2013.02.20
震災復興と地域産業 ――「仮設商店街」からみえてくる現代の諸相
東日本大震災から2年。東北の被災地では世代を超えて受け継がれてきたもの、日常の暮らしが一瞬にして奪われた。
一度、失われたものは、二度と同じかたちでは戻らない。だが、立ちどまり、もがき、地域と向き合い、対話し、ふたたび立ち上がることによって生まれてくる新たなものがある。当然、それは物質的なものだけではなく、人と人の関係性、自然と人の関係性なども含んでいる。それらが地域社会や環境、秩序の形成につながっていく。
復興の過程では当然のことながら、意図したとおりに物事が進む場合もあれば、意図しなかった問題に直面することもある。その合間に、被災地の本質的な課題が横たわっているようにみえる。ときを重ね、それを乗り越えようとしていくことによって、復興の道筋が形成されていく。
わたしは地域産業論・地域社会経済の研究者として、被災地にほぼ毎月通っている。被災地で立ち上がろうとする人びと、地域で生きつづける人びととの対話を通して、地域という空間に「産業」があることの意義を深く痛感させられることになった。そして、人口減少、超高齢化が進む地域では、これまでとは大きく異なる地域産業のあり方が求められることを改めて感じている。
超高齢社会では「人生80年時代・90年時代」を見据えた地域社会をつくっていくことが必要となってくる。そして、東日本大震災の復興の現場を歩いていると、そうした課題を先鋭的に内在させている場所があることに気づいた。
仮設のプレハブに、飲食店はじめ、八百屋、魚屋、酒屋、理美容店、電気屋から、学習塾やマッサージ店までが並ぶ。このような「仮設商店街」は、震災後、半年過ぎた頃から設置され、現在では被災したほとんどの市町村に置かれている。とくに、中心市街地が壊滅するなど甚大な被害を受けた地域では、荒涼とした空き地のなかにあって、その存在は際立ってみえる。
復興のシンボルとしても、心のよりどころとしても、人びとの再起の場としても……「仮設商店街」は、多くの要素が絡み合った「場」のようである。時限つきの仮の空間といえるが、被災地の地域社会にとって大きな意味を持ち始めている。さらに、被災地の課題は被災地だけの閉じた課題にとどまらず、現代社会の諸相を投影しているようでもある。
仮設商店街の成り立ち
仮設商店街には、全壊した店、津波で流出した店、建築制限のかかった場所にあった店などが入居している。以前より「シャッター通り」と揶揄されてきた地方都市の多くの商店街。人口減少、高齢化が進んでいた被災地では、その問題が先鋭的に表れていた。
震災後、避難所で生活していた被災者が仮設住宅に移り始めたあたりから、仮設店舗の話が持ち上がる。早かった市町村では、震災から1~2カ月後、地域の商店主たちに事業再開の意向について調査を開始している。意欲の高い地元商店やスーパーマーケットは、すでにテントでの販売や、軽トラでの出張販売を始めていた矢先であった。
商店街では多くの店が店舗と住まいを兼ねている。そのため、被災した店主やその家族は避難所生活を経て、仮設住宅や借り上げ住宅での暮らしに移っていった。住まいが「仮」のうえに、働く場も「仮」という状態に、多くの人びとは置かれた。そうしたなかで、仮設商店街への入居に手をあげた店主は少なくなかった。
だが一方で、中心市街地が海にほど近く被害が大きかった地域、岩手県であれば山田町、大槌町、陸前高田市などでは、亡くなった商店主も少なくない。店舗内で遺体が見つかったケースも多かったという。残された店主たちは、亡くなった仲間たちのためにも「ふたたびまちで商売を」という思いであったのだろう。
商店側から行政に働きかけた地域では、仮設商店街の設置の動きが早かった。岩手県釜石市の丸屋商店の丸木宏之氏は、市長に直談判し、仮設商店街の早期の建設を訴えた。その結果、2011年9月15日に「復興天神15商店街」が完成、岩手県内第1号の仮設商店街となった。市内にあった4つの商店街から15店が集まり入居している。場所は移転した中学校の跡地にあり、139世帯ある仮設住宅に併置されている。
そのほぼ同時期に、岩手県宮古市田老に「たろちゃんハウス」が完成した。グリーンピア三陸みやこには、仮設住宅が約400戸並ぶ。田老地区の中心市街地は壊滅状態となり、宮古市の中心部に買い物に出るにも車で20分以上かかる。高台にあることから、周辺に商店がなく、入居者の買い物対策が課題となっていた。
この「たろちゃんハウス」が興味深いのは、仮設商店街の形成にあたり、協同組合を新たに結成したことである。もともと商店街を形成しておらず、個人店舗の経営であったため協同組合を組織していなかった。震災後の2011年5月から有志でテント市を始め、結束を高めながら「たろちゃん協同組合」を設立。テントでの販売は同年9月までつづけ、9月25日に仮設プレハブ2階建ての「たろちゃんハウス」をオープンさせている。
こうした仮設店舗での事業再開は、阪神・淡路大震災以降、制度的に整えられてきた。自然災害により被災した事業者の復旧については、プレハブの仮設施設を整備することにより、早期の事業再開支援がなされてきた。阪神・淡路大震災の際には仮設工場が目立ち、当時、神戸市が応急的に設置した仮設工場は170件にのぼった。このときの経験をふまえ、現在では独立行政法人中小企業基盤整備機構(中小機構)が仮設施設の整備事業をおこなっている。賃貸料は無料、内装費や光熱費等は事業者の自己負担となる。
2012年3月時点で仮設施設は、建設中と完成を含めると、406案件(カ所)、2348区画(事業所数)であった。岩手県が213案件、1215区画ともっとも多く、次いで宮城県が100案件、699区画、福島県が64案件、326区画となっている1)。その後も増えつづけ、2012年7月の段階では、510カ所、3102事業所あり2)、現在はさらに数が増えていると思われる。業種は商店や小規模の水産加工場が目立つが、福島県は状況が異なり、移転地での仮設工場の設置が多いようである。そして、仮設商店街はほとんどの被災市町村に複数カ所、分散して置かれている。
1)中小企業基盤整備機構「東日本大震災に関する中小企業支援策」
(http://www.smrj.go.jp/kikou/earthquake2011/)
2)関満博『東日本大震災と地域産業復興Ⅱ/2011.10.1~2012.8.31 立ち上がる「まち」の現場から』新評論、2012年。
仮設商店街は完成から原則1年以内に国から市町村に無償譲渡され、その後は市町村が保有、事業再開拠点としての役割を果たしていくことになる。現在、ちょうどこの段階にある。入居期限は当初2年間とされていたが、ほとんどの入居者が店舗を新築することができず、中長期の運用を見据えた方向に切り替わりつつある。時間の経過とともに建物の性質だけが「仮」のままで、機能的にはすでに「仮」ではなくなりつつある。それは、地域にとって重要なコミュニティへ移行してきたということにほかならない。
仮設商店街にみる本来の商店街の機能
仮設商店街には事業をつづけようと意欲の高い店主たちが集まっている。皮肉ではあるが、当然のことながらシャッターを下ろした店舗や空き店舗はなく、にぎわいのある商店街も少なくない。つまり、仮設商店街は本来の商店街機能を取り戻すことになった。とくに次の3つの性質が際立っているようにみえる。それは「店舗の連帯」、「集積による外部経済効果」、「超高齢社会型・地域コミュニティの形成」といった3つの性質である。
まず「店舗の連帯」が強いことがあげられる。仮設商店街は、多くの場合、別々の商店街から個々の商店が集まって形成されているため、新たに協同組合を設置することになる。イベントなどを共同で実施するなかで、連帯の意識も芽生えていく。会合などでまちづくりについて意見を交わす機会が多くなり、地域の新たなデザインを主導していく立場を担っていく。
では、次の「集積による外部経済効果」はどうか。以前のシャッター通りの商店街では目当ての店に行けば、他店に立ち寄ることは少なかった。ましてマイカー社会の地方都市では、なおさらそうであろう。その点、仮設商店街では複数の店舗をまわることができ、回遊性が高い。仮設商店街はいろいろなかたちがあるが、後からできたところほど回遊性の機能がみられる。先にできた商店街に足を運び、入居する店主の意見を聞き、不便さを解消しながら設計した造りになっているからだ。
2012年2月25日にオープンした宮城県南三陸町「南三陸さんさん商店街」。31店(うち店舗は28店)で構成されているが、他の仮設商店街が2階建てなのに対し、こちらは1棟建てで、店舗同士がほぼ独立したかたちをとっている。「歩いて楽しめる商店街」にと、3つのテーマを決めて店舗を配置した。「生活」(電気屋、写真店、衣料品店、整骨院など)、「食べ物」(5店の飲食店、9店の食料品店)、「いこいの場」(花屋、化粧品店、酒屋、葬儀屋、美容院)といった3つのゾーンがある。いずれも店舗のひさしの色を統一し、ゾーンごとの一体感を醸し出している。
南三陸町は市街地が壊滅したため、山手の高台に「さんさん商店街」が設置された。2012年2月から12月までに20万人を超す人が訪れ、観光客が全体の7割以上を占める。屋根付きのフードコートもあり、イベントステージなどもある。「外貨獲得」を目的としたため、ここを起点に地域経済が循環していく仕組みを形成してきた。南三陸町では唯一、にぎわいを生む場になっているが、5年間限定の入居とされている。商店街会長である及川蒲鉾店の及川善祐氏は南三陸町の「産業再生部会」の会長も務め、中心市街地をかさ上げした後、まちづくりの中心に商店街を位置づけていくことを要望している。「復興の暁には、震災前以上のにぎわいをつくっていく」と語り、仮設商店街からの集団移転も視野に入れている。
このように観光客が多い仮設商店街もあれば、地元住民向けのものもあり、一口に仮設商店街といっても多様性を帯びつつある。今後、地域の復興計画や都市計画・まちづくりとどのような接点を持たせていくかが課題となろう。それは建物やハード面だけの問題でなく、ふたたび形成された地域コミュニティをどう維持していくのか、といった問題にもつうじる。
その点、仮設商店街は「超高齢社会型・地域コミュニティ」としての性質も内在させている。釜石市の中心市街地にある「青葉公園商店街」を訪れた際、仮設住宅からバスを乗り継いで来ているお年寄りがいた。2階に入るエプロン店「エプロンハウスHOT」の高橋つね子さんは、そうしたお年寄りの憩いの場を店内で提供している。
高橋さんが仮設店舗でオープンした当初、耳にしたのは「支援物資のエプロンを身に着けたくない」という女性たちの声であった。とくに仮設住宅にいると、エプロン姿で近所に出る機会が多い。三陸の女性たちは好みのエプロンを身にまとうことによって、本来の姿に戻ることができるのであろう。そうしたことを考慮し、エプロンハウスでは1枚ずつすべて異なるデザインのエプロンを販売している。そこでは色とりどりのエプロンに囲まれ、お茶を飲みながら、世間話をするといった日常のひとときが戻りつつあった。
福島の移転地での仮設商店
福島県の原発避難地域の移転地でも仮設商店はコミュニティとして機能している。福島県郡山市の「あれ・これ市場」は、川内村と富岡町の合同の仮設住宅の敷地内にある食品店兼飲食店である。仮設住宅330戸のうち、川内村出身者と富岡町出身者それぞれ半分ずつで構成されている。仮設住宅は2011年6月に郡山市郊外のロードサイド沿いに設置されたが、車に乗って買い物に行くことができない人びとのために商店の必要性を訴える声があがった。そうした矢先、川内村商工会から村内で食品店を営んでいた箭内崇さんに店長にと声がかかり、2011年12月21日にオープンを果たした。
当初は緊急雇用の制度を活用し、スタッフ9人を雇うほどの忙しさであったが、川内村の全村避難が解かれたことにより、次第に様子が変わっていく。川内村は福島第一原子力発電所から20㎞圏外の緊急時避難準備区域と20㎞圏内の警戒区域に分かれる。現在、20㎞圏外は居住可能であり、 20㎞圏内は昼間だけ帰宅が認められている。仮設住宅に入居していた大半は高齢者であり、若い世代よりも年配の人ほど帰村を望んでいることもあって、郡山市などの移転地での仮設住宅には空き家が増加した。自分の家に戻った人もいるが、川内村の20㎞圏外に新たに仮設住宅が設置され、仮設から仮設へと移った人も少なくなかった。
当然、仮設商店「あれ・これ市場」の需要は日に日に落ちていった。一方で、富岡町は20㎞圏内の警戒区域内に置かれているため、仮設住宅は川内村の人びとは出ていった後も富岡の人びとは暮らしつづけている。つまり、移転地の郡山市で、川内村が設置した商店を川内村の店主たちが、富岡町の住民のために営業をつづけているのである。
箭内さんは「商売は採算がとれず厳しいが、川内村役場には継続できるように要望している」と話す。富岡町のイベントでは「あれ・これ市場」が食材を提供したり、お年寄りに宅配サービスをおこなったり、仮設に住む人々と寄り添いながら店をつづけている。
その箭内さん自身も、家族と離れ離れの状態が続く。箭内さんはもともと川内村で両親とともに食品店を営んでいた。家は20㎞圏外であったため両親だけ帰村した。そして、村に戻って来た住民のために鮮魚店兼食品店「とりじ商店」を再開。川内村役場が村に帰って来た翌日の2012年4月2日から店を開けている。両親は軽トラックで川内村の仮設住宅をくまなく回り、店舗経営だけでなく移動販売もつづける3)。家族が離れながらも、採算は見込めないなかでも、そこの地に住む人びとのために、あるいはふるさとに戻って来た人びとのために食品店を営みつづけているのである。
3)全国商工会連合会『復興軽トラ』2013年1月を参照。川内村「とりじ商店」が紹介されている。全国商工会連合会では、2012年度から軽トラック等の貸し出し業務を開始、岩手県、宮城県、福島県、茨城県、長野県の5県で計102台が無償で貸し出されている。被災地において「軽トラ」での移動販売は大きな役割を果たしている。
仮設商店街の今後
被災地の地域社会で仮設商店街は大きな役割を果たしている。一方で、時間の流れとともに、その置かれている状況は刻々と変わりつつある。
もともと仮設施設への入居期限は仮設住宅と同様に2年と定められていた。しかし、設置からすでに1年以上が経過した今、延長を求める声が圧倒的に多い。多くの仮設商店街が国(中小機構)から市町村へ譲渡がなされたところであり、その後の運用については市町村に委ねられている。当然、2年限定とする市町村はほとんどなく、入居期限の延長や中長期的な活用策が講じられつつある。
仮設から出て、新たに店舗を本設する見通しが立たない事業者は、資金の目途がつくまで仮設店舗で営業をつづけたいと考えているようである。ただ、60代・70代が中心の店主が新たに借り入れをすることは、後継者がいない状況では難しい。さらに、新たに店舗を新設する際は建築制限といったハードルも待っている。元あった場所で再開できるケースもあれば、移転が強いられるケースもある。元あった場所で再開できると思っても、地盤のかさ上げが必要となれば、戻ることができるのは何年か先になる。事業再開は都市計画との関係で進むこととなり、それは時間の経過とともに制限が大きくなっていくことをも意味している。
大震災から2年。今後、仮設商店街はどのような道筋を歩んでいくのか。新たなまちづくりのなかで、本設に移っていく際にも「超高齢社会の地域コミュニティ」は引き継がれていくべき要素であろう。遠方の仮設住宅から来る人や、杖をついて来るお年寄りの姿が多くみられる。体を押してでも、仮設商店街に顔を出し、馴染みの店主と立ち話することが、不自由を強いられる生活のなかで大きな楽しみとなっているようであった。
超高齢社会における地域コミュニティは、生活の場から近すぎもせず、遠すぎもせずの距離にあることが望ましい。仮設住宅から徒歩圏内にある仮設商店街はそうした条件を備えていることから、お年寄りを主体に多くの人びとが集まりやすい場となっている。「仮設商店街」は狭い地域空間であるからこそ、世代を超えた助け合いの構造がみられる。仮設の立ち上げ、維持、そして撤去、本設に移っていく過程で、被災地の地域社会のありようも変わってくるであろう。この進行形のまちづくり・コミュニティづくりから、わたしたちが学ぶべき点は多い。超高齢社会の未来に示唆を与えてくれる。
経済成長の時代が終焉を迎え、成熟社会に移行してきた現在、わたしたちは真の豊かさとは何かを問いながら、新たな社会の方向性を模索しつづけている。東日本大震災を襲った地域は、人口減少や超高齢化といった幾多の条件不利を乗り越えながら、地域資源の恵みを活かした取り組みを重ねてきた地域であろう。
地域で何らかの事業を営むということは、自分たちで仕事を創造していくことである。与えられた仕事に就くのではなく、地域や社会の課題に即して、自分にふさわしい仕事を創っていくことになる。被災地で地域と向き合いながら営みをつづけることは、ふたたび世代を超えて、地域で育まれた大切なものを未来に継承していくことにつながっていく。
プロフィール
松永桂子
大阪市立大学大学院創造都市研究科准教授。1975年京都市生まれ。島根県立大学准教授を経て2011年より現職。専門は地域産業論、地域社会経済。現場でのヒアリングや対話を通して、地域社会や地域産業のあり方を研究。主著に『創造的地域社会―中国山地に学ぶ超高齢社会の自立―』(新評論、2012年)。