2021.11.02

悲劇をこれ以上拡大させないために――『福島の甲状腺検査と過剰診断 子どもたちのために何ができるか』(あけび書房)

高野徹(著者)医師

『福島の甲状腺検査と過剰診断 子どもたちのために何ができるか』

著者:髙野徹、緑川早苗、大津留晶、菊池誠、児玉一八
出版社:あけび書房

「100人を超えている・・?」専門家たちはデータを見て絶句しました。福島県で甲状腺がんと診断された子供の数です。

2011年の東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故の影響で、環境中に放射性ヨウ素が放出されました。この物質は子どもの甲状腺がんを誘発する可能性があり、それに対する対策が求められました。日本の学術界のトップと福島県・環境省を中心とする行政が選択したのは、旧ソ連のチェルノブイリ原発事故の後行われたのと同様に、福島県の子供たち全員に定期的に甲状腺超音波検査を実施することでした。

当時のデータを見る限り、福島の子供たちの被曝量はチェルノブイリと比較して極端に少なく、甲状腺がんの増加は見込めませんでした。したがって、仮に超音波検査で精密に検査してもそれほど症例数は増えず、福島の人口を考えれば、せいぜい2桁に届くかどうか、その結果「原発事故による健康被害は出なかった」という結論が導き出せるであろう。これが、当時検査を計画した専門家たちが期待していた結果でした。しかし、その予想が大きく覆ったのです。

このような問題を引き起こしたのは甲状腺がんの過剰診断という現象です。過剰診断とは、一生涯患者に悪さをしないがんを精密検査によって見つけて出してしまうことです。がんという病気は放置しておけばどんどん悪くなる病気、だから早く見つけて早く治療すべき病気だと今でも多くの方が信じているでしょう。

しかし、甲状腺がんに関しては、最近の国内外の研究により、若年のうちから発生し、途中で成長を止めてしまうため小さいままで経過して無治療でも一生悪さをしないものが多数あることがわかってきたのです。福島で実施された超音波検査はそのようながんを掘り起こすことで寝た子を起こしてしまったのです。

検査でたまたまそのようながんが見つかった子供はどうなるでしょうか。第一に、子供ががんだと診断されて何もせずに放置しておける親はまずいません。結果としてたとえ小さながんであっても、本来不要であった手術を受けざるを得ない状況に追い込まれます。また、がんに罹った子供、とのレッテルを貼られてしまうと、見える形、見えない形で様々な不利益を被ります。子供の甲状腺がんの過剰診断問題は単に健康に悪影響を与えるだけでなく、重大な人権侵害につながるのです。

本来、このような大規模な検査において見込み違いがあった場合、いったん立ち止まって、何が悪かったのか、これから何をすべきなのかよく考えるべきでしょう。しかし、福島の甲状腺検査はそうなりませんでした。日本の英知を結集し、1000億円という莫大な予算を配分されて開始されたプロジェクトは、その威光を背景に止めることのできない巨艦となってしまいました。検査の有害性が明確になったのは2014年頃ですが、福島で何が起こっているのかについては説明がされないまま検査はそのまま続けられました。その結果、甲状腺がんと診断された子供たちの数はその後もどんどん増えていったのです。

行政からは、「福島の甲状腺検査を開始したのは正しい判断である」「検査は今後も続けていくべきものである」という判断が示され、学会では「福島では問題となるような過剰診断は起こっていない」とする権威たちの意見が繰り返し伝えられました。

そんな中、甲状腺検査の有害性について県民に警鐘を鳴らそうとする専門家たちが出てきました。しかし、彼らを待ち受けていたのは想像を超える困難でした。福島県の有識者会議では、彼らは同席する他の有識者やメディアの批判の対象となりました。学会からは、福島の検査で過剰診断の被害が発生している、という見解は代表的な意見ではない、という公報が出されます。

また、原発反対を訴える市民たちからは原発の被害を隠蔽する御用学者とのレッテルを貼られ、発言するたびに職場に様々なクレームが入るようになりました。あまつさえ、被害を受けたと思われる患者やその家族からも批判の声が寄せられます。こうして福島の甲状腺検査の害を語ることは徐々にタブー視されるようになったのです。

このような深刻な状態を象徴する事件も起きました。検査の現場の最前線で子供たちと向きあっていた医療者たちの中にも、検査の有害性に気づき、正しい情報を県民に伝えることで検査のやり方を本当に子供たちのためになるように直していこう、と行動を起こされた方々がおられました。しかし、そのような努力は評価されるどころか、彼らは検査の現場を外され、のちに大学を去ることになってしまったのです。

本書はこのような福島の状況を、実際に福島の甲状腺検査に深くかかわった医師たちが赤裸々に記載しています。現在福島で起こっているのは学校検診が原因で発生したがんの大規模な過剰診断という人類が初めて経験する事件です。本書の内容は事件の現場で何が起こっていたのかを知るための一次資料として、医学の歴史上でも極めて貴重なものです。

また、本書では小説も顔負けの様々な医療ドラマが展開されています。是非、医療関係者や将来医療業務に就くことを志望している学生さんにも読んでいただきたいです。ある登場人物には共感し、またある登場人物には反感を抱くことでしょう。医療とはどうあるべきか、患者にどう向き合うべきか、自分がこれらの登場人物と同じ立場であったら、どう行動するであろうか、また実際に勇気をもって行動できるのであろうか。本書は学校の授業では得ることのできない学びが得られる医学倫理の書でもあるのです。

福島の甲状腺がんの過剰診断の問題は、従来のがんの常識をもってしては理解することが難しい現象です。その結果、世論に強い影響力を持っている方々の多くが誤った判断をしてしまいました。その誤りを自ら認めることができないがゆえに、かえって正しい情報をブロックする壁になってしまっているのです。

また、この現象は原発のあり方と深く関わり政治問題化しているがゆえに、市民団体など本来解決の声を上げるべき人たちが沈黙し、マスコミも腫れ物に触るかのように報道を避けてきました。自分たちの事情を振りかざす大人たちの無責任な行動の犠牲となってしまったのがすでに300人を超えてしまう数になってしまった子供や若者です。悲劇をこれ以上拡大させないために、本書が一筋の光明となることを期待します。

プロフィール

高野徹医師

1962年生まれ。東京大学理学部天文学科卒業後、大阪大学医学部に学士入学、医学博士。大阪大学講師を経て現りんくう総合医療センター甲状腺センター長兼大阪大学特任講師。専門は甲状腺がんの分子病理学。日本甲状腺学会甲状腺専門医、日本甲状腺学会七條賞受賞。2019年よりヨーロッパ甲状腺学会小児甲状腺腫瘍診療ガイドライン作成委員。

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