2013.10.31
母親を子宮に沈める社会 ――大阪二児遺棄事件をもう一度考えるために
2010年7月末に発覚した大阪二児放棄事件がきっかけとなって撮影された映画『子宮に沈める』が2013年11月9日に公開される。当時、「風俗で働いていたこと」「ホスト通いをしていたこと」ばかりが報道されていたことに疑問を抱いていた緒方貴臣監督は、本作品を、すでに風化しつつある事件を「改めて考えるきっかけになれば」と語る。本事件が活動開始の大きなキッカケのひとつであったと話す一般社団法人GrowAsPeople代表・角間惇一郎氏と、作品について、事件について語り合った。(構成/金子昂)
「子宮」に沈められている母親
角間 最初にお聞きしたいのですが、この映画のタイトルである『子宮に沈める』だけをみて批判をされる方もいらっしゃると思うんですね。なぜこのタイトルにされたのでしょうか?
緒方 この映画は2010年に起きた大阪二児遺棄事件(*1)――ぼくは大阪二児放置死事件と呼んでいます――がひとつのきっかけとなって撮った映画です。おそらくタイトルをみて、子宮を擁する女性が起こした悲惨な事件として安易に描いているんじゃないか、と不快に感じる方もいると思いますが、ぼくはそういう作品ではないと思っています。
(*1)編集部註:3歳の女の子と1歳9か月の男の子が母親の育児放棄によって餓死した事件。2010年7月末、通報を受けた警察によって発覚。部屋に置き去りにした二児の遺体を確認した後も通報しなかったこと、母親の風俗勤務などの生い立ちが注目され、当時は連日報道されていた。
社会って、母性というものを神話化していると思うんですよね。そして神話化された母性によってお母さんたちが苦しみ、結果的に、幼い命が失われるような事件が引き起こされている気がするんです。だからお母さんが幼い子供を子宮に沈めたという意味ではなく、女性にしかない子宮を、母性の象徴として考えてつけられたタイトルだと思って欲しいです。
角間 母親が子供を沈めたのではなくて、社会が女性を母性の象徴である子宮に沈めこんでいるということですね。
緒方 ええ、作品もタイトルと同じ構造にして撮りました。カメラは一切外に出ていなくて、部屋の出来事しか写していないんですね。お母さんは「自分の家」という小さな世界に閉じ込められてしまっているんです。
「わたしとは違う」ではない
角間 ぼくが代表を務めている一般社団法人GrowAsPeopleの活動を始めるきっかけは、先ほど緒方さんがおっしゃっていた大阪二児遺棄事件がとても大きなキッカケになっているんです。この作品を撮ろうと思った理由についてもう少し詳しくお話いただけますか?
緒方 前の作品である『体温』を撮り終えて、2010年7月末あたりから、つぎにどんな作品を撮ろうか漠然と考えていたんですね。そのときに大阪二児放置死事件をニュースで知ったんです。ただ最初はショックが大きすぎて映像にしようという気持ちはまったくわかず、報道を受け身になって見ていました。
でもふとしたところでお母さんばかりがバッシングされていることに対して疑問を抱いたんです。あとでいろいろと調べてみてわかったのですが、実は大阪二児放置死事件と同じような事件は他にもたくさんあったんです。では、なぜ大阪二児放置死事件だけがセンセーショナルに取り扱われたかというと、事件を起こしたお母さんが、風俗で働いていて、さらにホスト通いもしていたからだと思うんです。
一般的に子育ては母親がすることで、事件や事故が起きるとお母さんに責任があると言われる風潮があります。最初にお話したように、そういった母性の神話化がお母さんたちを苦しめている。ぼくには妹がいて、妹は19歳のときに離婚をしているんですね。それから再婚するまではシングルマザーとして家事や育児をがんばっていたのですが、この事件を起こしたお母さんが妹に重なるような気がしたんです。
本当はお母さんだけじゃなくて、離婚した元夫や行政、地域などいろいろな視点を通した意見が活発にでてきてもいいんじゃないかと思いました。そしてお母さんを苦しめている「母性神話」は崩壊しているんだと、事件を描きながら撮ってみたいと思いました。
角間 いまこの対談中にだってパチンコの駐車場で置き去りになって事件の一歩手前にあるような子供だっているかもしなくて。そのくらい似たような事件ってたくさんあると思います。
2004年に公開され、カンヌ国際映画祭の最優秀主演男優賞を受賞した『誰も知らない』という映画があります。この映画は1988年に巣鴨で起きた事件をもとにしているんですけど、事件のことを知っていた人はほとんどいなくて、受賞したことによって知られるようになったんですよね。でも大阪二児放置死事件は、母親が風俗で働いていたこととホスト通いをしていたことで注目されていました。
実はぼくは報道直後からこの事件を自分事としてみることができたんですよ。生まれて間もない子供を見ながら、なんでこんなに子育てって大変なんだろうと思っていて。しかも事件を知る2、3日前には生まれて初めて風俗のオーナーと出会って夜の世界で働いている女の子の実状を聞くことができて、風俗の世界ではいったい何が起きているんだろうって、ある種の好奇心が起きていたんです。だから子供が置き去りにされて死んでしまったことはショックだったけど、比較的冷静に、この事件がどうやって扱われていくかをみることができたんですね。
きっとみんな「わたしとは違う」と思いたいんですよ。凄惨な事件があったとき、日常のどこにでも、誰にでも起きるような事件ではなくて、「風俗をやっていたから」という理由付けをして、「わたしとは違う」と安心したい。
緒方 ぼくはお母さんを擁護したかったわけではなくて、一方的にお母さんがバッシングされていることに疑問視していただけで、子供が死んでしまったことについてはやっぱりいくら大変なことがあっても許されることではないと思います。
この映画を事件に寄り添って撮るとどうしてもお母さん寄りの映画になってしまいます。だからぼくは感情移入できない様に、客観的に、覗き見しているような印象を与えるように映画を撮ったんですね。
登場人物に自分を重ねられるように
角間 ぼくは映画の専門家ではないので詳しいことはわかりませんが、どういった工夫をされていたんですか?
緒方 この映画には、「黒み」といわれる画面が真っ暗になる瞬間が何十回もあります。多くの場合、「黒み」は時間の経過を表現するために使われるのですが、この「黒み」の時間をひとつひとつ微妙に調整して長さを変えました。なぜなら、子供が置き去りにされただけでも50日間、その前後をあわせたら数か月以上の時間があるわけですよね。それを95分の映画に省略しなくちゃいけないので、すべてを繋ぎあわせることは不可能です。一部を抜き出して、それを並べるしかない。でもそれらを繋げて並べてしまったらお母さんや子供に対して感情移入しやすくなってしまいます。だから気持ちが繋がらないように、あえて分断させようとしたんです。
角間 この作品ってお母さん(由希子)が外でなにをやっているのか具体的に映像にしていませんよね。だから見ている人は想像せざるをえなくて。うまいなあと思ったのは、女の子の「幸」が、いままで部屋に置いてなかったようなハイヒールを触っていたりコスメを塗りたくったりしているシーンです。その前にお母さんの友達が夜の仕事を勧めるんだけど、この仕事が風俗なのかキャバクラなのか居酒屋なのかは明言していない。風俗やホストの部分を強く出すとこの映画も事件と同じようにみられてしまう。
緒方 そうですね、この映画の主人公は母親ですが、その母親の像を明らかにしないことで、見た人がお母さんと共通する部分を感じて欲しいと思っていました。それはお母さんだけではありません。子供を取り巻くいろいろな大人たちを明確に描写しないで、誰にでも置き換えられるようにしたんです。役者さんの顔もあまり映さないようにしたので、作品ができたあと役者さんが「こんなに顔が映っていないとは思っていなかった」とびっくりしていてそれは申し訳なかったんですが(笑)。
角間 作中に悪役の設定がないですよね。母親も途中で現れるホストも浮気していたであろう元夫も悪い人としては描いていなくて。みんな疲れている。
緒方 そう感じてもらえるのは嬉しいです。ぼくが初めてとった作品は、実の父親が実の娘に性的虐待をしている話でした。女の子は誰にも相談できず、紛らわせるためにリストカットをしている。お母さんも鬱になってしまっている。みんな疲れていて、虐待やリストカット、鬱といったかたちでストレスを発散しているんですね。
この映画もみんな生きるのに必死です。表だって誰かが悪いわけではないのだけれど、些細なことの積み重ねによってひずみが生まれている。きっとお母さんは子供を殺したくて殺したわけじゃないとぼくは思いたいんですよね。そこを考えてもらうきっかけになればいいなと思っています。
「完璧じゃなくていいんだよ」
角間 ぼくは夜の世界に関する活動をしていますが、社会には母親を神格化して、風俗を別の世界の人とするニーズがあるんですよね。べつに風俗にいる女の子たちが同じような事件を起こしているわけではありません。ただ風俗にくるまで追い込まれてしまう人はいるように感じる。そして風俗で働くと他の人との接点をなくしてしまうんですよね。
緒方 難しいですよね。風俗で働いていることが知られると世間の目が変わってしまうのは確かで、だからバレないようにする。
いろいろなお母さんに取材しましたが「他人事にできない」っていう人は結構いました。「殺してしまいたいと思ったことも何回かある」とか「わたしだって事件を起こしていたかもしれない」という人だっていました。
角間 吉岡マコさんが代表を務めるNPO法人Madre Bonitaという団体があって、情報交換するのですが、吉岡さんが「良い母親でいるためには七日中七日間よい母親でなくてはいけないけれど、七日中六日間いい母親でも最後の一日が駄目だと悪い母親だと言われてしまう」と話していたんですね。母親って完璧を求められていて本当にしんどいと思うんです。きっと母性って土壌があって初めて機能するものだと思っていて。苗床がないと発芽しない。それなのに「あの母親には愛情がなかった、母性がなかったんだ」と言われちゃう。
緒方 映画を撮り始めてから気がついたんですけど、子供たちって本当にぼくらのいうことを聞いてくれないんですよね。
ぼくは映画を撮るとき、脚本通りに、それこそセリフひとつ変えてほしくないと思っています。でもそれは無理でした。予算も時間も限られていて、だけど撮影が全然進まなくて、これじゃあ映画が完成しないんじゃないかって不安になりました。自腹で全額だしていて、本当になにもないすっからかんの状態で完成しないなんて無理な話で。だんだん子供に対してどうしても怒りがわいてきちゃうんですよね。そのときに、これって育児と一緒なんじゃないかって思ったんですよ。
角間 完璧を目指す人ほどしんどいんですよね。監督も脚本通りに完璧に撮りたいと思っていて、だけど当たり前ですが子供は絶対に大人の思い通りには動いてくれない。この映画の主人公も、完璧なお弁当を作っていて、「良いお母さん」になろうと努力していました。
緒方 真面目な人ほど疲れてしまって、逃げ出したいって気持ちになっちゃうと思うんです。お母さんだってしんどくて、息抜きが必要で。それを社会が当たり前に許してくれるようになれば、すごく気が楽になると思います。
前に妹と家族で名古屋を旅行したときに、育児って本当に大変だなって思いました。妹は1歳の子供をおんぶして、ぼくは3歳の子をベビーカーに乗せて預かっていたんですね。ベビーカーって階段をのぼるのは大変だし、エスカレーターも使えない。エレベーターもそんなになくて、ちょっと上に行きたいと思ってもすごい迂回しなくちゃいけないんです。疲れてカフェで休もうとしても、ベビーカーを置く場所がないから入れなくて、カフェを探すのにも一苦労してしまう。
妹はこれを普段、子供をおんぶして、自分のバッグを持って、ベビーカーをおしているわけですよね。本当に、すごく大変ですよ。だから息抜きできる場所であったり、「完璧じゃなくていいんだよ」って声をかけられるような、そんな雰囲気ができることって本当に重要だと思います。
角間 地方行政がそれを用意できればいいんだけど、いまは期待できないし、かといって家族や地域コミュニティだって期待できない中で、それでも用意できるように、ぼくらのようなNPOがあるのかもしれません。
見ている人にとって残酷な映画
角間 ほかに撮影で苦労されたことってありました?
緒方 実際のお母さんにも撮影のあいだはずっと現場にいていただいたのですが、撮影を始める合図って、子供役にとってはお母さんから離れる合図なんですよね。だからお母さん役の役者さんを「悪い人」って。お母さんが完璧であろうとして苦しんでいるところを撮りたかったので、子供がお母さんに懐いている必要はなかったんですけど、あまりにも嫌がっていたんですよね。
あと子供が牛乳をこぼすシーンがありますが、牛乳をこぼしたら怒られるってわかっているから撮影前に「今日はこぼしてもいいんだよ」って言っていたんですね。だけど撮影中はお母さん役に怒られる。だから「さっき良いって言ったのに!」ってどんどん溝が深まっていっちゃうんです。
もちろん戸惑うことはよくわかっていたので、きちんとケアできるように現場には本当のお母さんもいてもらいました。そのお母さんが、放置された幸がおもちゃの電話で「ママー、幸だよー? ママー?」って言っているシーンでは泣いていて。いろいろ考えるところがあったのかな、と思いました。撮影は本当に大変でしたね……。
角間 見ている人にとって残酷な映画ですよね。初めは幸せそうで、だんだん荒んでいく様子を見て、映画を見ている最中、「できるなら自分が子供を助けたい」と思わない人っていないと思うんです。あるシーンでインターフォンが鳴って、それは児童相談所なのか新聞の勧誘なのかわからないけれど、結局幸は高いところにある電話をとるために椅子を寄せているあいだに、その人はどこかに行ってしまう。
「ぼくだったらもう少し待っていたのに!」と思うけれど、映画だからそれは許されない。初めて映画を見たとき、子供が置き去りになったシーンからしばらくして「あとどのくらいあるんだろう」って時間を確認するとあと30分以上ある。「まだまだあるのか……」って気が重くなるんですよね。でもぼくは90分の映画をみているのであって、子供は50日も放置されていたんだと思うと、さらにもどかしくなるんです。
この映画って終わった後に拍手ができないんですよ。しかも泣けばいいモノでもない。どうすればいいのかわからないのが、見終わってからもモヤモヤ続くんです。
緒方 ぼくが一番重要だと思っているところです。ぼくはエンターテイメントを撮るつもりはありません。社会的な問題、しかもなかなか気がつきにくい問題や人々が目を背けたいと思うものを描きたいと思っています。
そうした問題を映画として表現するときに、「映画だな、悲しい話だな」と思われるのも「どうせ助かるんだろう」と思われるのも嫌なんです。それじゃあニュースやわかりやすい映画と変わりません。現実は、そんなタイミングよく救世主はこないんです。だからわかりやすい終わりという終わりではなくて、意図的に不完全燃焼に終わらせているんです。
角間 そうですよね。しかもこの映画って「ここに社会のエラーがあるからなおさなくちゃいけない!」って呼びかけというよりは、見ている間に抱えたモヤモヤ、やきもきする気持ちを行動に繋げて欲しいと伝えようとしているように見えました。
事件のかわりとして
角間 この映画は、とくに誰に見て欲しいですか?
緒方 みんなに見て欲しいんですが(笑)。一番見て欲しいのは、大阪二児遺棄事件が報道されたときに叩いていた人たちですね。作品をみて改めてあの事件を考えて欲しいです。
あの事件はすでに刑も確定していて、風化していますよね。おそらく同じような事件がまた起きたときに、またセンセーショナルに取り上げられて、時間が経つにつれて忘れられていく、が繰り返されちゃうと思います。それじゃあ駄目なんですよね。この映画が事件のかわりとして、考えるきっかけになって欲しい。その時間を作ってもらえたら、少しずつ変わっていくと思うんです。行政も頑張っていると思うんです。でも事件の予備軍みたいなお母さんはきっといる。それを少しでも、ぎりぎりで止められるようになったらいいな、と思います。
角間 そうですよね。「○○が悪い!」と批判するのではなくて、映画をみているときに感じる「助けてあげたい」という気持ちを忘れずに、なにか行動してもらえたらいいなと思いました。
(2013年9月25日 渋谷にて)
●11月9日公開予定『子宮に沈める』公式サイト
プロフィール
緒方貴臣
福岡県出身。高校中退後、共同経営者として会社を設立。25歳の時、退社。海外を放浪の後、幼い頃から興味があった映画の道に進むために上京。映画の専門学校へ行くが、3ヶ月で辞め、2009年より独学で映画監督として映像制作を始める。初監督作品『終わらない青』が沖縄映像祭2010で、準グランプリを受賞し、2011年6 月に劇場公開される。2作目『体温』では、2年連続でゆうばり国際映画祭コンペ部門にノミネートされ、テキサス・ファンタスティック映画祭やレインダンス映画祭の他、国内外6つの映画祭で上映される。作品テーマとして、『終わらない青』では,実父からの性的虐待を受け、自傷行為を行う女子高校生を描き、続く『体温』では、セックスと人の関係性を描き、人が嫌悪するようなテーマに体当たりするフィルムメーカーの為、現在、日本の映画製作環境下では、出資者を募るのが極めて困難な為、全作品を自己資本で製作している。
角間惇一郎
1983年新潟県生まれ。サラリーマン時代、週末のみ行なっていたまちづくりNPOでの活動中に偶然知ることとなった夜の世界で働く女性たちの存在について把握するため退職。2012年2月一般社団法人GrowAsPeople設立。同じようなしんどい立場の女性たちの視点と感性を活かした相談のしくみ、デザイン事業等に取り組んでいる。「ちょっとかわいく、ちょっとすてきにおもしろく」がテーマ。