2016.03.31

国立大学での国旗掲揚・国歌斉唱の強制がなぜ憲法問題なのか

憲法研究者100名による声明

政治 #国旗掲揚#国歌斉唱#馳文部科学大臣#憲法研究者

それぞれの学校で、入学式が始まろうとしている。2015 年6 月16 日、下村博文前文部科学大臣は、全国86 の国立大学の学長に対し、卒業式・入学式での国旗掲揚と国歌斉唱を要請した。岐阜大学は国歌斉唱を行わないと決めたが、これに関して馳浩・現文部科学大臣は2016年2月、「国立大学として……恥ずかしい」と繰り返し発言した。これに対して全国の憲法研究者有志はこの発言の撤回を求める声明を発表し、3月14日には記者会見を行った。なぜ、この要請と発言が憲法問題なのか。声明と記者会見に関わった憲法研究者たちに見解を寄せてもらった。(記事コーディネイト・志田陽子)

本 秀紀(名古屋大学大学院法学研究科教授)

同調圧力の中で声を上げる

本 氏
本氏

昨年6月、下村前文部科学大臣が全国の国立大学の学長に対し、卒業式等での「国歌」斉唱を求めたとき、えも言われぬいやぁな感じを覚えた。もちろん、憲法が保障する大学の自治の侵害といった問題もあるが、真っ先に感じたのは、そのような法的観点というより、個人としての抵抗感だったように思う。

安倍政権になってからとりわけ、政権担当者の考え(だけ)が正しく、それ以外は「おかしな考え」であるかのような風潮が強まってきた。メディアに対するあからさまな統制は、その最たるものだろうし、検定教科書を通じて、多様な考え方を学ぶのではなく政府の見解を教え込むという傾向がさらに顕著となったのも一例である。

これは、それまでにもしばしば見られた(「いろいろな考えはあってもいいけど、こういうのはダメ」という)自由に対する個々の制約のレベルを超え、国家権力担当者が日本という国家を(したがってその国民を)特定の考え方で一色に染め上げようとする企てにほかならない。この同調圧力はすさまじく、こうした国家の姿勢に乗っかって「異端者」を排除しようとする空気が社会の中にも伝播し、たとえば特定個人への殺害予告という形で「出る杭」を打とうとする。

しかもやっかいなことに、この「思想統一」は、戦前のように必ずしもストレートな権力行使ではなく、そうした社会の共鳴盤を利用し、あるいは財政的な誘導(平たく言えば、カネで頬を張るやり口)を通じて、黙していたり易きに流れればすぐさま絡め取られてしまう手法で迫り来る(下村前大臣の「お願い」もその例である)。

私の「いやぁな感じ」は、日本社会の中で数少なくなった、自由がまだ存在するはずの大学にまで「魔の手」が延びてきたかというおののきと、それを許せば、この国の自由が圧殺されるという危機感であったに違いない。今回の馳大臣の「恥ずかしい」発言を受けて、ここで黙っていたら「あれよあれよ」という間に抵抗できなくなってしまうという想いで、憲法研究者有志の声明を呼びかけることとなった。

大学の事柄に大学教員が反対するという今回の声明を見て、一般市民の皆さんは、「自分たちが強制されるのがイヤだから反対しているのだろう(私たちには関係ないし)」と思われるかもしれない。しかし、考え方の「統一」は、個人の自由を重んじる憲法と根本的に相容れないからこそ、その一環としての「国歌」斉唱の「お願い」に対して、憲法研究者が声を上げるのは、一つの社会的責任の果たし方だと私は思う。じわじわと「国定」の考え方しか認められない息苦しい社会になっていくのが望ましいかどうか、自分の問題として考えていただければ幸いである。

笹沼弘志(静岡大学教育学部教授・憲法専攻)

国旗国歌の強制と自立し自律する創造的人間の教育

笹沼氏
笹沼氏

竹刀大量破壊教育を自賛していた馳浩文部科学大臣が、国から運営費交付金をもらっている国立大学が下村前大臣の「お願い」を拒否して国旗掲揚・国歌斉唱をしないとは「恥ずかしい」と発言をした。これに対して約100名の憲法学者が馳大臣の発言の撤回を求める声明を出した。これは極めて情けない事態だ。

そもそも下村前大臣のお願いとは一体何だったのか。いかなる性質、中身のものだったのか。

昨2015年4月、国会で安倍総理が「税金でまかなわれていることを鑑みれば、新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」と答弁したことをうけて、下村前大臣が全国の国立大学長に口頭で「国旗掲揚や国歌斉唱が長年の慣行により広く国民に定着している。国旗および国歌に関する法律が施行されたことも踏まえ、国立大学におかれては適切に判断するようお願いする」と卒業式・入学式などで国旗掲揚・国歌斉唱を行うよう「お願い」した。

この「お願い」の性質は何か。法的な根拠(授権)に基づく権限の行使なのか、ただの「お願い」なのか。国が国立大学に国旗掲揚・国歌斉唱を求める法的権限がないのは後述のように明白である。国が持つある権限をテコに、大学に対して権限外のことを強制しているということであれば、これは越権行為で違法である。

中身としては、一体何なのだろうか。国旗掲揚・国歌斉唱を求めるというのはオリンピックや国体などにおけるような単なる儀式の要請なのだろうか。馳大臣は単なる儀礼であるかのようにも発言しているが、そうではない。

国旗掲揚・国歌斉唱を求める「お願い」というのは、学生への教育内容についてのお願い、このような内容の教育をしなさいということにほかならない。学校での国旗掲揚、国歌斉唱要請が教育内容についての要請であることを、文部科学省は十分認識している。だから、学習指導要領で定めているのだ。ただし、学習指導要領はただの行政命令に過ぎないので、これが憲法や法律に違反するのであれば当然違法となる。しかし、これについては、敢えてここで論じない(注)。ともかく文科省は学習指導要領を根拠に学校を指導しているのは事実である。

(注)詳しくは、笹沼弘志『臨床憲法学』(日本評論社、2014年)13章及び19章参照。

これに対して、大学に文科省が特定の教育内容を教えるように指導する権限は法的に存在しないし、だから大学の学習指導要領も存在しない。

学校教育法施行規則により小中学校、高校等の教育課程は学習指導要領によるものと定められているが、大学については学習指導要領がなく、大学設置基準の定めるところによるとのみ規定されている。大学設置基準19条は「大学は、当該大学、学部及び学科又は課程等の教育上の目的を達成するために必要な授業科目を自ら開設し、体系的に教育課程を編成するものとする」と教育内容については大学が自主的に定めるものとされており、国が教育内容を左右する権限は排除されている。それはなぜか。日本国憲法23条が学問の自由を保障しているからである。

安倍総理は昨年の国会答弁で国旗掲揚・国歌斉唱が「新教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべき」だと主張した。確かに第1次安倍政権が戦後レジームの総決算の第1弾として制定した2006年新教育基本法は、2条5号で「我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」を教育の目標として定めている。しかしそれは、「学問の自由を尊重」するという条件つきである。また、7条2項は「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」と定めている。安倍総理肝いりの教育基本法をもってしても、大学の教育内容に国が介入することは許されず、政府が大学に国旗掲揚・国歌斉唱を求めることはできないのである。

それを分かっていてもなお、国が金を出しているのだから、国旗掲揚・国歌斉唱は当然だという感覚が馳大臣にあるのだとすれば、これは極めて危険である。権限がないのにもかかわらず、金の力で国立大学を服従させようということであって、たとえ腹の底で思っていたとしても決して口に出してはならない性質のものである。

あえて言うまでのことでもないが、国が金を出しているのだから、教育内容については国が決めることができるのだという単純な話は成り立たない。憲法26条は教育を受ける権利を保障しており、国に教育制度・施設を整備する義務を課している。国は金を出す義務があるが、内容について決定する権限があるわけではない。

教育を受ける権利を保障するために国が金を出し、しかし、学問の自由があるから、国は大学の教育内容に対して口を出せないのである。もちろん、大学がある教育内容を教える時にも、ルールがあるのは確かだ。それを定めているのが学校教育法や大学設置基準である。しかし、これらは上述のように内容を左右するものではない。

政府が自ら権限がないにもかかわらず、金という力を背景にして、ある教育内容を教育するように大学に要請し、なんとか実現させようとしているというのが、今回の事態である。

わかりやすい例を出そう。安倍政権は日本国憲法には欠陥があるから改正すべきだと主張している。だから、国立大学に対して日本国憲法にはこれこれの欠陥があるから、このように改正すべきだと教えてくださいと「お願い」したとする。国が金を出しているのだから、お願いを受け入れるのが当然だと言えるのか。そもそも、そんなことになったら憲法99条憲法尊重擁護義務違反である。

ところで、今回の大学の国旗国歌問題に関しては、もう一つ、そもそも教育の目的とは何なのかという点からコメントしておきたい。ここでは教育一般についての目的というのではなく、安倍政権・文部科学省自らが掲げる目的に限定しておこう。

安倍内閣の2013年6月14日閣議決定「教育振興基本計画」は「一人一人の自立した個人が多様な個性・能力を生かし,他者と協働しながら新たな価値を創造していくことができる柔軟な社会」を目指すとしており、自主的に考え、自律的に行動し、創造性を発揮できる人間の養成を目的としている。

はたして、このような人間を、何の意味があるのかわからずただ命令に従って旗を拝み、歌を歌えという指導を通じて養成しうるのだろうか。それが可能だと思い込んでいるのだとしたら、教育という人間の営みについて全く理解しない机上の空論だといわざるを得ない。教育について考えていない者たちが教育内容に強引に口出ししようというのであれば、恐ろしい話である。

自主的に考え、自律的に行動する創造力を持った個人というのは、一方的に他人の命令に従っているだけで生みだされるものではない。むしろ、自立的自律的個人というのは、他者の言葉に従うだけの依存的な状態から敢えて脱け出すことなくして、生みだされることはない。例えば教師が学生に向かって「自分の頭で考えよ」と命じたところで、学生が自分の頭で考えられるようになるわけではない。

近代哲学を代表するカントは、『啓蒙とは何か』において、人間が他者に依存し自らの理性を使おうとしない状態を未成年状態だとし、そこから脱け出すためには自ら理性を使う勇気を持つことが必要だとして、「自らの理性を使う勇気を持て」と檄を飛ばした。しかし、このように発破をかけて、学生たちが理性を使うようになり、未成年状態から脱け出すことができるようになるというのは極めて甘い考え方だ。どうしたら、この啓蒙、教育の課題を達成しうるのか。それは、カント自身が提起している理性の公的行使による以外にない。

カントは、啓蒙の課題を達成しうるのは、「理性の公的な利用」だけだという。理性の公的な利用とは、あれこれの職責に応じた理性の行使、すなわち理性の私的使用と区別されるものであり、ある人が「学者」としてパブリックに、すべての市民に対してみずからの理性を自由に行使して語りかけることである。教師が、教師という職業の枠に止まり、上司や行政の命令に従って職責に応じた理性の行使をしているだけでは、自立的自律的で創造力をもった個人を養成することなど不可能なのである。

だからこそ、大学については、現代のこの日本国においても、あえて教育内容については大学が自主的、自律的に定めるものとし、教師が学者として自由に理性を行使することを保障しているのである。これは、第1次安倍政権でさえ、決して侵すことができなかった一線である。

大臣はもう一度、自らの理性を自由に行使して、教育の普遍的な意義を思い起こし、自らの態度を律する自律能力を発揮すべきであろう。

成澤孝人(信州大学教授)

「恥ずかしい」発言の歴史的意味について

成澤氏
成澤氏

今回の馳大臣の発言は、全国の大学に対して、入学式・卒業式で国歌を斉唱するよう事実上の圧力をかけるものである。わたしが危惧したのは、ここで誰も声をあげなければ、問題が問題として認識されずに、事態がなし崩し的に進行してしまうのではないか、ということである。

憲法をないがしろにする政治がエスカレートし、万が一、大学の自治が失われるような事態に至るとしても、戦前と違って、学問の自由を明文で保障する日本国憲法が存在するのである。「いつの間にかそうなっていた」ということでは、後に続く人たちに申し訳が立たない。権利は主張しなければ失われる。そして、わたしたち大学に所属する研究者には、学問の自由と大学の自治の侵害に抗議する「主張適格」があるはずである。

国旗掲揚・国歌斉唱を許しても、学問研究そのものの自由は失われていないと考える人もいるかもしれない。しかし、「国費が投入されている」という理由は、大学の決定を批判する理由としては、まったく理にかなっていない。結局、言われていることは、「国旗・国歌」なんだから掲揚しなければならないし、斉唱しなければならない、ということでしかない。そうであるとすれば、大学がこの要請を受け入れることは、自らの存在根拠を失うことであるとわたしには思われる。なぜなら、このような理由のない「力」の解明をする場所こそが、大学だからである。

ところで、大学に国費が費やされているのはなぜだろうか。大学に国費が費やされているのは、「大学に国旗掲揚・国歌斉唱を徹底させたい」という、時の権力者の「想い」を実現するためではない。大学に国費が費やされているのは、大学に属する研究者が自由に研究活動をおこなうことが、社会の発展につながると想定されているからである。大学が時の権力に従属すれば、大学で行われる研究は、時の権力におもねるものになりかねない。

その結果、大学は、真理を追究することによって善き社会の実現に寄与するという大学本来の役割を果たせなくなるだろう。つまり、大学がその本来の社会的意義を果たさなくなるような社会へ向かって、明らかに一歩踏み出したのが、今回の馳発言の歴史的意味である。しかし、国費は、時の権力のためではなく、社会全体のために使われなければならない。とするならば、大学に費やされている国費が真に社会全体のために使われるためにも、大学に所属する研究者は、馳大臣の発言に抗議しなければならないのではないだろうか。

今回、短期間の意見集約であったにもかかわらず、100名の憲法研究者が、「憲法23 条の趣旨に違反することは明らか」だと主張した。恐らく、同様に考える憲法研究者は、まだまだ存在すると思われる。今回は、わたしたち、憲法の専門家が声をあげたが、他の分野の大学人もわたしたちに続いて欲しい。この問題は、まさに、「学問の自由と大学の自治」という大学に属するすべての研究者にとっての切実な問題であり、また、日本社会の今後に関わる話だからである。

中川 律(埼玉大学准教授)

大学の自治と社会的責任

中川氏
中川氏

私からは、大学の社会的責任の果たし方という観点から、今回の馳大臣の発言について、憲法上、どのような問題があると考えられるのかを述べたいと思います。

憲法研究者で学問の自由の研究の第一人者であった高柳信一は、その主著『学問の自由』(岩波書店、1983年)で次のように述べていました。

「大学は自由にして独立の思考者としてのみ社会のサーヴァントたりうるのである」(126頁)。

私も、大学は社会のサーヴァント、すなわち、社会に奉仕すべき責任を負った存在であると考えます。しかし、高柳は、大学が、社会に奉仕しうるためには「自由にして独立の思考者」でなければならないと言います。これは、大学は、非主体的に社会の要求に追従することではその社会的責任を果たしえず、社会の要求から一定程度の距離をとって、研究や教育の内容・方法について自律的に決定できなければならないということを意味しています。

なぜ、こう考えなければならないのでしょうか。

それは、大学は、学問・高等教育機関であり、そこに所属する学問研究・教育者が、それぞれの学問領域の固有の法則に則って、その成果を社会に還元することではじめて、社会的責任を果たしうるからです。

各学問領域では、その領域である程度の説得的な主張を展開できるために必要な知識や技術、能力などが固有の法則性をもって、研究者の間である程度共有されています。学問研究・教育者は、そうした各学問領域の固有の法則性を長い年月をかけて獲得した専門職です。

例えば、私は、憲法学を専攻する研究者です。私は、ある憲法学上の課題について、憲法学の領域において、どのような見方や考え方をすれば説得力のある議論を提示できるかを日々考えて訓練を積み、一定程度説得力ある議論を展開しうる憲法学の固有の法則を身につけてきました。だからこそ、私は、大学において、憲法を研究し、学生に教える立場にいます。

それゆえ、私は、大学において、憲法学の領域の固有の法則に基づいて、研究と教育を行うことを期待されています。そんな私が、例えば、政府の言っていることが正しいと言わないと給料を下げられそうだからとか、そう言わないと今の社会情勢では反感を買い、大学を辞めなくてはいけなくなりそうだからという理由で、憲法学の領域の固有の法則に則ることを止めたらどうでしょうか。ただ学生に対して政府の言っていることが正しいのだと教え、そうした趣旨の論文を社会に発表するということです。これは端的に、大学に所属する憲法の研究者としての責任放棄です。これでは憲法学の学問的成果は、社会に還元されません。

そうであるならば、大学に所属する学問研究・教育者は、大学の内外からの物理的・経済的・社会的な圧力によって、各学問領域の固有の法則を捨て去らざるをえない状況にならないことが確保されなければなりません。これを確保するのが、憲法23条の学問の自由です。すなわち、学問研究・教育者は、憲法23条で、大学での教育や研究の内容・方法を自律的に決定する権限を保障されなければ、各学問領域の固有の法則に誠実でいることができなくなってしまいます。

また、こうしたことは、大学全体での教育・研究の方向性の見極めやカリキュラムの策定の方針などの決定に関しても当てはまります。大学全体での教育や研究の内容・方法に関しても、大学が、学問研究・高等教育に携わる専門職である学問研究・教育者の共同体として、各構成員がそれぞれの専門的職能に基づいて智慧を出し合って、大学外の政府や社会とは一定程度の距離を保って自律的に決定できるべきです。このために、憲法23条が大学の自治をも保障していると考えられてきました。

もちろん、こうした学問の自由や大学の自治の保障は、大学や学問研究・教育者は、社会の要求やニーズを全く無視してよいということを意味するわけではありません。大学や学問研究・教育者は、ある課題についての社会の要求に関して、その意味や効果、あるいはその要求の具体化の方法を各学問領域の固有の法則に照らして分析し、評価する責任を負っており、ただ単に社会の要求に追従することでは自らの責任を果たしたことにならないということです。

例えば、「日本で首相の公選制を導入すべきだ」とか、「ヘイト・スピーチを法律で規制すべきだ」という憲法学の領域にも関わる社会の声に対しては、憲法研究者である私は、単に「そうだそうだ」というのではなく、憲法学での議論の蓄積を踏まえて、それらにどのような憲法問題が含まれるのか、仮にそうした社会の声を実現すべきだとしたらどのような方法が採られるべきかなどをきちんと提示する必要があるということです。

私が憲法研究者として話す場合には、首相公選制の導入にはどのような利益と不利益があるのか、ヘイト・スピーチを規制すべきだとしたらどのような法律上の仕組みが整えられるべきかなどを明らかにする責任を負っているということです。

これに対して、学問の自由や大学の自治が十分に確保されないで、大学が、国家や社会の要求を過度に忖度して、学問研究・高等教育機関に携わる専門職である教育研究者の共同体としてのあり方を歪めることをしてしまっては、大学は、その社会的責任を裏切ることになってしまいます。

こうした大学のあり方を許す社会では、どのようなことが起こるでしょうか。まずは、学問的成果が大学から社会に還元されなくなります。さらには、そうした社会では、ある物事について、学問上の科学的な裏づけを持つ考え方よりも、時の政府の都合が優先されてしまう可能性があるでしょう。

例えば、原子力政策について、学問的な科学的根拠に基づいて考えれば採用すべきではない政策でも、時の政府がどうしても推進したい場合には強行されてしまうことも見過ごされてしまう可能性があります。果てには、学問的な成果から得られた科学的な根拠に基づいてある課題を理性的に考えて、解決策を探るのではなく、その時に力を持つ者の恣意や専横がまかり通る社会になってしまいます。

さて、こう考えると、今回の馳大臣の発言の問題点は明白です。今回の大学の卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱の取り扱いという問題は、大学での教育内容に関わるものです。そうした教育内容に関して大学の自律的判断を事実上否定する馳大臣の発言は、大学の自治の趣旨に反することが明白であり、日本社会が学問的な考え方を尊重しつづける社会であり続ける上で、大学だけでなく社会にとっても大きな損失をもたらしかねないものです。今回の馳大臣の発言は、憲法学での議論の蓄積を参照すれば許されるものではない、と私は考えます。

最後に、今回の問題が、高等教育機関としての大学のあり方にとっても極めて重要な意味を含むことも考えておく必要があります。大学が高等教育機関であるということは、憲法26条で保障された国民の教育を受ける権利を充足するための機関であることを意味します。今回の問題は、そうした機関である大学での教育のあり方がどうあるべきかということに関わります。

国民の教育を受ける権利を充足することのできる大学での教育とは、教育研究者が各学問領域の固有の法則に基づいて自律的に教育内容と方法を決定したものであるべきです。そうではなくて、時の政府がこう言っているからという理由で、各学問領域の固有の法則が歪められ、教育内容が左右されることになるならば、その教育はもはや学生の教育を受ける権利を充足するという機能を果たしえないものです。今回の馳大臣の発言は、国民の教育を受ける権利という観点からも極めて大きな問題点を含むものだと言うことができます。

志田陽子(武蔵野美術大学教授・憲法、言論法)

政府言論の濫用――負のラベリングの問題

志田氏
志田氏

「大学の自治」の意味と、これが無視されたと言わざるを得ない状況が起きた、ということについては、他の発言者が十分に発言していますので、私は、今回の件はそれに加えて、《国家と国民との関係そのもの》にとって深刻なものを孕んでいるという視点から発言します。

私は美術大学に勤めながら憲法に関する教育・研究をしていますので、その中から得た知見に基づいて今回の件に含まれる構造的な問題を考察しました。先に、政府閣僚関係者の中から「ナチスの手口を学んではどうか」という発言が出たことが物議をかもしましたが、今回の件は、構造として「ナチスの手口」に非常に似たことが起きてしまっています。

第二次世界大戦前、ナチスドイツは、国民感情を政府の意向に沿う方向に向かわせる心理操作の一環として、美術・音楽・映画などの芸術分野を統制しました。その統制に協力する芸術家は良い仕事を得られるけれども、その統制に沿わない芸術家は、政府によって価値を貶めるレッテルを貼られました。代表的なものは「退廃芸術展」というもので、「ドイツ国民にふさわしくない退廃的な作品だ」と政権が判断したものを、わざわざ《さらしもの》にする展覧会です。この展覧会は、わざわざ巡回して各地でやっていますので、現在のように映像メディアが発達していたら、当然、メディア上でこれをやっていたでしょう。

こういう社会状況が作られてしまうと、芸術家は、仕事をしたかったら迎合するしかないことになります。もちろん学問分野でも人道に反する内容への協力要請が行われていたことについては、有名なエピソードが多々あります。こうした流れを作り出すのに、《社会の目》《社会の空気》を使う、そのために価値を貶めるラベリング(レッテル貼り)を行う、ということが行われたわけです。

1950年代から60年代、冷戦期のアメリカでも、レッドパージ(赤狩り)の一環として、政府にとって好ましくない価値観をもつ人物の名を議会の場で挙げて《さらす》、ということが行われました。ここで特にターゲットにされたのが、報道メディアとハリウッド映画でした。視聴者やスポンサーとの関係を大事にしなければならないメディアや映画界は、結局は政府の意向に合わせて、問題視された番組を打ち切ったり、問題とされた人々を仕事から外していくことになります。

こうしたことは、その後、強い反省の対象となりました。ドイツでは、そうした芸術統制が繰り返されないように、「芸術の自由」が憲法に明記されています。またアメリカでは、上のような出来事を含めたさまざまな反省から、放送法の「公正原則」は「萎縮効果」をもたらし放送事業者の自由な放送を妨げる、との認識が広まり、1987年にはこの原則が廃止されました(日本の放送はいまだにこの原則に縛られている、という状況は今多くの識者が指摘しているとおりです)。

今回の文部科学大臣の発言は、社会的意味において、上記の歴史と同じことが大学という場に対して起きたと見るべきでしょう。これは、直接の強制ではありません。が、国家が《価値のあるもの》《価値のない恥ずべきもの》の選別をおこなってそれを国民の目にさらす、ということは、強制と同じ効果を持ちます。

一般人の発言と違って、公的立場にある人物、とくに閣僚級の公人の発言は、メディアが必ず取り上げ、国民の目にとまることになり、国民に与える影響も大きくなります。だから政府は、本来、社会のさまざまな言論に対して、見解中立性(viewpoint neutrality)を守るべき存在なのです。

ただ、特定の望ましい研究や文化芸術活動を選んで支援・助成する場合には、そのこと(金を出すこと)を通じて政府の価値観なり見解なりが表明されることになります。そういう場合に政府がなんらかの選別をすること自体が憲法違反となるわけではありません。けれども、それと大学の教育内容に介入して良いかという問題とは、まったく話が異なります。発言の根底において、文部科学大臣はそこを混同しているのではないかと思われます。

さらに、大学に運営交付金を出していることと、今回のようなマイナスのラベリング(レッテル貼り)が結びついたことについては、政府言論として許容される範囲を完全に逸脱していると言わざるを得ません。この結びつきが大学をどれほど追い込むものであるかは、他の発言者が説明していますので、私は側面から、《社会の目》の話に焦点を当てます。

大学というものは、社会を無視して自分たちの価値観だけで運営することはできません。必ず、社会の目の中で、良識の府としての自分たちの位置づけを考えなければならず、その《社会の目》が自分たちを支持しなくなる、良識とは反対の恥ずかしい組織として見るようになる、となったら、死活問題です。具体的には、将来の入学希望者の親となる人々が自分たちの大学をどう見るか、という視点を、大学経営者が考えずに済ませることはできないでしょう。これはスポンサーや視聴者を気にせず「自由」でいられるメディアはないだろう、ということと同じです。

ですから、《政府の意向に合わない判断をしたら負のラベリングを受ける》、ということになれば、大学は、そのラベリングを避けるために政府の意向に合わせる方向に追い込まれてしまうわけです。つまり、《自治》の名の下に、本来の自治とは異なる方向づけを余儀なくさせられてしまうのです。「強制ではなく『お願い』だ」と言っても、それに従わなかった場合には《恥ずべきもの》として《さらしもの》にされる、となったら、それは強制と同じことになるのです。

本来、公的な立場にある者は、このことに自覚的でなければならないはずなのですが、日本の公人は、このことに鈍感なのか、あるいは、十分に承知していながらその発言力を利用しているのか、理解に苦しみます。

このように、文部科学大臣の発言は、大学の自治を《社会の目》の力を使って形骸化させる効果を持つものであり、まずは憲法が保障する「学問の自由」と「大学の自治」を保障した趣旨を大きく踏み外すものです。次にこの危険性は、大学関係者にとどまらず、国民と国家の関係に関する根本的な問題であることを認識すべきだと思います。

公的な立場にある人々が《政府言論の逸脱・濫用》という一連の問題に無自覚である限り、国公立大学と私立大学とを問わず、また、大学以外のさまざまなところで、同じ構造の問題が繰り返され、社会全体が民主主義とは逆の方向に萎縮していくと危惧しています。このような観点からも、文部科学大臣に当該発言の撤回を求める必要があると考え、声明に賛同いたしました。

藤井正希(群馬大学准教授)

藤井氏
藤井氏

私個人は、日の丸・君が代が好きであり、大学の研究室に日の丸を掲揚しているし、相撲の千秋楽における優勝賜杯授与式の時にも一緒に君が代を斉唱している。よって、国立大学の入学式・卒業式に国旗を掲揚し、国家を斉唱することに個人的には反対しない。国旗・国歌には、入学式・卒業式・成人式・還暦祝・市民祭・体育祭・文化祭、国葬等、日常生活における様ざまな慶弔時に、何のわだかまりや違和感なく、歌い掲げ、国民が日本人としての誇りや一体感、帰属意識を共に感じるという意義があり、その意義は決して軽視されてはならない。その点で、大学を含む各種学校の入学式・卒業式で国旗掲揚・国歌斉唱が行われるのは、むしろ望ましいと考える。

しかし、声明にあるように、それは決して国家に強制されるべきものではない。特に大学の入学式や卒業式での強制は、学問の自由や大学の自治(憲法23条)に反する。その取り扱いは、各大学の教職員や学生の自治的決定に委ねられるべきである。国立大学には税金が投入されているから特別という意見もあるが、税金が投入されているのは、私立大も同様である(私学助成)。また、国立大学は、以前とは異なり国立大学法人であり、その教職員は公務員ではない。さらに、18歳選挙権の時代であればこそ、なおさら大学生を大人扱いし、学生の自主的判断を尊重するべきである。

市民が何のわだかまりや違和感なく、国旗・国歌を、歌い掲げられるようにするのは、政治の責任であり、それができないのはまさに政治の失敗である。そのことは明確に認識されるべきである。馳浩文科大臣は、卒業式などで国旗掲揚・国歌斉唱をしない方針を示した国立大学の学長に対して「ちょっと恥かしい」と発言した。

しかし、市民が何のわだかまりや違和感なく、国旗・国歌を、歌い掲げられる状況がつくれない政治こそが「恥ずかしい」のであり、国旗掲揚・国歌斉唱をしない国立大学の学長を「恥ずかしい」などと非難するのはまさに筋違いなのである。もし日の丸・君が代が国旗・国歌ではそれが困難であるならば、国民的議論の下、新しい国旗や国歌をつくることも検討されるべきである。

清水雅彦(日本体育大学教授)

清水氏
清水氏

まず、私自身の立場を明らかにすれば、私は侵略戦争のシンボルであった「日の丸」を国旗に、法の下の平等と民主主義、国民主権と最終的には相容れない「君が代」を国歌にする国旗国歌法は憲法違反と考え、学校現場における「日の丸」「君が代」の強制は憲法19条の思想・良心の自由に反すると考えるものである。

今回の声明は、国立大学にかかわるものであるが、文科大臣の発言は国立大学にとどまらない問題をはらんでいるため、私立大学の教員である私も賛同した。すなわち、私立大学も私学助成という形で国からの資金が投入されており、国立大学に対するこの論理を容認すれば、私立大学に対しても同様の発言が行われる可能性があるからである。

当日の記者会見で私が述べた論点は、以下の2点である。

1点目は、国立大学の独立行政法人化についてである。国立大学は独立行政法人化により、国からの運営交付金が毎年減らされる一方、大学運営に対する国からの自由度は増したはずである。しかし、国立大学の学部再編や学長権限を強化する学校教育法改正にあわせた学内規程の改正などを文科省が大学側に要請するなど、カネは減らしているのに口出しは増やしている。独立行政法人化した国立大学に余計な口出しはすべきでない。

2点目は、大学の自治以外の憲法23条との関係である。憲法23条から大学等の高等教育機関の教員には全面的な教授の自由が認められているのに対して、小中高校の初等中等教育機関の教員には一定の範囲で教授の自由が認められているという違いがある。これは、まずもって研究者である大学等の教員と、まずもって教育者である小中高校の教員との違いからくるものであり、憲法上、大学等と小中高校とは位置づけが大きく異なる。憲法23条を理解していない人物が文科大臣を務めていることの方が「恥ずかしい」。

石川 裕一郎(聖学院大学政治経済学部教授・憲法学)

先人の智慧・歴史・伝統を畏れない権力者たち

石川氏
石川氏

 

「国立大として運営交付金が投入されている中であえてそういう表現をする[=卒業式などで国家斉唱をしない方針を示す]ことは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」――。この馳浩文部科学大臣の荒唐無稽な発言は、ひとえに現行憲法23条、その下にある諸法令(教育基本法、学校教育法、大学設置基準など)および最高裁の諸判例(ポポロ劇団事件〔最判1963.5.22〕、富山大学単位認定事件〔最判1977.3.15〕)によってその法理が形成されてきた「大学自治」に対する無知・無理解に起因する。しかし、その根底に横たわるのは、法的素養の欠如以上に、先人の智慧・歴史・伝統に対する、無邪気なまでの畏れのなさではないか。このような視点から本問題を考えてみたい。

その前にまず「大学自治」とは何か、確認しておく。ポポロ劇団事件最高裁判決の表現を借用すれば、それは「学問の研究並びに教育の場としての大学」が「警察権力及至政治的勢力の干渉、抑圧を受けてはならないという意味において」の自由と「学生、教員の学問的活動一般」の自由を確保するための「制度的及至状況的保証」のことであり、憲法が保障する「学問の自由」に含まれるというのが判例および通説の立場である。

ちなみに、かつての明治憲法には「学問の自由」あるいは「大学自治」を保障する明文上の規定は存在せず(ただし、その観念が明治憲法下において存在しなかったわけではない)、それが憲法に明記されるのは現行憲法が初めてである(注)。そもそも、日本の大学の歴史は、明治期以降に国家が国策の一環として設置した帝国大学に始まる。つまり、先に国家があり、後から大学ができたのである。

(注)「学問の自由」の法理についてさらに関心のある向きは、拙稿「学問と教育は誰のもの?:学問の自由・教育を受ける権利」(榎澤幸広他編著『憲法未来予想図:16のストーリーと48のキーワードで学ぶ』現代人文社、2014年、106-116頁)も参照されたい。

これに対し、日本が範をとった欧米の大学は事情が大きく異なる。というのも、ヨーロッパにおいて現在に直接連なる大学が初めて誕生するのは12世紀頃だが、当時の大学自治は警察権や裁判権をも含むものであり、その意味で当時の大学は現代の主権国家に類する組織だったといえるからである。というよりも、近代的な主権国家がヨーロッパに誕生するのは大学よりはるか後、16~17世紀以降のことである。アメリカにおいても事情は同様で、たとえば有名なハーバード大学の創設は1636年、合衆国建国より100年以上前のことである。つまり、大学自治というのは自治都市等の他の自治組織・団体のそれと大きく変わるものではなかったといえるのである。

そもそも、欧米語における「大学(英:University, 仏:Université, 独:Universität, 伊:Università)」の語源であるラテン語の“Universitas”には本来「学校」「教育機関」あるいは「研究機関」という意味はなく、その原義は「組合」「団体」「共同体」である。まさにこの語が有するニュアンスは、一つの閉じた「世界」「小宇宙」、言うなれば「知の共同体」というものなのである。

そのような欧米の大学の多くは、やがて近代的な主権国家・国民国家の成立とともに、一方ではその保護・援助、他方ではその干渉・圧迫という形で国家とのアンビバレントな緊張関係に置かれることになる。この緊張関係は、基本的には現代まで続いているといえるが、ここで看過してならないのは、それにともなって対国家権力という意味での「大学自治」が意識されるようになったということである。その意識のされ方は、欧米諸国でもそれぞれ違いが大きいが、重要なのは強く意識されているということである。

言い換えるならば、欧米では国民国家・民主主義国家がいちはやく形成された「にもかかわわらず」、ではなく、形成された「からこそ」大学自治が意識され、かつ維持強化されてきたということである。その意識の根底にあるのは、国家権力と距離を置かない大学が大学としての意味をなさないという、経験則的な智慧である。まさしく先人の智慧と歴史と伝統の産物、それが大学自治なのである。

さて、馳文科大臣の発言である。以上のような大学自治の理念に照らしてみた場合、その発言はあまりにも非歴史的であるとはいえないだろうか。その伝統を軽視するものとはいえないだろうか。その先人の智慧に対する敬意を欠くものとはいえないだろうか。大学自治だけではない。馳大臣だけではない。現政権与党の構成員の諸言動を見ると、多くの試行錯誤の末に先人がたどりついた智慧、とりわけ専門家集団の自律性という智慧に対する軽侮が目立つ。「司法の独立」然り、「報道の自由」然りである。この機に際し、とくに現政権与党の政治家=権力者たちには、先人の智慧・歴史・伝統を畏れ、尊重することを強く求めたい。

他方で、私たち大学人は、以上のような大学の歴史と伝統を先人から継承し、大学に対する外部からの干渉・攻撃と闘う「倫理的義務」ないし「責務」を負っているということを看過してはならないだろう。その責務の名宛人は歴史であり、社会であり、そしてなによりもかけがえのない諸個人である。大学自治を尊重し擁護することは、まさしく大学人に課された、大学人としての責務であるといえるのである。

石埼学(龍谷大学法科大学院教授・憲法学)

 

1933年以後のナチス独裁期にドイツの大学が突如置かれた状況について、ある大学教授は、「集会、会議、対談、儀式、それにとりわけ、提出しなければならない書類、レポート、文献の目録、リスト、アンケート、さらに地域社会でやるべき義務がありました」と証言している。彼は、「根本的な問題を考えないというのが、どんなに容易なことか、これでおわかりいただけるでしょう。時間がありませんでした」とも述べている(M.マイヤー『彼らは自由だと思っていた』未来社、1983年、166頁)。

この大学教授の証言内容は、私たち日本の大学教員が現在おかれている状況と相当に重なるのではないか。一つだけ例示するにとどめるが、今や、大学教員も期首に研究、教育ないし社会貢献についての一年間の目標を設定し、期末にその自己評価をせねばならないのである。かつては存在しなかったそうした「雑用」が多くあり、私たちは、思考の中断をしばしば余儀なくされるのである。

なぜこういう状況になったか。国からの補助金の獲得等のために大学みずからが国家や社会のあらぬ期待を忖度した結果である。

岐阜大学における国旗・国歌の扱いに関する馳浩文部科学大臣の今回の公然たる発言が補助金を引き合いに出しているのは、象徴的である。彼は、補助金や社会による評価を誘導することによって大学を、その教育内容についてまで、コントロールできると考えているのだろう。残念なことに、今や日本の大学や大学教員は、そういう手法でコントロールさえてしまう瀬戸際まで追い詰められている。

大学の自主的判断にゆだねられるべき事柄に所管の大臣が補助金を口実に圧力をかけるようなことがあってはならないことはもちろんだが、他方で、その問題も含め、私たち大学教員が、「根本的な問題」を考える余裕を失いつつあるという現実をも、この場を借りて、私は訴えたい。それが研究・教育機関としての大学の自主性の在り方についての様々な見解の誘発につながること願って。

永山茂樹(東海大学教授)

介入する権力にたいして、抵抗することができず、学生たちを戦場に送ることを止められなかった点において、わたしはかつての大学を恥じる。したがって、再び大学のありように介入しようとする、現在の政治を恥じる。

国立大学の入学式・卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱に関する文部科 学大臣の発言の撤回を求める憲法研究者声明(全文)

私たち憲法研究者の有志は、馳浩文部科学大臣が、卒業式などで国歌斉唱をしない方 針を示した岐阜大学の学長の判断を「恥ずかしい」と批判したことに抗議し、当該発言の撤回を求めます。

馳浩文部科学大臣は、2016 年 2 月 21 日の金沢市での記者会見で、卒業式などで国歌斉唱を しない方針を示した岐阜大学学長に対し、「国立大として運営費交付金が投入されている中であえてそういう表現をすることは、私の感覚からするとちょっと恥ずかしい」と述べたと報道され、続いて 23 日にも文部科学省での定例記者会見で「日本人として、特に国立大学としてちょっと恥ずかしい」との批判を繰り返しました。私たちは、日本の大学に所属する憲法研究者として、文部科学大臣によるこのような発言は、以下のような理由で学問の自由と大学の自治を保障した憲法 23 条 の趣旨に反すると指摘せざるをえません。

この問題は、昨年 2015 年 6 月 16 日、下村博文前文部科学大臣が、全国 86 の国立大学の学 長に対し、卒業式や入学式での国旗掲揚と国歌斉唱を求めたことに始まりました。下村氏は、あくまでも「お願い」であり、受け入れるかどうかは各国立大学の判断だと述べました。しかし、国立大学の財政が、文部科学省の裁量に基づく資金配分に大きく委ねられている以上、「お願い」とは 言っても、その事実上の影響力は極めて大きなものです。

将来的な資金配分での不利益の可能性を恐れて、各国立大学の学長が、大臣の意向を過度に忖度し、「お願い」を受け入れざるをえないと判断してしまうかもしれない状況が作り出されました。したがって、下村氏の「お願い」自体、 大学の自治の観点からは大きな問題点を含むものでした。

馳大臣は、下村氏の「お願い」を受け入れず、国歌の斉唱を行わないと決めた岐阜大学を名指 しで批判しました。馳大臣の批判は、下村氏の要請が決して「お願い」にとどまるものではなかったことを証明するものです。もし、本当に「お願い」であったならば、馳大臣は、岐阜大学の学長の 判断に関して、「残念だ」とは言えたとしても、「恥ずかしい」などと批判を投げかけることはできないはずです。各国立大学がその「お願い」を受け入れない判断をすることがますます難しい状況になっています。かように、安倍内閣による国旗掲揚・国歌斉唱の要請は、事実上の強制力を有するものであると評価せざるをえません。

こうした事実上の強制力を伴うものであることが明らかになった以上は、この要請は、国立大学の自律的な判断を否定しようとするものであり、憲法 23 条 の大学の自治の趣旨に反するものと言わざるをえません。

憲法 23 条が保障する学問の自由が大学の自治を要請するのは、真理を追究する学問研究が、政治権力から独立して自律的に行われることが、結果として、より善き社会を作っていくことに貢献するからです。逆に言えば、戦前の滝川事件、天皇機関説事件を引くまでもなく、政治権力が 大学の自治的決定や研究者の学問内容に干渉しようとするとき、その社会は誤った道を進んでいる危険があるのです。だからこそ、この問題には敏感に反応しなければならないと私たちは考えます。

憲法学の通説的見解は、戦前の経験を踏まえ、政治権力は学問内容や大学の自治的決定に 絶対に介入してはならないと考えています。その理由は、一旦、政治権力の介入を受け入れてし まえば、それを限定するのは非常に難しくなるからです。

なお、馳大臣は、「恥ずかしい」という理由に関して、国立大学には国費が投入されているから ということを挙げていますが、この理由は成り立たないものです。なぜなら、そもそも国費を投入されていることを理由に、大学は、研究および教育の内容・方法に関する国のお願いを受け入れな ければならないのであれば、それは大学の自治がまったく保障されないのと同じだからです。

学問研究・高等教育機関であることを理由に国費が投入されている以上は、それに関する国民への 責任の果たし方は、大学自身が決めることができなくてはいけません。仮に文部科学大臣の「お願い」を過度に忖度して、大学が、学問的・教育的な専門的判断を歪めるようなことをするならば、それこそが学問研究・高等教育機関としての国民に対する責任の放棄です。国旗・国歌だけは例外だ、という見解があるかもしれませんが、卒業式等での教育内容・方法の問題である以上は、そこでの国旗・国歌の取り扱い方も大学の自治の例外ではありません。

大学がこの要求を受け入れるならば、その他の要求にも従わざるをえません。萎縮した研究者 は、権力に都合の悪い研究はしなくなるかもしれません。それが、日本社会にとって本当によいことでしょうか。

以上のように、国立大学の入学式・卒業式で国旗を掲揚し、国歌を斉唱するかどうかを決定する 権限は、各国立大学にあります。大学が決定したことを、文部科学大臣は受け入れなければなりません。馳大臣による批判は、憲法 23 条の趣旨に違反することは明らかです。私たちは、馳大臣に対し、発言の撤回を求めます。

国立大学の入学式・卒業式等での国旗掲揚・国歌斉唱に関する文部科学大臣の発言の撤回を 求める憲法研究者有志(50 音順)

愛敬浩二(名古屋大学)、青井未帆(学習院大学)、麻生多聞(鳴門教育大学)、足立英郎(大阪電気通信大学)、飯島滋明(名古屋学院大学)、飯野賢一(愛知学院大学)、石川裕一郎(聖学院大学)、石埼 学(龍谷大学)、稲 正樹(国際基督教大学)、井端正幸(沖縄国際大学)、今関源 成(早稲田大学)、植野妙実子(中央大学)、植松健一(立命館大学)、植村勝慶(國學院大學)、右崎正博(獨協大学)、内野正幸(中央大学)、浦田一郎(明治大学)、浦田賢治(早稲田大学名誉教授)、榎澤幸広(名古屋学院大学)、榎本弘行(東京農工大学)、江原勝行(岩手大学)、大久保史郎(立命館大学名誉教授)、大河内美紀(名古屋大学)、大野友也(鹿児島大学)、岡田健一郎(高知大学)、奥野恒久(龍谷大学)、小栗 実(鹿児島大学)、小沢隆一(東京慈恵会医科大学)、押久保倫夫(東海大学)、片山 等(国士館大学)、金澤 孝(早稲田大学)、上脇博之(神戸学院大学)、河合正雄(弘前大学)、河上暁弘(広島市立大学)、川畑博昭(愛知県立大学)、 北川善英(横浜国立大学名誉教授)、木下智史(関西大学)、君島東彦(立命館大学)、清末愛砂 (室蘭工業大学)、清田雄治(愛知教育大学)、倉田原志(立命館大学)、倉持孝司(南山大学)、 小竹 聡(拓殖大学)、小林 武(沖縄大学)、小松 浩(立命館大学)、近藤 真(岐阜大学)、斎 藤一久(東京学芸大学)、斉藤小百合(恵泉女学園大学)、阪口正二郎 (一橋大学)、笹沼弘志 (静岡大学)、 澤野義一(大阪経済法科大学)、志田陽子(武蔵野美術大学)、清水雅彦(日本体育大学)、菅原 真(南山大学)、鈴木眞澄(龍谷大学)、芹沢 斉(青山学院大学名誉教授)、高 佐智美(青山学院大学)、高橋利安(広島修道大学)、高橋 洋(愛知学院大学)、竹内俊子(広島修道大学)、竹森正孝(元岐阜大学理事・副学長)、多田一路(立命館大学)、只野雅人(一橋大学)、塚田哲之(神戸学院大学)、寺川史朗(龍谷大学)、長岡 徹(関西学院大学)、中川 律 (埼玉大学)、中里見博(徳島大学)、中島茂樹(立命館大学)、中島 徹(早稲田大学)、永田秀樹(関西学院大学)、長峯信彦(愛知大学)、永山茂樹(東海大学)、成澤孝人(信州大学)、成嶋 隆(獨協大学)、西原博史(早稲田大学)、丹羽 徹(龍谷大学)、根森 健(新潟大学・埼玉大学名誉教授)、濵口晶子(龍谷大学)、福嶋敏明(神戸学院大学)、藤井正希(群馬大学)、船木正 文(大東文化大学)、前原清隆(日本福祉大学)、松原幸恵(山口大学)、水島朝穂(早稲田大学)、 三宅裕一郎(三重短期大学)、三輪 隆(埼玉大学名誉教授)、村田尚紀(関西大学)、本 秀紀 (名古屋大学)、元山 健(龍谷大学名誉教授)、森 英樹(名古屋大学名誉教授)、柳井健一 (関西学院大学)、山内敏弘(一橋大学名誉教授)、横田 力(都留文科大学)、若尾典子(佛教大学)、脇田吉隆(神戸学院大学)、和田 進(神戸大学名誉教授)、渡辺 治(一橋大学名誉教 授)、渡邊 弘(活水女子大学)、渡辺 洋(神戸学院大学)

以上 100 名(2016年3月26 日現在)