2018.10.02
「革新」が目指したもの――江田三郎と向坂逸郎
「革新」という言葉が使われなくなって久しい。55年体制の時代においては、自由民主党(自民党)を保守政党と呼び、それに対峙する野党勢力の一員で、なおかつ社会主義を目指す政党を革新政党と呼んだ。
革新政党が目指した社会主義の中身は千差万別である。たとえば、民社党は民主社会主義を理念として掲げたが、これは西欧型社会民主主義と同義である。公明党は人間性社会主義を理念に掲げ、日本共産党(共産党)は1960年代に中国共産党と決別して以来、自主独立の社会主義路線を貫いた。
このように革新政党の社会主義といっても、その内容は政党ごとに異なった。そのうえ、同じ政党内にも様々な意見が存在する場合があった。そこで本稿では、革新政党の中でもとくに明確な理念を掲げ、さらにそれが広く人口に膾炙した人物を2人取り上げ、それらの理念が今日の日本にどのような意味を持つのかを考察してみたいと思う。
2人の人物とは江田三郎と向坂逸郎である。2人とも日本社会党(社会党)に属し、1960年代までは同じ理念を掲げる同志であった。しかし、1960年代以降、2人が目指す社会の像は大きく異なるようになり、2人は激しく対立するようになる。2人はどのような社会を目指したのだろうか。
江田三郎と構造改革論
江田三郎は岡山県出身の農民運動家である。長姉夫婦の援助で、当時、日本の植民地であった朝鮮半島の商業学校で学んだ江田は、日本人が植民地でいかに横柄なふるまいをしているかに気が付いた。そして、植民地支配について学ぶために神戸高等商業学校(現在の神戸大学)、次いで東京商科大学(現在の一橋大学)に学んだ。
大学在学中にプロレタリア文学などに触れた江田は、大学を中退して農民運動に身を投じ、戦後は社会党左派の政治家となった。農民運動出身の江田は、農地改革で土地を得た農民たちが保守化し、農村における社会党の支持基盤が次第に弱体化していったことに早くから気が付いており、新たな理念の必要性を感じていた。
当時の社会党左派の理念は労農派マルクス主義というものだった。労農というのは戦前に刊行されていた雑誌の名前である。岩波書店から刊行されていた『日本資本主義発達史講座』の執筆陣は、日本を半封建的な社会ととらえ、民主主義革命を行った後に社会主義革命をおこなう必要があるという立場をとった。それに対し、雑誌『労農』に拠ったマルクス主義者たちは、日本を封建遺制は残るものの発達した資本主義社会だととらえ、来るべき革命は社会主義革命であると主張した。このため、講座派・労農派と区別されるようになったのである。
そして、社会党左派では来るべき社会主義革命は平和革命だと考えられていた。すなわち、武力で政権を奪うのではなく、労働者が社会党の下に結集して組織化されれば、社会主義の社会になると考えられていたのである。そのため、社会党左派の任務は、労働者に社会主義の正しさを教えて、社会党の下に結集させることとなる。現に、向坂はこの考えの下に、全国の労働者のもとを訪れ、『資本論』を講義し、社会党員を増やすよう尽力していた。
しかし、江田はそのような考えに次第に疑問を覚えるようになった。1960年には三池炭鉱で大規模な労働争議が起こり、さらに同じ年に日米安保条約の改定をめぐって全国で大規模な反対運動(安保闘争)がおこったにもかかわらず、それらは社会党の躍進にはほとんど結びつかなかったからだ。従来の労農派マルクス主義では、社会党が取り組んでいる社会運動が社会主義の実現にどう結びつくのかあいまいだと江田は考えた。
このとき、江田が党本部の書記たちから紹介され、心を奪われたのが構造改革論という考えである。構造改革論とは、イタリア共産党のパルミロ・トリアッティが提唱した考えで、社会構造の改革をすすめていくことで社会主義に到達するという考えであった。この考えに触れた江田は、労農派マルクス主義ではあいまいになっていた部分を構造改革論で補うことができると考えた。
江田側近の書記たちに構造改革論を紹介した経済学者の佐藤昇は、「政治的な民主主義というものが曲がりなりにも確立されていれば、ほかの改革は政治的民主主義を通じてできるということです。政治的民主主義が確立しているところで革命をやれば、それは民主主義を否定する反革命になってしまう」(1)と述べていたという。構造改革論は社会党が議会制民主主義の政党に生まれ変わるのに不可避の理論だったのである。
だが、社会党左派は構造改革論を、彼らが改良主義と軽蔑する西欧型社会民主主義の理論だと考え、鋭い批判を加えた。その急先鋒に立ったのが向坂逸郎である。
向坂逸郎と改良主義批判
向坂は福岡県出身で、改造社の『マルクス・エンゲルス全集』の翻訳に携わるなど、戦前にすでに高名なマルクス経済学者であった。彼は戦時中、どんなに発表の機会を奪われても、軍部に迎合した言動を一切せず抵抗を貫いた不屈の精神の持ち主であった。そのためか、江田が構造改革論に傾倒していくのを一切許さなかった。
「江田君はね、左派の、実にいい社会主義者だった。それがあんなに改良主義に染まっていったのは、君たちマスコミが悪い。人間というのはおかしなものでね、人から攻撃されると非常に強く抵抗する。ところが、おだてにはまことに弱い。江田君たちの構造改革論を、君たちマスコミがおだてるものだから、江田君もすっかり右のほうへ行ってしまった」(2)というのが、このころの向坂の江田評である。
1962年、江田は「江田ビジョン」を発表する。この中で、江田は社会主義の目標を「人間が持っている可能性を最大限までに発揮できる社会をつくること」に置いた。そして、「高いアメリカの生活水準、ソ連の徹底した社会保障、英国の議会制民主主義、日本の平和憲法」を人類が到達した4つの大きな成果と評価し、それらが日本で実質的に実現するよう努力する一方で、日本人自ら日本に合ったビジョンを構築する必要性を説いた。
ブレーンの言葉を「江田ビジョン」として根回しなしに発表したことで、江田は党内から激しく攻撃され、書記長辞任に追い込まれるが、「江田ビジョン」はその後も江田の基本的な考えとして、彼の中で維持されていった。1972年に著した本の中で彼は「私の考えは、当時もいまも、一貫しているつもりである」と記している(3)。
江田がこのような考えを性急に発表した背景には、安保闘争後に成立した池田勇人内閣が所得倍増を掲げ、高度経済成長政策によって人々の心をつかんでいることへの焦りがあった。江田は後に、朝日新聞の社会党担当記者たちにこう語ったという。「あのときは、『アメリカの高い生活水準』と言わなければ、あんな騒ぎにならなかったろう」「しかし、あれはアメリカと言わなければ意味がなかったんだ」(4)。安保闘争の直後ということもあり、社会党内では反米感情が高まっていたが、アメリカのような豊かな社会を目指さなければ、大衆はついてこないことを江田は知っていたのである。
1970年代になると、全国で公害問題が発生。さらに、経済成長優先のために社会福祉がなおざりにされる事態がマスコミなどで問題視されるようになった。江田はこうした問題の是正のための政策を打ち上げる一方で、高度経済成長政策の負の側面の修正のためには政権交代が必要と訴え、社会党・公明党・民社党三党による連合政権の樹立を説いた。このような江田の考え方には、政権構想から排除された共産党だけでなく、民社党にアレルギーを持つ社会党左派も反発した。
1977年の第40回定期大会では、江田は公明党・民社党への接近を、向坂率いる社会主義協会系の代議員たちに厳しく批判された。大会後、江田は社会党を離党し、社会市民連合の結成を宣言する。彼がパートナーに選んだのは、市川房枝陣営の選挙事務長をつとめ、金のかからない選挙を実現して名をあげていた菅直人(後の首相)であった。
江田と菅の初顔合わせの場である公開討論会で、菅は江田にこう問いかけた。「これほど社会主義の内容が多様化しているとき、社会主義だというのは心情的な要素に過ぎないのではないか。」これに対して、江田はこう答えた。「私が社会主義というのは、ひとつの固定論や理想像を描いているわけではなく、現実には色々な矛盾がある、不公正がある、不合理がある、その一つ一つをどこまでもどこまでも正していく終着駅のない社会主義運動という考え方です。」(5)江田にとって現実の矛盾を解決することが「社会主義」であった。そのため、「社会主義」の内容はそのときの状況に応じて変化するものであった。
一方、向坂は、社会主義運動は、マルクス主義の思想と理論という定石を踏んだものでなくてはならないと考えていた(6)。そして彼は、ロシア革命を成功させたレーニンの考えこそが、マルクス主義の唯一の正系の嫡子と考えていた。もちろん、日本にマルクスやレーニンの考えを機械的に応用するわけではなく、日本の事情に応じて応用をきかせるのである(7)。そして、マルクス・レーニン主義への思い入れは、いつしか既存の共産主義国への思い入れにつながっていき、現実のソ連・東欧諸国こそ理想の社会とみなすようになった。だから向坂にビジョンは必要なかった。向坂によれば、日本はソ連・東欧諸国のような社会を目指せばそれでよかったのである。
1972年、向坂は次のような旅行記を残している。「私は、ソ連とDDR(旧東ドイツのこと―引用者注)の社会主義国を訪れること数度である。そのたびに、社会主義制度を目のあたりに見て、その善さをいまさらのように思う。論文や著書でいわれ、考えられていることが生きて働いているさまを見るのであるから、当然といえば当然のことである。六十年前の若い日に、頭の中だけで想像していた夢が、現実になっている。夢であったときは、美しいこと、善きことのみを望み見ていたが、人間の現実となれば、前代から残っている人間の汚い部分もあらわれる。しかし、この汚い部分に目をつけるだけで、汚いものを克服しつつ前進している人間性の発展を見落してはいけない。」(8)
このように向坂自身は死ぬまで「社会主義が人間社会をより良いものにしている」と信じ続けた。だが、1980年代に入ってソ連や東欧諸国の行き詰まりが明らかになると、向坂門下の学者たちは西欧型社会民主主義支持へと考えを変えていき、社会党もまた向坂の死(1985年)の翌年、「日本社会党の新宣言」を採択し、曲がりなりにも西欧型社会民主主義支持へと舵を切った。
失われる「社会主義」という言葉に込めた思い
しかし、そのとき、なぜ社会主義ではなく、社会民主主義なのかという点が深められたとは思われない。江田ビジョンを葬り去った向坂門下の学者たちと社会党は新たなビジョンをつくろうとせず、賛美する相手をソ連・東欧から西欧に変更しただけだったのである。さらに村山富市内閣以降は、「リベラル」という言葉が、その意味をあまり考慮されないまま、社会党内で多用されるようになっていく。
なお、江田は晩年に中国を1度訪問したことを除いて共産圏は訪問しなかった。「ソ連や中国は、向こうからの招待でなければ行けない。まる抱えでご馳走になったら、悪口はいえんじゃないか」(9)というのが理由だった。
このように、江田も向坂も方向性は違えども、「社会主義」という言葉に深い思い入れを持っていた。しかし、菅が江田に「社会主義だというのは心情的な要素に過ぎないのではないか」と問いかけたことに象徴されるように、その後の革新系政治家たちには、彼らのような思い入れはないように思われる。それでは、社会主義に代わる理念を、菅をはじめとする革新系政治家たちは持ち得ただろうか。
江田と親交があった政治評論家の俵孝太郎は、「社会主義」に依拠した江田三郎と、「市民」に依拠する江田五月(江田三郎の長男)を比較した文章の中で次のように述べている。俵の言葉は江田五月だけでなく、江田五月同様、市民に依拠する政治家たちすべてを評した言葉のように思われる。
しかし、“市民”はあくまで政治の客体であって、主体にはなり得ないのではないか。“神は死んだ”と叫ぶこととは別の次元で、人間の精神の拠って立つべき基準を求めようとすれば、どこかから新しい“神”を見つけ出してこなければ、話になるまい。それと同じことで、冷戦構造を背景として成立していた東西両陣営それぞれのイデオロギーが衰弱した今こそ、民主政治の主体であり、権力の司祭である政党政治家は、価値観が多様化した時代を反映した柔らかい構造の、しかし社会にとって不可欠である連帯や統合を導き出すことのできる、新しくて明晰なイデオロギーを、“市民”の前に提示することを迫られているはずである。
そのための努力が尽くされなければ、政治家は“市民”とともに“風”に乗って浮遊するだけの、時代の客体に止まってしまう。そのとき政党政治は死滅し、弱肉強食の荒れた社会の中で、ファシズムでもなんでもいいから強力な基準を示してくれという、“自由からの逃走”の気分が、“市民”の中に高まっていくことになるだろう(10)。
残念ながら、俵の言葉は予言の言葉になってしまったと言わざるを得ない。今日の、革新系政治家の末裔たちがよく口にする「市民」「リベラル」という言葉には、江田や向坂が「社会主義」という言葉に込めたほどの思い入れは感じられない。それでは、俵が懸念するように、「市民」たちはより頼りがいのある理念にひかれるだけだろう。このことを考慮していないことが、今日の日本のリベラル勢力混迷の原因ではないだろうか。
注
(1)初岡昌一郎「私からみた構造改革(上)」『大原社会問題研究所雑誌』657号(2013年7月)、55頁。
(2)石川真澄『人物戦後政治』岩波書店、1997年、108~109頁。
(3)江田三郎『私の日本改造構想』読売新聞社、1972年、269頁。
(4)石川、前掲書、140頁。
(5)石川真澄「〝中道〟に倒れた江田三郎」『朝日ジャーナル』19巻23号(1977年6月3日)、91頁。
(6)『社会主義協会テーゼ』社会主義協会、1971年、234~235頁。
(7)同上、136頁。
(8)向坂逸郎「ドイツ民主共和国・ブルガリヤ・ソ連紀行」『唯物史観』12号(1973年5月)、14頁。
(9)石川「〝中道〟に倒れた江田三郎」(前掲)、90頁。
(10)俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』中央公論社、1997年、164頁。
プロフィール
岡田一郎
1973年、千葉県生まれ。96年筑波大学第一学群社会学類卒業。2001年筑波大学大学院博士課程社会科学研究科修了。博士(法学)。現在、小山工業高等専門学校および日本大学非常勤講師。専門は日本政治史。