2012.07.02
ナショナリズムの力??リベラル・デモクラシーを下支えするもの
「グローバリゼーション」は今や世界の常識となっている。いわゆる「リーマンショック」以後もそれは変わっていないようである。今の世界や日本には、「グローバル化」や「ボーダーレス化」というのが世の中の趨勢であって、それに乗り遅れてはいけないというような風潮があるように思われる。しかし、はたしてグローバル化/ボーダーレス化した世界は本当に望ましいのだろうか。とりわけリベラル・デモクラシーとの関連で少し考えてみたい。
たとえば、鳩山元総理は「日本列島は日本人だけのものではない」という趣旨の発言をした。菅前総理は「平成の開国」なるものを掲げ「環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)」への意欲を示し、そうした路線は野田総理にも引き継がれている。これらの背景には、「開国」という言葉に如実にあらわれているように、国家と国家との間に厳然とある境界線を可能なかぎり取り払うべきだ、そのほうが望ましいのだ、という考え方があるように思われる。
別の言い方をすれば、これはある種の進歩史観であって、人間社会は村落共同体や国民国家といった個別的枠組みから、地域共同体やグローバルな統治枠組みへと進んでいくべきであって、つまり各地域が土着の文化を脱し普遍的な政治経済的枠組みのもとに収斂していくべきだという考え方に基づいている。
リベラリズムの政治理論は概ね、多様な世界観や異なった善い生き方の構想を有する諸個人のあいだに、その相違にもかかわらずみなが同意でき、共生を可能にする政治社会の構成原理を探求し、打ちたてることを課題としてきたといってよい。ここで問題なのは、従来支配的であったリベラリズム理解は、上述のような進歩史観と手を取りあってきたと考えられるということである。端的にいって、異なる文化的背景を有する人々が、究極的には単一の世界大のリベラル・デモクラシーの政治枠組みのもとで混ざりあいながらともに暮らす。こうしたコスモポリタン的な共生の構想が理想とされてきたわけである。
ところが、仮に国境線を取り払ってしまった世界があるとして、そうした世界において、リベラル・デモクラシーの深化が促され、自由・平等・民主主義などといったリベラルな価値がはたして実現可能なのだろうか。
注目を集める「リベラル・ナショナリズム」
近年、英米圏の政治理論において、そしてまた日本でも注目を集めているものの1つに、「リベラルな文化主義」、そしてその一潮流としての「リベラル・ナショナリズム」の理論が挙げられる。リベラル・ナショナリストによれば、自由・平等・民主主義などという価値を実現するリベラル・デモクラシーの政治枠組みは無色透明でどこでも同じようなものが見いだされるのではなく、それを下支えする集団(ネイション)の文化的文脈に強い影響をうけると主張する。
たとえば平等(社会正義)を社会のなかで実現しようとすれば、まずはその社会の構成員間に信頼感や連帯意識がなければならない。不遇な者に対する共感がなければ再分配の動機が生じないからである。では、なぜそうした信頼や連帯意識が生じるのだろうか。その基盤となるものの1つとして、平等をどのように実現するかを考えるうえで不可欠な背景となる共通の意味や解釈の集合としての「ネイションの文化」の共有が挙げられる。「ネイションの文化」というのは、人々がその社会のなかでどのようにして共に生活を営んでいくかについて、長い間蓄積されてきた慣習や伝統の集積のようなものだといってよい。
それを共有していることが一因となって、同じネイションに所属する人々はお互いを仲間だと認識し、またそれに基づいて社会正義の構想が形成されるのである。そして、だからこそ人々はそうした社会正義の枠組みを「われわれのもの」だと思い、愛着を抱き、支えていこうと考えるのだ。したがって、ディヴィッド・ミラーやマイケル・ウォルツァーは、ネイションが異なれば、文化や社会的経験の違いのため、平等や社会正義の構想もまた異なるのであって、それは多元的かつ個別的なものであってしかるべきだというのである。
以上のような、ナショナリティなどの「共同性」を重視する議論にかかわってもう1つ重要な点は、社会の「閉鎖性」、あるいはいいかえれば、社会の「非流動性」である。人びとが協力して社会を営んでいく前提として、実は社会にある程度の「閉鎖性」や「非流動性」がもとめられる。なぜなら、もしその社会がなんらかの理由で立ちゆかなくなったときに、いつでもそこから離脱して別の社会に移ることが容易に可能であれば、一部の奇特な人を除いて、その社会をこれからも共同で営んでいこうなどとは考えないのではないだろうか。少なくともそうした動機は生じがたいように思われる。
ウォルツァーが指摘するように、ネイションという集団は「非自発的アソシエーション」である。それは簡単には離脱できない、一定程度閉じられたものである。「非自発的アソシエーション」は構成員をそこから離脱できないように道徳的に束縛する。このことは、閉ざされた空間のなかで他者と共に生き、相互に扶助しあうといった社会的協働の基盤をつくりだすというのである。
流動性の高まりが破壊する協働生活体
似たようなことをアルバート・ハーシュマンが指摘している。ハーシュマンはある地区の居住環境が悪化した例を挙げて、次のように説明している。近隣の環境が悪化した際に、安全性・快適さ・清潔さなどの良好な居住環境を求める住民には、次の2つの選択肢がある。清掃や見回りなどを近隣の住民に提案するといった「発言」をし、住環境の悪化に歯止めをかけるか、他の住環境のよいところに居を移す、つまり「離脱」するかである。
このとき、合理的観点からすれば、「発言」のほうが「離脱」よりもさまざまな面でコストがかかるために、「離脱」が選択される可能性が高い。ここで全員が離脱を選択すれば、その居住環境は荒廃の一途をたどるだけである。ではなぜ「発言」を選択する契機が生じるのかといえば、人々には「忠誠」、つまり組織や社会に対する「特別な愛着」があるからである。だからこそその場所を離れるのではなく「発言」によって、住環境をよくしていこうと思うわけである。
境界線を取り払えば、「発言」ではなく「離脱」オプションの行使可能性が強まってしまう。そうすれば社会の衰退を招く。移動できる者は社会から「離脱」し、移動する資源を持たない者だけが残り、結果的に社会の自己改善能力は失われ、その社会は荒廃するだろう。クリストファー・ラッシュはこのことを、自己利益のみを過剰に追求し、経済合理性の観点から「離脱」を志向するエリートによる、社会への反逆だと断じたのである。
こういった指摘は看過できない。リベラル・デモクラシーの政治枠組みは、人の出入りが制限されたある程度非流動的な社会において、人々の連帯意識や信頼感、制度に対する愛着を前提に成立しうる原理であるように思われる。流動性がそれほど高くない閉じた社会において人々が協力せねばならないという状況が長く続く環境においてはじめて、社会的協働を可能にする動機やエートスが醸成されるのではないだろうか。
かつて柳田国男も、やや文脈は異なるが、次のように指摘していた。すなわち、流動性が高く、単なる人々の寄せ集まりにしかすぎない社会は、その社会を1つの協働生活体と見なしうるようなある種の共同性を形成できず、社会をともに営んでいく際の基盤となる内面的な規範倫理を持ちえない。そうしたエートスが人々の相互信頼の源泉の1つとなり、社会への「忠誠心」や「愛着」を生み、「離脱」ではなく「発言」を通して社会的協働に積極的にかかわっていこうという気概につながる。離脱が容易な社会においては、協働を可能にする動機やエートスを涵養することは困難だといえよう。
「棲み分け型」多文化共生世界の構想
このような点からすれば、国境線が取り払われた完全にグローバル化/ボーダーレス化した世界において、自由・平等・民主主義などというリベラルな価値を実現するのはきわめて難しいように思われる。むしろ、自由・平等・民主主義などのリベラルな価値を擁護しようとすれば、グローバル化やボーダーレス化にたいしては、ある程度距離を置かざるをえないはずである。
つまり、リベラル・ナショナリズムの代表的論客であるヤエル・タミールが主張しているように、いまや、リベラルたろうとすれば、あらゆるリベラルは必然的にリベラル・ナショナリストたらざるをえないように思われる。以上に鑑み、私は『ナショナリズムの力』において、グローバル化/ボーダーレス化した世界ではなく、各ネイションの文化に基づいたリベラル・デモクラシーの政治枠組みが多様な形で実現された世界を、「棲み分け型」多文化共生世界の構想として擁護したのである。
ナショナリズムやナショナリティといえば、従来は否定的な側面ばかりが強調されてきた傾向にある。もちろんそうした側面がまったくないというつもりは毛頭ない。けれども、ナショナリズムにはリベラル・デモクラシーを下支えし、多文化共生を支える力もある。このことが看過されてきた点も見落とせない。私はそのような「ナショナリズムの力」について論じたつもりである。
わが国は、東日本大震災という未曾有の大災害に見舞われた。こうした危機的状況において、被災者の方々と少しでも苦難を分けあい、被災者の方々ともに復興をなし、この国を支えていこうという気持ちが大切である。つまり、ここは「われわれの」国であるとか、「われわれの」制度であるという、合理的な計算を度外視したネイションに対する愛着や忠誠のことである。これまであまり意識されてこなかったが、リベラル・デモクラシーの政治制度とはそうしたものに支えられることによって、安定的に機能するのである。
世の中の趨勢はグローバル化/ボーダーレス化だけれども、そのような世界は実はリベラル・デモクラシーの根幹を揺るがしかねない。『ナショナリズムの力』の議論は多分に規範理論的ではあるが、現状の日本の問題に鑑みれば、東アジア共同体をどう考えるのか、TPPをどう考えるのか、外国人(地方)参政権の問題をどう考えるのか、などといったイシューと直結している。そうした問題を考えるうえで、拙著がなんらかの視座やヒントを与えるものとなれば幸いである。
最後に、その慧眼でコスモポリタンな思考に潜む危険性をいち早く見抜いていたアイザィア・バーリンの一節を引いて、本稿の結びとしたい。
所与の共同体に属し、共通の言語、歴史の記憶、習慣、伝統、感情などの解き放ちがたい、また目に見えない絆によってその成員と結ばれていることは、飲食や、安全や生殖と同様に、人間が基本的に必要とするものである。ある国民が他の国民の制度を理解し、それに共感できるのは、みずからにとってその固有の制度がどんな大きな意味を持っているのかを知っているからにほかならない。コスモポリタニズムは、彼らをもっとも人間らしく、また彼らを彼らたらしめている所以を捨て去ってしまうのである。(バーリン「反啓蒙主義」)
プロフィール
白川俊介
1983年生まれ。関西学院大学総合政策学部を卒業。九州大学大学院比較社会文化学府博士後期課程修了、博士(比較社会文化)を取得。現在、日本学術振興会特別研究員PD(青山学院大学国際政治経済学部)。専門は政治理論、国際政治思想。主な著書に『グローバル秩序という視点――規範・歴史・地域――』(法律文化社、2010年、共著)、『分断された社会における社会的連帯の源泉をめぐって――リベラル・ナショナリズム論を手がかりに――』『現代思想研究』(第10号、2010年、政治思想学会研究奨励賞受賞)。