2012.07.10

東京スカイツリーから展望する人口減少時代の「未来都市」像

中川大地

社会 #スカイツリー#ショッピングモール

雨のスカイツリー開業と「時空を圧縮したランドスケープ」

2012年5月22日に「東京スカイツリー」が開業して、1ヵ月半以上が経過した。

その開業の日、強い雨風がこの新参タワーの展望塔としての門出に文字通り水を差す中、誘致決定以来の7年間の地元民としてのコミットを元にした著書『東京スカイツリー論』を上梓したばかりだった筆者は、事業者サイドが公表していた事前情報を元に書いた自著での叙述と実際の体験性との違いがどうなっているかを我が身で確かめるべく、初めて付帯施設「東京スカイツリータウン」の敷地に足を踏み入れ、そして地上高350メートルに位置する第一展望台「天望デッキ」へと上った。

ちょうど夕暮れ時、ようやく雨も小降りになって雲間からの視界が改善しはじめ、だんだん夜景らしきものが立ち現れてきた頃合い。とりわけ筆者が気になっていたのは、西から南にかけての方角に、化政期の浮世絵師・鍬形恵斎が描いた江戸の鳥瞰図「江戸一目図屏風」のレプリカが置かれ、現実の眺望と見比べることができるようになっている趣向の出来映えであった(※写真1)。というのは、それは新タワーの“発注者”たる放送事業者サイドの有識者検討委員会が新タワー候補地を墨田区に選んだ時点から掲げられてきた「時空を超えたランドスケープ」というコンセプトを、最も直截に表現する仕掛けでもあるからだ。

写真1 「江戸一目図屏風」の置かれた開業当日の「天望デッキ」
写真1 「江戸一目図屏風」の置かれた開業当日の「天望デッキ」

 

もともと筆者は、墨田区で行われてきた過去の大規模開発が、江戸期以来の風情を遺すとされる下町の風情や共同性を台無しにする方向にしか作用してこなかったことに、住民としてずっと憤然たる思いを抱いてきた。そのため、地デジ化というテレビメディアの技術更新にともなうこの電波塔の建設計画を、20世紀までのモダニスティックな開発主義の価値観を一変させ、むしろ都市や建築に地域の歴史文化や自然性を恢復していくような転換点として、新タワーのシンボル性を構想してほしいという提言を事業者や行政に提出してきたりもした。

この土地に多少なりとも理解や愛着がある者なら誰もが抱くだろう、そんなありふれた願いは、江戸文化や日本の伝統技術の継承を大きく打ち出した新タワーのデザインコンセプトや演出設計の中に、結果的には考えうる最大限に近い水準で採り入れられた。例えば、地震によって倒壊したことがないとされる浅草寺などの五重塔と同様、外力に対して中央の心柱と周囲の塔体がある程度独立に動くことで揺れを抑制する柔構造の採用や、「粋」(※写真2)「雅」(※写真3)をモチーフにしたライティングデザインなど、「日本」「江戸」「下町」のテーマ性が、下品なジャポニズムにならない範囲で、かなりの洗練度でフィーチャーされているとは思う。

写真2 ライトアップ「粋」
写真2 ライトアップ「粋」
写真3 「雅」
写真3 「雅」

そうした意味から、展望台の眺望などという現代にあっては凡庸きわまりないアトラクションに、江戸を幻視する想像力を重ね合わそうとする一種のAR(Augmeted Reality:拡張現実)的な考え方には少なからず共感できるものがあったし、何かしら特別の感慨があってほしいなという期待があったのである。

ただ、残念ながら一目図屏風の構図に近い都心方面への夜景は、高層ビルなど変化に富んだ光源から遠いこともあって、あまり面白いものではなかった(※写真4)。かわりに天望デッキからの眺望の特色になっていたのは、真北の方角で荒川放水路と合流する隅田川の流域が、まるで地図を見るように見事に把捉できること。その際、ちょうど川面に浮かぶ屋形船と相まって、川沿いを走る首都高速6号線の高架灯が、流路の曲線を彩ってなかなか美しく思えてしまう光景には、筆者としてはかなり複雑な気持ちにさせられた。なぜなら地上からの目線では、高度成長期に東京中の河川をコンクリートで覆い隠すように築かれた首都高とスーパー堤防の存在は、かつての景勝地としての大川端の風情をぶち壊しにする最大の元凶に他ならない代物であるからだ。

写真4 「天望デッキ」都心方面への眺望
写真4 「天望デッキ」都心方面への眺望

その意味で、東京タワーの全高をも上回る天望デッキからの超越的なランドスケープには、徳川幕府による最初期の埋め立て事業から近代以降の震戦災からの復興、東京オリンピック時の都市改造やバブル経済期の臨海副都心開発に至るまで、隅田川以西のかつて江戸と呼ばれた市域の空間と時間が、強引に圧縮しながらフラットに均したような皮肉な形態で、確かに包摂されていたと言えるだろう。

スカイツリータウンという「別の街」の出現

だが、筆者にとってより衝撃的だったのは、その後の体験の方である。

強風の影響で、地上高450メートルの第二展望台「天望回廊」へのエレベーターが開業初日の夜にしていきなり運行停止となり、その日は最高到達点には上がれずに地上へと降りる羽目になる。空港を模したようなスカイツリー本体への発着ゲートは、東西に長い敷地に広がる複合商業施設「東京ソラマチ」の中央部タワーヤードの4階にあたり、ここはそのままタワー足下の広場(スカイアリーナ)や遊歩デッキといったソラマチ屋上部の野外空間に直結している(※写真5)。

写真5 タワー直下の「スカイアリーナ」出口
写真5 タワー直下の「スカイアリーナ」出口

 

まだ小雨の降りしきるなか、そんな夜のデッキに踏み出した筆者は、そこで展望台の「時空を超えたランドスケープ」など問題にならないほどの大きな視覚ショックに直面する。それは、子供の時分から見知っていたはずの北十間川や押上・業平の町並みを、「適切な低さ」から見下ろしながら歩けてしまうという、ありえなかったアングルの出現だった(※写真6)。

写真6 スカイツリータウン屋外デッキから見下ろす北十間川
写真6 スカイツリータウン屋外デッキから見下ろす北十間川

 

北十間川と東武伊勢崎線の線路に南北を挟まれたこの敷地は、もともと東武鉄道の操車場や生コンクリート工場として使われていた土地である。子供心には、ディーゼルエンジンの音を響かせながらコンクリートミキサー車などが頻繁に出入りする、近寄るのは少々危ない荒涼たる無骨な場所という、刻み込まれた原風景があった(※写真7)。そのようにインストールされた身体記憶と、新たなアングルから入力されてくる視覚情報とが無媒介に重ね合わされ、どうにも奇妙な認知的な違和を覚えずにはいられなかったのだ。

写真7 2007年当時の新タワー建設予定地
写真7 2007年当時の新タワー建設予定地

 

タワーそのものについては、建設開始以来の4年間を通じて、徐々に伸びていくさまを地域内外の多くの人々が共有することができたが、ソラマチを中核とする「東京スカイツリータウン」のエリアは、開業直前まで関係者以外はほぼ誰も立ち入ることができなかった場所だ。つまり、タワーの“高さ”に気を取られているうちに、べらぼうな“広さ”をもつ「別の街」が突如として造成され、自らの生活圏の中に丸ごと挿入されてしまうという、大がかりな手品にでもかけられたような感覚を私たちは味わわされたのである。別の言い方をすれば、まるで我が家に居ながらにして、よく似てはいるがどこか異なる並行世界に移動してしまう、パラレルワールドSFにでも喩えられようか。

いささか大袈裟に聞こえるかもしれないが、それだけスカイツリー本体とスカイツリータウンのもつ体験性が、まるで異質なものだということを改めて思い知らされたのが、ようやく足を踏み入れての筆者のファーストインプレッションだった。

〈タワー的公共性〉と〈ショッピングモール的公共性〉

以来、1ヵ月半あまりの期間ですでに600万人以上の来場者があったというスカイツリータウンだが、連日若いカップルや家族連れといった客層で賑わう様子を見ていて感じるのは、工事中のタワーを見たり撮影したりするために少なからぬ人々が訪れたこの3~4年の光景とも、また大きく様変わりしたなということだ。

スカイツリーが少しずつ伸びていく過程では、まずは映画『ALWAYS 三丁目の夕日』での未完成の東京タワーを彷彿とさせるイメージで受け止められ、中高年のカメラファン層や若いマニアたちを中心に、しだいに事業者の意図を越えたファン主導型のムーブメントを形成していった(※写真8)。

写真8 マニアたちが盛り上げた〈タワー的公共性〉
写真8 マニアたちが盛り上げた〈タワー的公共性〉

ちょうどSNSなどのネットサービスの発展と結託するかたちで、人々を結びつけていった過程とその意味については、〈タワー的公共性〉という概念を提起して拙著でも詳細に論じている。対して、最先端のショッピングモール施設である東京ソラマチを訪れる消費を契機にした人々の集まり方や回遊空間については、さしずめ〈ショッピングモール的公共性〉とでも呼ぶべきであろうと、同じく拙著で論じた(※写真9)。

写真9 東京ソラマチがつくる〈ショッピングモール的公共性〉
写真9 東京ソラマチがつくる〈ショッピングモール的公共性〉

 

どちらも、それまでの押上・業平の界隈にはなかったタイプの都市的かつ現代的な公共性には違いないが、実際に蓋を開けてみると訪れる人々の種類までが鮮明に異なっていたことに、最近は改めて感じ入らされている。スカイツリー本体が担う〈タワー的公共性〉と、スカイツリータウン(ソラマチ)が担う〈ショッピングモール的公共性〉との間には、ここまで熾烈な緊張関係があったのか、と。

この両者の緊張関係は、1970年の大阪万博でテーマ館のモニュメントとして建てられた岡本太郎作の「太陽の塔」と、丹下健三の総合設計によって無機的なフレームパーツの集合体として作られた大屋根を持つ「お祭り広場」との葛藤の延長線上にあるのではないかと、筆者は考えている(※写真10)。その理路の詳細については拙著をご参照いただくこととして、ここでは建築意匠論の森川嘉一郎が、その主著『趣都の誕生』にて、両者の関係について以後の建築デザインの方向性を本質論的に体現する「戦慄するほど予言的なもの」と評していたことを付け加えておきたい。

写真10 万博記念公演に残る「太陽の塔」と「お祭り広場」大屋根フレーム
写真10 万博記念公演に残る「太陽の塔」と「お祭り広場」大屋根フレーム

 

すなわち、太陽の塔は建築一般において主にファサード(建築物の“顔”にあたる正面部分)の意匠として実現される表象(シンボル)機能が特化した存在であるのに対し、お祭り広場の大屋根は内部空間を形成するシェルター機能のみに特化した存在として特徴づけられる。そもそも建築とは、本質的に「太陽の塔の形をした大屋根のようなもの」(森川)とでも言えるような中間形態として実現されるものなのだが、モダニズム(近代主義)が行き着いた果てに誰もが自明の前提として信じられる「人類の進歩と調和」(=〈未来〉)のような「大きな物語」の権威が失墜した社会にあっては、もはや従来の意味での建築の概念は存立しえなくなる。

そうなると、現代建築には何らかの共通価値を表象するようなファサードの表層意匠は無用となり、その機能は太陽の塔の強烈なキャラクター性が示すような、例えばオタク文化におけるキャラクターコンテンツのような個々人の趣味に応じたデザイン媒体の多様化(「小さな物語」の乱立)によって社会的に代替されるようになる。その結果、大規模な建造物に残されるのは、お祭り広場のようなデザインを廃した純粋なシェルター機能のみになるという機能分離が進んでいくというのが、森川の説だ。

この構図は、まるでお祭り広場の大屋根を突き破って屹立する太陽の塔を彷彿とさせるように、ソラマチのフラットなショッピングモールから屹立するスカイツリーの在り方にも、そのまま妥当するように思う。

つまり、超越的な“高さ”という属性がもたらす不可避的な効果によって純粋なシンボルそのものとならざるをえないタワー一般が帯びる〈タワー的公共性〉と、“広さ”によって多様なテナントを併存させる純粋な容れ物となるショッピングモール一般の持つ〈ショッピングモール的公共性〉との拮抗的な機能性の違いは、すでに大阪万博での太陽の塔とお祭り広場の対立がモデル的に提示していた未来都市における「建築の死」の必然的な帰結が、改めて赤裸々なかたちで現出したものだったと言えるのではないか。

なぜなら、本質的には土木工作物である自立式タワーも、(特にアトリエ派型の)建築家の個性を要しないただの容れ物であるショッピングモールも、オーセンティックな近代建築の理念的な枠組みからは大きく外れる代物だからである。この建築ならざる両者が、同じ施設の中で大阪万博以来の再びの衝突を起こしているのが、現在の東京スカイツリーの現場なのである。

東京の都市景観を塗り変えてきた二つの公共性の興亡

この観点から、改めてスカイツリーという自立式タワーの登場までの過程を歴史的に捉え直せば、それは“高さ”によって必然的に生じる〈タワー的公共性〉のシンボル価値が総じて弱まり、付帯施設の“広さ”の拡大がもたらす〈ショッピングモール的公共性〉に従属していく過程であったとも言える。

例えばシンボリックな近代自立式鉄塔の元祖である「エッフェル塔」は、産業革命の精華を誇示しフランス革命100周年を記念する1889年パリ万博に際して、取り立てて実利的な機能を持たない純粋なモニュメントとして誕生している。そこには一切の余計な付帯施設はなく、建造当初こそ組石造のパリ建築の伝統や芸術性への侵害物として旧時代の文化人らの激烈な反発を受けたものの、のちにロラン・バルトなどが論じるように、パリの都市文化の守護者としての〈タワー的公共性〉を認識されるようになっていく。

また、様々な放送事業者のアンテナ施設を一本化するための総合電波塔として1958年に築かれた「東京タワー」の場合は、末広がりの塔脚の足下を埋めるかたちで「東京タワービル(現:フットタウン)」が付帯され、近代科学館や水族館といった観光興行施設が築かれていた。つまり、当初から民間テレビ放送という実利的な機能を持ち、余分なコンクリート製のシェルター型建造物を抱えている。これにより、シンボルとしての東京タワーはエッフェル塔よりは不純で、芸術性に劣る猿真似だとの批判を受けることも少なくなかった。

このように、かつての〈タワー的公共性〉は博覧会やテレビ放送といった国民国家の形成を担うコミュニケーション装置と不可分なかたちで形成されたものであったが、ちょうど大阪万博あたりをピークにして日本が高度経済成長期から安定成長期に入ると、しだいに退潮していくことになる。

かわりに1970~80年代の東京の都市景観を塗り替えていったのが、西新宿の淀橋浄水場跡にできた超高層オフィス街や池袋の巣鴨プリズン跡にできた「サンシャイン60」など、民間の経済活動に直接資するビルディング群であった。これらのモダニスティックな超高層ビルは、あくまで床面積の“広さ”を大きくための手段として階数を重ねて結果的な“高さ”を得てこそいるが、エッフェル塔や東京タワーのように“高さ”そのものに特化しているがゆえの強いシンボル性は生じない。そうなると、商活動上の必要のなさと高度消費社会下の価値観の多様化の中で、国家的な「大きな物語」としての〈タワー的公共性〉が相対化され、時代遅れなものとなっていくのは必定だった。

その意味で、それまでのエッフェル塔や東京タワーが体現していた「人類の進歩と調和」を目指す理念性に反逆する異形のタワーとして建てられた太陽の塔は、まさに国家が主導する〈タワー的公共性〉が衰亡していく時代への、正確な指標となっていたのである。

そしてバブル経済期を経た1990~2000年代には、産業構造の変化によって不要になった工場や物流拠点跡などの土地を大規模な職住商複合型施設に転用し、ひとつの「街」全体を人工的に築こうとするかのような再開発手法が一般化。「天王洲アイル」や「恵比寿ガーデンプレイス」を先駆に、「六本木ヒルズ」や「表参道ヒルズ」、あるいはお台場の臨海副都心エリアなど、超高層オフィスやタワーマンションに職住機能を集中させつつ、“広さ”を活かして比較的低層の商業モールのような消費空間を回遊させる楽しさを提供するという考え方で構成されたスポットが、次々と造成されてゆく。

こうして、外部の文脈とは隔離した空間の中に統一的な景観を築いて半屋外のシェルターとなし、その内部での職住の安全やアメニティ、あるいは極力大きな自由な消費の選択肢を保証する、一種のテーマパーク型の都市ブロックとして立ち現れていったのが、〈ショッピングモール的公共性〉に他ならない。

その意味で、モダニズムの要素技術をアレンジしながら理想の未来都市を構想しようとしたお祭り広場の遺伝子が、ここには新たなかたちで発現していったのだとも言えるだろう。

ショッピングモールに呑み込まれた新タワーの存在意義

太陽の塔を境に1970年代以降は権威を失墜していった〈タワー的公共性〉と、お祭り広場を鋳型とする様々な表現型を1990年代以降に増殖させていった〈ショッピングモール的公共性〉の勃興。現代におけるこの力関係の逆転が、東京タワーに替わるテレビ放送の地デジ化のための新たな電波塔として築かれたはずのスカイツリーの施設構成と正味の事業実態の中には、きわめて如実に顕れている。

東京タワーの段階では、フットタウンのシェルター的なビルディングはあくまで従属施設であり、自立式タワーの4本の脚に囲まれた空間の中にすっぽりと収まっていた。それに対して、スカイツリーでは3.7ヘクタールもの敷地面積を持ったスカイツリータウンの圧倒的な“広さ”に囲われて、タワー本体の足下が覆い隠されてしまっている。したがって来場者としての滞在体験上は、必然的にショッピングモールの回遊が主で、タワーそのものが従とならざるをえない。

加えて、東京タワーから電波塔としての“本業”が移管されてくるのは2013年1月と、まだ半年近くも先のことなのだが、それによって特段大きな障害が発生しているという話を聞くこともない。調べてみれば所沢のあたりでは一部電波障害の大きなエリアがあるとのことだが、他の伝送手段の確保などで回避策が成立する程度である。

つまり、筆者を含む多くの論者が建設以前からずっと批判してきたように、純粋な電波塔としての必要性はそもそも非常に希薄なのである。このことは、スカイツリーが人々のイメージの中で誰もが納得する強い〈タワー的公共性〉を確立するための初期条件を、とても脆弱なものにしてしまっているのだ。

そうした事情を鑑みると、現状のこのタワーの立ち位置は、ショッピングモールの趣向として展望アトラクションを提供する核テナントの一つに過ぎない。もっと言ってしまえば、もはやスカイツリーの本質的な存在意義は電波塔でも展望塔でもなく、東京ソラマチというショッピングモールに他と差別化されたテーマパーク性を与えて集客力をもたらす新たなスタイルの“広告塔”に他ならないのだという規定の仕方さえ、いささかの過言にもならないはずだ。

したがって、開業時点のスカイツリーにおける〈タワー的公共性〉は、東武鉄道や日建設計、大林組といった事業者サイドが自画自賛的に掲げる「伝統技術と未来性を融合する日本のものづくり」や、小綺麗に整えられた「江戸・下町の地域性」、あるいは“ツリー(樹木)”のメタファーに被せた「省エネ・エコロジー」「やさしい未来」への志向など、あくまでも経済原理に立脚した〈ショッピングモール的公共性〉の商売くささを粉飾するお手盛りなブランディングの具としてしか、ほとんど存立余地が残されていないように見える。

筆者個人としては、事業者が掲げたこれらのビジョンそのものは、東京タワーが担っていた高度成長期までの〈未来〉像を転換して21世紀に目指されるべき社会への大枠の合意像として決して間違ったものだとは思っておらず、先にも触れたようにタワー本体のシンボル性については基本的に高く評価している(なぜそう考えたのかの詳細は、拙著を参照されたい)。

しかしそれが、どう言い繕っても周囲の地域性とは本質的に無関連で、かつ侵害的な規模差のあるグローバル資本の利潤追求活動を目的としている巨大ショッピングモールの余録としてしか存在しえない構造がある以上、純粋なシンボルとしては機能できず、社会的な説得力を持ちえない出自的な限界を何重にも抱えてしまっているのだとも言える。ひらたく言えば、シンボルとしてのスカイツリーがどんなに素晴らしいメッセージ性を秘めていようが、ソラマチの存在が巨大すぎて「しょせん商売のための綺麗事だよね」というツッコミを免れえないわけだ。

もはやエッフェル塔や東京タワーの時代とは異なり、事業者の側も私たち消費者の側も、資本主義の前提にスレすぎてしまっているのである。

「ファスト風土」型のショッピングモール批判は妥当するか

とはいえもちろん、スカイツリータウンの〈ショッピングモール的公共性〉が、地域や社会にとって一方的に“不純”で侵害的な効果を持つばかりでもない。開業後のスカイツリーに関する大手新聞の記事等には、「客がソラマチから出てこず、地元商店街にお金が落ちない」「相乗効果があるのは浅草ばかりで区が期待した墨田の観光周遊に繋がっていない」「こんなはずじゃなかった」と、いかにも「巨大資本の開発主義の犠牲になった無垢な地域」というテンプレ通りの話題パターンに落とし込もうとする報道も散見されるが、筆者の感覚からすれば、あまりにも一面的にすぎる見方だ。

そもそもの大前提として、押上や業平の商店街などスカイツリーの有無に関わらず、長期不況や少子高齢化の影響で少なからずシャッター街化していたし、「客が減った」と言っているのは昔からの商店というよりも、えてして建設中のスカイツリー見物客を当て込んでここ数年以内に商売を始めたと思しき土産物屋や飲食店のたぐいだったりする。

したがって、スカイツリー観光効果によって潤ったケースと打撃を受けたケースのどちらが優勢だったかを簡単に判断できる材料は現状なく、筆者の見聞からの推察では周辺商圏への影響はトータルではプラスでもマイナスでもないように思う。

それに直下の地区で起きている観光客のゴミ問題など、静かな生活を脅かされたくない住民の側からすれば、よそ者がソラマチからなるべく出てこないでくれることは結構なことであり、何が地元にとってのメリットデメリットなのかの評価基準自体が、決して単純ではない。むしろ、競合的な商売を営んでいない消費者としての近隣住民にとっては、デパ地下のような食品店街やユニクロのような定番のブランドが徒歩圏に集約されたことは、当然ながら生活厚生の改善以外の何物でもないのである。

筆者個人のミクロな実感では、ここ20~30年ほどの傾向として業平・向島界隈の商店や小規模なスーパーなどが、おそらく後継者不足や人々の消費性向の変化などを原因に次々と潰れていき、徒歩圏の消費環境は悪化の一途にあった。結果として筆者の実家などでは、浅草よりも駐車スペースの多い錦糸町や、シネコンを備えた木場のイトーヨーカドー、四ツ木あたりのロードサイド店といった、より郊外方向のクルマでの利便に適した量販店や外食店に出かけることが増えていった。いわゆる「ファスト風土化」の波が、墨田区にも少なからず訪れていたのである(ただし、よく言われるように郊外型店舗の出店「によって」地元が廃れたのではなく、浅草も含めて歩いて行ける範囲に適当な店がないのでクルマで遠出をせざるをえなかったというのが、こちらの生活実感上の正味の因果関係であるが)。

都心回帰型/人工観光地型のスポット開発との並行性

その意味で、スカイツリータウンは地方の画一化や文化荒廃の象徴とされるクルマ主体の郊外ロードサイド型の大規模モールというよりは、そこに抗うかたちで徒歩圏の商業機能を集約する都心回帰型の再開発スポットの流れの方に、大きな文脈では属していると言える。

ただし、六本木ヒルズ以来の他の都市再開発スポットと比較した場合、同じ東東京エリアで近年注目を集めた「丸ビル」や「コレド日本橋」、あるいはスカイツリーと同時期開業の私鉄系開発スポットとして話題を集めた渋谷「ヒカリエ」のような、昼間人口の活性化につながるオフィス複合機能が、スカイツリータウンにはない。

押上駅側の「東京スカイツリーイーストタワー」は、これらのスポット同様のオフィステナント機能を備えた付設ビルディングであるが、業平・押上地区におけるオフィス需要を完全に読み誤った賃料設定が災いし、7月現在はスカイツリー事業主の関連企業が付き合い的に契約した以外、ほとんどガラ空きの状態である。おそらくは大幅な値引きを行わなければテナントは埋まらず、投資に見合った採算事業として中長期的に成立する見込みもきわめて希薄であろう。

それを埋め合わせる基礎集客をタワーや水族館、プラネタリウムといった人工的な観光施設に頼らざるをえないという意味では、やはりスカイツリーと同時期に開業した「ダイバーシティ東京」をはじめとするお台場の諸スポットに、どちらかと言えば近い。特にダイバーシティの場合、ショッピングモールに囲われた広場に設置された、「実物大ガンダム立像」のようなキャラクター性の強い造形物が“広告塔”になっているという点でも、スカイツリータウンとの相同性は高いと言える。

ちなみに筆者個人としては、ガンダム立像はしばらく震災復興の呼び水として東北の観光地を応援に行くべきだと考えていたので、あのガンダムがおめおめとお台場に戻ってきたのを目の当たりにした瞬間には、激しい怒りと失望感を覚えたりした(※写真11)。実はここでも、太陽の塔(消費社会化によって変質した〈タワー的公共性〉)とお祭り広場(〈ショッピングモール的公共性〉として結実する人工都市化)の葛藤の系譜が再現しているのである。

写真11 「ダイバーシティ東京」フェスティバル広場のガンダム立像
写真11 「ダイバーシティ東京」フェスティバル広場のガンダム立像

 

このような東京近郊の郊外化に応答する都市再開発の機運が、スカイツリータウンを準備したと言えるだろう。

人口減少時代の地域再生モデルとしてのスカイツリーと墨田の未来

以上をまとめれば、いわば「都心」と「郊外」の中間的な界面上にあるのが墨田区のような地域であり、そこにさらに「観光地」という第三の属性を付加して域内では維持できなくなっていた需要を補って地域経済衰退の歯止め役となること。それによって、単にショッピングモール内だけでの利潤に留まらず、徒歩圏内の住環境の利便性とコミュニティ形成の基盤を回復しうるというポテンシャルが、スカイツリータウンの〈ショッピングモール的公共性〉の要諦である。

ただし、それが可能になったのは、世界一の高さの自立式電波塔などという降って湧いたような前時代的な開発計画の持つ〈タワー的公共性〉を、地域の歴史文化などに接続する観光資源として読み替えながらブランディングに利用しえたからであり、ここに期せずして大阪万博で分裂していったシンボルとシェルターの拮抗関係が、新たなモードで再結合したのだとも言える。

このことは、空前の人口減少社会への対応を迫られることになる全国の地域とコミュニティの再構築を構想してゆく日本の都市設計パラダイムの転換としても、少なからぬ意味があると思われる。もはや国家が明確な社会発展の方向性を示しうるシンボルを作りえず、地域が様々なリソースの選択と集中を強いられるコンパクトシティ化が必然的な課題になる中で、それぞれの歴史文化を活かしたキャラ立ちによる自前のブランティングと、それと連動した集約的なコミュニティ基盤をいかに築いていけるのか。

そうした今後の都市インフラ設計への先駆事例として、スカイツリーとスカイツリータウンにおける成功と失敗の諸相は捉え直されるべきであろう。

わが街で起きている急激な変化に、生理感覚のレベルではいまだ追いついていない筆者であるが、こうなれば全国に対しての人柱になるつもりで、すべてに中途半端なこの下町の変化から、有用な知恵を引きずり出していくしかないと考えている。その端緒となる現時点での考察は拙著に詰め込んであるが、引き続き注視を重ねて更新していくことにしたい。

 

プロフィール

中川大地

文筆家/編集者。1974年、東京都墨田区向島生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科博士後期課程単位取得後退学。アニメ、ゲーム等のサブカルチャーから、都市論、科学、思想史まで、虚構と現実を架橋する各種評論・ルポ・雑誌記事等を執筆。批評誌『PLANETS』(第二次惑星開発委員会)中核スタッフの一人。近著に『東京スカイツリー論』(光文社新書)。編著・共著に『アルファ・システム サーガ』(樹想社)、『クリティカル・ゼロ ~コードギアス 反逆のルルーシュ~』(樹想社)などがある。

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