2019.08.22
情報がアテンションを消費する
道徳心理学や進化人類学によれば、私たち人間の本性には、近似性と類似性に基づいて共感能力を発揮する「近接バイアス」などの歓迎されざる偏向がある(De Waal 2008, Maibom 2014)。そのため、私たちは共感しやすいものに共感するきらいがあり、これを逆手に取られると、たちまち感情で釣られる羽目になる。感情の動員は、いまや政治戦略の主流だ。
しかし、こうした戦略に対して「冷静に考える」という仕方で、つまり理性で応戦するのは実に心許ない。なぜなら、私たちを取り巻く情報環境は、理性が首尾よく働くための基礎的な条件、つまり、一つの事柄を効果的に取り扱うための「アテンション(注意)」を、分割し、消費してしまうからである。感情の動員や理性の失敗に通底するのは、アテンションを散逸させる情報環境であるように思われる。そこで、本稿ではこの点を中心に、目下の情報環境について論じてみたい。
アテンションの分割
「メディア定点調査2019」によると、私たちが一日にメディアに接触する平均時間は411.6分になったという。これほど長い時間を情報の取得に費やすことは、かつてなかった。しかし、増え続けているメディア接触時間は、それだけ必要とされる情報が増えたことを必ずしも意味するわけではない。
私たちの生きる情報化時代の特徴は、これまでの時代とは違って、情報を取得するよりも、選択する方がはるかに難しくなったということである。メディア接触時間の増加は、情報を選択するためのザッピングに要する時間の増加でもある。容易にアクセスできる膨大な情報の存在は、情報の選択時間の増加と反比例して、情報の価値を急激に低下させている。実際、ニュース、ゴシップ、教養、娯楽、誹謗中傷など、どんな種類の情報も大半が無料で手に入る。このような情報環境で育った人にとっては、情報はもはや希少ではなく、それゆえ、情報の入手にお金を支払うのは馬鹿々々しく思えるかもしれない。
しかしながら、情報を取得するのに、しばしばお金を支払わなくても良いという事実は、情報を何とも交換せずに入手できるということを意味しない。というのも、私たちは、膨大な情報の中から特定の情報を選択するために、なけなしのアテンションを払っているからである。その意味で、情報が「無料」で手に入るからといって、情報が「タダ」であるわけではないのだ。
哲学者で心理学者でもあったWilliam James(1842-1910)には、アテンションに関する有名な一節がある。
アテンション……は、同時に存在しうるいくつかの思考の対象や連鎖のうちの一つを、明白かつ鮮明な形で心にとらえることである。……それは、ある事柄を効果的に取り扱うために、それ以外の事柄から撤退することを意味する(James 1890 : Chapter XI, para3)。
膨大な情報の中から必要な情報を効率的に取得して、理解し、それを元手に行動に移すには、情報の選択、取得、理解、行動のどの段階でも、一つのことに集中する必要がある。これは「それ以外の事柄から撤退する」、つまり、他のことには手が付かなくなるということでもある。私たちは、電話しながら運転することができても、いくつかのことに一度に注意を向けると、作業効率は停滞し、間違いも犯しやすくなる。認知科学の検証によれば、アテンションは貯蓄できず(Kahneman 1973)、アテンションを分割すると、個々のパフォーマンスは低下してしまうのである(Sternberg 2012)。
確かに、ある人は他の人よりもより長く集中することができる。しかし、私たち個々人が持つアテンションの量は大差のないものだ。だから、日々の限られた時間の中で、膨大な情報の中から興味のある情報を選択しようと、複数のメディアに同時に接触したり、別のことをしながらメディアに接触すれば、アテンションは分割され、情報の理解度は低下する。理解度が低下し、有用な情報の取得に失敗すると、有用な情報を求めて再びアテンションを分割しなければならなくなる。この繰り返しは、メディア接触時間の増加をもたらし、他方では、信頼できない情報を退けるだけのアテンションを減少させ、現実認識に深刻な影響を与える。
アテンションの消費
このように見れば、私たちが膨大な情報を日々消費している、という言い方は修正される必要があることが分かる。50年ほど前に、ノーベル経済学賞受賞者のHerbert A. Simonが将来について語ったことは、正鵠を射ていたのだ。
情報が豊富な世界では、情報の豊富さは、情報が消費するものの欠乏という、他の何かを意味する。情報が消費するものは、どちらかと言えば明白である。すなわち、情報を受け取る側のアテンションを消費するのである(Simon 1971: 40-41)。
いまや明らかなのは、消費されているのは情報というよりも、私たちのアテンションの方だということである。メディア接触時間の増加は、情報源による、なけなしのアテンションの奪い合いの結果だ。情報源がアテンションを奪い合うのは、アテンションが人の心を開ける最初の鍵だからだ。啓蒙、説得、誘惑、操作のどの段階でも、それを成功させるにはアテンションを可能な限り効率的に捕捉し、利用できなければならない(Teixeira 2014)。それゆえ、私たちに何か具体的な行動をとらせたい者には、アテンションは非常に価値のあるものになる。
目下の情報環境を、Simonに従って、情報がアテンションを消費する世界だと見るなら、私たちの役割に関する自己認識もそれに合わせて書き換える必要がある。通常、私たちは自分自身を、FacebookやTwitterやInstagramといったSNSの顧客だと見なしている。そして、それらのサービスが無料であるのは、私たち顧客に対するサービスの一環だと考えている。しかし、それはまったくの誤解だ。
Facebookであれ、Twitterであれ、Instagramであれ、何であれ、サービサーにとっての顧客とは、お金を支払っている人のことだ。では、私たちは、彼らにとって何なのか。彼らのマネタイズの仕組みを考えれば答えは明白である。彼らの仕事は、無料の情報を通じて集めた私たちのアテンションを真の顧客に売ることである。つまり、私たちは、真の顧客のための「商品」なのだ(Hendricks & Vestergaard 2019: 10-11)。
サービサーは、アテンションを販売するために、さらに別の物も販売している。それは、私たち「商品」に関する情報である。年齢、性別、地位、興味、関心、交友関係、政治的志向は元より、検索パターン、消費動向、訪問・離脱ページなど、あらゆるパーソナルデータが集められ、販売される。そして、これらのデータは、再び、なけなしのアテンションを刈り取るために利用される。ダグラス・ラシュコフの言葉を借りれば、「Facebook(などのサービサー)は広告主に私たちを販売している」のである。
アテンション・ポリティクス
私たちのパーソナルデータを利用した精密なマーケティングは、政治的なキャンペーンでも利用されている。2014年に、同意なしに8700万人のFacebookユーザーのデータが、有権者の動員や「関与解除(voter disengagement)」を目的に利用されたというニュースは記憶に新しい。
パーソナルデータを分析し、何が私たちのアテンションを分割させるか(奪えるか)を見出す手法は、一般に、候補者や政党に好意を抱くような情報を的確に届けるためのもの、さもなければ、特定の候補者への好意を削ぐためのもののだと考えられている。しかし、2017年にケニアで行われた国政選挙は、そうではなかった。報道によれば、人びとの怒りの感情を刺激し、分裂や対立を故意に引き起こすフェイク・ニュースによって、有権者から冷静に民主的に話し合う機会が奪われたのだ。
フェイク・ニュースの真偽をめぐって激しく交わされる人びとの投稿にアテンションが分割されれば、かえって私たちは、真偽を冷静に見定めることができなくなる。これは皮肉なことだ。真偽を見定めるために一度にたくさんの情報に接するほど、私たちはますますそこから遠ざかるのだから。要するに、アテンションを分割させる戦術は、冷静な判断や対話の契機を奪うことにも向けられているわけである。
アテンションの分割が、政治的な目的において故意に引き起こされる背景には、情報技術とデジタル化の発展がある。それらが情報発信の基本的な条件を変えたことによって、インターネット上の大半の情報は、適切な精査を欠いたまま、いわばむき出しのまま流通している。繰り返せば、目下の情報環境では、情報を流通させる最初のゲートキーパーが不在なのだ。それは、情報技術とデジタル化が、旧メディアの視聴者(消費者)だった人びとを、潜在的なコンテンツ生産者に変えたからである(Hendricks & Vestergaard 2019: 28)。
従来の情報発信者と受信者の境界線がぼやけたことで、情報流通の市場は飛躍的に拡大し、それに合わせてジャーナリズムの理念と商業的利益の境界線も不明瞭なものに変わってしまった。この変化は、民主主義におけるジャーナリズムの役割に深刻な影響を与えている。独立性、バランス性、透明性、誠実性、正確性など、ジャーナリズムが本来備えておくべき価値が、人びとのアテンションが現金化される環境の中で劣位に置かれるからである。
部屋のすべての酸素を吸い上げる
アテンションを分割させること(奪うこと)が商業的利益になるところでは、極端なものがイニシアティブを獲得する。極端なものは、アテンションを集めたい真の顧客と、アテンションを刈り取るサービサーの両者に大きな利益をもたらす。とりわけ道徳的にいかがわしくても不法ではない過激な発言は、人びとのアテンションを奪うのに好都合で、いったんこうした発言がメディアに取り上げられると、先の述べたケニアの事例と同じく、賛否両論がインターネット上に溢れ、人びとのアテンションをさらに分割させることになる。極端なものが一旦アジェンダになれば、アテンションはそれによって消費され、それ以外の情報やアジェンダは失われるのである。
現在の米国大統領Donald J. Trumpは、目下の情報環境がアテンションをめぐるゼロ・サム・ゲームだということをよく心得ていたようだ。2016年の大統領選挙を前に、Trumpは次のように語っている。「私は部屋の酸素をすべて吸い上げるつもりだ。私は、光が私に当たり続けるようにメディアを動かす方法を知っている」。ここに言う、部屋の酸素とは人びとのアテンションのことである。それを奪うことは、自分に注目させるだけでなく、他の候補者への注目を奪うことにもなる。実際、2016年当時、Trumpが他の候補に比べて、どれほどTVに取り上げられたかは、以下のグラフを見れば明らかだ。
これらのことは、情報流通市場の飛躍的な拡大にもかかわらず、私たちの目に触れる情報は決して多様ではないということを示している。情報流通市場の拡大は、情報の多様性の拡大ではないのだ。BryanらのTwitterのアジェンダに関する研究(Bryan et al. 2014)によれば、インターネット上でアテンションを集める記事やニュースは限られているという。その理由は、アテンションを奪う極端なものに関する情報を、旧来のメディア、ジャーナリスト、ネットメディア、そして潜在的なコンテンツ生産者、つまり私たちが互いにコピーし合い、小さな変更を伴いながら繰り返し配信しているからである。あるアジェンダやニュース・ソースがアテンションを獲得すれば、それは情報流通市場を駆け回り、それ以外の情報を窒息させてしまうのである。
情報流通市場の流儀
このような情報流通市場は、Trumpでなくても、社会的・政治的なアクターにこの市場での流儀に従う強いインセンティブを与える。それは例えば、2017年1月20日のTrumpの大統領就任式にどれだけの観衆が集まったかに関する、Sean Michael Spicer元ホワイトハウス報道官の一連の発言のようなものだ。彼は、就任式の翌日に「就任式には史上最大の観衆が集まった」と声明を発した。しかし、まばらな観衆が映った証拠写真が提示されると、23日には声明が虚偽だとの批判を否定して、こう主張したのだ。「私たちは事実に反対することがある」。彼によれば、声明は「オルタナティブ・ファクト(alternative facts)」に関するものであったという。このようなあからさまな、そして直ぐに真偽が知れることでさえ、人びとのアテンションを分割させる。
https://www.bbc.com/japanese/38709628より抜粋
このことは、Soroush Vosoughiらによる研究からも確認できる。それによれば、虚偽情報、とりわけ政治的トピックに関する虚偽情報は、あらゆる種類の情報において、真実よりもはるかに著しく、速く、より深く、広く拡散しており、そして、その大半は人の手によって為されている(Vosoughi et al. 2018)。
「オルタナティブ・ファクト」が幼稚なものではなく、部分的に真実を含むものであれば、その効果はさらに絶大なものになる。それが虚偽だという告発は、部分的な真実を見つけた人びとの反論にあうからだ。人びとが真偽について議論を戦わせるほど、そのオルタナティブ・ファクトは、部屋のすべて酸素を吸い上げることになる。
「オルタナティブ・ファクト」の提示がさらに巧妙になる時には、William Jamesによるアテンションに関する考察が悪用される。つまり、あることに注目すると、別のことが視界から外れるというアテンションの特性だ。物事の一側面だけに注目が集まれば、それは虚偽ではないにしても、物事の別の側面や物事の全体像が犠牲になる。そのことに気付いた人からすれば、物事の一側面だけにフォーカスする情報は、物事に対する判断を誤らせる場合があるという点で、虚偽情報と大差のないものになる。しかし、これに対する告発も、別の側面をフォーカスした人びとの反論に合うことになり、そうこうする内に、部屋の酸素はすべて枯渇してしまうのである。
One-sided news diets may result in distorted ideas of reality.
Hendricks & Vestergaard(2019:5)からの抜粋
ファクト・チェックの限界
すべてが虚偽なものや部分的に虚偽なもの、そして、フレームが恣意的なもののどれもが厄介なのは、たとえ真実が明白になっても、人びとのアテンションを奪い続ける場合がある、ということである。政治学者のEmily Thorsonが行なった調査は、事実誤認が適切な情報によって直ぐに修正された場合でも、事実誤認によって形作られた態度は、そのまま持続することを明らかにしている。彼女によれば、事実の「訂正は態度に対する誤った情報の影響を排除するものではない」のである(Thorson 2016:iv)。
彼女は、事実誤認によって形作られた態度が持続することを「信念エコー(Belief echo)」と呼び、次のことを明らかにしている。すなわち、「オルタナティブ・ファクト」が、ある人の既存の政治的見解を補強する場合(認知的信念エコー)や、ある候補者に対する否定的な評価を与える場合(感情的信念エコー)に、形作られた態度は真実がどうであれ、持続する傾向がある。Emily Thorsonによるこの調査は、ファクト・チェックが、残念ながら、限定的な効果しか持ち得ないことを示しており、事実、米国で行われた別の調査では、米国の有権者の29%しかファクト・チェックを信じていないという結果が示されている。
ファクト・チェックが十分に機能しない理由は、「信念エコー」だけではない。社会心理学において、「社会的証明」や「情報カスケード」と呼ばれるものもその一つだ。それによれば、私たちは、自分の判断より周りの多くの人びとの判断を頼る傾向がある。そのため、真偽不明のどのような情報も、流通範囲が広く、より多くのアテンションを集めていれば、信頼に足るものとして受け入れられる可能性が高くなるのである(Hendricks & Hansen 2016)。つまり、アテンションを奪うこと――部屋の酸素をすべて吸い上げる戦略――は、アテンションを集めるほど、さらに威力を増すということだ。
有機的な分業を取り戻す
先にも述べたように、これらのことすべては、情報技術とデジタル化の発展なしには起こり得なかったことである。それらは、アテンションを分割させる様々な戦略の培地となっていることは、疑いの余地がない。アテンションをめぐる情報流通市場の発展と拡大は、共通の基盤として情報流通の外部にあった事実を、情報流通の内部でアテンション・レートによって認定されるものへと変えてしまった。
2017年のグローバル・リスク・レポートが警告するように、こうした状況は、民主主義の効率性と正当性を損なう可能性が大いにある。それを回避するには、少なくとも事実をアテンション・レートから切り離す必要がある(Hendricks & Vestergaard 2019: 107)。より正確に言えば、事実そのものと、事実についての政治的意見とを区別する必要がある。
後者については、それが公正であるか否か、どのような課題があるかなど、議論に付されるべき点が多くある。しかし、前者についてはそうではない。Sean Michael Spicer元ホワイトハウス報道官の声明「就任式には史上最大の観衆が集まった」は、真偽を争う問題では決してない。事実そのものは、政治家や潜在的なコンテンツ生産者が認定するものではなく、本来、科学やジャーナリズムの理念に照らして議論されるべきものである。
これは、科学的な知やジャーナリズムの知だけが、事実そのものを認定できるという信念の表明ではない。科学者であれ、ジャーナリストであれ、他の人びとと同様に分割できるアテンションは限られているのだから、事実そのものを見誤る可能性はつねにある。けれども、この時代にあっても科学者やジャーナリストは、情報流通市場に適応した政治家とは異なり、その仕事の評価をアテンション・レートに負っているわけではない。
客観性や中立性、そして説明責任を果たすことは、依然として科学者やジャーナリストの目指すべき理想だ。そうである限り、科学者やジャーナリストによる、事実そのものに関する仕事は、それらが政治的利益や課題と反りの合わないものであっても、一定の敬意が払われる必要がある。少なくとも、彼らの仕事が、事実についての政治的意見の前提となることが必要だ。換言すれば、科学およびジャーナリズムと、政治の間の有機的な分業を再建することが不可欠なのだ。
これを具体的にどのように実現していくか。難しい課題であるには違いないが、希望がどこにもない、というわけでもない。冒頭で触れた「メディア定点調査2019」の結果では、「インターネットの情報は、うのみにはできない」と考える人が、東京では8割、東京以外の地域でも7割前後(東京79.3%、大阪71.7%、愛知74.2%、高知67.2%)と多く、また、「情報やコンテンツは無料で手に入るものだけで十分だ」と考える人も、いずれの地域でも年々減少していることが示されている。
むしろ反対に、自分にとって重要な価値のある情報は、お金を支払う必要がある。そう考える人が増えているようだ。実際にお金を支払うようになれば、その人たちは販売される「商品」ではなくなり、「顧客」としての身分を取り戻すことになるかもしれない。そうなれば、支払ったものに見合うだけの情報の質を求める動機や、情報に対する説明責任を問う動機も生まれてくるのではないだろうか。
こうした変化は、事業収益の基盤をBtoBに置くサービサーにとっても、そう悪い話ではないだろう。個人情報の取り扱いが厳しくなり、また広告モデルが不況の最中、BtoCによる事業収益の可能性が開かれるのだから。科学者やジャーナリストの仕事が、お金を支払うに値すると考えられるようになれば、アテンションだけでなく収益も獲得したいサービサーが、そうした仕事を取り上げる動機も必ず生まれてくるはずだ。
こうした見通しはどれも、楽観的に過ぎるかもしれない。しかし、それを現実的なものにするかどうかは、科学者やジャーナリストの堅実な仕事いかんだとも思われる。
主な参考文献
本稿の論点は、下記の先行研究に、とりわけHendricks & Vestergaard(2019)に多くを負っている。
・Bryan, D., Lovett, J., & Baumgartner, F., 2014, “The diversity of internet media: Utopia or dystopia?” in Midwest Political Science Association. [https://fbaum.unc.edu/papers/MPSA2014-InternetDystopia.pdf]
・De Waal F.B.M., 2008, Putting the altruism back into altruism: the evolution of empathy, Annu Rev Psychol, 59, pp. 279–300.
・Hendricks, V. F., & Hansen, P. G., 2016, Infostorms: Why do we “like”? Explaining individual behavior on the social net (2nd Rev. and expanded edition), Springer Nature.
・Hendricks,V. F., & M. Vestergaard, 2019, Reality Lost: Markets of Attention, Misinformation and Manipulation, Springer Open.
・Humprecht, E., & Esser, F., 2017, Diversity in online news: On the importance of ownership types and media system types, Journalism Studies, online first, pp. 1–23.
・James, W., 1890, The Principles of Psychology, Chapter XI: Attention, Classics in the History of Psychology, Green, C.D. (ed.) . [http://psychclassics.yorku.ca/James/Principles/prin11.htm]
・Kahneman, D. , 1973, Attention and effort, Englewood Cliffs, Prentice-Hall Inc.[https://scholar.princeton.edu/sites/default/files/kahneman/files/attention_hi_quality.pdf]
・Maibom, H.L., 2014, Empathy and morality, Oxford University Press.
・Mirello, N., Gilbert, D., & Steers, J., 2018, “Kenyans Face a Fake News Epidemic,” VICE, May 22, 2018. [https://news.vice.com/en_us/article/43bdpm/kenyans-face-a-fake-news-epidemic-they-want-to-know-just-how-much-cambridge-analytica-and-facebook-are-to-blame]
・Simon, H. A., 1971, Designing organizations for an information-rich World. In M. Greenberger (Ed.), Computers, communications, and the public interest : pp. 38–52, Baltimore, Johns Hopkins Press.
・Sternberg, R., & Sternberg, K., 2012, Cognitive psychology (6th ed.), Belmont, Wadsworth.
・Teixeira, T. S., 2014, The rising cost of consumer attention: Why should you care, and what you can do about it , Harvard Business School Working Paper, 14(055).
・Thorson, E., 2016, Belief echoes: The persistent effects of corrected misinformation. Political Communication, 33: pp. 460–480.
・Vosoughi, S., Roy, D., & Aral, S., 2018, The spread of true and false news online. Science, 359: 1146–1151.
プロフィール
堀内進之介
1977年。博士(社会学)。東京都立大学客員研究員、Screenless Media Lab. 所長、株式会社JTB 新宿第三事業部 上席顧問ほか。単著に『善意という暴力』(幻冬舎新書、2019年)・『人工知能時代を〈善く生きる〉技術』(集英社新書、2018年)・『感情で釣られる人々』(集英社新書、2016年)・『知と情意の政治学』(教育評論社)、共著に『AIアシスタントのコア・コンセプト: 人工知能時代の意思決定プロセスデザイン』・『人生を危険にさらせ!』(幻冬舎)ほか多数。翻訳書に『アメコミヒーローの倫理学』(パルコ出版、2019年)・『魂を統治する』(以文社、2016)がある。