2012.10.05
復興計画の作成をどのように進めるか
都市計画における「ビジョン」と「手段」
わたしの専門である都市計画は、狭義には都市計画法に規定される。「都市計画」という言葉に漠然としたイメージを描く人も少なくないだろうが、都市計画法には都市の計画を実現するための具体的な方法が体系的に定められている。その体系は大ざっぱに分けると、都市の将来を示した「ビジョン」と、それを実現するための「手段」で構成される。たとえるならば、ビジョンは家を建てるための設計図、手段は家を建てるためのノコギリや金槌などの道具ととらえるとイメージがわくだろうか。
少し都市計画に詳しい方は、「都市計画図」とよばれる、様々な色に塗り分けられ、道路の予定線が書き込まれた地図をみたことがあるかもしれないが、そこに書き込まれているのは手段である。そして、あまり目にする機会はないが「都市計画マスタープラン」とよばれる計画文書が別につくられており、それがビジョンとなる。
目標がないまま、設計図がないまま手段だけが先行してしまうと、都市を計画通りにつくることができない。それゆえに「手段をビジョン」に先行させてはいけない、ということがよく言われており、このことは、法定都市計画にかぎらず、さまざまな分野の計画においても同じことが言えるだろう。
津波被害地域において、復興は遅くはあるが着実に進んでいる。復興のための計画や事業の多くは都市計画法に位置づけられるものではないが、ビジョンと手段の関係に倣って考えてみると、そこではしばしば、「手段が先行している」「手段だけで議論がされている」ということが論点となっている。
もう少し卑近な話をすると、手段の選択が、補助金がつくかどうかで決まり、本当のニーズにもとづく正しいビジョンは二の次、事業費がついたところから進めていく、ということになってしまっている、ということだ。これは設計図も描かず、たまたまブルドーザーがもらえたから必要でもない大規模造成をする、たまたまドリルが余っているから道路でなくトンネルを掘る、というような暴挙である。
たとえば、被災地のあちこちで土地区画整理事業が行われようとしているが、土地区画整理事業の本質は「土地を入れ替える」ことと「土地を少しずつ提供してもらって道路等の都市施設をつくる」の2点にある。専門用語で、前者を換地、後者を減歩というが、Aさんの土地とBさんの土地をそれぞれが使いやすいように入れ替えてあげられるのが換地、Aさんの土地とBさんの土地をそれぞれ少しずつ削り、道路をつくるのが減歩である。これによりAさんの土地もBさんの土地も有効活用ができるようになり、土地の資産価値があがり、かつ公共的には道路が広い安全な空間ができる、被災者にとっても公共にとってもWIN-WINの手法である。
関東大震災以来、この土地区画整理事業は伝統的に災害復興の主要な手段となってきた。とくに阪神淡路大震災でこれが大々的に用いられたことは記憶に新しい。東日本大震災の被災地でもこれが多く用いられようとしているが、既述の通り、土地区画整理事業の本質は「土地の入れ替え」と「道路等の都市施設をつくる」ことの2点にある。
しかし津波ははっきりとした方向性をもって空間を破壊するタイプの災害である。ほぼすべての地権者は海から離れたところの再建を選ぶだろうからその動きは一方向的であり、「入れ替え」は向かない。また、阪神淡路大震災の土地区画整理事業で縦横に規則的に広い道路をつくったのは、火災の延焼を防ぐためのものである。波の動きと火の動きは異なるので、どれほど広い道路をつくったところで津波の被害は防げない。さらには、これらを通じても土地の資産価値はあがりそうになく、WIN-WINの関係をつくり出すことができない。
このように土地区画整理事業を津波復興に適用するには無理があるのだが、多くの都市では土地区画整理事業が真剣に議論されている。これは、土地区画整理事業しか道具がなかったからであるし、復興=区画整理、という関東大震災以降に刷り込まれた考え方が復興を主導しているからである。
「ビジョン」と「手段」のどちらが先行するべきか
では、復興に欠けているのはビジョンなのだろうか。手段の手をとめてビジョンを描き、それに従わない手段は破棄し、あらたな手段を実践すべきなのだろうか。
都市計画はビジョンと手段からなるという考え方は、近代的な考え方にもとづく。そして、わが国の都市計画は懸命にそれを実現しようとしてきた。しかし、歴史を紐解いてみると、じつは近代都市計画制度で最初にできたものは手段であった。
都市の改善(当時は「市区改正」とよばれた)のため、道路をどこにつくるのかを示したものが、わが国初の都市計画(1888年)である。そしてそれを先導するためのビジョンの制度として都市計画マスタープランが創設されたのは、そこからじつに遅れること104年後の1992年のことである。つまりは日本の都市計画の大半は手段で先導されてきたことが歴史的な事実である。
手段が先行しているという批判は近代都市計画の理想からすれば正しいが、平常時の都市計画ですら、歴史的には手段が先行してビジョンがそれを追認した。つまるところ手段は、分かりやすいのである。手段で議論をしたほうが行政と民間の力も糾合できるし、市民にとっても分かりやすい。
復興において、分かりやすいところから議論が始まるのは当然である。緊急時の復興において、すでに先行している手段の手をとめてビジョンをつくるべき、という主張はあまりにも弱く、動き出した社会をとめることはできない、というきわめて現実的な壁に突き当たってしまう。この点において「ビジョンをつくるべき」という主張もリアリティを持たないのである。
「手段」が先行する可能性
ここで逆に手段が先行した状態の利点や可能性を検討してみよう。
砂場で遊ぶ子どもたちの姿を思い起こしてみよう。彼らはマスタープランをつくることなく、あらゆることを手で考えながらつくり上げる。スコップやバケツなどのいくつかの道具を使って砂場で砂を捏ねながら、彼らはそこで重力を覚え、素材を覚え、建築を覚え、共同作業を覚え、そしてそこに驚くほど面白い空間をつくり上げる。子供の砂場遊びにかぎらず、伝統的な集落の空間はそうして出来たものが多い。これはレヴィ・ストロースのいうところのブリコラージュ(器用仕事)であり、手段が先行する状態はブリコラージュの可能性を彷彿とさせる。
復興をこのようなブリコラージュ的な力を発言できる「手段の蓄積」に委ねるという可能性はゼロではない。高所移転や区画整理に参加する人たちが、ブリコラージュの力を最大限に発揮しながら、全体のマスタープランなしに、それぞれが空間をつくり込んでいく。全体の調整をせず、個々に最大限の努力をする。それらが蓄積されることにより、全体がつくり上げられる。こうした可能性はゼロではない。
たとえば下の写真は、建設から15ヶ月が経過した住田町の木造仮設住宅である。木造であり加工が容易であること、ヴォランティアが活発に動いていることなどから、写真に見られるような豊かな空間がつくりあげられている。
入居者が特別な能力を持っているわけではなく、小さな空間に対する小さな取り組みの集積がこのような空間につながっている。わたしが見学に行った際には、ヴォランティアの手によってこれまでのプロセスが整理されているところであった。マスタープランをつくってこのような空間が造られたわけではない。そこにはマスタープランなき手段の集積があり、その全体像はプロセスを整理することからしか見渡すことができない、ということなのだろう。
木造仮設住宅に作用したこういったブリコラージュの力を、高所移転や区画整理などの復興に活かすことができるだろうか?
木造仮設住宅ではガーデニング、日曜大工、庭先農業・・といった多様な仕事が、個人、家族、コミュニティの単位で分担されて行われていた。しかし、高所移転や区画整理になると造成や住宅建設が必要になる。被災者はさまざまなことができるが、かつての百姓であるかというとそうではなく、家を造れたり、道路を造れたりするわけではない。彼らは都市人とは比べ物にならないほど多くのことをこなすが、それでもそれなりに分業した社会がそこにあり、ブリコラージュでは限界がある。
また、ブリコラージュにおいては、道具は使いこなす人自身の身体感覚にもとづいて使いこなされることが重要である。道具は手でコントロールされるべきだし、身体感覚から外れた巨大なスケールのものは器用仕事ではコントロールできない。住田のケースは、仮設住宅のその周辺の空間、という小さな単位であるから実現したのである。土地区画整理事業や防災集団移転促進事業といった、手段そのものとその対象にする空間が巨大化してコントロールできるものにはなっていないことも気になる。
「ビジョン」と「手段」の往復運動
ここまで、まず復興のための計画にはビジョンと手段があることを述べ、手段よりビジョンが先行すべきものであることを述べた。ついで、現実的な状況としてビジョンが手段に先行すべきと教条主義的に言い切ることにもリアリティを欠いていることを述べ、手段が先行した状態にどういった可能性があるのかを述べた。そこで整理したのは木造仮設住宅に見られるブリコラージュの力の可能性であるが、スケールの大きなものについては、その力が十分に機能しないことを述べた。
では、このようなブリコラージュの力にかわるものとして何を機能させればいいのだろうか。
ブリコラージュは、手の運動にもとづいて空間をつくり上げる。こういった、野性的な運動を理性的な運動で代替することができないだろうか。わたしはここに「手段」と「ビジョン」を対置させる意味があるのではないかと考えている。
つまり、手段に運動の力を与えるものとしてビジョンを登場させ、そのふたつの間の理性的な往復運動を仕掛けることにより、ビジョンがなく手段だけが化け物のように先行する状況を変えることができないかと考えている。
やや抽象的な書き方になってしまったが、具体的に書くと、先行する手段が一段落着いた段階で、一度手を止め、全体のビジョンを眺める作業を入れ、必要であればビジョンを描き変える。そして描き変える過程を通じて浮かび上がってきた課題に対して、ふたたび新たな手段を取り入れる。このことを繰り返す、ということである。
ビジョンはすべての手段に先行するべきという考え方がある。ビジョンを決定したら変更されるべきではないという考え方がある。手段が動き出したらビジョンに戻ることができないという考え方がある。こうした固定的なビジョン ― 手段の捉え方を捨て、むしろ積極的に描き換えられるものとしてビジョンをとらえ、描き換える作業を通じて新しい手段を考える。
一度決まってしまったら暴力的な力で進んでしまう手段に対して、外部のさまざまな方向から力を与えるものとしてビジョンを使い、手段の力の方向に変化を与えるということである。そして、こうした作業を少数の専門家と多くの市民=アマチュアの共同作業で行う。そのことによって、ビジョンにも、手段にも、アマチュアの持っている、ブリコラージュ的な力も活かすことができる。
このことは、決して新しい考え方ではなく、過去から優れたまちづくりの現場では取り組まれてきたことである。しかし、災害復興の現場では先を急ぎ過ぎるあまり、一度決めたら後戻りをしない、後戻りしたくないから余計な市民は巻き込まない、ということになっていて、このこと自体が硬直化しているように見える。
大切なのは、すべてを決める必要がないことを前提に、柔軟に、持続的にビジョンのプランニングと、手段の実現化のプロセスを繰り返していくことである。そして、こうしたプランニングに対する時間と費用を惜しまないことである。
往復運動の実践
このようなビジョンと手段の絶え間ない往復運動を、どのように実践できるだろうか。
最後にささやかながら、わたしが関わっている岩手県大船渡市三陸町綾里地区の取り組みを紹介しておきたい。
大船渡市では2011年5月に復興委員会が立ち上がり、10月までの議論を経て「大船渡市復興計画」が策定された。市役所が高台にあり被害を免れたこともあり、大被害を受けた自治体としては比較的早くに計画が策定されている。復興計画の全文はWEB( http://www.city.ofunato.iwate.jp/www/contents/1309418254331/index.html )公開されているが、綾里地区に関する復興計画の図を引用しておこう。
あまり描き込まれていない計画図であるが、この図の背後には、膨大な手段(事業手法)のスタディが重ねられている。そして、ビジョン(図1)に「高台等へ移転」と書かれているものの手段として、防災集団移転促進事業が選択され、そのことが復興計画のなかに示されている。ここまでが往復運動の最初の動きである。
行政の動きからやや遅れて、綾里地区では2011年7月に、住民たちの手で綾里地区復興委員会が設立された。被災地ではさまざまに住民組織が立ち上がっているが、綾里の場合は「部落会」や「契約会」と呼ばれる自治組織を母体にして立ち上がることになった。
特筆すべきは、この組織が狭い意味での被災者だけの組織ではないということだ。綾里に住む人たちは何らかのかたちで被災者ではあるのだが、津波で自宅を流された被災者とそうでない被災者には天と地ほどの差がある。そして、復興を考えるための被災者の組織は前者の被災者だけの組織であることも多くあるのだが、綾里地区の場合、既存の地域組織を母体にしたこともあって、広い意味での被災者の組織となっている。
この組織は、復興にあたり必要な項目を列挙した「第一次提言書」をまとめて市長に提言し(11年9月)、個別の事項の実現化に向けて取り組む。地区内に建設された仮設住宅居住者を中心に「狭い意味での被災者」の意向調査が行われ、高所移転の希望者、公営住宅の入居希望者、自力再建の希望者が把握され、同時に高所移転地の候補地探しが行われた。こうした動きをまとめ、「第一次提言書」を発展させた「要望書」が市長に提出されている(12年3月)。
提言書や要望書は個別の要望を束ねたものであってビジョン性は弱く、手段を幅広にリストアップしたものである。しかし「補助金がつくところから議論を始めた」というほど手段に引っ張られているわけではなく、「広い意味での被災者」の視点から地区を見渡し、必要な事柄をバランスを見つつリストアップし、それらを絞り込むという作業が行われている。
つまり、提言書は「十分なビジョン化が為されていない未分化のビジョン」と言え、それにもとづいて地区で、高所移転の検討をはじめとする手段の検討が始まっている。このような綾里地区の動きは、行政の復興委員会の動きとパラレルに進んだ、往復運動のもうひとつの最初の動きであると言える。
その後、2012年5月よりわたしたちは復興委員会からの依頼を受け、市と復興委員会のふたつの動きをふまえ、より具体的な復興計画を作成する支援を行うこととなった。固まりつつある高所移転の事業を横目で見つつ、それ以外の部分についての議論を深め、より具体性の高いビジョンを作成すること、そしてそれを手段につないでいくことを行っている。
市の復興計画、復興委員会の提言書と要望書をひっくり返し、もう一度ビジョンを描き直そう、ということではない。これまでのビジョンをふまえ新しいものにバージョンアップすること、そしてその過程で多くの住民を巻き込んでビジョンを共有する人を増やしていく、この2点に取り組んでいる。
具体的に行っていることを述べておこう。
1)調査の実施やワークショップの開催:被災者の個々の声や地域の空間的な資源など、地域に内在する情報を集めるために行っている。ワークショップではただ言いっぱなしにならないよう、地図や模型をコミュニケーションの媒介となるように準備し、出された情報もその場でまとめながら行っている。
写真は大きな地図を作成して、そこに提案や要望を書き込んでもらうワークショップの風景であるが、参加者が自然に地図の上に車座になり、熱心な復興の議論を行っていたのが印象的である。
2)議題の提案と計画の作成:課題を整理した上で、それぞれについて住民の意見を聴取し、それを踏まえた計画案を作成し、参加者と協議を進めている。ワークショップの参加者の話を踏まえた提案作成、他地区の復興で議論されているアイデアの例示などを行い、協議を進めている。
3)まちづくりニュースの発行:上記の情報を流すために、月に1度のペースでタブロイド判4ページの「まちづくりニュース」を発行し、全戸配布(約850世帯)している。たとえば、第一号のニュース(2012年6月20日発行)では、復興委員会の作成した要望を地図化した情報を載せ、その横にはわたしの研究室で作成した綾里地区の人口構成の情報を載せ、最終面には地区に増えている仮設建築物の現在の建設状況を載せた。
このように、地区に内在する情報と、外でつくり出した情報を混在させ、地図等を活用して分かりやすく加工して示している。
こうした過程を経て2012年8月にでき上がった「復興まちづくり計画の案のたたき台」と呼んでいる、ビジョンを簡単に紹介しておく。
ビジョンで新たに提起されたことの中心のひとつは、「自力復興推進区域」と「復興推進区域」の区分けである。行政の復興計画(図1)では、行政が津波の浸水被害を受けた土地に対して、土地利用の方針が示されている。これはビジョンであるが、その後、たとえば災害危険区域を設定する等の土地利用を制限する手段が実施されなかった。そのため、多くのエリアでは農地を再開する、工場を再建するなどの個別的な復興が先行していた。
この段階で、個別的な復興を阻害するようなビジョンを示したところで何の意味もないため、参加した住民と検討をし、津波の浸水被害を受けた土地を区分する線をひき、個別で復興を進める「自力復興推進区域」と、土地の整序や公共施設の重点的な整備を行う「復興推進区域」に分けた。そして、復興推進区域については避難道路の整備や防潮林の整備など、やや踏み込んだイメージを検討した。
綾里地区での動きの意味をまとめておくと、まず行政と地区復興委員会によるビジョンづくりのふたつの動きがあった。ビジョンに示されたもののうち高所移転については手段化され、検討が進みつつあるが、残る部分について、わたしたちの支援のもと、現状を踏まえてもう一度ビジョン化の作業が行われた。
数回のワークショップで、復興委員会以外の参加者も得てより具体的なビジョンが描かれた。これをふまえ、近くに行政に向けて復興委員会より計画書が手渡され、それをもとに行政側で「手段」の具体的な検討が行われることになっている。
行政の弱いビジョン、地区復興委員会の未分化なビジョン、その次に高所移転の手段の検討、その次に残る課題についてのビジョンの具体化、その次にそれらの手段の検討・・といったかたちで動きが進んでいる。振り子の運動のように規則的なものではないが、「「ビジョン」と「手段」の往復運動」が実践され、その過程に被災者が巻き込まれていくさまをご理解いただけただろうか。
制度に向けての提案
最後に、わたしが提案したいことは、こうした往復運動をつくり出すという作業が少しでも多くの地域で行われ、そこに少しでも多くの専門家が関わる、ということである。
もう被災地ではすべてのことが決まってしまって、いまさらビジョンを描くことなどないのではないか、と被災地の外側からは見えるかもしれないが、さまざまな課題に対して動きを仕掛ける余地は多くある。動きをつくり出すには遅いということはなく、地域のなかでビジョンと手段がどういった現状にあるのかの力学を読み取れば、多様なかたちでそこに関わることができる。
多くの被災地では、ひとつの手段に過ぎない防災集団移転促進事業の検討が一人歩きをしていることが多く、支援者もそこだけに集中している現状がある。住宅を失った「狭い意味での被災者」にとってまずは解決したい課題であるので、これは避けて通れないことであるが、その課題が一段落ついた段階で、もう一度ビジョンの検討に戻り、広く地域を見渡してプランニングを行うことが必要なのであろう。
もちろん、このような往復運動を受け入れる行政の理解は不可欠である。いくつかの被災地では、専門家と行政の不幸な対立も少なからず起こっていると聞く。急がれる復興のなかで、一度決めてしまったビジョン、動き始めた手段を変えることに対する抵抗は理解できるが、こうした往復運動が地域も巻き込んだしなやかで強靭な復興のプロセスをつくりだすことを理解していただきたい。理解の先には、地域毎の動きを受け取り施策化する行政の仕組みが必要であり、地区からの提案制度のような何らかの制度化も検討されるべきだ。
プロフィール
饗庭伸
1971年兵庫県西宮市生まれ。首都大学東京都市環境学部建築都市コース准教授。早稲田大学助手、東京都立大学助手などを経て、2007年より現職。大船渡市綾里地区の復興支援などに携わる。専門は都市計画、まちづくり。