2015.08.24
閉じた世界の論理を記述したい
自己啓発の閉じた世界
――本日は、『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』著者の牧野さんにお話を伺います。前著『自己啓発の時代』では、2010年ごろまでの自己啓発書について取り上げられていますよね。リーマンショック後の景気悪化や震災など、この頃から、社会情勢はまたどんどん変わって行きましたが、自己啓発の分野にも変化があったのでしょうか。
編集者さんにお話をうかがうなかで、幾人かがリーマンショック以降、より「本質的なもの」が求められているようだと仰っていました。ですが、自己啓発書全体のトーンが明らかにそれを受けて変化したという傾向は、さして観察できなかったように思います。男性向けビジネス書のトーンが一部強迫的になっているところはある気がするのですが。
つまり、「ポジティブになることがきっといい成果をもたらす」というようなトーンではなく「ポジティブになれなければ一生敗者のままだ」というような二極化の押し出しがしばしばみられるようになっています。ただ、これが時代の影響かどうかは分かりません。
多くの出版社、多くの書き手が入り乱れる自己啓発書業界のなかで、より強い書き口を打ち出して差異化を図っているという側面もあるでしょうから。
もう一つ、2011年に起きた震災、つまりこの社会で起きた未曾有の出来事は、人々の生き方や働き方を指南する自己啓発書にどう影響したのだろうということも調べてみたことがあるのですが、それもさして観察できなかったように思います。
本の冒頭で少し震災に触れるようなものはいくつかあるのですが、それとて「震災の被害にあった人も、あわなかった人も一緒に頑張ろう」というように、著者がもともと言いたいことの前置きとしてしか言及されないことが圧倒的に多かったです。
そもそも、自己啓発書の説得性や明快さを高めていくにあたって、この世の中の出来事をつぶさに論じていくことは阻害的になるのだと思います。世の中のことはそこそこに観察する、するとしても自己啓発の世界の論理にしたがって観察して取り入れ、内的な整合性や面白さを増していく。
そういう相対的に自律した、完結した自己啓発の世界があるよなあということを、資料として自己啓発書を読むたびに思い重ねてきて、その閉じた世界の論理を記述したいと思って今回の本を書きました。それは今日の社会を描き出すことにもつながると思いましたし。
――牧野さんはもともと少年犯罪の報道分析をされていたんですよね。それがなぜ自己啓発をテーマに研究しようと思われたのでしょうか。
2000年代前半、森真一さんの『自己コントロールの檻』や、樫村愛子さんの『「心理主義化する社会」の臨床社会学』、斎藤環さんの『心理学化する社会』など、私たちの暮らす社会の関心がどんどん「心」に向かっているとする指摘が幾人かからなされていました。私もそれを受け、修士論文では、少年犯罪報道を対象としたこのテーゼの実証に取り組みました。
具体的には、1960年代まであった「貧しさゆえの犯罪」「都会のひずみが生んだ犯罪」というような「社会」を手がかりとする解釈枠組がその後消失し、1970年代から1980年代にかけて「家庭」「学校」問題として少年事件を捉えようとする枠組が支配的になったのち、1997年の神戸・連続児童殺傷事件以降は「心の闇」を解き明かそうという枠組が新たに登場する、というような展開を追いかけました。
ですが、少年犯罪報道を読み過ぎて精神的にしんどくなってしまったことと、他者を解釈する枠組ではなく自分を解釈する枠組の心理学化こそがもともとやりたかったのでそのことに取り組んでみようということで、博士課程に入ってからそれまでやってきたことを一旦ほとんど捨てました。
で、「自己の心理学化」というテーマで何を調べるといいかなと探していたところ、たどり着いたのが「自分探し」をテーマにした特集をしばしば組んでいた『an・an』でした。
雑誌を色々調べていて『an・an』にたどり着いたのですが、調べているうちにビジネス誌も「○○力」を沢山ぶちあげて、自分探しではないけれど「自分磨き」を煽っているなと思ってそれも調べ出したり、『an・an』と似たようなことを言っているかもしれないと思って就職対策書にも手を伸ばしたりしました。
そうやってみていくうちに、「自分探し」「自分磨き」を称揚しているのは心理学者やカウンセラーだけでなくて、小説家だって、エッセイストだって、占い師だって、タレントだって、皆同じようなことを言っているよなあということが段々分かってきて、だとすれば「心理学化」という括りは適切じゃないかなと。ここでようやく、これらは多分「自己啓発」って括るべきだと気づいて、自己啓発書の分析を行うことにしたんです。
――この本の中で「自己啓発」はどのような定義なんですか。
うーん、難しいです。もともとこの言葉は、企業における人材開発論の周辺から出てきている言葉ですが、その後この言葉には独自の意味付与がなされて今に至っていると思います。
1980年代であればこの言葉は「精神世界」に近い意味合いをかなり含んでいたと思います。「自己啓発セミナー」が隆盛したのはこの頃でした。ですが、今は自己啓発という言葉はもう少しフラットになっていて、それと並行して自分を変えよう高めようとするメッセージもどんどん拡散しているように思います。
今回の本でも書いていることですが、なんでも自己啓発の素材になってしまうのが現在なので、くっきりとした定義を与えることは難しく、それが私の研究の弱点なのですが、でも今回はそこを開き直って、自分自身を高めようとする活動を丸ごと捉え、その全体的なベクトルを描いてみようとしました。
片づけ=人生が変わる!?
――第5章でも触れられていますが、特にいま、「片づけ本」がすごいブームですよね。
ちょうどこの本が出たばかりのとき、近藤麻理恵さんが米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたというニュースが出たので、そうですね、一つの潮流になっているのかもしれません。
もともと日本は、仏教圏ということもあって、掃除・片づけと道徳・精神修養が結びつきやすい文化的背景をもっているのだろうと思います。これは仏教圏特有の傾向だそうなのですが、学校という学びの場で掃除をさせられてきたという私たちの経験もまた、掃除をそれのみに留めずにおくメッセージを受容する下地になっているのでしょう。
ですが、管見の限りでは、その伝統から直接的に、近年の「片づけブーム」が生まれたのではないように思います。
一つのきっかけは、ローヤル(現イエローハット)創業者の鍵山秀三郎さんだと私はみています。会社創業以前から行ってきた早朝掃除が、企業経営におけるひとつの手法として1990年代前半に注目を集めたあたりから、近年のブームは動き出したように思います。
――はじめは企業で使われるものであったと。いまは、「家の片づけをして幸せになろう」という文脈ですよね。
両方とも今でもあるのですが、近年、より注目を集めているのは後者かもしれません。興味深いと思うのは、長い間「きれいにすること」「整えること」それ自体を目指してきた家の片づけ論が、あるときから自分を好きになったり、自分を変えたりするための営みという意味を持ち始め、場合によっては家をパワースポットにしようという聖なる営みにもなっていくということです。
この経緯については、先ほどご紹介いただいた拙著の第5章にあれこれと書いていますので省略しますが、それらのあれこれを上手く統合し、近藤さんや「断捨離」のやましたひでこさんのような、主張とキャラクターとがしっかり立った著者が旗を振ったところで、今日の「ブーム」が起きているのだと思います。
自己啓発書とは違うリズムと文体で
――先ほど、自己啓発の世界を「閉じた世界」と仰っていましたが、これからの自己啓発に変化はないのでしょうか。
この本のもとになった「プレジデントオンライン」での連載を2012年に始めてから、書店に行くと自己啓発書コーナーをぶらぶらする習慣がついたのですが、そのときから現在に至るまで、大きな方向は変わっていないように思います。
水野敬也さんの『人生はニャンとかなる!』だとか、近年のアドラー心理学本の陸続だとか、いくつかの新たな動向はありますが、ここ15年ほどの「見せ方」を重視する傾向、ピーター・ドラッカー等の「大物」の主張が分かりやすく解説される本が陸続する傾向を考えれば、根本的な地殻変動ではないように思います。
いずれにせよ、近年の動向については私なんかよりもっと詳しい方がいると思いますが、メッセージを極限まで絞り出していけば、男性の自己啓発のゴールは何よりも仕事、女性は自分探しという点は近年に限らず、ここ40、50年近く変わっていないのではないでしょうか。
――この本は、アンチ自己啓発とまた一線を画しているなと感じたのですが、その点は意識されていましたか。
自己啓発をテーマにした書き物をすると、もっとこんな学術的な分析じゃなく、世にはびこる自己啓発書をスパッと一刀両断してほしいとか、もっとパッと分かる内容にしてほしいとか、そういうコメントあるいはご批判を受けるときがあります。
もちろん、分かりづらい部分は私の筆力の問題が多分にあるので、ただひたすらに謝るしかないのですが、でも、一刀両断にしてほしいというコメントと合わせ、一方でこうも思います。
まず一刀両断ということについては、そうはっきりと切り捨てられるほど、自己啓発的なメッセージの浸透は表層的ではないだろうということです。それは、私を含めた、この現代を生きる多くの人々のなかに、多かれ少なかれ入りこんでいると思います。「自己啓発書に騙されないオレ」のような立ち位置は単純には成り立たないと思うのです。
また、もっと分かりやすくということについては、それこそが今日の自己啓発書の作り方なのだと思うんです。一目で分かって、ストレスなく読めて、武田砂鉄さんが『紋切型社会』で述べるところの「紋切型」を通して、同時代的な感性にすっと溶け込んでいくという。で、そういう書き方から距離をとりたいなと。
つまり、殊更分かりにくくしたつもりはないのですが、アカデミックな書き方の可能性を追い求めつつ、そのなかでできるだけ多くの人に分かってもらえるような書き物を作ろうと私なりに努力するなかで、自己啓発書とは違うリズム、違う文体で自己啓発について論じたのがこの本です。違うリズム・文体の書き方を通して、自己啓発書のある種の異様さを浮き彫りにしようとしたのでした。
狙いということでもう一ついえば、邦題の方ではあるのですが、この本のタイトルはジャック・ドンズロ『家族に介入する社会』に引っ掛けたものです。家族という領域にある種「上から」介入する統治性と、人々のささやかな日常を自らの気づきと自助努力によって組み替えることを促す、つまり「下から」個々人へと誘いかけていく統治性とはある種対照的で、その対照性を大きなスタンスとしては打ち出しています。
本の中では、ニコラス・ローズ(もともとはミシェル・フーコー)が述べる統治性概念は大きすぎて実証的な検討ができないと述べているのですが、結局総体的なスタンスとしては、前著に引き続いてまた頼ってしまいました。今後はもうちょっと違うアプローチを探していきたいと思います。
プロフィール
牧野智和
1980年東京生まれ。大妻女子大学人間関係学部専任講師。早稲田大学大学院教育学研究科博士後期課程満期退学。博士(教育学)。著書に『自己啓発の時代-「自己」の文化社会学的探究』(勁草書房)、共著に『どこか<問題化>される若者たち』(恒星社厚生閣)など。