2014.06.28

難病カルテ 患者たちのいま

蒔田備憲 毎日新聞記者

福祉 #難病カルテ#難病

難病と共に歩む患者や家族の生活を丁寧に描き出した『難病カルテ 患者たちのいま』。毎日新聞佐賀県版に掲載されるも、全国的に大きな反響を呼んだ人気連載の書籍化だ。今回はその中から、3つの記事を抄録し掲載する。

マッサージで患者支援目指す 「心のカーテン開けてほしい」 鶴田信実さん(38)/佐賀

「神経線維腫症1型(レックリングハウゼン病)」

皮膚や神経に、神経線維腫と呼ばれる良性腫瘍ができたり、皮膚のしみや目の病変などが起こる病気。両親のいずれかがこの病気を持っていると、2分の1の確率で生まれる子に遺伝する。発症率は約3000人に1人の割合。医療費助成の対象になる特定疾患に指定されている。

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広島県三原市の障害者施設で、鶴田信実さん=佐賀県嬉野市=は、マッサージ師の資格獲得に向けて故郷を離れ、寮で暮らす。「合格のため、がんばりますよ」。資格取得とその先にある目標に向け、鶴田さんは不安を振り切るように、言葉に力を込める。

生後1、2カ月で、右目付近が膨らんだ。皮膚に「カフェオレ斑」というシミが広がっていた。数年後、「神経線維腫症1型(レックリングハウゼン病)」と診断。祖父と父親も同じ病気を持っており、遺伝だった。

「みんなの肌はきれいなのに、どうして私の体にはシミがあるんだろう。みんなと違うのかな」

高校までは「いじめ」が日常だった。右目まぶたが腫れ上がっていたことから「(怪談に出てくる幽霊の)おいわさん」と言われ、「よそばしか(汚いという意味の佐賀弁)」という侮蔑を投げつけられた。「話したらうつる、触ったらうつる」と遠ざけられる。靴を隠され、ノートや教科書への落書きが相次ぐ。机の上に一輪挿しの花瓶を置かれたこともあった。絶え間なく続いた。子どもだけではない。大人も「見たらうつる」とか「言うこと聞かないとああなるからね」と鶴田さんに聞こえる声で、その子どもに話していた。

「慣れるとね、あきらめるんです」。苦笑いして振り返る。「ずっと、当たり前だったから。もう、気にしても仕方ないから」。当時を思い出さないようにするためなのか、感情を出さずにつぶやく。

それでも「保育士になりたい」という目標を追うため、学校には通い続けた。幼い頃、風邪を引いてぐずる鶴田さんに、「のぶちゃん」と優しく元気に接してくれた保育士の影を追っていた。手術を受けた後、同級生からの励ましを録音したカセットを持ってお見舞いしてくれた。「自分も、あんな先生になりたい」

高校を卒業すると、岐阜県内の短大へ。3人の弟を育てる両親のため、紡績工場で働きながら3年間を過ごした。お酒を飲み、遊びに行く友達にも出会えて「青春を取り戻した」時間だった。「友達って、こういうことを言うんだな」

佐賀に戻ってから、病院の看護助手として勤務。約3年間働いた後、幼稚園や保育園で正職員の就職を探したが見つからず、臨時職員やアルバイトをして働いた。

当時、結婚を約束した人がいた。しかし「子供を産んだら、2分の1の確率で、この病気を持った子が生まれる」ということが、頭から離れなかった。

「好きな人の子を抱きたい」という気持ちと、子供に同じ思いをさせたくない、という不安感。迷った末、「この人を幸せにできるのは、私ではない」と思い込むようにした。

「他に好きな人がいる」とうそをついた。2日間電話が鳴り続けたが、無視した。携帯の番号も変えた。半年後、鶴田さんを追って佐賀に来ていた男性は故郷の愛知県に帰郷した。鶴田さんは引っ越し作業を隠れて見ていた。「行かないで」。心の中で叫び、号泣した。でも声には出さなかった。「あの人が幸せになればいい」と、自分をなだめた。そのときの感情を、振り返る。「心が陥没したようでした」

その後、症状が悪化する。頭部に大きな腫瘍ができ、手術。その後も、まぶた、側頭部など、2年に1度のペースで手術が続いた。肌に手術痕が残るのも、徐々に落ちる視力のことも……。「なぜこんな病気になる」と自暴自棄になった。左腕には当時、自傷した跡がいくつも残っている。知人のすすめで、同じ患者らが集う静岡県内の療養施設で過ごすことを決めた。

そこで出会った視覚障害者からの助言をきっかけに「もう一度働きたい。輝きたい」と思い、盲学校へ通うことを考え始めた。3年後、佐賀に戻り、佐賀県立盲学校へ進学した。

右目は切除しており、左目の視力は0・01程度。視野も「あちこち欠けている」状態。ルーペや拡大読書器を使って勉強する。国家試験が迫る3年次の夏ごろは、毎日午前2時半まで勉強を重ねる「4時間睡眠生活」を続けた。マッサージの実技指導も「背筋を伸ばして」「場所が違う」と講師から厳しい声が飛ぶ中、「難しいけれど、頑張って覚えたいから」。汗を流しながら、腕を動かした。

結果的に卒業時には試験に合格できず、引き続き試験勉強をするため、広島に移ることを決めた。

目標がある。資格を取ったら、経験を積み、病気や障害のある人のため、訪問マッサージに取り組みたい。「障害があって外に出られずにいる人も多いはず。でもそこに、私が訪問して自分の経験を伝えたら、社会との接点を持つきっかけになるかもしれない。引きこもらず、明るい日差しを感じてほしいんです。私の姿を見せることで、心のカーテンを開けてほしいんです」

婚約者と別れたことも、症状が進行したことも、今は悲観しない。「社会の一員として働くことができるチャンスをもらえる。病気になったことで、新しい人生の切符をもらえたんですね」

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「なぜ貧乏くじ引いた」 音楽で気持ち落ち着かせ 永松陽一さん(27)/佐賀

「脊髄小脳変性症」

歩行がふらついたり、手が震えたり、話す時に口や舌がもつれるなどの症状がゆっくりと進む。発症率は10万人に5〜10人程度と考えられている。医療費助成の対象となる特定疾患に指定されており、2012年度の受給者数は全国に2万5447人。

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動画投稿サイト「YouTube」で、お気に入りのパンクロックの音楽を探し、イヤホンを耳につける。脊髄小脳変性症を発症した佐賀市の永松陽一さんは目を閉じ、「なんで俺が貧乏くじを引いたんだろう」とつぶやく。ネガティブな気持ちを消すように大音量だけに耳を傾ける。何も考えないようにする。

約5年前、足が思ったように前に進まず、引きずってしまうようになった。真っすぐ歩けなくなり、食事中に茶碗を持つ手も震えるようになった。自宅近くの整形外科に通院した。大学病院の紹介を受け、検査入院後に病名を告げられた。

会議室で、母親と2人で座った。目の前には、5、6人の医者が並んでいた。説明を受けても、言葉が頭の中に入ってこなかった。「この人たちは何を言っているんだろう」。人ごとのような感覚で聞いていた。

体が動かなくなっていくにつれ、ふさぎ込む時間が増えた。同年代が働いている姿を見るたび「惨めだなあ」と思ってしまう。

漫画「スラムダンク」に影響を受け、中学生のころは、バスケに熱中した。高校に入ってからは、友人の家を泊まり歩き、カラオケに通い、「遊びほうけていた」。体の自由がきき、楽しかった時間は、「懐かしいなあ、戻りたいですよ」と振り返る過去になってしまった。

症状が進行する先行きを考えると「ああ、死のうかな」と頭に浮かぶ。そう思った時は「頭の中を空にする」ため、たばこを吸ったり音楽を聴いたりする。マイナスのイメージが収まるのを待つ。

「なんでもいい。仕事をしてみよう」と、県難病相談・支援センターの紹介で、高齢者施設で働いたこともある。洗濯、掃除を担当し、利用者の話し相手になる。週3日勤務で半年間の契約だったが、利用者との会話は楽しかった。

発病後、初めての仕事だった。「人と会うのって、悪くないよなあ」。体を動かし、利用者と話をし、給料を得る。「病気があっても働くことができる。自分も働ける」と確認できた。

同時に「考えている以上に体が動かない」ことを味わう体験でもあった。物を持ち運んだり車椅子を押したりすることが思うようにできず、掃除用モップの足踏み式水切りも使えなかった。

半年間の契約終了後、雇用の継続はしてもらえなかった。「もっと働きたい」と思い、申し入れたが、受け入れてはくれなかった。「会社の利益になるような動きはできなかったのか」。働こうという気持ちが減り「どうせできない」と後ろ向きになっていく。働いた方がいいことも、病気を持っても働ける人がいることも理解はできるが、踏み出せない。仕事が無くなり、家に一人でいる時間が増える。「変な考えも……出やすかったですねえ」と視線を落とす。

友人とのたわいない会話が、気晴らしになった。高校時代から付き合いのある友人は、永松さんの発症を知っても、接し方を変えなかった。心配されたり気遣いをされたりするよりも、ありがたかった。

左手の震えが強くなっていることもあり、多くの作業を右手で行う。「ジュースを飲みながら携帯を見る」など、「ながら作業」が難しい。座っていても真っすぐ姿勢を保てず、背もたれがない椅子は「3分が限界」だ。言葉がうまく出なかったり、段差につまずいたりもするが、身の回りのことはできる。それも「いつまでできるのか」と不安がよぎる。

病気のことは、今でも受け止めることはできていない。「まあ、なんか認めとうなかですね。自分が自分でかわいそうだなあ、って思うときもあるんです」

母親、姉と同居している。働けない分、収入を得ようと障害年金を申請したこともあるが、症状が認定基準に届かなかった。「もっと悪かったらもらえたのに。中途半端だよなあ」と苦笑いする。

左手が使いづらい現在の症状を考えれば、一般の仕事が難しいと自覚している。障害者向けの作業所に通ってみたこともあるが、懸命に働いても1日に300円、という報酬に意欲を持てなかった。

「外に出よう」と頭で思っても、行動に移せない。遠出をするには介助者が必要になるため、腰が重くなる。飲み会の誘いが入っても、一人で過ごす時間が苦でないだけに、断ってしまいがちだ。

将来したいことや目標を頭に浮かべようとするが、「けっこう諦めているなあ」とため息をつく。「はっきり言って親がいないと生きていけない。それもまあいっかって。親が生きているうちはほそぼそと過ごして、親が死んだら一緒に死のうかな」。恋愛も結婚も望みはするが、「俺はいいや」と卑屈に考え、前向きになることができないでいる。

家族の中で表情豊か 24時間介護の苦労も 永石日香莉ちゃん(4)/佐賀

「軟骨無形成症」

四肢を中心とした骨の成長が障害されるため、手足が短くなり、身長が低くなる病気。根本的な治療法は見つかっておらず、呼吸管理やリハビリなど、対症療法が中心になる。小児慢性特定疾患治療研究事業の対象。

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部屋の中心にあるベッドで、永石日香莉ちゃん=武雄市=はテレビのアニメを食い入るように見つめる。長男恒陽君とおもちゃでじゃれ合い、次男優水君がアンパンマンのキャラクターを切り貼りして手作りした本をじっと読む。喉には呼吸器の管が、足には血中酸素の数値を図るセンサーがつながる。耳には補聴器を付けている。「言葉」は発せず、自力で座ることもできないが、笑ったり嫌がったり、表情をコロコロ変える。日に日に意思表示をはっきりとするようになり、好きなおもちゃを与えないと、嫌な顔をして「ああ!」と叫び、物を投げる。その姿を母美恵子さん(40)が「もう、ワガママ盛りですよ」と見守っている。

出産後、手足が短いこと、肺が小さいことなどが見つかり、集中治療室へ。「軟骨無形成症」と診断を受けた。面会は1日2時間程度に制限された。

呼吸器装着のための気管切開を打診された。声を失う可能性もあり、迷いもあった。美恵子さんは「声が聞きたい。付けずに何とかならないのか」と考え、いったんは断った。しかし、5カ月を過ぎても身長、体重ともに平均より低く、伸びも悪かったため「呼吸が成長に影響を与えている」と、決断した。

1年後、集中治療室を出ることができた。その後一般病棟で、美恵子さんが24時間付き添いで入院した。

この頃、美恵子さんが常に考えていたのは、自宅に帰ることだった。「きょうだいと、家族で一緒に過ごしたい。病院で一人、離したくない」。自身が看護師として働いていたこともあり、在宅介護を望んだ。

壁になったのは呼吸器だった。必要な性能を持つ機器がなかなか見つからなかった。帰宅が実現したのは、2歳の誕生日だった。

在宅介護の負担は想像以上だった。洗濯物を1枚干すたびにベッド脇まで戻った。一時も離れるのが不安だった。成長するに従って、体を左右に揺らして寝返りするようにもなり、その勢いで呼吸器のチューブが外れることもあった。呼吸器などの警報に気付かないことが怖くて、今も、熟睡しないようにベッド脇に置いたリクライニングチェアで夜を過ごす。

胃の容量が小さいから食事は3〜4時間、1日6回に分けて与える。感染症や風邪は体調悪化を招き、泣くだけでも、呼吸がしにくくなる。昼間は3〜4時間に一度、たんを吸引する。「お姫様のように扱わないといけないからね」。美恵子さんは笑いながら、つぶやく。

軽くはない負担があっても、家族で過ごすことができるのがうれしい。ただ気がかりだったのは、2人の息子のことだ。

日香莉ちゃん出産後、日香莉ちゃんに意識が向かいがちになり、恒陽君と優水君の気持ちに寄り添えていない、と感じていた。夏休みなど長期休暇の時すら、遊びに行く約束もできなくなっていた。

在宅移行後、長男、次男の様子に異変を感じた。情緒不安定で暴力を伴うケンカが激しくなり、常にイライラしているように見えた。

このため、2人と過ごし、休息もとれるよう、日香莉ちゃんを一時預かりしてくれる施設を求め続けた。この声を受け止めた県内の病院が認めてくれ、1カ月に1〜2泊のペースでレスパイト入院している。

預けている期間、熊本・阿蘇へ旅行したこともあった。日香莉ちゃんを出産後初めて、2人と並んで眠る時間ができた。美恵子さんは「少しホッとしています」と表情を緩める。

2012年夏には、日香莉ちゃんとともに、大分・別府へ初めての一泊の家族旅行をした。あらかじめホテルと呼吸器の会社に病状を伝え、酸素濃縮器を置き、酸素ボンベを10本配備した。一緒にプールに入り、家族風呂で体を休めた。出かけることは、次第に苦にならなくなってきた。「普通に家族で過ごせるんだな」。そう実感している。

一方で、在宅生活の不安と危機感を強めることもあった。東日本大震災の発生だ。福島第1原発事故の影響もあり、九州電力は12年夏、計画停電の可能性があることを表明。美恵子さんは震災前から自家発電機を所持し、地元の看護師らとともに、非常時の発電、呼吸器との接続を確認していた。しかし、体温調節のためのエアコン、たん吸引のための加湿器など電気が不可欠なものは多い。かかりつけの病院は佐賀市内で、普段でも車で約1時間かかる。

地元の保健所に「他の呼吸器使用障害児はどうしているのか」と尋ねると「分かりません」という答えが返ってきた。「緊急時に対応できないのでは」。不安は強まった。緊急時の移動手段はあるのか。電源を確保した避難先は―。「もし大規模災害が起こったら、私たちに行き場はあるのだろうか」

進路にも、頭を悩ませている。市内と近隣市の療育施設に週2、3回通い、リハビリ訓練を受けている。支援体制が整った特別支援学校を選ぶのか、健常者を含めた環境で刺激を得るため、きょうだいが通った地域の学校を目指すのか。答えは出ていない。

美恵子さんの不安は絶えないが、日香莉ちゃんの在宅生活を多くの人が見守っている。同じように地域で暮らす重症難病児の励みにもなっている。

ある支援者は「日香莉ちゃんは、名前の通り、光みたい。顔を見るだけで、みんなが笑顔になるんだよね」と話す。おもちゃを力強く振り回し、読みたい本を「ああっ!」と求めて訴える日香莉ちゃんを見た人は、思わず顔がほころぶ。

「このままずっと安定して、というわけにもいかないだろうけれど、自由に育ってくれたらいいなって思っているんです」。美恵子さんの言葉は、日香莉ちゃんを見守る人たちの願いでもある。

プロフィール

蒔田備憲毎日新聞記者

1982年神奈川県足柄下郡湯河原町生まれ。筑波大学第一学群社会学類卒。2005年毎日新聞社入社。大津支局、富山支局、佐賀支局を経て、2014年から水戸支局。
主な著書に、『もがく心 高次脳機能障害の若者たち』(2011年、WEB新書)makita-m@mainichi.co.jp

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