2012.11.28
『五体不満足』から遠く離れて
14年前に『五体不満足』を出版され、さまざまな活動をされてきた乙武洋匡さんと、大学院生の頃に突然難病を発症し、2011年に『困ってるひと』を出版された大野更紗さん。二人はいま、障害や難病になにを思うのか。(構成/金子昂)
「みんな違ってみんないい」
大野 乙武さんが『五体不満足』を出版されて、14年が経ちます。14年というと、当時生まれた子供が中学生に、あの頃『五体不満足』を読んでいた人の中には結婚してお子さんを持たれているという方もいるかと思います。
いままでに何万回、何億回と同じような質問を繰り返し訊ねられてきたかと思いますが、この14年間、どんなことを思って活動を続けてこられたのか、改めてお聞かせください。
乙武 そうですね。14年間あまり変わっていないような気がします。ぼくが『五体不満足』を書いたのは、金子みすずさんの詩の一節でもある「みんな違ってみんないい」というメッセージを広く伝えていきたいと思ったからです。その気持ちは、小学校の教員として活動していたときも、メディアで発言していくうえでも変わりません。「一人ひとり違って当たり前だよね」というメッセージを伝えていくことが活動の中心です。
「子どもが育つ」ことへの大人の役割の重要性
大野 ある時期を境に教育分野に力を割かれるようになられましたが、具体的なきっかけがあったのでしょうか?
乙武 大学を卒業して7年間はスポーツライターとして働いていました。その間に、長崎市で当時4歳の男の子が中学1年生の男の子に連れ去られ、駐車場の屋上から突き落とされて殺害された事件、佐世保市では小学校6年生の女の子がクラスメイトをカッターナイフで切り殺す事件がありました。10代前半の子どもたちが、被害者だけでなく命を奪う側に回ってしまう事件が相次いで起こってしまったんです。
当時のメディアは「凶悪犯罪が低年齢化している」「最近の子どもはどうなってしまっているんだ」と、子どもたちだけに責任を求めるような報道をしていました。でもぼくは「かわいそうだな」と思っていました。もちろん一番かわいそうなのは命を落とした被害者であり、ご遺族の方々であるというのは承知しています。でも事件を起こしてしまった少年少女たちに対しても、かわいそうだだという感情を禁じ得なくて。
というのは、彼らだって辛かったんだと思うんです。人間は誰しも、生まれたときには、「幸せになりたい」「よりよく生きたい」と願って生まれてきているはずです。それなのに、生まれ育った環境や経験した出来事など、様々な要因によって悲惨な事件を起こさざるをえない苦しい状況に追い込まれてしまった。きっとそこに至るまでに彼らもSOSのサインを出していたと思うんです。それはもしかしたらわかりにくいサインだったかもしれない。だとしても、周りの大人はそのサインに気がついてあげられなかったのか。サインに気がついていたら、そして軌道修正をしてあげられていたら、あのような事件を起こさずにすんだかもしれません。
そう考えると、「子どもが育つ」ことへの、大人の役割や影響の大きさはすごいものがあると思いました。そして自分が子どもだった頃の周りの大人を改めて振り返ってみると、両親や学校の先生、近所のオジチャン、オバチャン、本当に恵まれていたことに気がついたんです。だからこそ、今度はぼくが大人という立場で「恩返し」――というよりは「恩送り」のつもりで、次の世代、子どもたちのために力を尽くしていきたい。そこで29歳のときに、もう一度大学に入り直して、教員免許を取得しました。
大野 子どもたちがどういう環境に置かれて生きていくのかについて、強い関心を持たれていたのですか?
乙武 そうですね。
ぼくは20代まで、社会という水槽の中で自由に楽しく泳がせてもらっていたイメージがありました。そして20代が終わるころに、そろそろみんなが社会の水槽を自由に楽しく泳げるように尽力していく番ではないかと思いました。それが一番大きかったです。
障害者の代表と捉えられること
大野 私自身は25歳のとき、大学院に進学したばかり、これから研究者として頑張ろうと決意した瞬間に難治性疾患を発症しました。その後、難病だけでなく、さまざまな障害や病を抱えている当事者の方々の話を聞くようになってから、先天性の疾患や障害を持っている当事者の親御さんたちにとって、乙武さんが社会のメインストリームにいてくださることは、心理的なインパクトが相当大きかったことを知るようになりました。
特に障害をもつ乳幼児のお父さん、お母さんたちは、まだ意思表示のできない子どものケアを、完全に自分たちに託されている状態にあります。そういう親御さんたちが、「乙武さん」と口にされる光景を何度も見てきました。
乙武 ぼくが自分の体や人生を肯定的にとらえて、ほぼ毎日楽しく生きていることは、ある意味で成功例だと思います。ぼくをみて、希望の光のように感じてくださり、「ああやって生きていける可能性もあるんだ。前向きに子育てしよう」と思ってくださる方がいらっしゃることはとても嬉しいです。でも一方では、「あれはまぐれだ」とおっしゃる方もいます。
大野 非常にまれな偶然が重なったケースだと。
乙武 ええ、その「まぐれによる成功例」であるぼくが、頑張りの押し付けになってしまったり、比較対象となって、辛い思いをされている方も少なからずいらっしゃる。ぼくが障害者の代表のようにとらえられて、誤解を与えかねないポジションになってしまっていることについてはずっと気をつけるようにしてきました。
大野さんも『困ってるひと』では、ご自身の病気を、ユーモアを交えて書かれていますよね。きっと多くの人が読んでくれて、病気に対する理解が深まったというプラスの側面が大きいと思います。でも「同じような病気で苦しんでいるのに、ユーモアを交えるなんてけしからん! 苦しんでいる俺の気持ちを考えないのか」という声もあるかもしれない。
大野 初めのうちは、どちらかといえば圧倒的にそういう声のほうが大きかったかもしれません。「パンドラの箱」の1つを開けてしまったのかもしれないと思うときもありました。
乙武 あっ、そうなんだ!
大野 難病というのは、あくまでこれまで医学的な「研究の対象」であって、一部の疾患への医療費助成制度などはその見返りとして行われてきたという歴史的経緯があります。きわめて苛烈な状況にも関わらず、今日まで、社会政策の対象としては捉えられてこなかった。そういう苦しい状況下で、体中ぼろぼろで、いまにも死にそうになっているのに「頑張っている」方がたくさんいる。だからこそ、潜在的なマイナスの反応を一気に誘引したような気がしています。
乙武 うーん……。
大野 はじめは、相手の苦しさがわかるから、どうすればいいのか悩んだこともありました。苦しい状態の人たちが「苦しい」と発することは当然で、それを発する回路すらなかったのだということについて、現実に打ちのめされるような思いでした。いまは、どうしたらその状況を少しでも変えられるのかということを考えるようになりました。
家族の大切さ
大野 最近、人から言われてふと気がついたのですが、難病を発症してから家族に「つらい」と言ったことがあまりありません。言ったことがない、という表現は語弊があって、私にとっては家族というユニットは、それが大切であるからこそ持続可能性を確保するべき、無理を強いたくないシステムなんです。『五体不満足』を拝読して、お母様はすごい方なのだろうなと思いました。大きな反響があったのではないでしょうか?
乙武 ええ、ぼくに対する反響はもちろん、「お母様がすごい」という声もたくさんいただきました。それに伴って、母に対して膨大な量のテレビや雑誌の取材依頼、講演会の依頼が来ました。ところが母はそれらを一切断るんです。不思議に思って訊いてみたところ「もし私までメディアにでて外の人間になってしまったら、あなたが外で頑張ってつらいときに帰ってきて休むところがなくなっちゃうでしょ」って。
例えばスポーツ選手でも、子どもがなんらかの業績を残したとき、その両親もスポットライトを浴びて、つい舞い上がってしまっているのをよく見るじゃないですか。それを考えると「すごい親だなあ」と思いましたね。
大野 障害を持ったお子さんの家族の中で、ケアの負荷、精神的負荷、現状では圧倒的にお母さんに負荷がかかっています。更には、大きな格差も生じはじめています。これは障害児のお母さんたちに限らないことですが、現代の女性たちが生活で直面しているのは、非常に多様で複雑な社会からの要求です。この、負荷の偏在を調整していかないといけない。
地域全体の子育てを目指して
大野 乙武さんはいま保育園運営に携わっていらっしゃいます。どういう経緯で、どんな理念をもってやられているのでしょうか?
乙武 小学校で3年間教員をやらせていただいて強く感じたのは、皮肉なことに、やはり家庭が大事なんだということでした。
というのも学校で行動の変化が顕著にある子――例えば急に忘れ物が多くなった子や授業中の私語が増えた子は、なにかご家庭の環境に変化があったという場合がほとんどでした。一方、安定した家庭で、愛情いっぱいに育てられた子は落ち着いて勉強もできるし、新しいことにチャレンジする意欲もあります。そういうケースをみて、「スタート時点で不平等ではないか」と思いました。
理想はもちろん、すべての家庭が子どもに愛情を注ぐことです。でも現実的に考えて、そういう家庭ばかりではありません。であるならば、町全体、地域社会で子育てをする仕組みを作らなくてはいけないのではないか。特に都心部では、コミュニティーがなくなってきていますから、改めてコミュニティーを作る必要があると思っていました。そのとき、たまたま地域全体で子育てをしていくことをコンセプトに保育園を開園しようとしている友人に出会ったんです。ぜひぼくにも関わらせてほしいとお願いをして、いまの保育園運営が始まりました。それが小竹向原にある「まちの保育園」です。
今回は小学校のときと違って、現場で保育にあたることのできる免許を持っているわけではありませんから、保育園でのぼくは、保育園を運営している株式会社ナチュラルスマイルジャパンの取締役という立場で、現場のスタッフが保育に専念できるよう環境を整備することに力を尽くしています。
大野 さきほどお話されていたように、家族だけで子どもを育てることは非常に難しくなっています。でも、いわゆる伝統的な古き良き家族観でもって、「もっと頑張ってください」と家族に言うこともできません。もはや使える資源は使い切っていて、足りていないわけですから。
障害や病を抱えている当事者のご家族をみていて、一般化はできないと自戒しながら思うのは、個々の家庭に「問題がある」ということが問題ではないということです。問題のない家庭なんて、普通「ない」わけです、どんな家庭にも問題はある。家族の構成員それぞれ、つまり1人の人間が、平準的に生きるために処理しなくてはならない物事が、特に都市部では増えているのではないでしょうか。そんな感覚があります。たとえば乳幼児のお母さん一人の1日を考えたとしても、そのお母さんが1日にこなさなくてはいけない仕事の種類と量は、かつてとは比にならないほど増えているような気がします。
乙武 もちろん地域によって抱えている問題は違うと思いますし、コミュニティーが生きている場所もあるでしょう。そういう地域であれば、ぼくもいまの問題意識を抱かなかったかもしれません。でも2010年代に、東京のある程度都心部に住んでいる人間としては、先ほどの問題意識にぶち当たったし、それが少しでも解消させる仕組みが必要だと思いました。
やはりぼくらの保育園に通っている子どもたちが救われるだけでは駄目だと思います。ぼくらの取り組みがきちっとした成功例、モデルケースとなることで、他の保育園や保育者に「あそこはいいことをやっているね」と参考にしていただけるようになることがぼくらの目指すところです。
大野 具体的にどのように地域と保育園を結び付けていらっしゃるのですか?
乙武 保育園を町と繋げていきたい、開いていきたいのだけれど、様々な事件の影響で、セキュリティーの観点からは閉じていかなくてはいけない方向にある。ですから最初、どのように地域と結びついていくべきかとても頭を悩ませました。
それを解消させるために、保育園の敷地内にどなたでも出入り自由のカフェを設けました。これは小竹向原の隣にある江古田で人気のある「パーラー江古田」というベーカリーが出店くださったんです。とても美味しいパンを売っていて、朝は行列ができるほどです。昼も夜もほぼ満席状態。小竹向原は副都心線の急行が停まるようになってから便利になりつつありますが、あまり開発されていない、ごく普通の住宅街でした。そのため地域の核になる施設がこれまでなかったようで、地元の人にもとても喜ばれました。
さらに保護者の皆様の呼びかけで子どもグッズ交換会が開催されるようになって、そこに集まった人たちが育児相談をするようになりました。あるとき保護者の方が「なにか地域振興みたいなことをしたいっていう思いはずっと持っていました。でもきっかけもなかったし、そういう場もなかったから、なかなか行動に移せずにいたんです。そこに、この街の保育園という思いと施設がやってきてくれたおかげで、ぼくらもようやく動き出せるようになったんです。」と言ってくださって、本当に嬉しかった。
大野 これまで東京に住む人たちというのは、それなりにお金を持っていて、いろいろな面で余裕があって、社会資源としての「地域」を必要としていなかったのかもしれません。だからこそ、いま東京では「地域」という仕組みを地方から再発見して取り込んでいる最中なのかもしれないですね。
「エイリアン化」させてきた社会
大野 気管切開をして人工呼吸器をつけて暮らしている人たちとインタビューや取材、運動の場で頻繁に接するので、私にとっては「普通」なんです。呼吸器や胃ろう、ストーマや透析、それらはその人の生を支えている医療技術の1つですから「生の技法」に見える。ベンチレーターをつけて生活している人に資料作成を手伝ってもらったり、共同研究したりします。ある政治家が、胃ろうをつけている方を「エイリアン」と表現して問題になりましたが、一種「異様」で「奇異」に見えるものに対する拒否反応というのは、根強くあるんだなと。
乙武 ぼくもまさに『五体不満足』で世の中に出たとき、皆さんにとってはエイリアンのように映ったと思います。まず普段、車いすユーザーと出会わなければ、車いすユーザーのことをエイリアンと思うかもしれません。ましてや両手両足のないぼくなんて、まさしくエイリアンでしょうね。
例えば胃ろうをつけた方を見た政治家が「エイリアン」と言って批判された。もちろん政治家という立場で、それを言ってしまうのは常識を疑われて当然でしょう。でも、真に批判されるべきはその政治家よりも、そういう方々を「エイリアン化」させてしまってきた社会なのかなあと思っています。やっぱり車いすに乗っている人、人工呼吸器をつけている人ってまだまだ珍しいですよね。普通に生活していて出会わない。だったら出会ったときに「おっ」ってびっくりするのは、当然のことです。
例えばぼくも、町を歩いていて小学生くらいの男の子に「なんだあれ! きもちわりー」って言われたりします。それは政治家のエイリアン発言と全く一緒。差別をしているから、偏見を持っているから指を指すのではなく、いままでみたことのない得体のしれないものを初めて目の当たりしたから驚いている。それは自然な反応だと思います。
ぼくがエイリアンとしてメディアに出続けることで、「そういえば乙武さんって人がいたな。いままでエイリアンのように思っていたけれど、普通に接していいのかもしれない」と思ってもらえればいいなあと思っています。この14年間、そういう思いは強くありました。
「見えない障害」を可視化する
乙武 ぼくはまだよい方だと思うんです。「あいつ車いすだ」ってすぐわかるじゃないですか。ケアが必要な人だって伝わりやすい。最初はエイリアンかもしれないけれど、時間が経てば関係を築けるようになりやすい。でも大野さんの病気も、ぼくが新刊『ありがとう3組』で取りあげた発達障害も、見た目ではわかりません。シノドスが「困ってるズ!」 https://synodos.jp/komatterus で取り上げている「見えない障害」なんですね。発達障害の子たちは見た目ではなにもわからないので、「なんでこいつはまじめにやらないんだ」「カチンとくることばかり言う」って思われてしまう。
目に見える障害への慣れや理解は、ここ10年くらいでだいぶ進んできたようにぼくは思っています。制度やハード面はまだまだかもしれないけれど、心的抵抗はずいぶん下がってきた感触がある。だからこそ次は見た目ではわからない困難や障害を広めていくことだと思う。ぼくも教員になるまでは深く考えたことなかったし、接したこともなかったんですけど、担任をさせてもらったことで、発達障害の子どもたちやご家族の苦悩、周りの戸惑いを見ることができました。見えづらい困難を、活動を通じて伝えていけたらいいなあという思いがいまは強くあります。
大野 たぶん乙武さんが小学校の先生をされていたことと、発達障害の問題に関心を持たれて取り組まれていることは関連性が強いんじゃないかと思います。いま、教育の現場で言説としての「発達障害」が急激に増えている。なぜこんなに急に増えたか、はっきりしたことは殆どわかっていません。「社会性の障害」と表現されるわけですが、このことはとても根源的なところで重くひっかかっていて、しかしこの話をしだすときりがないので、また別の機会にします。
障害や難病の伝え方
乙武 ぼくはまだエイリアンになれます。でも、大野さんや発達障害の子はエイリアンになりにくい。目に見えないわけですから。だからなにができて、なにができないのか傍から見るだけではわかりません。すると伝達するためには一工夫が必要になってくると思う。
さっき大野さんが『困ってるひと』は批判のほうが多かったとおっしゃったとき、すごく胸が痛みました。でもぼくは大野さんのようなやり方はありだと思う。『五体不満足』も『困ってるひと』も、ぼくらの共通点って「一般的にマイナスだと捉えられている要素を人生に背負わされているのに面白く書いちゃったよ」ってところだと思うんですよね。なかには「面白く書くなんて、けしからん」って思う人もいるでしょう。ぼくも「障害を楽しいって言わないで欲しい」ってさんざん言われてきました。だけど、ああいう書き方をしたからこそ、あれだけたくさんの方に読まれたんだと思います。
くそ真面目に「私こんなにつらいんです」って書いても誰も読まないでしょう。それじゃ意味がないと思う。自分の思い出づくりに書くならそれは好きにしたらいいですけど、本当にこの問題について考えてもらいたい、知ってもらいたいと思うなら、一工夫加えなくちゃいけない。不快な思いをする人がいることも理解できます。でも多くの人に届いて、届いたからこそたくさんの賛否両論がでてくるわけです。そこから知恵や考えるきっかけが生まれてくればいい。それでいいとぼくは思っています。
伝えていく人は、いい意味でエイリアンになっていくしかないのかもしれません。先ほど、大野さんは「本当はネガティブな人間なんです」っておっしゃっていました。きっとこれまでに何度もへこんできたことかと思います。でもこれからも発信し続ける存在であって欲しいなってすごく思います。
大野 私は括弧つきのいわゆる「普通の健常者」であった時間のほうが、まだ圧倒的に長いんです。当事者になってみて、乙武さんにそこまで考えさせなくてはいけないのか、難病を抱えて苦しんでいる人たちがそこまで考えなければ社会の側は耳を傾けてすらくれないのかと思いました。現に、私は25年間まったく気づかなかった。「いないのと同じ」で、間接的に無視してきたと言っていいと思います。気づくきっかけもありませんでした。
乙武 まず興味が沸かないですよね。
大野 途上国援助や東南アジアの地域研究に多少なりとも関わってきた自分自身の25年間への、猛省みたいなものに、いまは貫かれているような気もします。
乙武 猛省をしてしまうと、いま気づいてくれていない人を責めることにもつながってしまうから、そこまで猛省する必要はないと思いますよ。ぼくだって手足があって普通に生きていたら、障害についての興味なんて湧かなかったと思う。接点がなければ、どう接していいのか戸惑ったはずです。それは自然なことだと思うんです。ただ、くしくもぼくはこういう体で生まれた。大野さんは難病になって、たまたま発信すべきことがある人になった。だから、あんまり反省する必要ないとぼくは思います。それに、大野さんのほうがぼくよりも健常者の気持ちがよくわかると思います。だからどうやってボールを投げればこっちに振り向いてもらえるのか、もしかしたらぼくよりもいい知恵が浮かぶかもしれない。
大野 ……乙武さんって、なんだかお兄さんみたいですね(笑)
乙武 いやあ、もうおっさんですよ(笑)
大野 最後に、最近「困ってること」ってなにかありますか?
乙武 うーん……朝ゆっくり起きたいんだけど、隣に寝ている次男の回し蹴りで目が覚めることですかね。結構痛いんですよ。
あとはなんだろうな、いろんな駅にエレベーターがついて、移動もあまり困らなくなってきました。でもJRの対応が凝り固まっていて、マネージャーがよくキレます(笑)
大野 いろんな公共交通機関の各事業者がありますが、JRはとにかく組織自体が巨大すぎて、何事も一つ変えるのが一大事です。人力に頼る部分が大きいですよね。1人1人の駅員さんは、すごくいい人なんですよ、当たり前ですが。その「いい人」さにシステムが頼りすぎなんです。
乙武 私鉄さんはけっこう対応がいいですね。
大野 私鉄は各社で差が大きいですが、マンパワーをあまり割けないので新しい路線は最初からハードを整える傾向があるかもしれませんね。地方になると逆転して、私鉄やバス事業者の整備状況はとても厳しい。車社会ですから、路線バスが重要な公共の移動手段になるわけですが、ノンステップバスの導入率は、全国平均27.93%(平成23年)。圧倒的に首都圏に偏在しています。関東運輸局204 社の総車両18808台中、ノンステップバスは46.75%にあたる8793台。
しかし東北運輸局をみると、70社総車両4708台中、241台で導入率は5.12%です。青森や秋田、福岡など18道県は導入率が10%に満たない。JRは綺麗に改装された東京駅ですら、中身はまだ変わっていなくて大変です。どうやって乙武さんや私が新幹線に乗るのかは……具体的にどうやっているか、読み手の方は想像がつくでしょうか。職員の方の労働条件や、腰痛問題にも関わることだと思います。
乙武 大きな駅ほど古いんで、改築できないんですよね、構造的に。
大野 交通アクセスやバリアフリーに関する資料収集を片手間にしているのですが、1970年~90年代にかけての当事者運動の映像資料を見ると、見る度に泣けてきます。この話も長くなるので、またの機会にぜひ。
今日はありがとうございました。今度、保育園に伺わせてください。
乙武 こちらこそ、是非。楽しかったです。
(2012年10月19日 渋谷東武ホテルにて)
プロフィール
大野更紗
専攻は医療社会学。難病の医療政策、
乙武洋匡
1976年東京都生まれ。大学在学中に自身の経験をユーモラスに綴った『五体不満足』(講談社)が多くの人々の共感を呼び、500万部を超す大ベストセラーに。大学卒業後はスポーツライターやキャスターを務めるほか、2005年4月からは、東京都新宿区教育委員会の非常勤職員「子どもの生き方パートナー」として教育活動をスタートさせる傍ら、明星大学の通信課程に学び、2007年2月に小学校教諭二種免許状を取得。同年4月から2010年4月まで杉並区立杉並第四小学校教諭として勤務し、3・4年生を担任した。現在は、メディアを通して教育現場で得た経験を発信していく活動を柱としている。著書に『だいじょうぶ3組』(講談社、2010)、『ありがとう3組』(講談社、2012)など多数。