「獲得による普遍化」という解決──センのアプローチをどう読むか

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ロールズをこっそり頭の奥においている

 

しかし、「一歩でも正義に近づく」(注18)やり方は何かということが、現場に則して答えが出るものなのでしょうか。

 

(注18)これは前掲書『正義のアイデア』帯のキャッチコピー。

 

センさんは、アダム・スミスの「公平な観察者」を引き合いに出し、特定の立場を離れた理性的討議による精査を提唱します(注19)。でもそれでもって、例えば、同性愛コミュニティの価値観と、同性愛を伝統的に敵視する少数民族コミュニティの価値観との間で、理性的な合意が可能なのでしょうか。

 

(注19)これも同上書のいたるところに記述があるが、特に、第6章。

 

理性はしょせん究極には、理性自体では根拠づけられない前提の上に立って展開されているものです。だから一旦そうした前提を受け入れた上で、ナチスの「ガス室」だって原爆だって、ゴリゴリに理性的に設計されたのではないですか。

 

特定の立場を離れた理性的討議を目指すことが、かえって自然な同情心を離れた敵対の先鋭化に向けて理性を暴走させることがないのでしょうか。

 

つまり、センさんは「何が正義か」を理論で示すことを批判して、現実の中で「何がより正義か」を比較する「比較アプローチ」を提唱しているのですが、その「比較」ということ自体、「何が正義か」をきっちり示さないまでも、正義にかなった方向性を示すものがなければ提案できないことになります。

 

私から見たら、センさんはロールズを批判しつつ、実はある意味で頭の奥にこっそりとロールズをおいているからこそ、公平で理性的な「公共的討議」などという議論が成り立っているのだと思います。

 

ロールズの「正義の二原理」の内容そのものの当否は別にして、生まれや民族や時代を超越して、すべてに普遍的にあてはまる公正な原理を希求する姿勢は、実はセンさんも変らないのだと思うのです。

 

私はこれは、こっそりおいておくのではなくて、はっきり意識して各自おおっぴらに提案しておかないといけないものなのだと思います。

 

それなしには、やっぱりそれぞれのコミュニティのできあいの価値観にズブズブにはまってしまい、「おまえらの価値観の「正義」をおしつけるな」という言い方による抑圧の開き直りを見逃してしまいます。

 

 

統整的理念と構成的理念

 

では、そんな超普遍的な現実離れした理念は、個々具体的な現場の生き様を抑圧することにつながらないのでしょうか。そうではないと思います。

 

柄谷行人さんがよく言っていることなのですが、カントは、「理念」というものを、「統整的理念」(「統制」ではないので注意)と「構成的理念」に分けたそうです。柄谷さんの公式サイトで端的な説明が載っていましたので、引用しておきます。

 

「構成的理念とは、それによって現実に創りあげるような理念だと考えて下さい。たとえば、未来社会を設計してそれを実現する。通常、理念と呼ばれているのは、構成的理念ですね。それに対して、統整的理念というのは、けっして実現できないけれども、絶えずそれを目標として、徐々にそれに近づこうとするようなものです。カントが、「目的の国」とか「世界共和国」と呼んだものは、そのような統整的理念です。」(注20)

 

(注20)「世界危機の中のアソシエーション・協同組合:柄谷行人と生活クラブとの対話」

 

この連載の第3回(拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』第3章)で、ハイエクが「設計主義だ」と言って批判したような青写真志向は、「構成的理念」の方ですね。

 

10年や20年で実現できるつもりで設計された半端に現実的な理想だからいけないのです。しょせん半端にしか将来の末端の現実を反映できないからこそ、それを現実化しようとして押し付けることが、確実に末端の人々への抑圧になるわけです。理念が自己目的化して生身の個々人を抑圧する「疎外」そのものです。

 

では「統整的理念」ならば疎外ではないのかと言えば、そんなことはない。立派な「疎外」「物象化」に違いないでしょう。個々人の手を離れてコントロールできない天上の高みにあって、私たちの心を縛るのですから、ある意味で究極の疎外だとも言えます。

 

しかし、以前見たハイエクの言っていたことを思い出してみて下さい。要するに、一部の権力者ならばコントロール可能な、中途半端に具体的な中途半端な疎外態よりも、世の中の誰もコントロールできない超抽象的な「疎外の極み」の方が、かえって個人個人は自由になるということだっただろうと思います。

 

「統整的理念」は、あまりに理想的であまりに一般的抽象的なので、目の前の現実の都合と齟齬をきたすことはいくらでもあるのですが、違反したからといって警察に捕まるわけではありません。ただ内心に大なり小なりの「やましさ」をもたらすだけです。

 

その通りにできなくても焦ることはなく、ただ開き直らないことだけが重要なのだと思います。10年や20年で実現可能なものではない。百年二百年がかりで到達できるかもしれないし、到達できなくたってかまいません。「北極星」みたいなものですから。

 

つまり、「構成的理念」をアメリカのような最高権力者の大統領にたとえるならば、「統整的理念」は、ドイツのような無権力の象徴大統領にたとえられるのだと思います。ドイツの大統領は「あくまでキレイゴトを語る役」ですが、「キレイゴト」は無力だからこそいいのです。

 

センさんの『正義のアイデア』を読むと、一方でロールズ流の上から目線の天降り正義論を批判しながら、他方で「人権」のような西洋由来と言われがちな理念を持ち出して世界の変革を語る(注21)ので、話が徹底していなくて恣意的に思われるかたがいるかもしれません。

 

(注21)同上書のあちこちで記述があるが、特に第17章。

 

それは「統整的理念/構成的理念」の概念区分を使っていないからで、これを使えばすっきり整理できるのだと思います。「人権」のような全世界に通じる普遍的価値を統整的理念として頭におきながら、少しでもそれが実現する方向で現実が改善されるように、地道な日々の事業を営むという意味なのだろうと思います。

 

 

「当事者決定/基準国家」に対応する「ニヤーヤ/統整的理念」

 

ここで拙著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』にまとめられた、本連載の前半の結論を思い出してみましょう。70年代までの、国民国家レベルで政府があれこれ裁量的に配慮して、国民の暮らしや経済をサポートしていたやり方はいまや崩れ、二つの真反対の方向へ分解していくべきだということでした。

 

すなわち、あれこれの個別的な判断については、リスクについての情報があり、そのリスクの影響を引き受けざるを得ない現場に、決定と責任をゆだねる方向に向かうということでした。

 

特に、先進国どこでも高齢化が進む現在では、介護などの福祉事業がメジャーな仕事の分野になってくると思いますが、そんな分野では、ケアを受け、ケアをする当事者にこそ、リスクと情報が偏在しています。だからそうした場合には、末端の利用者や従業者に主権のある事業体がふさわしくなります。

 

他方で全体的なことについては、あれこれの判断の余地のない一律の基準にすることになります。これは、安上がりの低い基準かもしれないし、予算を潤沢にかけた高い基準かもしれません。しかしどちらにせよ、世界的に共通の基準へと擦り合わせする方向に向かわざるを得ません。

 

そして、こうした全体的な基準制度がたくさん予算をかけて福祉などを支えるほど、ますます末端の当事者に近いところで多様な取組みができるようになります。

 

このような、「ますます現場へ」と「ますますグローバルへ」との真反対の二つの方向性の、互いに支えあう統一として、これからの時代にかなった世の中はつくられていくのだと展望できる──これが、本連載前半部の結論でした。

 

そうすると次のようなことがわかります。先に述べたとおり、ロールズ流の「ニーティ」としての「正義」のシステム論は、70年代までの福祉国家体制を理論的に支えた「構成的理念」でした。

 

その体制が崩れて二つの真反対の方向へ向かうとき、現場での協同組合やNPOなどの取組みの方は、「ニヤーヤ」として、現場の具体的な向上を目指す、センさんのアプローチによって支えられることになる。

 

他方で、あれこれの裁量的介入をしない一律の基準国家が、世界的に共通基準へとすり合わせていく方向の方は、ロールズ以上に普遍的抽象的な「統整的理念」に対応することになるわけです。

 

「ニヤーヤ」だけでは、コミュニティのできあいの価値観にズブズブになって現地の抑圧に加担するかもしれません。

 

他方、超普遍的理念だけでは、もしそれがただの無力なお題目にとどまらないでおこうとするならば、結局グローバル市場と空爆の力で世界に押し付けざるを得ない(赤軍の力かもしれませんが)。その結果は、最高にうまくいったとしても「喪失による普遍化」です。

 

結局、現場の目の前の具体的な向上を目指すアプローチと、超普遍的な「統整的理念」という、一見真反対のものの、互いに支えあう統一こそが、「獲得による普遍化」のためには必要になるのだと思います。

 

 

「個」と「全体」の総合の復権

 

では、今回の議論をまとめておきましょう。

 

マルクスが期待をよせた19世紀の単純労働プロレタリアートは、生物学的普遍性を持った「生身の自己」がむき出しだったために、「個」と「全体」が単純な統一をしていたと言えます。「美しい」図式でした。

 

この美しい図式はしかし、19世紀末の重工業化によって否定されます。それぞれ相異なる複雑労働力商品を、互いにバラバラな見込みの判断で生産した人々は、それが世に受け入れられるための手立てとして、文化的なシンボルとしての「モノ」を追い求めます。あるいは国家による上からの保護を求めます。

 

かくして各自は、それぞれ国籍や民族や文化や職種によって異なるアイデンティティを、外から受け入れざるを得なくなります。

 

そのため、生物学的普遍性を持った「生身の自己」は内面奥深く押し込められ、個々人はそれぞれ相異なるコミュニティに埋没させられます。かくして、それらを超える全体的な展開は、国家や大企業のトップエリートによる支配として強制されるしかなくなります。

 

そしてそれに対抗する運動もまた、互いに相異なる大衆の外から「上から目線」で全体的方針を押し付けるものになるか、それぞれの相異なるコミュニティの中に視野が限られたものになるかのいずれかになってしまうのです。

 

かろうじて、西欧社会民主主義やアメリカ・リベラルは、社会契約のフィクションによって、「個」と「全体」の妥協の体面を作って、大なり小なり福祉国家を築き上げることに成功しました。

 

私もその功績は多とすることにやぶさかではありませんが、やはり本質的には複雑労働力再生産保障のための管理体制であり、「個」は担当官の「胸三寸」の前には不十分にしか実現せず、「全体」も国民国家の枠にとどまって不十分にしか実現できなかったわけです。

 

しかし現在、「転換X」を通じて、様々に相異なる特殊性と普遍性とへのこの分裂がまた否定され、ある意味でマルクスの展望が復活していると言えます。ME化やIT化によって複雑労働力が不要になってしまい、会社共同体も国民国家の枠組みも崩れ、コミュニティのアイデンティティにしがみつかなければならない根拠がなくなってきているのです。

 

たしかに、私たちが何もせずに手をこまねいていれば、グローバル資本主義の展開による「喪失による普遍化」を通じて、マルクスの時代同様に、「個」と「全体」の単純な統一が復活するでしょう。そしてそれは、おびただしい犠牲をともなうことになるでしょう。

 

しかし、私たちの意識的な取組みによっては、19世紀への単純な回帰ではない、もっと高次元でのマルクスの展望の復活もあり得ます。以前の複雑労働力時代に人々が身につけた様々な特殊性を保ったまま、互いに他の特殊性を我がものにしあうことによる「獲得による普遍化」の道があり得るのです。

 

それは、20世紀に人類が獲得した生産力と、自己能力の社会的意識的生産という積極面を引き継いだ、「個」と「全体」の、「特殊」と「普遍」の豊かな総合だと言えるでしょう。

 

福祉にしても医療にしても教育、文化等々にしても、私たちは、体制側が複雑労働力再生産保障のためのシステムを不要として投げ出していることを逆手に取り、複雑労働力商品のためではなく、自分の生活を豊かにするために、自分たち自身の手で、極力疎外無く営むことができるようになっています。

 

情報通信手段の発展は、このための物質的条件を作っています。こうした取組みがいろんな分野で広がることが、「獲得による普遍化」をもたらしていくのだと思います。

 

 

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さて、本連載の後半は再び、PHP研究所から出版される予定になっているのですが、出版社からはスケジュール上、7月で連載を終えるよう言われています。

 

シノドスさんや読者のみなさんのおかげで、ここまでのところ、なんとか予定通り執筆を進めることができていますので、いよいよ次回が最終回ということになります。

 

今回確認した、現場の自主的事業を積み重ねることによる「獲得による普遍化」の道においては、「自由」と「責任」はどうなるのか。流動的人間関係がメジャーな時代にふさわしい自由論を提起して大団円としたいと思います。

 

 

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vol.264 

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