2014.09.05
「異質性の祭典」としてのオリンピック――共生社会とナショナリズム論の動向
「平和の祭典」としてのオリンピック
音楽は国境を越える、と私たちはしばしば語る。たとえ言葉が通じなくても、美しいメロディーや心を弾ませるリズムを楽しむのは万国共通である、と。スポーツについても同じように言えるかもしれない。汗を流して楽しく過ごす時間は、人を選ばない。ともに競い合った経験は人と人との間をつなぎ、言語や民族の壁を乗り越えさせる。私たちはそのように感じ、考える。
オリンピックが平和の祭典と呼ばれるのも、こうしたスポーツの越境の力と無縁ではないだろう。古代ギリシアではオリンピック開催のためにポリス間で休戦協定が結ばれたが、それはスポーツの力の発現というよりも、ゼウスに捧げられる宗教行事でもあったオリンピックを実現させるためという実践的意味合いが強かったようだ(師尾晶子「休戦を運ぶ使節たち」『古代オリンピック』岩波新書)。
一方で、近代オリンピックにおいてはスポーツ自体の効果がより強く期待されるようになった。近代五輪の創設者とされるピエール・ド・クーベルタン(1863-1937)は、祖国への愛と同時に、他国への「知的で聡明なる共感を示すことによって、祖国に対するその国の人々の好意を勝ち得ようと努める」ような「真の国際主義」を強調していた(ジョン・J・マカルーン『オリンピックと近代』平凡社)。
もともとクーベルタンは、イギリスのパブリック・スクールで行われていたスポーツに、人格や道徳心、愛国心などを養う教育効果があると考え、フランスにスポーツ教育を導入しようと試みていた。貴族階級の生まれながら共和主義を奉ずるクーベルタンは、スポーツが貴族階級を越えてブルジョワ階級や労働者階級にも広まることを期待した。国境を越えて広がるスポーツの祭典は、階級を越えて広がるスポーツ教育の延長線上にあったとも言える。
2020年に予定されている東京オリンピック・パラリンピックでも、やはり国境を越えた交流の広がりが期待されている。東京招致の最終プレゼンテーションで話題になった滝川クリステルのフランス語スピーチでは、「おもてなし」を”sens profond de l’hospitalité, généreux et désintéressé”(組織委員会のサイトでは「見返りを求めないホスピタリティの精神」と訳している)と説明しているが、この精神がオリンピック憲章にある「スポーツを行うことは人権の一つである。すべての個人はいかなる種類の差別もなく、オリンピック精神によりスポーツを行う機会を与えられなければならず、それには、友情、連帯そしてフェアプレーの精神に基づく相互理解が求められる」という根本原則の実現を後押しするのであれば、開催国・開催都市としてもこれ以上喜ばしいことはない。
政治の影
しかし、オリンピックが平和の祭典そのものであり、何もせずとも国家や民族間の争いから自由だと考えるのは、素朴に過ぎる。ナチス政権下1936年のベルリン五輪もそうだが、1980年代、東西冷戦下でのモスクワ五輪、ロサンゼルス五輪におけるボイコット問題も、オリンピックと政治をめぐる現代の生々しい記憶である。
とはいえ、これらはクーベルタンが理想とした国際主義からの逸脱事例に過ぎないという見方もあるかもしれない。本来は平和の祭典であるはずのオリンピックが、戦争の世紀の中で歪められ、濫用されただけだ、と。だが実際には、1896年にギリシアで開催された第一回の近代オリンピックでさえ、政治の影響を免れていたとは言い切れない。1897年にクレタ島の帰属をめぐりオスマン帝国とギリシアの間で起こった戦争について、マカルーンは、前年のオリンピックによるギリシア王室の権威上昇が国家主義的な風潮を刺激し、結果として紛争の促進要因となった可能性を示唆している(マカルーン、前掲書)。理念は理念として尊重すべきだが、他方でオリンピックの現実を政治と切り離すことは難しいとも認識しておくべきだろう。
オリンピックによって平和が促進されるという話の裏側には、平和があらかじめ実現されていないとオリンピックは開けないという事情があり、さらにはオリンピック開催によって紛争が助長されるという可能性もある。オリンピックが平和の祭典であってほしいと願うのであれば、私たち自身の意志と行動でオリンピックを平和の祭典にする必要がある、と言ってもよい。
民族の祭典?
近年のオリンピックでは、民族が重要なテーマとしてしばしば表面化してくる。一例として、2000年のシドニー五輪では、多民族国家であるオーストラリアの成り立ちを意識した開会式が見られた。オーストラリアは、多文化主義政策を取る代表的な国の一つである。他方、2012年のロンドン五輪に関しては、招致活動段階で民族や文化の多様性をアピールし開催を勝ち取ったものの、開催が決まった最終選考会の翌日2005年7月7日にロンドン同時爆破テロが発生し、多民族・多文化社会への批判が強まるという皮肉な事態が生じた(安達智史『リベラル・ナショナリズムと多文化主義』勁草書房)。
いずれにしても、冷戦終結後の国内・国際政治の中で民族や文化にかかわる論点は存在感を増しており、オリンピックもその影響下にある。特定民族の優越を誇示するという意味での「民族の祭典」は今やあるべきものではないが、国境の内外で民族の多様性や文化の独自性にどのように向き合うかという問題について、オリンピックは一つの焦点となっているかのようにも見える。
日本でも、1980年代以降、国際化や多文化共生、グローバル化などのスローガンが掲げられることが多くなった。1979年のインドシナ難民受け入れ開始と1981年の難民条約批准、1990年施行の出入国管理法改正による日系外国人の急増や1993年の技能実習制度導入など、国際情勢やグローバル経済の動向を受けて、国内の文化的多様性は増大してきた。
もっとも、たとえばイギリスで総人口に占める外国人の割合が6.3%(2007年)、労働力人口総数に占める外国人労働力人口の割合が5.8%(2006年)であるのに比べて、日本では総人口に占める外国人の割合は1.74%(2008年)に過ぎず(「2008~2009年 海外情勢報告」厚生労働省大臣官房国際課)、しかも2008年から12年にかけてその比率は低下した(「在留外国人統計(旧登録外国人統計)統計表」法務省)。いわば、多文化化が進展しながらも相対的に多文化的ではない社会(ただし200万人の在留外国人を、絶対数として「少ない」とは言えまい。「事実上の移民国」として日本を考える視点としては宮島喬『多文化であることとは』岩波書店)、というのが今の日本の現状であり、その現状の中で私たちは2020年を迎えることになる。
「多文化主義の失敗」とリベラル・ナショナリズム
ここで、民族をめぐる近年の政治理論の動向へとしばらく視線を移してみたい。この分野では、1990年代以降ウィル・キムリッカらの業績を中心に、多文化主義の立場から問題が提起されてきた(キムリッカ『多文化時代の市民権』晃洋書房、原書は1995年、など)。それまでの個人主義的なモデルでは解決できない民族や文化集団の間の不平等にどのように対処していくか、が問われたのである。すでにカナダなどで二言語主義政策など多文化型の政策が実践されており、また冷戦終結後にユーゴスラヴィアでの民族紛争が激化したことなどもあって、多文化主義の理論研究は現実的な緊急性を持つものでもあった。
ところが、先に述べたロンドン同時爆破テロの後、多文化主義は失敗したのではないか、という批判が表面化してくる。多文化主義は社会の一体感を破壊した上、各文化を孤立させ集団間の対立を深めてしまい、その結果がテロにつながった、というのである。
2010年にドイツのメルケル首相が、続いて2011年にはイギリスのキャメロン首相が、相次いで「多文化主義の失敗」に言及した。そしてキャメロン首相は、テロを招くような「過激主義のイデオロギー」に立ち向かうために、「あらゆる人に開かれている、共有されたナショナルなアイデンティティー(shared national identity that is open to everyone)」が必要だと述べるに至る(PM’s speech at Munich Security Conference)。
多文化主義は、アイデンティティーの多様性を積極的に承認し、育んでいくことを主要な課題としていた。だが、共有された唯一の国民的アイデンティティーが強調されるとなれば、大きな方向転換となる。
確かに、ここで言う「ナショナルなアイデンティティー」は、血統にしばられることなく「開かれている」とされる。アイデンティティー形成のプロセスに少数民族や文化集団の参加も想定されるので、排外主義や目に見えた差別と一応は切り離される。そのため、こうした立場は、単なるナショナリズムとは異なり、「リベラルなナショナリズム」と呼ばれる。やや古いが、「ナショナリティという観念は人々の集団の自覚的な創造行為であって、それぞれの集団はみずからの社会的・政治的環境を理解するためにこの観念を練り上げ改変してきたのであるが、その際私たちもまたこうした過程に加わっている」というミラーの言葉を、定義の一例として挙げてもよいだろう(デイヴィッド・ミラー『ナショナリティについて』風行社、11頁。強調は早川)。
とはいえ、たとえば消滅の瀬戸際にまで追い込まれた民族集団へナショナル・アイデンティティー形成作業への参加を呼び掛けることにどれほどリアリティーがあるかを考えれば、多文化主義からの撤退は明らかである。
日本の共生論の位置
こうした多文化主義見直しの動向に照らし合わせた時、日本の状況はややねじれた位置にあるように思われる。先に記したように、日本でもこの間多文化共生の試みが継続されてきた。直近では特に、今後の人口減少を視野に入れて、移民の受け入れ促進の可否にまで議論が及ぶことも多い。
しかし他方で、以前に別途論じたように(ヘイト・スピーチと「自由」の意味)、日本では多文化主義の問題提起が必ずしも十分に受け取られてこなかったきらいがある。日本における多文化共生は、多様な文化の平等と共存をめざす潮流がある一方で、事実上の多文化化のみを受動的に承認し、あらかじめ存在するナショナルな「日本文化」を前提としたままで他の文化を受け入れようとする風潮も強かった。そのため、そもそもナショナルな文化や多様な文化がそれぞれどのような意味を持ち、今後どのように受け継がれていくかについて、議論の場が形成されてこなかったのではないだろうか。
たとえば外国人労働者は、日系外国人にしても実習生にしても、文化形成の一部を担う「住民」としてではなく、単なる「労働力」として受け入れられているというケースも見られた(宮島、前掲書、第7章、および田中宏『在日外国人 第三版』岩波新書、第8章)。もし「労働力」が、グローバル経済の動向次第で出入をコントロールされるだけの存在ならば、それはあくまでも「お客様」扱いであり、観光客が一定期間後に帰っていくのと大差はない。
前節で見たように、リベラル・ナショナリズムの登場は、多文化主義が失敗したという判断を論拠としていた。そのため、多文化受容の積極性には歯止めがかけられている。たとえば言語政策について、ミラーは、多様な言語を平等に扱うのではなく、ナショナルな言語を決定しそれを全市民が学べるようにするべきだと主張する(前掲書、336頁)。だが、民族や文化の多様性にどのように向き合うかという多文化主義の問題提起を一度はくぐり抜けてきているだけに、リベラル・ナショナリズムはナショナルな文化自体の変化の可能性を認め、しかもその変化の方向を人々の議論によって意図的にコントロールしていこうとするものでもあった。文化は政治的・社会的な作為の結果として生まれてくる可塑的なものとされているのである。したがって、リベラル・ナショナリズムは、多文化主義に対して反動的でありながらも、その反動自体を抑制する論理を内包することになる。
これに対して、日本の多文化共生は、多文化と銘打っているにもかかわらず、多文化主義を批判するリベラル・ナショナリズムよりも文化の受容に対して否定的であり得る、という一面を持つ。どれほど外国人人口や民族的多様性が増加しようとも、ナショナルな文化そのものの建設的な見直しが可能とされない限り、多様な文化はナショナルな文化と分断された「お客様」にとどまってしまうからである。
記憶の堆積の中から
ところで、こうした問題を、内部の主流文化と外部の文化との相克としてのみ理解するのは、正確ではない。というのも、そもそもナショナルな文化でさえ、歴史的推移の中で、異質な要素を抱え込んできているという事情があるからだ。
オリンピックにまつわる例を見てみよう。新装された国立競技場で1964年東京オリンピックの開会式を見た杉本苑子は、「美しかった」と述べながらも、同時にその同じ競技場で20年前(当時は明治神宮外苑競技場)に開催された出陣学徒壮行会にも想いを巡らせている。そして、「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」と記した(杉本苑子「あすへの祈念」『東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典』講談社文芸文庫。国立競技場の歴史については、後藤健生『国立競技場の100年』ミネルヴァ書房、に詳しい)。
杉本は、かつて戦争に利用された場所でオリンピックを開催することを無神経だと批判しているわけではない。ただ、掘り起こされた異質な記憶は、私たちの眼前にある光景を異なる文脈に位置づけ直す役割を果たす。戦後日本の経済復興を象徴する盛大な式典は、戦争の記憶と重ね合わされることで、平和への祈りを捧げるよう私たちに呼びかけ始めるのである。
私たちが暮らす国土や積み重ねてきた歴史には単線的な物語には収めきれない無数のエピソードの堆積がある。そして、その堆積からどのような物語をつむいでいくか、つまり自分たちの文化をどのようなものとして認識し伝達していくかは、私たちの解釈の営み次第である。杉本の言葉は、そのことを教えてくれているのではないだろうか。
「私たち」の問題として
2020年には、多くの観光客が日本を訪れることになる。観光客の滞在は短期であろうし、「おもてなし」に良い印象を持って帰国していただけるのであれば、そのこと自体に問題はない。だがその中には、グローバル化にさらされたそれぞれの国で、多文化体験と格闘しつつ、ナショナルな文化自体の多様性と可塑性を体感してきた人々も多くいるであろう。どのように自国の文化を解釈し、再構成し、未来に伝えていくべきか、工夫と努力を続けてきた人たちである。その目に、日本の多文化共生のあり方はどれだけ魅力的に映るのであろうか。
そして何よりも、「私たち」(語り手である「私たち」が誰なのかということ自体、再解釈と再構成が可能であるのだが)は、日本の文化がどのような歴史的資源を引き取り、どのように解釈され、どのように受け継がれていくことを望ましいと考えるのであろうか。
数の問題だけならば、多文化主義の問題提起が重く受け止められた国々と比較して、相対的に日本のマイノリティー人口の総数は少ないかもしれない。だが、多いか少ないかということと、多い少ないにかかわらず共に生きていく道を探すのかどうかということとは、別の問題である。後者は、端的に言えば、共生という課題を通して、私たちがどのような日本を魅力的だと考えるのか、という問題である。
しかもこれは、民族や戦争、移民や文化などのテーマに限られた問題ではない。今回、東日本大震災の傷跡が残る中でオリンピックを開催することについて、多くの反対意見があった。東京でオリンピックを開催することが、被災地の切り捨てにつながるのではないか、という懸念ゆえである。
ところで、開催地の足元を見直してみれば、当然のことだが東京にも被災の歴史がある。たまたま品川区に位置する勤務先の歴史を調べていて知った一例だが、1917年(大正6年)9月30日から10月1日にかけて、台風の暴風雨と満潮が重なり、東京湾沿岸に大きな被害が生じた。いわゆる「大正6年の大海嘯」である。「つなみ」で潮位は荒川工事基準面4メートルほどに及び、今回のオリンピックで多くの訪日客の窓口となるであろう羽田や、いくつかの競技場の予定地とされている品川沿岸、選手村建設が予定されている隅田川河口近辺も浸水した。死者・不明者数は千人を超える(『日本歴史災害事典』吉川弘文館)。
こうした歴史を踏まえるならば、中心である開催地と周縁にある被災地という二項対立図式は成立しない。かつて、開会式の場である国立競技場の歴史の古層に出陣学徒壮行会を見いだした杉本は、「あの日もきょうにつながっている」と記した。同じように、被災地としての東京の歴史に思いを致す時、われわれはオリンピックがどのようにすれば被災地と共生できるのか思考するように促される。それは、国家間メダル競争に明け暮れても不思議ではない「主流」のオリンピックを、より複雑で矛盾に満ちた祭典として浮かび上がらせるきっかけになるかもしれない。
「共生」の意味の再考を
「共生」は、わかりやすい言葉である。人々が共に生きることに反対する人は、まずいない。問題はどのように共に生きるかである。共生が当然のことであると考えれば考えるほど、自分自身が考える共生のあり方が絶対であるかのような錯覚に陥る危険も大きくなる。
少数派が自然消滅していくことに大きな問題を感じないような「共生」論もあるかもしれない。外国人労働者の受け入れが住民としての権利問題とは切り離されている「共生」論もありうるだろう。もちろん、異なる体験と文化を背景とした訪日観光客をどのように「おもてなし」するかということも、「共生」論の一部となる。ちなみに、先の「おもてなし」の定義について、筆者個人としては「人を選ぶことなく、損得抜きで、心の底から喜び迎えようとする気持ち」とでも訳したいのだか、皆さんであればどのように翻訳されるであろうか。
おそらく2020年東京オリンピック・パラリンピックは、「共生」について異なるイメージを持つ人々が世界中から集まり、その間のズレや誤解が発見される場にもなる。開催に向けた施設・インフラの整備や国際化教育のあり方も、そうした文化的差異のぶつかり合いを想定し、それに影響されざるを得ない。しかもオリンピックは、「日本文化」が「異文化」と出会う場であるだけではない。「私たち」の文化が内包する多様性が白日の下にさらけ出される場でもある。やや大げさに言えば、オリンピックを「異質性の祭典」と表現してもよいかもしれない。だからこそ、それが「平和の祭典」であり続けることができるように、私たちが力を尽くす意義も大きいのである。
サムネイル「国立霞ヶ丘陸上競技場 (National Olympic Stadium)」Kentaro Ohno
プロフィール
早川誠
1968年生まれ。立正大学法学部教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。博士(法学)。専門は現代政治理論。著書に『代表制という思想』(風行社、2104年)、『岩波講座 政治哲学 第4巻 国家と社会』(岩波書店、2014年、共著)他がある。