となった。二度と同様の事件が発生しないよう、以下のポイントに留意して法整備を行う」

まず、この厚労省の説明は、精神保健福祉法の目的から逸脱している。先にも見たように、精神保健福祉法の目的は「精神障害者の福祉の増進及び国民の精神保健の向上」である。この目的の中には「犯罪予防」という文字は無い。あくまでも精神障害を持つ当事者の「福祉の増進」が目的であり、「患者」のための医療の充実がそこには含意されている。「二度と同様の事件が発生しない」ための対策は重要なことだが、少なくとも「精神障害者の福祉の増進」を目的とした法律で扱うべき内容ではない。にもかかわらず、厚労省の当初説明では、「二度と同様の事件が発生しないよう」と、「犯罪予防」のために精神保健福祉法を改正しようとしている。

だが、そもそも精神医療は「医療」が目的であり、「犯罪予防」は「医療」ではない。この論理から一般の精神科病院を世界に先駆けて全廃したイタリアでは、「犯罪予防」を精神医療の法律から取り除いた。そのことを、大熊一夫は次のように解説している。

「この法律が世界的にユニークなのは、精神科医に治安の責任を負わせていないことである。それは法文の中で、治療(収容)の判断基準として、『他害のおそれ』がうたわれていないことでわかる。(略)バザーリアたちは『他害の恐れがあるかどうかは、警察の判断に任せるべきことで、精神科医の仕事ではない。精神科医は警察の役目を捨ててこそ患者と良い関係を築けるのだ』と主張してきた。それが180号法に反映された。」(大熊一夫『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』岩波書店、p108-109)

実は今回の法改正の最大の問題点は、「他害の恐れがあるかどうかは、警察の判断に任せるべきことで、精神科医の仕事ではない」という大熊の一言に尽きる。「犯罪予告」という「他害のおそれ」について、精神医療では判断できない。だから、「犯罪予告」がある場合は、原則的に「他害の恐れがあるかどうかは、警察の判断に任せるべき」なのである。「精神科医に治安の責任を負わせていない」というのが、イタリアの原則である。

一方、日本の現実に目を向ければ、今回の改正では、より強固に「精神科医に治安の責任を負わ」せる方向での法改正が進められようとしている。先に引用した法改正の主旨は、あまりにも「露骨」だったために障害者団体や野党から集中的に批判を浴び、厚労省はこの文言「だけ」は撤回した。だが、「措置入院者が退院後に継続的な医療等の支援を確実に受けられるよう」に新設される予定の「精神障害者支援地域協議会」では、参加者として医療や福祉、障害者団体や家族会、市町村だけでなく、警察の関与も謳われていて、それは本稿執筆時点では撤回されていない。医療や福祉の支援をするための「協議会」に警察は出る必要が無い。にも関わらず、警察の参加が明記されている理由は何か。それを読み解くのが、「グレーゾーン事例」なるもの、である。

「仕事のフリ」改正?

今回の精神保健福祉法改正の原案になった、厚労省が設置した「これからの精神保健医療福祉のあり方に関する検討会」の報告書には、こんな表記がある。

「緊急措置診察や措置診察の時点で他害のおそれが精神障害によるものか判断が難しい事例(グレーゾーン事例)があることについて、都道府県又は政令指定都市(以下「都道府県等」という。)や警察などの関係者が共通認識を持つべきである。」

また、先述の「精神障害者支援地域協議会」に関して、その後出てきた国資料には「いわゆる『グレーゾーン事例』への対応について→行政、医療、警察の間の連携について協議」とした上で、「確固たる信念を持って犯罪を企画する者への対応」「入院後に薬物使用が認められた場合の連絡体制」に関しては、「別途個別に連携して対応」と書かれている。

なぜこのような表記が出てきたのか。それは、相模原事件の容疑者には刑事責任を問う「責任能力」があるか、が疑われ、精神鑑定を2016年9月から2017年2月まで受けていたが、その結果、起訴段階では「責任能力あり」という判断が下されたからである。裁判の結果が確定していないので断定は避けるが、精神障害の急性症状ゆえ・措置入院の退院支援の不備ゆえの犯行ではなく、「確固たる信念をもって犯罪を企画」した可能性が高いのである。これは医療の対象外である。つまりは、今回の法改正の前提である「措置入院の退院プロセスや退院後の支援・監視が不十分だった」(原因)からこそ「殺傷事件が起きた」(結果)という「因果関係」の結びつきそのものが、精神鑑定によって起訴段階で否定されたのである。

確かに、「他害のおそれが精神障害によるものか判断が難しい事例(グレーゾーン事例)」や「確固たる信念を持って犯罪を企画する者への対応」は、精神科医ではなく警察が、その任を担うべきである。そのための「連携」であれば、理解が出来る。しかしながら、「殺傷事件」という「結果」に至る「原因」が、「措置入院の退院プロセスや退院後の支援・監視が不十分だった」という点ではないことが明らかになった以上、「措置入院の退院プロセス」に警察による監視を含める必然性はないはずだ。にも関わらず、今回の法改正では、措置入院患者の退院支援全般について話し合う「地域協議会」において警察の参加を明記している。僕はこれを見ていて、2つの点で法改正の問題が顕然化した、とみている。

1つめが、「精神医療」に原因があるのではなく、「確固たる信念」である「障害者差別思想」に基づく「ヘイトクライム」(注1)がその原因であるのなら、そちらにこそ重点的な対策をすべきなのに、それをしていない、という現実である。事件後すぐに「措置入院」の問題と結びつけ、それ以外の対策を取ろうとしなかった政治家や官僚の「結果責任」が問われていない、という問題点である。真の原因について対策を打たずに、「措置入院」という「わかりやすい外見」のみを争点化した政治家や官僚の対応にも、精神障害者に対する差別や偏見が内在化されていないか、という問いすら浮かぶ。

注1)ヘイトスピーチや優生思想とこの事件の関係は、ご自身も精神保健福祉士の資格を持ち、長年精神医療の取材を続けて来られた読売新聞の原昌平さんの記事に詳しい。

2つめが、一般の入院患者への「悪影響」である。薬物依存の回復者から構成されるNPO法人ダルク女性ハウスが出した精神保健福祉法改正案に対する声明文の中で、「精神科病院と警察が連携すれば、依存症者は医療につながりにくくなる」と指摘している。「依存症は病気だと言われているのに治療できる場所が殆どありません。早く病院に繋がれば病気の進行が食い止められます。警察が病院と連携すれば、当然酷く悪化しても病院に行けません」という指摘からは、治療や支援を行う「病院」と治安維持や犯罪予防を行う「警察」は明確な役割分担をしていないと、どちらも機能不全を起こす、という明確なメッセージが伝わってくる。

つまり、これでは相模原事件の再発防止のためにも、一般の入院患者のためにも、役に立たない改正案である、と言える。それにも関わらず、この法案を国会で通すのなら、それは「相模原事件の対応を精一杯したという言い訳」や「一度振り上げた拳は下ろすことが出来ない」という、政府の立場を護る為の「仕事のフリ」改正にしか僕には思えない。

玉虫色の医療保護入院

今回の法改正に関して、大きな問題を孕んでいるのは、措置入院の問題だけではない。医療保護入院の拡大化、および「重度かつ慢性」に関しても、指摘しておく必要がある。

そこでまず、精神科における入院形態について、簡単に整理しておく。精神科の特殊性とは、自発的入院である任意入院だけでなく、本人が同意していなくても入院させることが可能な強制入院が認められていることだ。この強制入院は、措置入院と医療保護入院のカテゴリーに分けられる。

措置入院とは「医療及び保護のために入院させなければその精神障害のために自身を傷つけ又は他人に害を及ぼすおそれがあると認めたとき」に行われる強制入院である。これは決定主体者が都道府県知事であり、措置とは「行政措置」という意味である。ただ、実際に行政自らがその判断を下さすのではなく、行政からライセンスを受けた精神保健指定医が二人以上、診察の結果「自傷他害のおそれ」があると認めた時に限定されている。平成27年6月30日時点の調査結果によれば、その数は1,728人である。冒頭で、同じ調査データを元に、「終日閉鎖」の環境下に置かれている人が18万5878人もいる、と述べたが、措置入院患者はそのうちの1割にも満たないのである。では、その他の「終日閉鎖」はといえば、医療保護入院が10万1830人、そして任意入院が81,283人である。そして、この二つの「終日閉鎖」の形態にも、大きな問題を孕んでいる。

結論から言うと、諸外国でも日本の措置入院のような強制入院形態はある。だが医療保護入院は日本に特有の、玉虫色の、かつ権利侵害の色彩が濃い入院形態である。まず大きな問題なのは、人間の自由を著しく制限する強制的な権力行使なのに、警察や都道府県知事といった行政が決定主体ではなく、精神科病院の管理者が決定主体となり、人の自由が奪われる点である。このような強制力の行使は基本的にはあってはならないことであり、やむを得ない理由がある場合でも、少なくとも行政が決定主体にならなければならない。これは諸外国の常識である。

また医療保護入院では入院の際に、本人の同意が無くても、「家族等」の同意、もしくは「市町村長」の同意、があればよいとされている。また、実施要件として「医療及び保護のための入院の必要性がある者で、精神障害のために任意入院が行われる状態にないもの」とある、更に、その決定は1人の指定医でも良いとされている。

この部分でも様々な疑問が浮かぶ。そもそも「医療及び保護のための入院の必要性がある者で、精神障害のために任意入院が行われる状態にないもの」とは何か、が不明確である。「自傷他害のおそれ」がないにも関わらず、「任意入院が行われる状態にないもの」とは一体何か、が明確に示されていない。しかも、その判断はたった1人の指定医で決めることが出来る。かつ、今回の法改正では「家族等から意思表示が行われないような場合については、市町村長同意を行えるよう検討すること」が謳われている。これらの事が、どのように「問題」なのか。

入院中の精神障害者からの電話相談や病院訪問活動を続けている、認定NPO大阪精神医療人権センターは、ニューズレターの最後に「入院患者さんの声」をいつも掲載している。電話相談や訪問で聞いた「声」の中には、次のような声が何度も掲載されている(注2)。

「『退院したいと言うのなら医療保護入院に替える』と主治医に言われた。」

「主治医は『退院してもいい』と言うけれど、親が『もうちょっと落ち着くまでいてなさい』って言う。」

「任意入院だったのが医療保護入院になった理由を説明してくれない。聞こうとしても避ける、逃げる。」

(注2)この部分については拙著『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館)の中でも詳しく分析している。

つまり、同意者である家族が退院に同意しないから、とか、病院による懲罰的な利用で、など、様々な医療上の必要性以外の理由で、自分の意思で退院出来ない「医療保護入院」に切り替えられてしまう可能性があるのである。しかも、それを一人の医師の判断で決められるなら、強制入院の判断自体が簡略化・隠蔽化されてしまう可能性も少なくない。このような玉虫色の入院形態の人が12万3,559人もいる。しかも、このうち終日閉鎖ではなく、「日中開放」の空間にいる「閉鎖処遇」で済んでいる人が2000人もいるということから、何のための、誰のための強制入院か、その性質が実に見えにくい。こういう安易で玉虫色の入院形態が12万人規模で行われていて、しかも「家族同意」が取れないなら「市町村長同意」でも良いとするなら、それは「手続きが簡略化された、安易な措置入院」の拡大化ではないか、という疑念すら、浮かぶ。

さらに先の調査では、任意入院患者なのに「終日閉鎖」の環境にいる人が、8万1283人もいる。これは山梨の中規模自治体の人口と同じ数である。本来なら自発的に入院した患者は、自発的に退院することが可能である。しかし、「終日閉鎖」、つまり一日中外から鍵がかけられて、本人が勝手に外出することが出来ない環境下に置かれている人が、8万人強もいるのである。これは大いなる自由の剥奪である。

だが、精神科の「専門職」の中には、この自由の剥奪に関して、無自覚である、あるいは感覚がマヒしている人も少なくない。「終日閉鎖、と言っても、ご本人が出たいと仰ればいつでも出ることは出来ます」という台詞を、病棟の看護師から直接聞いたことがある。だが、そもそも本人がそれを心から納得しているのか、が甚だ疑問だ。

僕自身、入院経験のある人から何人も、「病院に不満を言ったら強制入院に切り替えられる。だから、不満は言えない」という主旨の発言を聞いてきた。警察権力と同じような強力な権限を持っている割には、あまりにも安易に閉鎖処遇を使っていて、その権力行使に無自覚ではないかという疑問が浮かぶ。本来なら、任意入院患者の閉鎖処遇は、医療保護入院と地続きの「玉虫色」の問題であり、「社会復帰の促進及びその自立と社会経済活動への参加の促進のために必要な援助」という法の趣旨に反していると僕は思うのだが、この部分については、法改正は何も触れていない。あたかも閉鎖処遇を「必要悪」と現状追認しているかのようにも、思えてしまう。

「重度かつ慢性」という「うさん臭さ」

前回のシノドスでは「『現実的議論』なるものの『うさん臭さ』」について書いたが、今回も同種の「うさん臭い」「現実的議論」がわき起こっている。それが、「重度かつ慢性」という問題である。先に述べた国の検討会資料には、「平成37年までに重度かつ慢性に該当しない長期入院精神障害者の地域移行を目指す」と書かれている。

そもそも地域移行とは、他国に比べて多すぎる長期入院患者を退院させるために政府が打ち出した政策目標である。この際、例えば先述のイタリア・トリエステでは、「最も重度の人」から地域移行をさせ始めた。同じように「重度かつ慢性」の人から真っ先に退院させる、というのであれば、話はわかる。だが事態は全く逆で、「重度かつ慢性」のラベルが貼られたら、退院促進の対象にならないのである。なんだか「現実的議論」に見えるが、僕はここに「うさん臭さ」を感じる。

この「重度かつ慢性」については次のような記載もある。

「「重度かつ慢性」基準案

精神病棟に入院後、適切な入院治療を継続して受けたにもかかわらず1年を越えて引き続き在院した患者のうち、下記の基準を満たす場合に、重度かつ慢性の基準に満たすと判定する。ただし、「重度かつ慢性」に関する当該患者の医師意見書の記載内容等により判定の妥当性を検証し、必要な場合に調整を行う。精神症状が下記の重症度を満たし、それに加えて(1)行動障害 (2)生活障害のいずれか(または両方)が下記の基準以上であること。」

これだけ見ると、もっともらしく見える。さらにはこの基準案を作った精神科医達の報告書では、「地域での受け手がないために退院できない群でなく、医学的・治療的に重度なため慢性に経過する群」「「重度かつ慢性」に相当する患者特性の抽出においては、疾病特性、行動病理、治療抵抗性(反応性)などの軸を考慮すること」などの言葉が並んでいる。ここまで医師に言われると、医療の専門家でなければ、「そういう重症度の高い人なら仕方ないですね」と変に納得していまいそうになる。

だが、僕は医療従事者では無いが、この基準は変だと思う。なぜなら、(1)「重度かつ慢性」という日本独自の基準を作る背景に医療以外の理由が見え隠れするからであり、(2)そもそもその重症度を本人の状態のみに起因させて良いのか、という疑問である。

(1)に関しては、国は「1年以上の長期入院精神障害者(認知症を除く)のうち約6割が当該基準に該当することが明らかとなった」と書いているが、平成27年には17万5000人いる長期入院患者のうち、平成37年には9.7~11.6万人は入院が必要なままだ、と国は推計している。つまり、平成27年の段階で27万6000人の入院者だが、10年後も20.6万人~22.5万の「入院需要」がある、というのだ。

それは裏を返せば「精神科病床を削減しても、20万床分は残しますよ」という裏打ちにも見える。他国に比べて精神科病院が多すぎる事が問題になっているのだが、削減するにしても、一定数は確保しますよ、という約束を、民間病院協会のオーナーと国が交わしているようにも思える。これも僕の杞憂であればよいのだが、でも以前シノドスで引用した民間精神科病院の「そうした病院が病床を減らしても食べていけるような裏付けがなければ、長期入院する精神障害者の地域移行は進まない」という発言と、見事に平仄を合わせているように、僕には感じられてしまう。

そもそも証拠に基づく医療(Evidence Based Medicine)を大切にするなら、なぜ諸外国にはない日本独自の状態をわざわざ規定しなければならないのか、が問われる。もっといえば、「行動病理、治療抵抗性(反応性)」などは、精神科病院が作り出した「施設病」の部分がないか、も気になる。精神科病院での長期入院や閉鎖処遇に「抵抗」し、退院出来ないしんどさを「行動病理」という形で「表現」している可能性があるのではないか、という問いである(注3)。しかし、先の研究報告はそのような視点から「医療や支援プロセスの中で病状が社会的に構築された可能性」に基づく調査はしておらず、(2)そもそもその重症度を本人の状態のみに起因させている、という点が最も大きな問題である。

(注3)これに関連して、知的障害者の強度行動障害と認知症者のBPSDに共通の「問題行動」を「チャレンジング行動(Challenging Behavior)」と捉え直した以下の書籍が参考になる。ジェームス、I・A/山中克夫監訳(2016)『チャレンジング行動から認知症の世界を理解する』星和書店

強制入院の最小化に必要な「対話」

これまで随分と否定的で陰鬱な気持ちになる事ばかりを書いてきたので、日本の精神医療はどうすれば希望が持てるのか、を最後に考えてみたい。

先の「重度かつ慢性」のカテゴライズが「うさん臭い」と僕が思う理由。それは、実際にそのような類型化の対象者が、現に地域で暮らしている姿を目にしているからである。重度で慢性化した精神障害者を、医師や看護師、作業療法士やソーシャルワーカーがチームを組んで訪問して、入院させず、させたとしても最小化して地域の中で支え続ける「包括的な訪問型支援(Assertive Community Treatment:ACT)」チームが機能している地域では、「精神病院から絶対退院出来ない」と言われていた人を、地域で支え続けている。僕も2016年に、千葉のACT-Jと京都のACT-Kの訪問支援に同行させて頂いたが、「精神科病院の中では『沈殿患者』とラベルが貼られていた」という方が、地域で暮らし続けている姿に出会った。「重度かつ慢性」の基準に該当しそうな方であっても、支援チームがうまく機能すれば地域で支え続ける事が可能であり、最初から退院の対象外とする事自体に問題がある。

閉鎖病棟に投入されている莫大な国費や医療費を、こういう地域支援にこそ振り向ければ、わざわざ「重度かつ慢性」という基準を作る必要もなければ、その人々を病院の中に留め置く必要も無い。しかし、現実は真逆のことをしている。国はある時期、ACTの制度化に向けたモデル事業をサポートしていたが、本稿執筆時点でも、ACTを制度化する動きは見られていない。その一方、精神科病棟の延命策にも思える「重度かつ慢性」の基準に基づく政策誘導を粛々と展開しようとしている。

また、希望ある未来と言えば、最近この業界で話題になっている「オープンダイアローグ」も希望できる未来の具現化した姿である。フィンランドの西ラップランドでは、急性期の症状にある人からのSOSの電話があれば、24時間以内に患者とのミーティングの場が設定され、本人が望む人も同席した上で、治療ミーティングを続けていく、という。その際、日本の精神科医療の主流では無視されがちな幻覚や妄想、幻聴といった症状も言葉に出してもらい、その症状を薬で無理矢理押さえ込むことよりも、本人のしんどさや生きづらさをしっかり聴き、受け止める中で、劇的に症状が緩和したり、投薬量が減ったり、場合によっては薬を使わずとも急性症状がなくなる、という。

僕自身も2015年にフィンランドのケロプダス病院を取材したが、診断名を付けたり隔離拘束するより、本人の苦痛を和らげ、生きる苦悩に寄り添う支援をしている事が、実に印象的だった。そして、ケロプダス病院の訪問の後に、そのままイタリアのトリエステにも取材に出かけたが、単科精神科病院をなくしたイタリアのトリエステでしていたのも、ACTやオープンダイアローグと極めて似ている、訪問チームによる訪問や、急性期の本人に寄り添う支援をする中で、強制入院を最小化するための努力、であった(注4)。

(注4)このオープンダイアローグについては、ヤーコ・セイックラ&トム・エーリク・アーンキル著『オープンダイアローグ』(日本評論社)、斎藤環編『オープンダイアローグとは何か』(医学書院)を参照。またイタリアの実践については、先述の大熊一夫の文献を参照。

つまり、ACTやオープンダイアローグ、あるいはトリエステ方式など、「精神医療におけるイノベーション」は着実に実践例や実証データを積み重ね、世界中に広まっている。なのに、ガラパゴスのようにそういったイノベーションを頑なに拒み、未だに強制入院が多く、その最小化に逆行するような改正を行おうとしているのが、悲しいかな2017年の日本の現実なのである。

では、日本の精神医療に希望ある未来を創り出すために何から始めたらよいだろうか。僕は、強制入院の多い現実に「どうせ」「しかたない」と蓋をせずに、オープンな場での対話を続けていくことに希望がある、と考えている。それに関しては、ドイツやオランダで生まれた、精神病者とケアする家族、そして支援者や医療者の三者が対等な立ち位置で話し合うミーティングであるTrialogue(トライアローグ)が役に立ちそうだ。「精神病とは何か?」「何が助けになるか?」「良い支援と悪い支援の経験について」「病名を脇に置く」などの課題について、時には衝突が生まれる内容であっても、それを避ける事なく、話し合いを続けていく。ユーザーや家族は「独自の体験による専門家」として認識され、支援者は「訓練による専門家」であると見なされる。よって、お互いの経験を対等に学び会うことが求められる。そんな場だ(注5)。

(注5)このトライアローグに関しては竹端寛(2016)「四十年後のトリエステ」『福祉労働』(150), 151-159も参照。また英語で読める簡単な解説は以下のサイトに。http://www.imhcn.org/?page_id=2315

さらに、先の『オープンダイアローグ』の中でトム・アーンキルが述べている「未来語りダイアローグ」は、トライアローグと共通性が高く、オープンな対話に基づく社会変革の具体的な方法論である。僕も先日、そのファシリテーター養成集中研修に参加して、「開かれた対話空間」の可能性を実感している。
詳しくはブログの記事「『未来語りのダイアローグ』という希望」も参照。

他の国で出来ているのだから、強制入院の最小化は、日本でも可能なはずだ。でも、それを実現するためには、話し合うべきテーマが沢山ある。現に精神科で終日閉鎖にある18万人の人がどんな状態に置かれているのか。閉鎖処遇を減らすにはどうしたらよいか。「重度かつ慢性」の人を地域で支えるには、どのような試行錯誤が必要か。(再)入院をどうしたら食い止められるか。どんな成功例や失敗例があるか・・・。こういった話題を、病院職員と地域支援の職員、入院経験のある人や現に入院している人、一般市民や家族などが出会い、対等な参加者として「出来る一つの方法論」を共に考え合う場が必要不可欠だ。政策について話し合うのなら、そこに自治体や厚労省といった行政担当者も、同じように対等な一参加者として加わるべきである。

そういう地道な「対話」の努力にこそ、国は率先垂範して、エネルギーを注ぐべきである。「対話」を拒否したところに、新たな希望や展開はみられない。今回の改正の原案を作った検討会には、ごく少数の精神障害の当事者委員も入っていたが、その意見は法改正には反映されていなかった。「私たち抜きで私たちのことを決めないで!(Nothing about us without us)」というフレーズは、障害者権利条約が作られる際に、障害当事者達がずっと言い続けてきたメッセージである。このフレーズに依拠するなら、今回の改正案は、「当事者抜きで当事者の事を決める」という典型的で強圧的な改正案である。

一度進み始めたのだから後戻りが出来ない、とばかりに拙速な改正を突き進めようとしている厚生労働省に今、一番必要なのは、「お互いの経験を対等に学び合う」オープンな対話そのものではないか。そのためこそ、この改正案は一度廃案にして、「対話」をやり直すべきではないだろうか。

*本稿は認定NPO大阪精神医療人権センターの「人権センターニュース」に書いた拙稿「『重度かつ慢性』への疑問」および僕のブログ記事「『おせっかい』の前に信頼関係」に基づいて、大幅に改稿したものである。

81Q8APNduvL

『権利擁護が支援を変える -セルフアドボカシーから虐待防止まで』
竹端寛 (著)

プロフィール

竹端寛障害者福祉政策 / 福祉社会学

兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。大阪大学人間科学部、同大学院人間科学研究科博士課程修了。博士(人間科学)。山梨学院大学法学部政治行政学科講師・准教授・教授を経て、2018年より現職。元内閣府障がい者制度改革推進会議総合福祉部会構成員。著書に『枠組み外しの旅-「個性化」が変える福祉社会』(青灯社、2012年)、『権利擁護が支援を変える-セルフアドボカシーから虐待防止まで』(現代書館、2013年)、『「当たり前」をひっくり返すーバザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』(現代書館、2018年)など。

この執筆者の記事