2014.02.26

「魂のジェノサイド」――ウガンダ「反同性愛法案」とその起源

稲場雅紀 NPO法人「アフリカ日本協議会」国際保健部門ディレクター、「動く→動かす」事務局長

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東アフリカの内陸国を揺るがした「反同性愛法」

ナイル川の水源、ヴィクトリア湖に面した東アフリカの内陸国、ウガンダ共和国は、昨年12月20日から2月24日までのおよそ2か月間、一つの法案に関する大統領の判断を巡って大きく揺れ動いた。その法案とは、「反同性愛法案」(Anti-Homosexuality Bill)である。

昨年12月20日、ウガンダ国会は、「法案は人権侵害である。そもそもウガンダには同性間性行為を禁止する刑法があり、新たな立法措置は必要ない」という少数派の主張や、国会が議決をする定足数を満たしていないとする首相の警告を振り切り、圧倒的多数で法案を可決した。

ウガンダでは与党・国民抵抗運動(NRM)とウガンダ民主党、ウガンダ人民会議などの野党が積年の対立関係にあるが、「反同性愛法案」の可決は、ごく一部の反対を除き、すべての政党が賛成によってなされたのである。

ここにおいて、「反同性愛法案」をめぐる情勢は新たなステージを迎えた。法案は大統領が署名することによって初めて法律となる。「反同性愛法案」は、2009年に国会で可決されて以来、何度か可決されてきたが、1986年以来28年間政権の座にあるヨウェリ・ムセヴェニ大統領はそのたびに署名を拒否、法案はからくも不成立に終わってきたのである。ムセヴェニ大統領は国際社会と国内政治の両面から、注目を集めることとなった。

当初、ムセヴェニは主要援助国である欧米との関係を気遣って粛々と署名を拒否すると思われていた。しかし、政権の長期化と腐敗の進行で政権基盤が脆弱化する中、国内保守派の支持をつなぎとめる必要があることから、ムセヴェニは不思議な論法で署名を正当化し始める。

ムセヴェニは署名の可否を判断するために、「国内の科学者グループ」に同性愛に関する調査を命じ、1か月ほどの検討の結果、「同性愛は生来的なものでない」との結論を得たとの理由で、署名を行う意向を示したのである。これについて、米国のオバマ大統領は2月16日、「深い失望」を表明、「法案が成立すれば、ウガンダと米国の価値ある関係は複雑化するであろう」とする声明を発表した。

ムセヴェニは18日、これに対して、「ウガンダ共和国大統領・退役将軍」との肩書で長文の反論を発表し、再度、「科学的根拠」を強調して自らが法案に署名することを正当化した。ウガンダ議会が、大統領による返答の期限として設定していたのは2月23日だったが、最終的に、ムセヴェニはその翌日の2月24日、オバマへの反論と同趣旨の長文の声明を発表しつつ、法案に署名し、ここに「反同性愛法」(Anti-Homosexuality Act)が発効することとなった。

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同法案はその国会審議の過程から、ウガンダを揺さぶっていた。ウガンダ国内の同性愛者グループ「ウガンダの性的少数者たち」(SMUG)は法案に反対する立場を鮮明にし、米国の「国際ゲイ・レズビアン人権委員会」(IGLHRC)をはじめとする性的少数者の人権団体は2月10日を「ウガンダの法案に反対する世界行動デー」として、各国のウガンダ大使館などに抗議行動を行った。インターネットを通じた国際的な同性愛者の人権キャンペーンである「ALL OUT」は、世界中に散らばる登録者に対して、自国の首脳に働きかけてムセヴェニ大統領に署名を断念させるよう圧力をかけさせる国際キャンペーンを展開した。しかし、24日のムセヴェニ大統領の法案への署名により、これらの反対運動は結局、失敗に終わる結果となった。

ちなみに、ムセヴェニは法案への署名にあたって発表した声明で、同性間性行為に加えて、「オーラル・セックス」も「不自然」な性行為として退けるべきと言及している。ムセヴェニはウガンダの日刊紙「ニュー・ヴィジョン」の記者に対して「西側諸国がこれ以上、この問題に介入するなら、それは社会的帝国主義だ」と述べて民族主義者を気取っているが、実際のところ、同性愛に加えてわざわざ「オーラル・セックス」もこと挙げする彼のレトリックは、「アフリカの伝統」どころか、百数十年前に生殖目的以外のすべての性行為を「ソドミー」として禁止した英国ヴィクトリア朝の悪しき再現に他ならない。

「反同性愛法」のもつ重大な歴史的意味

今回ウガンダで法律として発効した「反同性愛法」とは、どのような法律なのだろうか。

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アフリカにおける反ソドミー法などの分布状況。北アフリカのイスラーム圏諸国と旧英領諸国に集中していることがわかる。なお、この図はあくまで反ソドミー法の有無を示すもので、法律がないからと言って人権状況が良いとは限らない。(BBCより)

ウガンダには、もともと同性間性行為を禁止する法律がある。前項で述べたように、1962年までウガンダを植民地支配していた英国は、ウガンダを含むすべての英国植民地に対して、同性間性行為を含め、生殖目的以外のすべての性行為を「自然に反する行為」として禁止し、長い懲役を科す「反ソドミー条項」を刑法に設けた。これがいつしか、同性間性行為を禁止し、同性愛者を弾圧する法律へと変わった。

米国や英国では、60年代以降の同性愛者解放運動の長い闘いの末、これらの法律は廃止されるか死文化することとなったが、旧植民地諸国においては独立後も存続し、各国における同性愛者弾圧の根拠として使われ続けている。

この「反ソドミー条項」は、同性間性行為という「行為」に焦点を当てたものである。ウガンダの「反同性愛法」は、この点について、これまでの「反ソドミー条項」では不十分として、場合によって終身刑を含む重罰を科すものである。それだけでも問題だが、この法案の問題点はそれにとどまらない。「反同性愛法」は、「反ソドミー条項」と異なり、同性間性行為だけでなく、同性愛者の生活権や結社の自由など、ありとあらゆることを監視し、処罰の対象にしようというものである。

例えば、同性愛者に家を貸し、そのことを当局に通知しなかった者には、懲役5年が科される。さらに、「同性愛を広める」行為も処罰の対象とされている。この法案に従えば、同性愛者の人権に取り組む団体を組織することから、同性愛者へのカウンセリング事業を行うことまで、すべてが処罰されるのである。この法案が成立し、条文通りに執行されれば、文字通り、ウガンダには同性愛者の存在する余地がなくなってしまう。

「反同性愛法」が議員立法として初めてウガンダ国会に上程されたのは、2009年のことである。この2009年法案においては、同性愛者に科される最高刑は死刑であった。まさに、同性愛者に「ジェノサイド」を宣告する法案だったのである。その後も、法案は何度も上程・可決され、そのたびに、国際的な圧力や援助の削減を恐れるムセヴェニ大統領によって差し戻された。何度かのやり取りを経て、今回の法案では最高刑が「終身刑」に減軽されることとなった。しかし、同時にレズビアンも対象となり、生活権や結社の自由への規制はより強化されるなど、いわば「魂のジェノサイド」を現実化する法案となって、ウガンダ国会に再びその姿を現したわけである。

これを見ればわかるように、「反同性愛法」は、以前から存在した「反ソドミー条項」の強化にとどまるものではなく、次元の違う形で、同性愛者の存在や運動それ自体を弾圧し、取り締まることを目的としたものである。ここから、一つの重要な事実が判明する。

同性愛者を弾圧する法律としてウガンダにもともとあった刑法の「反ソドミー条項」は、そもそも英国植民地当局によって持ち込まれ、ウガンダの人々の意思とは無関係に制定された、いわば植民地支配の遺制というべきものであった。ところが、「反同性愛法」は、もちろん英国の植民地支配の過程で持ち込まれ、現地の人々に強制的に植え付けられた「キリスト教道徳」や欧米的な家族観・家族道徳に根を持つものではあっても、少なくとも形式的には、独立国としてのウガンダ国家が、自ら定める立法手続きによって定めたものである。そうである以上、「反同性愛法」が成立したことは、歴史的に重大な意味を持つ。すなわち、法案の成立を以て、ウガンダにおける同性愛者への弾圧は、少なくとも法学的には、英国の植民地支配によって押し付けられたものではなく、ウガンダ自身の手によって選び取られたものとなってしまったのである。

 

なぜ今「同性愛者弾圧」なのか?――暗躍する米国のキリスト教保守派

なぜ今、ウガンダで「同性愛者弾圧」なのか? これには、ウガンダという国、また、現在のアフリカにおけるイデオロギー状況について、多少なりとも足を踏み入れる必要がある。

アフリカから遠く、歴史的な関係も少ない日本で、「ウガンダ」について何らかのイメージを抱くことはなかなか難しい。現代のウガンダについて、貧困と内戦に明け暮れるアフリカの小国、とか、70年代この国を「アフリカの三大独裁者」の一人として支配し悪名をはせた「食人大統領」イディ・アミンのイメージを思い浮かべたとすれば、大きな誤りをおかすことになる。

現実のウガンダは、圧倒的な貧困や大規模な汚職腐敗などの問題に苦しむ低所得国である一方で、80年代後半に確立した安定政権の下で90年代に一定の経済成長を遂げた結果、相当数の中産階級を有し、また、東アフリカの最高学府であるマケレレ大学を擁することから多くの知識層を抱える、洗練された国家でもある。「反同性愛法」と関係する以下の逸話は、それを証明するものである。

2011年6月、日本のLGBTグループは、ウガンダでの同性愛者の人権状況を憂慮し、駐日ウガンダ大使館に申し入れを行った。筆者もそれに同行した。ウガンダでは今回と同様の「反同性愛法案」が前年に国会に上程されていた。一方、同年1月には、同国の同性愛者運動のリーダーの一人であったデイヴィッド・カトー氏が惨殺されるという衝撃的な事件が起こっていた。私たちに対応したのは、ブガンダ王国の王族で、当時、駐日公使を務めていたンダジェレ=ジェミマ王女であった。

ウガンダの性的少数者の団体「ウガンダの性的少数者たち」(Sexual Minorities Uganda):2007年の世界社会フォーラム(ケニア・ナイロビにて開催)にて。
ウガンダの性的少数者の団体「ウガンダの性的少数者たち」(Sexual Minorities Uganda):2007年の世界社会フォーラム(ケニア・ナイロビにて開催)にて。

ンダジェレ公使はまず、この問題について、ウガンダ政府の立場を明快に説明した。つまり、(1)法案は政府が提出したものでなく米国の宗教保守派の影響を受けた議員による提案であり、政府は一線を画している、(2)刑法「反ソドミー条項」は英国の植民地主義に由来するものであり、ウガンダ社会や政府に直接の責任はない、(3)ウガンダは貧困や紛争リスク、経済的停滞など取り組むべき多くの問題を抱えており、同性愛の問題に高い優先順位を与えることはできない。公使はその上で、自分の知人にも同性愛者がいたことを明らかにした。

「彼は現地社会で差別なく対等に扱われ、彼が不幸にして死去した時にも、皆、分け隔てなくその死を悲しんだ。アフリカでは性的指向うんぬん以前に、そうした分かち合いが機能する場所なのだ」という公使の説明は、王女たる優雅な物腰や流暢な英語と相まって、極めて洗練されたもので、ウガンダという国家が、世界におけるその位置の限界の中でどのように自己を発展させてきたのかということを、私たちに強く印象付けるものとなった。

公使の説明には、ウガンダの同性愛者弾圧の責任を外部に転嫁することによって、自国の問題に余計なおせっかいを焼きに来た外国人を煙に巻いてお引き取り願おうという意図がある。実際、前章でみたように、「反同性愛法」制定を推進してきたのは政権与党「国民抵抗運動」の一部議員をはじめとするウガンダ人の支配層である。しかし、彼らが包括的な反同性愛法の制定を推進するに至った背景には、少なからず、米国のキリスト教保守派による、ウガンダなどアフリカ諸国を舞台とした継続的なロビー活動の存在がある。米国の国際的な同性愛者の人権団体である「国際ゲイ・レズビアン人権委員会」(IGLHRC)は、ウガンダ現地の同性愛者・性的少数者のグループ「ウガンダの性的少数者たち」(SMUG)とともに、そのロビー活動の一端を解明している。例えば、以下のような実態が存在する。

2009年3月、米国のキリスト教右派組織の活動家が、同じく米国の「治癒した元同性愛者」の活動家を伴ってウガンダを訪問し、ウガンダで「家族の価値」を称揚するキリスト教右派のNGOと連携して3日間のセミナーを開催した。彼らはセミナーにウガンダの国会議員などを参加させ、また国会議員の事務所などを訪問して、「現在の刑法反ソドミー条項では、同性愛者の活動を取り締まれない」「ウガンダの同性愛者団体が、若者を勧誘し洗脳して同性愛者に仕立て上げている」などと危機感をあおり、包括的な反同性愛法案の売り込みを図ったのである。

実際に、ウガンダで反同性愛法案が最初に国会に上程されたのは2009年、このセミナーの後であり、また、提案したのはキリスト教右派の影響を強く受けた議員グループであった。つまり、ウガンダの「反同性愛法」は、米国のキリスト教右派勢力とウガンダの「伝統的家族の価値を守る」保守派勢力のいわば「合作」とでもいうべきものなのである。

実は、ウガンダだけでなく、サハラ以南アフリカの多くの国々で、刑法「反ソドミー条項」を塗り替え新しい「反同性愛法」を作る動きが強まっている。ウガンダの状況が注目されている間に、アフリカ最大の人口大国ナイジェリアでは、同性婚を禁止し、同性婚を促進する団体の活動も禁止し首謀者に刑事罰を与えるこれまた包括的な「同性婚禁止法案」が可決された。普段は激しく対立する北部のイスラーム勢力と南部のキリスト教系勢力が、この法案に関してだけは共闘したという。本年1月には、グッドラック・ジョナサン大統領がこれに署名したため、法案は法律として成立し、国の中央に位置する首都アブジャでは「同性愛者狩り」が始まっているとの報道もなされている。

エチオピアでも、2008年以降、最大宗教であるエチオピア正教とカトリック、プロテスタントの各教団が連携して「反同性愛タスク・フォース」を形成、反同性愛法の実現に向けたロビー活動を行っている。また、「反同性愛法」の立法化の動きとは別に、旧来の刑法反ソドミー条項を活用した同性愛者の活動家たちへの弾圧が、伝えられる限りでもマラウイ、ザンビア等で生じている。これらの背景には、ウガンダでみたように、欧米のキリスト教保守派と各国の国内の宗教右派・伝統主義者が「反同性愛」で連携を強化している状況がある。

その背景にあるのが、近現代におけるサハラ以南アフリカと欧米との関係史である。サハラ以南アフリカでは、奴隷貿易や植民地支配によって伝統社会が浸食され、徹底的なキリスト教化や植民地言語の強制が行われた。さらに、独立以降のアフリカの歩みは、実際のところ、6-70年代に誕生したいわば疑似的な国民国家が、こうした「外部」によってもたらされた制度やイデオロギーを自らの手で内部化していくプロセスでもあった。

90年代以降は、冷戦の崩壊により、独立以来多くの国々でタテマエ上の教理として採用されていた「社会主義」イデオロギーが崩壊したため、アフリカ諸国は、その支配の論理においても、また社会的にも、キリスト教右派的な言説を自らのよりどころにする傾向が強まっていた。21世紀になって、アフリカのこうした土壌と、欧米のキリスト教保守派のロビー活動が「反同性愛」を接点としてつながり、包括的な「反同性愛立法」が、19世紀末から20世紀初頭に英国ヴィクトリア朝が持ち込んだ「反ソドミー条項」を塗り替える形で成立するに至ったというわけである。

私たちが今、見ているのは、こうした「歴史の帰結」である。この<現象>は、これら「国際社会」が作り出したグローバルな政治的・経済的なシステムの歴史的変遷の帰結として生じているものであるといえる。それに対して、「国際社会」は、ウガンダの「反同性愛法案」という、いわば<現象>に対して、「人権」を旗印に対峙するにとどまっている。もちろん「対処療法」は必要だが、それだけでは十分ではない。

米国の「グローバル平等基金」が示す一つの道

「グローバル平等基金」のロゴマーク
「グローバル平等基金」のロゴマーク

この問題に取り組む上で一つの示唆となりうるのが、米国オバマ政権の取り組みであろう。2011年のウガンダのゲイ活動家デイヴィッド・カトー氏の惨殺と、アフリカ南部マラウイ共和国での、刑法反ソドミー条項を用いた同性愛者の逮捕・刑事訴追という事態を踏まえて、米国は同年12月に「グローバル平等基金」(Global Equality Fund)を設立した。そしてアフリカを含む世界のLGBTの人権運動を支援するとともに、この基金や各国においた米国大使館をベースに、こうした人権運動と各国政府などの連携を促進する活動を行うこととなった。

この活動は、米国の国際的なエイズ対策枠組みである「大統領エイズ救済緊急計画」(PEPFAR)による、各国のゲイ・コミュニティでのエイズ対策支援と共に、アフリカにおけるLGBTの状況を具体的に改善するうえで一定の役割を果たしている。

対照的なのは英国である。マラウイ政府による同性愛者への迫害を前に、保守党のキャメロン首相は「同性愛者を迫害する国への財政支援を停止する」と脅迫した。マラウイ政府が同性愛者迫害に用いたのは、植民地時代に英国が持ち込んだ「反ソドミー条項」であったことも相まって、英国保守党政権の対応はアフリカの支配層を怒らせ、反ゲイ的傾向を加速させた。ナイジェリアでの「反同性婚法」制定の動きは、こうしたやり方への支配層の反発が背景にあるということもできる。

英国は、植民地時代に「反ソドミー条項」を旧英領諸国に持ち込み、同性愛嫌悪を世界化したことの責任を、「植民地責任」として認める必要がある。そのうえで、各国の「反ソドミー条項」の撤廃を呼びかけ、また、同性愛者の人権運動を支援するプロセスに乗り出すことが必要だ。

本論考では、ウガンダの「反同性愛法」の問題を手掛かりに、アフリカにおける同性愛者の迫害の問題が、アフリカと欧米の近現代の関係史に端を発する根の深い問題であることを見てきた。ウガンダの「反同性愛法」は、まさにウガンダの同性愛者たちを干上がらせ、その生存空間を実質的に奪い、暴力と迫害の標的に仕向けるものである。

<今・ここ>の暴力に対して、国際社会は明確な「ノー」を言う必要がある。その一方で、歴史的に構築されてきたこの問題に対して、中長期的に、その歴史的負債を解消していくプロセスも必要だ。国際社会には、アフリカにおける同性愛者の迫害の問題を単に「アフリカ」の責任に帰するのでなく、自らに内在する歴史的責任として向き合い、解決に向けて現地のLGBTの運動を積極的に支援していくことが求められている。

プロフィール

稲場雅紀NPO法人「アフリカ日本協議会」国際保健部門ディレクター、「動く→動かす」事務局長

1969年生。1994年~2001年、「動くゲイとレズビアンの会」アドボカシー・ディレクター、副代表理事。2002年より(特活)アフリカ日本協議会 国際保健部門ディレクター。2009年より、国際協力NGOのネットワーク「動く→動かす」(74団体加盟)事務局長。

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