演劇そのものである世の中を演劇によって語る――イキウメ「新しい祝日」劇評

世の中の写し鏡として

 

会社で働いたことがある人はたいてい、「なんか芝居みたいだな」と思った経験があるのではないか。「さすが山田さんですね」とか、「一丸となってがんばろう」とか、なかなか日常では耳にする機会がないが、会社ではよく聞く(聞くだけでなく、気づけば自分も口にしている)。会社で使う言葉には独特の「セリフ感」がある。

 

会社は身分制だ。肩書一つ違えば全然違う。長が付く人には誰も口答えしないし、何かにつけてほめそやす。お役人を前にした江戸時代の町人と同じである。そして身分というのは、演劇そのものだ。同じ人間、大した違いがあるわけもないが、Aさんの方がBさんよりも偉いという。これがお芝居でなくてなんだというのか。役者が王冠をかぶれば王様に、ぼろをまとえば乞食になる。役割の仮面をかぶり、言うべきセリフを言っている。社長だの平社員だのというのも全く同じことだ。

 

会社は世の中でも特に演劇的な場なのだが、考えてみれば学校にしても、ご近所や親戚づきあいにしても、さらには家庭ですら似たようなことはよくある。つまり世の中は無数の演劇で構成されていると言っていいだろう。というよりもいっそ、世の中全体が一つの巨大な演劇なのだ、と言ってしまってもいいかもしれない。演劇という表現の可能性の一つの根拠がここにある。世の中そのものが演劇なのだとすれば、演劇はいつでも世の真実を鏡のように写しだせる道理だ。今回紹介するイキウメ(という劇団名である)の「新しい祝日」は、そうした演劇の可能性を最大限に発揮した作品だった。

 

 

ひっくり返される「演劇のお約束」

 

舞台の上でスーツ姿の若い男(浜田信也)が仕事をしている。オフィスのようだ。自宅に電話をして、「遅くなるから先に寝てて」などと話している(本稿で引用するセリフはすべて記憶に頼っているため、正確ではない。以下同)。しかし椅子やデスクが並んでいるわけではない。いや、椅子やデスクは確かに並んでいるのだが、それは段ボール箱に椅子やデスクの絵が描いてあるものなのだ。たとえばスチールの事務机は段ボール箱4つを積み重ねて、その表面に描かれている。

 

小劇場演劇のセットはリアルであるほうがむしろ珍しい。それが段ボール箱であっても、椅子やデスクとして使われていれば、観客はその設定を受け入れて、黙ってみている。これもそういうセットなのだろうと思ってみていると、いきなりひっくり返される。

 

白いピエロ服を着た道化(安井順平)が突然登場。驚き慌てる男に、「ここは会社か? 違うだろう。ただの段ボールじゃないか」と言いながら、段ボール箱を蹴飛ばし、ばらばらにしてしまう。道化は男の古い友達だと名乗るが、男には全くわからない。鞭のようなものを振るって男を脅かし、服を脱がせてパンツ一丁の姿にさせた上、汎一と名付ける。「どこにでもある(汎)が、唯一の存在」「世界にして個」という意味だという。これは植木等の無責任サラリーマンが平均(たいら・ひとし)と名付けられ、山口瞳のサラリーマン小説の主人公が江分利満(えぶり・まん)という名前だったのとだいたい同じ意味だと考えればいいだろう。どこにでもいる男、我々の代表。寓話の世界にようこそ。

 

 

「新しい祝日」の一場面。左から浜田信也、伊勢佳世、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)

「新しい祝日」の一場面。左から浜田信也、伊勢佳世、安井順平 撮影:田中亜紀(禁無断転載)

 

 

道化の声を合図に、それまで舞台袖で待機していた俳優たちが殺到してくる。怯える汎一。そのうちの男女1人ずつ(盛隆二と伊勢佳世)が熱心に汎一の世話を焼き始める。彼らは汎一が何をしても喜び、ミルクを与える。しかし言葉はほとんど通じないようで、汎一が何を言っても意に介さない。見ているうちに、汎一は赤ん坊に戻ったようであり、2人はその両親なのだということが分かってくる。汎一は母を愛し、父に敵意を抱くが、飛びかかっても全く相手にされない。

 

ともかく、汎一は人生を赤ん坊時代から生き直す機会を与えられたのだ。その新しい人生を通じて、道化は汎一の友人兼舞台回しとして側にいる。赤ん坊時代の後、大まかに言って3つの場面が展開する。(1)小学校時代、球技で遊ぶ場面 (2)中学生ないし高校生としての部活の場面 (3)成人として会社で働く場面。この3つの場面を通し、汎一が仮面を身に付けてセリフを言うようになる、つまり「社会化」されていく過程が描かれていく。

 

 

日常の設定に潜む不条理的の味わい

 

小学校時代の球技は一抱えもある大きなピンク色のボールを使う。3対3で味方にパスをし、ゴールにいる人に渡せば得点になる。汎一は、最初はルールが分からずに悩むが、繰り返しているうちにドリブルのないバスケットボールのようなものであることをつかんでいく。観客も汎一と一緒にルールを理解していくのが面白い。そうして最初は遠慮しているが、道化に「それで面白いのか」と言われ、本気を出すと、汎一ばかりが得点する。みんな詰まらなくなって校庭を去っていってしまう。「常に本気を出してはいけない」と汎一は学ぶ。

 

部活動の場面は、横並びの同級生に上下関係も加わり、より立体的になっている。ともかく延々とジョギングと体操を繰り返す部活なのだが、それを通じて徐々に人間関係が明らかになっていく。汎一は2年生で、先輩(岩本幸子)が引退する直前である。同級のライバル(大窪人衛)もいる。汎一はマネージャー(伊勢佳世)に憧れているが、マネージャーは何と顧問の先生(盛隆二)とできているらしいのだ。

 

そうした中で、汎一の同級生の一人(澄人)が「そもそも何の部活なのか分からない」という疑問を持ち、繰り返し投げかける。ここらへんは不条理劇的な面白さである。確かに、何の部活なのか、観客にも全然わからない。しかしこの根本的な疑問に、先輩も顧問も言を左右にして答えようとしない。他のメンバーたちも聞くのを恐れている。

 

同じ疑問は汎一も当然持っていた。しかし汎一は同級生を裏切り、孤立させてしまう。同級生は部活を去り、自殺する。一方汎一はライバルを抑え、次期キャプテンに選ばれる。根本的な疑問に口をつぐみ、「和」を尊重することで集団の中に居場所を見出していく汎一の姿が描かれる。

 

そして会社の場面。この会社ではみな延々と折り紙をしている。それが仕事のようだ。ちなみに机、椅子は最初の場面と同じ段ボール箱である。汎一は最初、新入社員として会社に加わるが、既に完全に「社会化」されており、場にふさわしい言動をしながら、着々と自らの地位を築いていく。もちろん「折り紙がどうして仕事になるのか」などと疑問を持つこともないのである。それどころか効率的な(しかし質はちょっと落ちる)折り方を提案するなどして周囲や部長(盛隆二)に認められ、ついには直属の上司である主任(岩本幸子)をも追い越して部長に上り詰める。一方、同僚(伊勢佳代)への思いは受け入れられず、取引先の女性(橋本ゆりか)と結婚することになる。

 

最後の場面では、妻が赤ん坊を連れて会社にやってくる。ベビーカーに乗せられた赤ん坊は大きなクマのぬいぐるみだが、部下たちはこぞってほめそやす。そこに道化がやってきて、ぬいぐるみを放り投げ、自分がベビーカーに座り込んでしまう。それでも部下たちは「かわいい」「お父さんにそっくり」などと言い続け、機嫌を取ろうとする。道化は「こんな中年男が可愛いのか」「汎一、お前には見えてるんだろ」「こいつらはみんな馬鹿だ」と汎一を挑発する。やがて道化と汎一は取っ組み合いのけんかを始め、段ボール箱はばらばらになってしまう。部下たちは舞台から逃げ去っていく。【次ページにつづく】

 

 

 

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シノドス国際社会動向研究所

vol.2019.4.15 

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