2013.05.16

アウンサンスーチーの言葉からみえるビルマ(ミャンマー)のいま

久保忠行 人類学 / 難民研究 / 東南アジア地域研究

国際 #ヘイトスピーチ#ミャンマー#アウンサンスーチー#ビルマ

アウンサンスーチーの来日

「お年をめされたかな」。”レイディ”に、しかも初対面の方に年齢のことを申し上げるのは失礼千万なことは承知のうえで、初めて身近に彼女を拝見したさいの率直な感想である。分刻みのスケジュールのお疲れもあったのかもしれない。アウンサンスーチー氏(67)は、4月13日から一週間、27年ぶりに日本を訪問し、東京と京都では大学で講演したほか、日本で暮らすビルマ出身者との交流会をもった。このエッセイでは、アウンサンスーチー氏の言葉を手がかりにいまのビルマについて考えてみたい。

わたしは京都でのビルマ人との交流会として設けられた講演に参加した。この講演会は、京都大学のアメリカンフットボール部の学生が書いた手紙をもとに実現した企画である。少し早めに会場に到着した彼女は、原稿を読むでもなく、淡々とした口調で聴衆に語りかける。もちろん彼女の演説を聞くのは初めてだが、既視感があった。

「民主化とは一人ひとりが取り組むことで実現する」「ドー・スーチーが言ったからやるのではなく自ら取り組む必要がある」といった言葉は、彼女が1988年頃から一貫して発してきた。「どうすればいいですか」「これからどうなりますか」という聴衆からの問いかけに対して、民主主義の権利を主張するだけではなく、それを裏付ける義務と責任は『一人ひとり』にあるとする彼女の言は、どれほどビルマの人に届いているのか。

演説を聞いた人からは「スーチーさんはすごい」という声が聞かれるが、じつはそうした言葉こそ、彼女が訴えていること、求めていることではないだろう。彼女の演説内容は、普遍的な思想と行動であるがゆえに万人に響き、ときにカリスマ的な求心力につながる。しかし、彼女にかけられる期待が大きければ大きいほど、その思想と行動からは遠のく。そうしたジレンマを彼女は抱えているのかもしれない。

問われる民主化

ビルマは2010年に20年ぶりの選挙を行い、翌年に民主政権が誕生した。新憲法のもと、議員定数の四分の一を軍人が占めること、緊急時には議員や大統領ではなく国軍が全権を掌握することなど、軍事政権下の体制維持が保障されていることへの懸念があった。この懸念とは裏腹に、現政権は政治囚の一部釈放、アウンサンスーチーの政治参加の容認、二重為替の廃止と変動相場制の導入、諸民族との停戦に向けた話し合いを開始するなど、誰も予測しなかったスピードでこの国は変化している。

日本からの直行便も運行され、毎日のように日系企業の動向に関するニュースが飛び込んでくる。日本人にとっても「閉ざされた国」ではなくなってきているようだ。「最後のフロンティア」をめぐって、各国が我先にと進出を急いでいる。

他方で、民主化の内実が疑われる出来事も相次ぐ。中国と国境を接するカチン州では、カチン軍と政府軍との戦闘により多くの犠牲者と難民が出た。バングラデシュと国境を接するラカイン州では、ムスリム系住民のロヒンギャへの排除が、中部のメッティーラでも仏教徒とイスラム系住民との衝突がある。国際人権団体のヒューマン・ライツ・ウォッチは、イスラム系住民に対する「民族浄化」としてこの事態への憂慮を示している。日本で報道されることはないが、アウンサンスーチーの訪問中に、ビルマ東部のシャン州では政府軍とシャン州軍との間で戦闘が起こっている。

「中央」からみた場合と「周辺」地域からみた場合とでは、おどろくほど対照的だ。大きな変化の波にさらされている都市部と、相も変わらず暴力が支配している国境地域。この両面を兼ね備えているのがいまのビルマの正しい姿であろう。この温度差へのいらだちはアウンサンスーチー氏への不信へと直結しているようである。

わたしの知人のカチン人(在ロンドン)は、問題を「法の欠如」と表現する彼女を、「法律の母は何も出来ない」と揶揄する。わたしがこれまで調査をしてきたカレンニー(赤カレン)の人々も、彼女の来日公演のことを伝えても関心を示さない。国内外の同胞と活発に情報交換するSNSがあるが、そこでの関心事は、停戦合意の行く末や難民の帰還の見通し、自分の故郷の様子などである。

誰の課題か?

アウンサンスーチーの思想は、ガンジーのスワラージ(自らを治める)思想と関連し、各人の厳しい自己変革を求めるものである。たとえば、有名な「恐怖からの自由(freedom from fear)」とは、たんに圧政から自由になればよいということではない。権力や暴力への恐怖こそが人を堕落させるので、一人ひとりが自らの心を恐怖から解放しなければならないというものである。そのためには、自己を客観的に見つめなおす努力が求められる。「どうすればいいか」「何とかしてほしい」という問いに対する答えは彼女にだけあるのではなく、聞き手にもあるとするのは、このためである。

彼女が20数年来、一貫して訴えてきたこの思想と行動の原理は、しかし、国会議員となった彼女の「政治家としての方便」と受け取られているのかもしれない。この温度差をいかに埋め、聴衆やメディアに伝えていくのかということが彼女の課題となるだろう。

こうした課題は彼女だけのものではない。翻ってわたしたちの暮らしを振り返ってみると、似たようなことが起こっている。それは政治の場だけではない。たとえば、身近な例で恐縮だが、わたしが担当している大学での授業科目では、わたしが専門的に研究している難民のことや、貧困、暴力、差別、グローバル化の課題、多文化共生などについて講義をしている。すると、必ず「どうすればいいですか」「なぜ行政は何もしないのですか」という疑問が寄せられる。

また一般企業では「どうすれば商品が売れるか教えてください。やり方を教えてくれれば売ります」という新入社員がいるという。習い性とはこのことで、本来は自らも考えるべき問題なのに、いつの間にか他人任せを期待してしまう。こうした状況に食傷気味の人は多いのではないだろうか。立場と状況は異なっても、こうしてみてみると、アウンサンスーチー氏に親近感を覚える。

京都でビルマ人に向けて講演するアウンサンスーチー
京都でビルマ人に向けて講演するアウンサンスーチー

信頼と寛容にむけて

4月30日のミャンマー・タイムズに、「オー! スーチー(Oh Daw Suu, where art thou?)」という記事が掲載された。記事では、これまで政府を批判していたスーチーは、現政権から政治活動を許可され各国を外遊するなかで突如として姿を消してしまい、かわりに国軍を支持する人物になってしまったと伝えられる。現政権に懐柔されたという論評だが、果たしてこれは正しいのか。

彼女が国軍を嫌悪し敵対してきたという見方は誤りである、ということを多くの人は知らない。父であるアウンサン将軍がつくった国軍には、彼女は敵対心を持っていない。敵視するのは、軍を誤った方向へと導いた軍事政権の思想と行動である。根本敬氏(上智大学教授)は、2008年に書いた解説で、国民民主連盟(NLD)と国軍が和解をして民主化を目指す可能性は夢物語ではなく、現実にはあり得る話だと述べているが、まさにいまこそ、そのときなのかもしれない。

記事のように、国軍vsアウンサンスーチーの構図でとらえてしまうのは、彼女だからこそ拓ける対話の道筋を見誤ることになる。いま「周辺」地域で起こっている事態を見過ごすことはできないが、内側からこの状況を変えられるのはアウンサンスーチーしかいないという可能性もある。

こうした楽観論とは異なり、次の見方もできよう。内側からの変革を目指す意図とは裏腹に、彼女への失望をはじめ、イスラム系住民への排除にみられる住民同士の対立、民主化の評価に対する温度差、こうした相互不信がいまなお生まれているなら、とりもなおさず現政権が利する結果となっている。

世界中に植民地をもったイギリスは、間接統治と分割統治という手法を用いて統治してきた。間接統治とは、地域のリーダーを懐柔し統治する手法で、分割統治とは、人種や宗教で被支配者を分割し反目させることで統治を容易にする手法である。

長年にわたって軍事政権が強いてきたのは、国民に銃口を向ける強権的な政治であり、なおかつ密告、通報にもとづく疑心暗鬼や、停戦合意をとおして民族同士を反目させる、いわば現代版の分割統治である。「国軍がいなければ国は分裂してしまう」という言い分を自ら巧妙につくり上げてきた。不信は恐怖を生み、恐怖は非寛容な態度を引き寄せる。これぞ「恐怖からの自由」の対局にある社会の様相である。この本質を引き継いでいるとすれば、記事の批判のような目先の発言や行動の揚げ足をとるのではなく、問題の本質を中長期的な視野で見極める必要がある。

「2つの国名」の先に

この国にはビルマとミャンマーという「2つの国名」がある。基本的にビルマは口語、ミャンマーは文語という違いしかないが、軍政期を通してビルマ=反政権、ミャンマー=新政権という、ある意味では不毛な二項対立が生じた。1988年に政権を握った軍政は、英語の国名をBurmaからMyanmarに変更した。これに対して軍政の正当性や強権的な政権のあり方を疑問視する欧米は呼称変更を認めずビルマを用いた。アウンサンスーチーもビルマを用い、日本の講演でもビルマと呼んでいた。

日本や中国は呼称変更を認めた国連の判断にならいミャンマーを用いている。名称を変更した当時の政府は、ビルマよりもミャンマーのほうが多民族を指す国名としてふさわしいと説明するが、本当はミャンマーにせよビルマにせよ、どちらもマジョリティの「ビルマ族」を指す言葉である。

国名の呼称は、本来、ビルマかミャンマーかという二項対立ではなく、ビルマとミャンマーの関係にある。わたしたちが暮らす国をニホンというかニッポンというかと似て、本来は「どちらでもいい」ともいえるはずの問題だ。最近では国内外で、話し言葉としてミャンマーという呼称も定着してきたという。しかし、「中央」と「周辺」地域の二極化が象徴するように、2つの国名問題はまだ収束しそうにもない。呼称がひとつになったとき、真の民主化が訪れるといえるのだろうか。

彼女が演説するように、「民主化とは本来、人それぞれが異なる事柄や問題を対話させること」である。こうした言葉はどこかの国の人に向けられた理想論だろうか。いや、昨今のヘイトスピーチをはじめ、差異が恐怖を生み出し、非寛容的な態度を引き起こしているいまだからこそ、わたしたちもまた改めて、この声にじっくりと耳を傾ける考える必要がある。

文献

アウンサンスーチーの思想と行動については、自身の言葉で綴ったもののほか、これまでに優れた論文や解説が発表されている。詳しくは以下の書籍と論文を参照されたい。

根本敬

1996「アウンサンスーチーが目指すもの―ビルマ軍事政権の論理を乗り越えて」『現文研』73号、専修大学現代文化研究所。

2008 「はじめての方々への解説」People’s Forum on Burma(2008年9月5日配信)(http://www.burmainfo.org/files/e3_000103.pdf)

 

プロフィール

久保忠行人類学 / 難民研究 / 東南アジア地域研究

1980年生まれ。大阪府立大学卒、神戸大学大学院博士課程修了(学術博士)。現在、日本学術振興会特別研究員。専門は人類学、難民研究、東南アジア地域研究。ビルマ(ミャンマー)の民主化と民族問題、難民の移動と定住、難民支援のあり方に関心を持っている。著書に、「難民の人類学的研究にむけて」(『文化人類学』)、『ミャンマー概説』(共著)、などがある。

この執筆者の記事